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75番善通寺とその周辺


善通寺市善通寺町・仙遊町・南町・文京町・生野町の区域

【善通寺市善通寺町】

●総本山善通寺  MAP
 四国霊場七十五番札所。正式には屏風浦五岳山善通寺誕生院といい、空海生誕の地といわれています。唐から帰朝した空海が自ら学んだ長安の青竜寺を模して弘安4年(813年)に建立し、父佐伯直田公善通(さえきあたいのたきみよしみち)の名を冠したといわれています。和歌山の高野山、京都の東寺とともに、大師三大霊場の一つです。境内は約10万平方メートルという広大なもので東院(伽藍)と西院(誕生院)の二つに分かれています。
(関連記事)“高野山、東寺と並ぶ弘法大師三大霊場の一つ善通寺
○東院(伽藍)  旧境内と考えられており、金堂、五重塔、南大門、大楠、常行堂(釈迦堂)、佐伯祖廟、五社明神、三帝御廟、法然上人逆修堂、赤門などがあります。
 ・金堂  南大門正面に位置し、江戸時代の貞享2年(1685)に再建されたものですが、基壇の石積みには創建当初の礎石が用いられています。堂内には本尊の薬師如来像が安置されています。
 ・大楠  幹が10mを越す老木で空海誕生時にはすでに繁茂していたと伝えられます。
 ・法然上人逆修堂(ぎゃくしゅとう)  五重塔の東南に尊氏利生塔と並んでその西側に安置されている高さ145センチの五輪の石塔です。鎌倉時代の初期の建永2年(1207)、讃岐に流された法然上人が善通寺に詣でた際、参詣者の後世の往生を祈って建立したと伝えられます。逆修供養は生前に自ら後世の菩提を祈るために営む法要で、法然上人は深く善通寺を崇敬せられ「一度この地に詣でなんともがらは一佛浄土の友たるべし」と申されて、善通寺に参詣した折、生前に自らの菩提を祈らんがため、また、多くの人の法縁を結ばんがため、逆修供養の宝塔を建立されたと伝えられています。
(関連記事)“讃岐に逗留した法然上人
○西院(誕生院)  御影堂、産湯井、御影池、宝物館、護摩堂、聖霊殿、親鸞堂、聖天堂、仁王門、勅使門、済世橋、遍照閣などがあります。
 ・御影堂  山を背にした来迎図のような構図で描かれた大使自筆の自画像「瞬目大師(めひきたいし)」が安置されています。この自画像には次の話が残っています。
弘法大師が唐へ留学するときに、母君のために自画像を描いて残そうと池に姿を写しましたが、夕暮れ時で見えませんでした。ところが裏山から光が差してきたので、その光に照らされて描くことができました。振り返ると、香色山の上に釈迦如来が姿を現していました。それで大師は、自画像の肩に釈迦如来の姿を書き加えたそうです。
 ・ほやけ地蔵堂  この地蔵には口から左頬にかけて灰色の大きなあざがあります。これは昔、頬に大きなあざのある娘が毎日ここに祈願したところ、娘のあざはきれいにとれて、そのかわりに地蔵尊の顔にあざができたという伝説があります。以来、あざや病気の平癒を願う人々の参拝でにぎわう場所となりました。
 ・御影(おもかげ)池  御影堂の正面にある小さな池。弘法大師が唐に留学するため京より帰宅した時、母の玉依御前が非常に名残り惜しんだので、この池の面に姿を写して自画像を描いて母君に贈ったといいます。また、この池を覆っていた松はすでに枯れてしまいましたが、池の前に枯木として保存し、「御影の松」と呼ばれています。ここでは参詣者が経木に水をかけて先祖の菩提を弔っています。
 ・宝物館  弘法大師が書を、母の玉依御前が仏像を描いたという「一字一仏法華経序品(じょぼん)」、留学中に恵果和尚から真言宗第八祖の証として授けられた「三国伝来金銅錫杖」の国宝のほか、「木造吉祥天立像」、「木造地蔵菩薩立蔵」など国の重要文化財などが収蔵されています。

●玉泉院  MAP
 現在、善通寺の南大門から西に行き南に少し入ったところにある玉泉院の場所に西行は滞在したと伝えられています。同院は別名西行庵と呼ばれ、かつては善通寺の敷地の中にありました。今は枯れてしまいましたが、西行法師は「久の松」の木の下に仮の庵を結び、7日7夜の間お籠もりをして弘法大師を祈ったといわれています。西行はここで次の歌を詠っており、歌に詠まれた松は「西行が松」と呼ばれました。
     久に経て我が後の世を問へよ松 跡しのぶべき人も無き身ぞ
     ここをまた我住みうくて浮かれなば 松はひとりにならむとすらむ
 なお、玉の井という泉があって、西行はその泉の水を汲んで大師の霊前に供えたといいます。
(関連記事)“崇徳上皇を偲び来讃した西行法師

●観智院(子安観音)  MAP
 讃岐三十三観音霊場。大同2年弘法大師が創建。善通寺が最盛期だった弘安年間には、49の塔頭がありましたが、観智院(かんちいん)はその時、十善坊と称し、寺内塔頭の筆頭として、一山の寺務を掌握していました。中世に入って、現在の院号に改められました。本尊の観音は、子安観音と呼ばれ、高松藩主松平公の側女が尼となって住んでいた庵のご本尊を移したものと言われています。

【善通寺市仙遊町】

●仙遊ヶ原地蔵堂(仙遊寺)  MAP
 空海は、幼少の頃、近くの仙遊ヶ原で土の仏像や草の小堂をつくったりして遊んだといわれています。今はここに地蔵堂があり、多くの拝み絵が奉納されています。

●犬塚  MAP
 空海が飼っていたという犬を埋めたといいます。
(関連記事)“シルクロードと繋がるという「さぬきうどん」

【善通寺市南町】

●陸上自衛隊善通寺駐屯地  MAP
 現在の陸上自衛隊善通寺駐屯地の敷地内には、明治時代に建てられた旧陸軍第11師団関係の施設が多く残っています。現在も陸上自衛隊の現役施設として用いられているため一般公開はされていませんが、敷地の外からも赤煉瓦造りの建物外観などを見ることができ、明治時代の景観を偲ぶことができます。
(関連記事)“善通寺の師団長を務めた乃木希典

●香色山(こうしきざん)・香色山公園  MAP
 総本山善通寺の裏にあり、標高157mと五岳山の中では一番低い山です。四国霊場88ヶ所をなぞるミニ遍路があります。山頂には、不動明王、愛染(あいぜん)明王と、弘法大師の遠祖を祀った佐伯直遠祖出神があります。

●筆ノ山(ふでのやま)  MAP
 筆の穂先に似ていることや、弘法大師が書道に優れていたことから筆ノ山と名づけられたといわれています。標高296mです。桃陵公園のある多度津山は、多度津小学校の校歌に詠われているように「硯ヶ岡(すずりがおか)」と呼ばれています。筆ノ山は徳川末期に実弾射撃の訓練したことから「どんど山」とも呼ばれています。この山の麓には厳島関右衛門(いつくしませきえもん)という江戸時代の終わり頃、幕内力士となった相撲取りの墓があります。

【善通寺市文京町】

●乃木神社  MAP
 明治31年初代第11師団長として善通寺に着任した乃木将軍を顕彰する目的で、昭和12年に歩兵第43連隊跡地に建設されました。鳥居の奥に手水舎・社務所・拝殿・本殿が並んでいます。
(関連記事)“善通寺の師団長を務めた乃木希典

●香川県護国神社(讃岐の宮)  MAP
 明治10年、丸亀駐屯歩兵12連隊附属地に丸亀招魂社を創設し、維新以来の国事殉難者を祀りましたが、明治31年旧陸軍第11師団が当地に新編されたとき、偕行社内に戦没将兵の霊を祀ることとなりました。昭和13年内務大臣の指定により護国神社となり造営に着手し、県民の手で土を運び木を植え昭和16年4月25日に竣工しました。35,700余人が祀られており、その中には幕末の勤皇志士である小橋友之輔、日柳燕石もいます。
(関連記事)“蛤御門の変で戦死した若き讃岐の勤王志士”  “高杉晋作をかくまった侠客の勤皇志士

●四国学院大学  MAP
 旧陸軍第11師団騎兵第11連隊の敷地の大半は現在四国学院大学の構内となっています。大学の2号館は、明治30年竣工の木造2階建で、戦前は旧第11連隊の第2号兵舎として用いられていました。戦後四国学院大学の所有となり、校舎として使用されています。国登録有形文化財。
(関連記事)“善通寺の師団長を務めた乃木希典

●善通寺偕行社(かいこうしゃ)  MAP
 明治36年に竣工した陸軍将校の社交施設で、簡素なルネサンス様式です。大正11年の陸軍特別大演習では摂政宮(後の昭和天皇)の宿泊所とされました。戦後は、善通寺に進駐してきた豪州兵の社交場として使用され、その後、善通寺区検察局・香川県食料事務所仲多度支所・自衛隊クラブ・善通寺市役所・善通寺公民館として使用され、昭和55年から平成16年まで善通寺郷土館として使用されてきました。国重文に指定されています。
(関連記事)“善通寺の師団長を務めた乃木希典

●善通寺市立郷土館  MAP
 善通寺市内出土の考古資料を主に、国の重要指定割竹形石棺等、歴史・民俗資料が収集展示されています。

【善通寺市生野町】

●二頭(ふたがしら)出水
 満水面積800平方メートル、貯水量1600立方メートル。2箇所から豊富な水が涌き出ていることからこの名があります。かつては善通寺市の重要な水道水源でした。
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72番曼荼羅寺・73番出釋迦寺・74番甲山寺とその周辺

善通寺市吉原町・碑殿町・弘田町の区域

【善通寺市吉原町】

●曼茶羅寺(まんだらじ)  MAP
 四国霊場七十二番札所。幼年時代の空海が修業したといわれる我拝師山の北麓にあり、号は延命院です。その由来は古く、推古4年(596)に建立され、はじめは世坂寺(よさかじ)といい、空海の生家佐伯氏の氏寺でした。その後、唐からの留学を終えて帰朝した空海が、亡き母の菩薩を弔うために唐の青竜寺に模して伽藍を造営し、大日如来を刻んで本尊としました。このとき、唐から持ち帰った金剛界と胎蔵界(たいぞうかい)の両界曼荼羅を安置し、寺号を曼荼羅寺と改めました。当時の曼荼羅寺は善通寺にも劣らぬ程の名刹伽藍だったといいます。
 その後数百年を経るうちに衰退し、殊に永禄元年の兵火にかかって堂宇を焼失してから益々荒廃しましたが、文祿年中生駒家の旧臣三野氏が諸堂を再建し若干の寄附をしました。その後貞享9年に沙門宥盛、本堂が再興されました。現在の本堂は明治29年の改築です。
 境内には多くの松の大樹があり、前庭には弘法大師のお手植えといわれる「不老松(ふろうのまつ)」があります。中心の高さ4メートル、枝張り18メートル程のほぼ正円形をしており、大きく傘をひろげた姿から「笠松」とも云われています。
    (御詠歌) わずかにも曼陀羅おがむ人はただ ふたたびみたびかえらざらまし
 また、境内には西行法師にゆかりがある「曲水式枯山水の庭園」、「笠掛桜」、「昼寝石」が残されています。西行法師は庭園を築庭したと伝えられ、寺に来たときには境内の石でしばしば昼寝をしたといいます。あるとき同行した旅人が桜の枝に笠をかけ忘れたのを見て、
           笠はありその身はいかになりぬらん あはれはかなき天が下かな
と詠んだという。
(関連記事)“崇徳上皇を偲び来讃した西行法師” “最初は88ヶ所以上あった四国霊場” “やじさんも、きたさんも参詣した金毘羅

●出釋迦寺(しゅっしゃかじ)  MAP
 四国霊場七十三番札所。空海が7才の時、衆生救済の誓願をたて、現在奥の院がある我拝師山の頂上から身を投げた時、釈迦如来が現れたことから、如来像を刻んで寺を創建したと伝えられています。本堂、大師堂、虚空蔵菩薩堂が建っており、山の頂上近くにある奥の院の裏には、石の護摩壇と稚児大師像が祀られています。
       (御詠歌) 迷いぬる六道衆生救わんと 尊き山に出ずる釈迦寺
(関連記事)“少年空海が身を投げた山” “最初は88ヶ所以上あった四国霊場

●我拝師山(がはいしさん)  MAP
 標高481.2mで、地元の人から「ぜんちょう」と呼ばれ、昔は倭斯濃山(わしのざん)と呼ばれていました。我拝師山の麓には73番札所出釈迦寺や曼荼羅寺などの札所があります。我拝師山の8合目あたり、出釈迦寺より徒歩で30~40分程のところに出釈迦寺の奥の院である「捨身ヶ嶽禅定」があります。ここの断崖絶壁の岩場が「捨身ヶ岳」です。
 捨身ヶ岳とは、空海が幼少の頃、身を投げたところで、そのときお釈迦様が現れて空海を救ったので、「我(われ)師を拝む」ということからこの山は「我拝師山」と呼ばれるようになりました。また、麓の寺は、釈迦が出現したところという意味から「出釋迦寺」と呼ばれます。
 我拝師山・火上山は、弘法大師空海に関わりが深く、善通寺界隈の景観と一体化した、文化的景観を有しています。
(関連記事)“少年空海が身を投げた山

●萬福寺  MAP
 讃岐三十三観音霊場第24番。天霧山南東麓に位置し、開創は不詳ですが、行基菩薩が聖観音と馬頭観音を刻んで本尊として安置されたといいます。
(関連記事)“讃岐にも残る行基にまつわる伝承

●東西神社  MAP
 天霧山南東麓にあります。古くは「塔立明神」と称され、雲気、加富良津の諸神とともに大社だったといいます。中世、戦乱の災禍にかかり衰退し、天正年間に天霧城主香川之景(後信景と称す)によって再興されました。寛延の百姓一揆の指導者である七義士の一人森甚右衛門を顕彰した石碑が建っています。
(関連記事)“神様になった一揆のリーダー

●青龍古墳・鷺井神社  MAP
 前方後円墳である青龍(せいりゅう)古墳は、二重の濠をめぐらし、幅の広い周庭帯と周濠の一部を残しています。古墳の前方部には、僧空海の創建と伝える鷺井(さぎい)神社(青龍大権現)が祀られています。後円部では石室も確認され小刀手が出土しています。この神社の秋祭りは、神輿の行列に張子馬にまたがった子供が参加するという珍しい行事です。
 神社の東100mの地に「青鷺の井戸(あおさぎのいど)」と呼ばれる湧水地があり、この井水が眼病の治療の効くといわれていました。しかし、今では鳥居と井戸枠を残すのみです。

●西行庵(水茎の岡)  MAP
曼陀羅寺の西方約400mのところを「水茎の岡」といい、西行法師は数年間ここに滞在したと伝えられています。現在、地元の手により庵が再建されています。
       山里に浮世いとはん友もがな 悔しく過し昔し語らん
       山里を人来る世とは思はねど 問るヽ事を疎くなりゆく
       山里の秋の末にと思ひしが 苦しかりける木枯の風
(関連記事)“崇徳上皇を偲び来讃した西行法師

●西行法師芋畑の歌碑  MAP
 七仏寺から西へ約200m行くと「三井之江の芋畑」というところがあり、西行法師の歌碑が立っています。西行法師が八月の十五夜に月があまりにも美しいので芋畑へ出てながめていると、農夫がこれはてっきり芋泥棒にちがいないと思ってとがめると、西行は今夜は昔から芋明月(いもめいげつ)というのだからどうぞ芋をひとつくだされと言いました。すると農夫は歌を一首詠んでくれるならさしあげましょうと答えました。そこで西行は、
       月見よと芋の子どもの寝入りしを 起しに来たが何か苦しき
と歌を詠みました。喜んだ農夫は西行に芋を与え、それからこのあたりの小字を芋畑と呼ぶようになったということです。
(関連記事)“崇徳上皇を偲び来讃した西行法師

●中山(なかやま) MAP
 標高438mで、我拝師山と火上山の中央に位置することから中山といったそうです。北麓の丘陵は水茎(みずくき)の丘と呼ばれ、西行法師の山里庵跡があります。

●火上山(ひあげやま)  MAP
 善通寺市と三豊市の高瀬町・三野町にまたがる海抜406メートルの山です。大化改新の頃、西讃において白方軍団が設置され、その要城雨霧山を中心とし、その燈火台を火上山に配したとの説があります。中山と火上山の間のくぼ地には平安時代に建てられた山岳寺院である大窪寺の跡地があります。また、前方後円墳の古墳もあります。

●七仏薬師(しちぶつやくし)  MAP
 鳥坂峠から少し降りたところ大池の南側のほとりにあります。ここは昔、弘法大師がここにお堂を建て、自ら薬師七体の石像を刻んで祀っていました。また、「乳薬師」とも呼ばれ、お参りすると乳の出がよくなるということで、かつては乳の出ない女性が訪れていました。乳のほとばし出る絵を描いた板絵がお堂の正面にたくさん掛けられていたといいます。

【善通寺市碑殿町】

●牛額寺(ぎゅうがくじ)  MAP
 京都清水寺成就院(じょうじゅいん)の住職となった勤皇僧月照(げっしょう)と信海(しんかい)の出身地です。昭和5年に月照・信海上人の銅像がこの寺に建立されました。しかし、その後、戦時中の金属の応召で銅像を供出し台座だけとなりましたが、昭和53年4月に石像として再建されています。
牛額寺の境内近くには「牛穴」という洞穴があります。この牛穴からは身が一つで頭が二つあるという不思議な牛がでてくるという言い伝えが残っており、この穴は山の向こうの奥白方というところまで続いているといわれています。
(関連記事)“西郷隆盛と入水自殺した幕末の勤皇僧

●法然上人蛇身石  MAP
 西碑殿から弥谷寺への参道の途中、蛇谷池のほとりからそれて山を少し登ったところに法然上人蛇身石があり、蛇の頭の形をした石の口の中に法然上人の歌碑が祀られています。
 法然上人がこの地に来たとき、弟子の淨賀に向かって「汝の父は蛇となりて此の岩中に苦しめり、其の泣聲汝の耳に入らすや」と云ったので、淨賀が石工を雇ってその石を割らせたところ、一尾の小蛇が這い出てきたといいます。淨賀の父は信州の人で角割親政といいますが、かつて郷里で寺領を横領し、その後故あって讃岐にやって来て出釈迦寺に居住していましたが亡くなった後、生前に犯した罪により蛇となって苦しみを受けていたといいます。
(関連記事)“讃岐に逗留した法然上人

【善通寺市弘田町】

●甲山寺(こうやまじ)  MAP
 四国霊場第七十四番札所。甲山(こうやま、標高87.2m)の北東麓にあります。空海が満濃池を修築した際、岩窟に毘沙門天を祀り、工事の成功を祈りました。改修後は、朝廷から賜った功労金で堂塔を建立し、自作の薬師如来像を本尊として創建したと伝えられています。本堂、庫裏、大師堂、鐘楼が建っており、大師堂の近くに毘沙門天の岩窟があります。
      (御詠歌) 十二神味方に持てるいくさには おのれと心かぶと山かな
(関連記事)“最初は88ヶ所以上あった四国霊場

●甲山城跡  MAP
 戦国時代、天霧城主香川氏麾下の武将として活躍した朝比奈弥太郎(あさひなやたろう)が、甲山に居城を築いていました。山頂部に残る五角形の削平地が主郭跡だと考えられており、甲山城の碑があります。

●朝比奈神社  MAP
 朝比奈弥太郎を祀ります。朝比奈弥太郎は、永禄元年(1558)阿波三好軍の天霧城攻略に際して奮戦し、甲山南麓に討死しました。(ただし、土佐の長宗我部軍と戦い討ち死にしたという説もあります。)その墓標は甲山の付近の池の中州に祀られ、その池は朝比奈池と呼ばれました。のち朝比奈池が埋め立てられたことにより、墓標も筆の山北麓に移されたといいます。

●雲気(くもけ)神社  MAP
 延喜式内社讃岐二十四社の一つです。祭神は、豐宇気大神、大龍神、大雷神の三座とされています。社号の由来は、天霧山より出でし雲により良く雨が降るとのことから雲気神社と呼ばれたと全讃誌に記されていますが、真偽のほどは定かでありません。
 この神社は天正年間、長宗我部軍の天霧城侵攻の折、兵火にかかり殿宇は総て焼失したので雲気と言う地名だけが残っていたといいます。
 その後、丸亀藩4代藩主・京極高矩(たかのり)の時代、将軍家において騎射(馬弓)の催しがあり、高矩が選ばれますが、将軍もご覧になる催しなので、高矩はひどく悩んでいました。騎射の前夜、白ひげの老人が現れ、「明日の騎射は、重藤の弓に白羽の矢を用いなさい」と告げましたが、高矩はその話を疑わしく思いそのまま寝てしまいます。すると老人が再び現れて、「我は、汝の領地を守護する雲気神なり」と正体を告げます。これは神の教示に違いないと、高矩は翌日その指図どおりにしました。すると、見事に的(まと)を的中させることができました。この出来事があってから、高矩は領内の庄屋に命じて雲気の所在を探索させ、弘田村にその古址がある事を突き止め、宝暦4年(1754)に社殿を再興しました。以来、春秋の大祭には、藩主が公式に参拝するようになったといいます。

71番弥谷寺と本門寺を中心とする地域

 三豊市三野町(大見・下高瀬・吉津)の区域です。

【三豊市三野町大見】

●弥谷寺(いやだにじ)  MAP
 四国霊場七十一番札所。聖武天皇の勅願で、行基が本尊の阿弥陀如来を刻んで安置したことにより開創されたといわれています。空海が少年時代にこの岩窟で修行し、さらに唐から帰国した後、再度この山で修業中、空から五柄の剣が降る霊を感じたので剣五山と改め、本尊を刻んで安置し、弥谷寺と改号して第71番の霊場に定めたといいます。標高382mの弥谷中腹に本堂、大師堂、多宝塔と多くの堂宇が立ち並び、山嶽仏教の場となっています。山門前には名物の俳句茶屋があり、参拝者の休憩所になっています。
 また、ここには、弘法大師が中国から持ち帰ったという「金銅五鈷鈴(ごこれい)」が伝わっています。これは密教修法のとき振りならす金剛鈴のひとつ。柄が五鈷の形をしている鈴で、鋳銅製で鍍金をしています。
      (御詠歌) 悪人と行連なんも弥谷寺 ただかりそめもよき友ぞよき
(関連記事)“讃岐にも残る行基にまつわる伝承” “最初は88ヶ所以上あった四国霊場”  “やじさんも、きたさんも参詣した金毘羅

●花立(はなだて)碑  MAP
 鳥坂の正八幡神社飛地境内にあり、安永5年(1776)に里長の大井助左衛門惟義によって建立された高さ約2m石碑です。ここから真正面に弥谷寺の本堂が見え、その昔、鳥坂街道を往来する旅人は、この碑の前で花を供え、弥谷寺の方に向かって合掌遥拝したといわれています。

●戸峯山城  MAP 
 貴峰山(とみねやま)は、おむすび型をした標高222.8メートルの山で、「戸峰山」とも「大見富士」ともよばれています。天正2年(1574)、雨霧城四代城主香川信景の家臣である藤田四郎入道宗遍は、この山に天霧城の牙城として戸峯山城(大見城)を築いたといわれています。居館は山の西麓にありました。
 一説によると、藤原純友の乱のとき、近江国出身の藤田四郎入道宗遍は、純友討伐に功績があったので、封を大見松崎に受けたといいます。
 宗遍の墓は山の西麓御墓谷という所にあり、地元の人によってねんごろに弔われています。なお南麓には総官宮という小祠が祀られています。
 貴峰山の東麓には、日枝神社という大見村の氏神とされる神社があります。この神社は近江の出身であった宗遍が、近江の山王大社から分祀し、山王社を建立して山王権現として祀ったのが始まりとされています。その近くにある多聞寺宝城院は、日枝神社の神宮寺だった寺です。
 日枝神社  MAP
 多聞寺宝城院  MAP

●津島神社  MAP
 この神社は鼠島という小さい島に鎮座し、江戸時代、浮世絵師の二代目安藤広重にも描かれた風景地です。祭神は「素戔鳴命(すさのおのみこと)」で、例祭日は旧暦の6日24日、25日です。この神社の由緒は次のようなものです。
 元禄3年6月の頃より8月まで、久保谷部落の浦に女の謡う声が聞こえてきました。人々が怪しんで浜に出てみましたが、人影はありません。しかし、歌う声が毎日聞こえ、人々は恐れて戸外に出なくなりました。その後大見村の一巫女に、「我は津島の明神というて、年久しくここを守っている。この頃毎日謡っているのは我なり、我を信ずるなれば、この島に樹木を植えよ」と神託ありました。村人がこれに従い島に樹木を植えると、霊験著しく、牛馬の疫病が周辺の村々に流行しても、久保谷部落だけは1匹も斃(たお)れませんでした。この事から津島明神は牛馬の神として尊崇され、6月25日には四周の村人が牛を引いて参拝するようになりました。現在は子供の神として県内外から尊崇され、約10万の氏子がいるといわれています。

【三豊市三野町下高瀬】

●高永山本門寺(こうえいざんほんもんじ)  MAP
 日蓮正宗の本山格寺院。正中2年(1325)、日仙上人により建立されました。法華宗系各派では本門寺という寺院名が多数あり、それぞれ区別するために頭に所在地の讃岐をつけた、讃岐本門寺(さぬきほんもんじ)とも呼ばれています。また、地元の人には、高瀬大坊の名で知られています。
 広々とした境内には、天明元年(1781年)造営の本堂や明暦2年(1656年)に建てられた開山堂、元禄10年(1697年)造立の精霊殿などが建ち並び、堂々とした佇まいです。時代の相違による塔中数を外観すれば、南北朝期にはおよそ6箇坊、文安年中にはおよそ10箇坊、文明年中にはおよそ12箇坊、天正年中にはおよそ11箇坊が数えられるようです。
 また、この寺では、新暦の11月22日から25日まで、市が開かれます。日蓮上人の法会に合わせて開かれる市で、「大坊市」、「たかせ市」、「くいもん市」とも呼ばれ初冬の風物詩となっています。
 寺では毎年旧10月12・13両日御会式を行い一週間の市立が行われました。当時の民衆は秋の農作業の疲れを、この昼夜の市立に行きいやすのが唯一の楽しみでした。市立は寺から高瀬川堤防に至る3町余りの馬場の両側に、ぎっしりと小屋が立ち並び、農具、竹細工、雑貨、玩具類、陶器、おでん、うどん、果物、菓子饅頭、その他あらゆる飲食物の店が張られ、境内には掛け小屋芝居、サーカス、のぞき、最近では植木市等も出て、昔ながらの市を形成します。
(関連記事)“元寇の頃、甲斐国から讃岐に来た武士が建てた寺

【三豊市三野町吉津】

●旧吉津小学校校庭西行上人歌碑  MAP
 西行は讃岐の三野津に立ち寄ったと伝えられています。三野津は現在の三豊市三野町吉津とされ、昭和31年(1956)旧吉津小学校校庭に、「志きわたす月乃氷をうたかひて ひびのてまはる味のむら鳥」と刻まれた歌碑が建立されました。その後、吉津小学校は移転され、歌碑のある場所は、現在町の老人福祉センターの前庭になっています。
  「山家集」に、「さぬきの国にまかりてみのつと申す津につきて、月の明かくて、ひびの手も通はぬほどに遠く見えわたりけるに、水鳥のひびの手につきて跳び渡りけるを敷き渡す月の氷を疑ひてひびの手まはる味鴨の群鳥」と載せられています。
 この中で「みのつ」とは三野津のことで、当時三野津は広い入江の良港でした。西行が崇徳上皇の白峰参拝と空海の善通寺詣でをかねて讃岐に渡ってきた時の上陸地はこの三野津であったともいわれています。
  「ひび」とは、魚をとるため、または海苔の養殖のため海中に立てる粗(えだ)のことです。川田順はこの歌を、「海上の月光を氷が敷いたのかと疑い恐れて、その方までは飛びゆかず、海(えだ)のあたりを翔け廻っている水禽らよ」と解釈しています。また、富士正晴は、「すうっと敷きつめている月の光を氷と錯覚してひびの手(ひびわれの手という意味も匂わせている)をよけて通る味鴨の群れよ」と解釈しています。
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●吉祥寺  MAP
 弘法大師が四国霊場開創のとき開基され、慶長8年に再建されました。文政年間には村内各家の神仏護符を集め、その灰と土をまぜて釈迦涅槃像52部類を作り、釈迦堂に安置されたといわれています。仏生山法然寺の涅槃像に勝るとも劣らない寝釈迦像であろうと言われています

●宗吉瓦窯  MAP
 宗吉(むねよし)瓦窯で焼いた瓦は、持統天皇が作った藤原宮に運ばれ、平城京にも転用されました。宗吉瓦窯は現在23基が確認されています。三つのグループ(A、B、C群)に大別され、確認順に1号―23号窯と呼ばれています。
 発掘調査の結果、C群の窯2基は藤原京への瓦供給以前に成立した最も古いもので、残るA、B群の21基の窯は後の時代の同時期に築かれたものです。C群の窯は三野郡の「妙音寺」(豊中町)用に、A、B群の窯は那珂郡の「法幢寺」(ほうどうじ、丸亀市)用に瓦を焼いたもので、その後、藤原京用の瓦も焼くようになったと考えられています。
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仁尾の街

●賀茂神社  MAP
 仁尾港の東側に鎮座。仁尾浦は、平安時代の寛治4年(1090)に白河上皇が京都の鴨御祖社(かものみおや、下賀茂社)へ寄進した内海御厨(みくりや)荘といわれる荘園でした。仁尾の賀茂神社は、この縁で、京都の賀茂神社から白河天皇の勅許を得て津田島(今の蔦島)に分祀され、室町時代初期の正平5年(1350)細川顕氏が津田島から現在の地に移転したといわれています。中世には、仁尾浦の漁民たちは京都賀茂神社の神人・供祭人・供御人として保護を受けるとともに、供祭物を京都へ納めていました。仁尾浦では、室町時代初期には綿座が開かれ人々が集り商家も増加し、海路による上方との往来が頻繁になるにつれて港も発達していきました。更に、讃岐の守護細川氏の直轄地となり軍港としての役割もあったようです。
 10月12・13日両日にわたる祭礼では、長床神事(ながとこしんじ)という古いしきたり儀式が行われています。
 この神社の境内には「注連石」という地元漁民たちが海中から引き上げた石が奉納されています。この石は、元は詫間町鴨の越の入江にありましたが、漁船の通行の邪魔になることから、宮浜まで運び神前に建立したものです。また、境内には天女が下って羽衣をかけたようなところから「羽衣の松」と呼ばれ、樹齢およそ300年といわれる美しい姿の松があります。

●石積み井戸  MAP

●覚城院(仁保城跡)  MAP 
 讃岐観音霊場第19番不動護国寺覚城院。覚城院は仁保城跡に建てられたといわれています。
天正7年(1579)2月長曽我部元親の将兵は、今の観音寺市室本町の九十九山城を攻略し、細川伊予守氏政を追い、勢に乗じて仁尾に侵入しました。当時の仁尾城主細川土佐守頼弘は防戦に努めましたが討死し、旧暦の3月3日、結局落城しました。この戦は3月2日から3日にわたるもので、町の大半は兵火にかかり、死傷者は甚だしい数に上ったといいます。以降、仁尾の町では3月3日の上巳の節句はせず八朔の男子の武者人形と同時に飾られています。
 ただし、仁尾城は細川土佐守頼弘が城主であったと言う説と雨霧城城主香川信景の属城であったと言う説があります。
 境内には屋根にシャチのある鐘楼があり、桃山時代初期のものといわれています。元は賀茂神社のものでしたが、明治維新の神仏分離のときに移転されました。
なお、第57代住職森諦円(もりたいえん)は、昭和52年まで京都仁和寺の門跡を務めました。
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覚城院(仁尾城跡) 仁保城跡


●金光寺  MAP
 この寺には、細川頼弘公の墓があります。

●常徳寺  MAP
 室町時代初期の建造物で、四国では数少ない中世の禅宗様式の円通殿(えんつうでん)があります。また、裏庭にある雌雄異株のソテツは周囲3.5m、5枝に分かれ、高いものは5.3mあります。

●辻の札場  MAP
 晋門院(ふもんいん)の前にあり、丸亀蕃時代のお布令等を掲示した高札場です。江戸時代に建てられた木造本瓦葺き・切り妻造りで、棟の東西には京極家の家紋である四ツ目の瓦が置かれています。

●仁尾八朔人形まつり人形工房  MAP
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●中津賀(なかつが)・境目(さかいめ)・中ノ丁(なかのちょう)の家並み
 江戸時代、仁尾は、醤油・酢・酒などの醸造業や綿花、茶、生糸等の生産と取引で大店が軒を並べ西讃の商工業の一中心地としての活況を呈し、「千石船見たけりゃ仁尾へ行け」とうたわれるほどでした。また、土佐藩主山内氏が参勤交代のため、仁尾の港を利用したといわれています。中津賀(なかつが)・境目(さかいめ)・中ノ丁(なかのちょう)には土蔵造や木造の古家が残っており、仁尾の街のかっての面影を見ることができます。

●吉祥院  MAP
 仁尾町仁尾丁にあるこの寺は、「四国讃州七福神」の一つで「吉祥天」だとされています。

●蔦島
・賀茂神社沖津宮  MAP
  京都の賀茂神社から最初に分祀されたところ。
・天狗神社MAP・姫岩神社 MAP  天狗神社には神楽石(男根)、姫岩神社には笑石(女陰)が祭られており、両方あわせて参拝すると家庭円満、夫婦円満にご利益があるといわれています。

●仁尾の平石  MAP
 蔦島の北側海中に浮かぶ東西約17メートル、南北約13メートル、面積200平方メートルの大岩です。俎岩(まないたいわ)ともいわれています。表面が平らなところから、丸亀藩主がこの岩の上で酒宴を開き、風流を楽しんだといわれています。

●小蔦島(こつたじま)貝塚
 小蔦島は仁尾町の西方約1キロの海中にある小島で、8000年以前は燧灘を背にした荘内連峰の山頂部でしたが、海水が浸入するとともに汽水域から内海へと姿を変えていきました。この島の東北部の半島状に突出した丘陵の上に貝塚があります。貝層の中には多種類にわたる貝殻のほかに蔦島式土器が石器とともに、その下層からは山形連続文土器や殻粒文土器が蔦島式土器や石器とともに出土し、原始的性格を示し、縄文式文化時代のしかも早期に営まれた遺跡で、県下に類例を見ない特異な貝塚です。また、貝塚から最深部に汽水域に生息する大和蜆の貝殻が採集され、縄文海進のプロセスが伺えます。
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●履脱八幡神社  MAP
 「仁尾の竜祭り」は、青竹と稲わらで作られた長さ35m、重さ3tの雨乞い竜を約160人の人が担いで街を練り歩きます。この祭りの由来は、江戸時代、干魃の年に雨乞い行者として知られる和蔵(わぞう)が、雨を呼ぶと信じられていた竜を作って海に流せばよいという祈祷をしたので、藁で大きな竜を作り村内を練り歩き、沿道の人々が貴重な水をかけ海へ流したところ、念願の雨が降ったと伝えられています。
 寛政11年(1799)の夏、仁尾の村は稀にみる旱魃にみまわれました。困り果てた村人は笠岡村(現在の豊中町)に住む行者の和蔵に相談しました。和蔵は全国各地を巡り歩いて修行を積み、雨乞いにかけての霊験はつとに知られていました。和蔵の教えは、「藁で大きな竜を作り、それに伊予の黒蔵渕(くろぞうぶち)から汲んできた水を掛けて祈ればよい。」というものでした。黒蔵渕は、川之江の奥の院(仙竜寺)からさらに2里(8km)山奥に入った銅山川の支流にある雄淵(おんぶち)・雌淵(めんぶち)の2つからなる青緑色の水をたたえ周りをうっそうとした杉木立に囲まれた大きな淵で、古くから竜が棲むといわれていました。
 村人たちは早速、八幡様の境内にある雨の宮神社の前に集まってそれぞれが持ち寄った麦藁で大きな竜を作りました。そして、夜中に村の若者が仁尾を発ち、10里の道を必死に駆けて朝方に黒蔵渕に着くや、水汲みの神事を行い、一斗樽一杯に水を入れて帰路につきました。
 水の入った樽は、腰にしめ縄をつけ数人が一組になった若者たちによって交代で運ばれ、昼過ぎに仁尾にたどり着きました。途中で休むとそこで雨が降ったそうです。
 和蔵がその水を藁の竜に供えた後、若者たちがその竜を担ぎ、口々に「そーれ、竜に水あぶせ、竜に水あぶせ」と叫びながら村中を駆けめぐり、竜が家の前を通ると手桶に水を一杯入れて待ち構えた村人たちが水をあぶせました。そして、最後に竜は父母ヶ浜(ちちぶがはま)から海に流されました。
 その間、和蔵は、雨の宮神社の前でひたすら祈り続けました。すると、不思議なことにその夜妙見山に大きな黒い雲がもくもくと現れ、雷光とともに、やがて大粒の雨が降り出しました。
 それ以降、仁尾では大干魃の度に藁で作った竜による雨乞い神事が行われていましたが、昭和14年で絶えていました。その後、昭和63年、瀬戸大橋開通の年に復活しました。毎年8月の第一土曜日に「仁尾竜まつり」は開催されています。
 なお、仁尾から比地(豊中町比地)へ山越えする鞍掛峠は和蔵が開いたといわれ、峠の旧道沿いには和蔵が自ら建立したといわれる日本廻国供養塔が今も残されています。

●父母ヶ浜  MAP

伊吹島


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●三好館跡・高岸
 三好義兼・義茂兄弟の館があった所です。生駒藩時代、三好義兼の孫の義浄(よしきよ)は生駒氏から政所のお墨付きを授かり、その子孫は代々作右衛門と称し島を治めました。

●金田一春彦の歌碑
 国語学者の故金田一春彦氏は、伊吹島を2度訪問し、島の言葉を研究しました。そのとき、伊吹島で「緑濃き 豊かな島や かかる地を故郷にもたば 幸せならん」と、「あたたかき 人の情や ふるさとは かかるところか われは持たねど」の2首の歌を詠みました。このうち最初の歌の歌碑が島に建立されています。

●合田嶋之輔の墓
 城の内(じょうのうち)には、450年前から島に住む合田一族の先祖合田嶋之輔の古い五輪塔の墓があります。ここは合田館があった所です。嶋之輔の嫡男助十郎は、天文年間(1532~1554年)に豊浜大平国祐の娘家老として豊浜に渡りました。しかし、秀吉の九州成敗のときにおける戸次川の戦いで多くの讃岐の武将と共に戦死しました。その子孫は庄屋となり、豊浜で繁栄しました。

●伊吹八幡神社  MAP
 創建1124年という島の氏神で、春の百手祭り、夏の神楽、秋の大祭と江戸時代より連綿と伝統行事が受け継がれています。三好義兼が奉納したという鏡が保存されています。

●伊吹島歴史民俗資料館  MAP
 平成4年、元幼稚園の園舎を展示室にした手造りの資料館です。昔の漁具、民具、文書等貴重なものが転じされています。

●泉蔵院  MAP
 真言宗大覚寺派七宝山泉蔵院という。観音寺の7坊の一つ泉蔵坊が始りといわれる。この島は以前土葬で、土葬した墓から洗骨した骨を境内の墓に入れ、拝み墓としていました。

●出部屋跡
 この島には、出産は各家の納戸等で行い、その日の内もしくは翌日、出部屋(でべや)に入って30日間母子だけの別火の生活をするという風習が残っていました。赤不浄で家の中が穢れると言う古代からの日本の風習だといいます。男子禁制で女性だけが入室を許され、月経の女性も泊りに行っていました。この島には昭和45年頃まで使用された出部屋がありました。

詫間の街・荘内半島・粟島・志々島

 この地域は、三豊市詫間町の範囲です。中でも荘内半島は、浦島太郎伝説で知られる半島です。最高峰の紫雲出山からは瀬戸内海を360度展望できます。周囲には三豊市の粟島や蔦島などがあります。
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【三豊市詫間町詫間】

●善性院  MAP
 この寺は、「四国讃州七福神」の一つで「大黒天」だとされています。創建は平安初期にまで遡ると言われています。

●王屋敷跡  MAP
 三豊市詫間町の田井に宗良親王の居住地という王屋敷跡に、明和9年(1772年)に建立された石碑が立っています。昭和10年に建てられた宗良神社もあります。
太平記は、この配所について次のように記しています。
 「海辺近きところなれば、毒霧御身を侵し、嶂海の気すさまじく、漁歌牧笛の夕べの声、嶺雲海月の秋の色、すべて耳にふれ眼に遮ることあはれを催し、御涙をそふる媒ならずと云ふことなし。」
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●宝林寺  MAP
 弘仁年間、天台宗座主義真和尚の創建といわれており、この地区の領主であった詫間氏の菩提寺でしたが、兵火で大半を焼失しました。

【三豊市詫間町香田】

●詫間海軍航空隊跡  MAP
・「史跡・詫間海軍航空隊跡 神風特別攻撃隊出撃の地」の碑  現在の国立詫間電波高専前に自然石を立てた石碑があります。ここに詫間海軍航空隊が存在したことを示すものです。この石碑には「神風特別攻撃隊出撃の地」と刻まれています。
・二式会の碑
・海軍少年飛行兵香川県雄飛会の碑
・水上機スリップ(すべり)跡  香田地区には、大東亜戦争中、詫間海軍航空隊が使用していた水上機用の滑走路の一部が今も残っています。スリップ(すべり)と呼ばれるこの斜面を滑って、水上機や飛行艇が陸上の格納庫から、海面に下ろされ、飛び立っていました。戦時中は大小4本ありました。スリップ跡は、1基の改変がひどいものの、そのうち3本が当時の姿を残しています。また、このスリップは平成18年度の選奨土木遺産に選ばれています。
 この基地で実践訓練し、発進出撃していったのはすべて水上機で、下駄履きとも言われる飛行艇でした。中でも詫間航空隊の主力となったのは二式大艇と言われるものでした。終戦後、二式大艇に注目した米国は本国に運び、各種の調査を行ってその高性能に驚嘆したといわれています。解隊後残っていた二式大艇の一機が、現在東京品川の舟の科学館に保存・展示されています。
・防空壕跡
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●三四郎岩  MAP
 天正11年(1583)から始まった豊臣秀吉の大阪城築城に際し、詫間でも大がかりな採石が行われ、香田浦、粟島の福部箱浦海岸などに、その形跡が残っています。そのとき、豊後から来た石工の三四郎という者が巨石運搬中誤ってその下敷きになり亡くなりました。村人はこの石を三四郎岩と呼び、かたわらに祠を建ててその霊を祀りました。

【三豊市詫間町大浜】

●船越八幡神社  MAP
 大浜小学校の前にあり、応神天皇・仲哀天皇・神功皇后を祀る。かつての郷社で旧荘内村の総産土社でした。拝殿・絵馬堂には多くの絵馬があり、とりわけ加藤清正の絵馬は全国的にも少ない逸品とされています。
 荘内半島の先の部分はかつて「浦島」という島だったところで、陸繋島が発達して現在のような半島となったものです。半島の中ほどにある船越と大浜を結ぶ辺りはかつて海だったところで、船越という地名は島であったときの運河状態の海に船が通っていた名残だといわれています。

●荘内浦島郵便局  MAP
 浦島太郎の絵のスタンプを押してもらえます。

●荒魂神社  MAP
 3月12日から17日の間の日曜日、「大浜ももて祭」が催されます。

●鴨ノ越  MAP
 丸山島・浦島神社  MAP
 太郎が亀を助けた所です。この海岸の向こう岸に丸山島があり、浦島神社が祀られています。干潮時になると丸山島は地続きになり、歩いて渡れます。鴨ノ越からの夕日は絶景です。

●紫雲出山  MAP
 荘内半島で最も高い山で、標高352.3メートルです。
・竜王社  山上に太郎の霊を祀る竜王社があります。旧3月15日に例祭があり、積の人たちによるお弁当の接待があるそうです。
・上天(昇天) 紫雲出山の中腹にあり、太郎が昇天したという地といわれています。
・紫雲出山遺跡  この山は今から約2,000年前、弥生中期の山上集落生活地だった所です。キビ、石包丁、ヤジリ、クルミ割のクボミ石、「堀リッチ」など多数の石器、無数の弥生式土器破片、など多数の出土品がみられます。

【三豊市詫間町積】

●積・金輪の鼻
 太郎か竜宮から帰り着いた地が積で、乙姫が腕の金輪を落とした所が金輪の鼻です。
●積の雌雄クロガネモチ

【三豊市詫間町箱】

●浦島太郎親子の墓・諸大龍王の墓碑
 箱はかって明神の里といわれた所で、太郎が玉手箱を開けたといわれる所です。太郎親子の墓といわれる五輪の塔3基があり、その近くには弘化4年に建てられた「諸大龍王」と刻まれた墓碑があります。
●竜王社
 箱浦小学校の上の大空(おおぞら)(八昭園)には亀の霊を祀る竜王社があります。竜王社では毎年、亀の命日とされる旧6月13日に、箱の各戸から薪木を持ち寄り、焚火を囲んで竜宮踊りをして亀の霊を慰めていたそうです。この踊りは箱の盆踊りとなり、8月14日の晩、その年に亡くなった人の盆灯籠を持ち寄ってその霊を慰める新霊踊り(あられ踊り)となって今に残っています。
●どん亀石
 浦崎のどん亀石は現在の箱浦にあります。満潮時になると、どん亀石はほとんど見えなくなります。
●糸之越(いとのこし)  MAP
 太郎が毎日釣糸を持って箱から不老の浜へ通った所です。ここには太郎が休んだという腰掛石があります。
●不老の浜(ふろま)  MAP
 かつて室浜(むろのはま)と呼ばれていたところで、太郎が竜宮から帰って若さを失わずに釣りをしていた所です。

【三豊市詫間町生里】

●三崎神社  MAP
 地元の人から「おみさきさん」と呼ばれています。祭神は大己貴命です。社伝によると、讃留王がこの地に至った時、上津水童命、中津水童命、底津水童命と名乗る三人の神が現れ、ここで海上を守る、と言って消えました。そこで王はここに祠を祀りました。これがこの神社の起こりだということです。以後菅原道真や藤原純之、小野好古などの歴史的人物からも崇敬されたといいます。菅原道真公が讃岐の国司の時、参拝した折の歌が残っているそうです。
 藤原純友の弟純之は、京からの帰途、船の航行安全を祈願して、この神社に鎧を奉納したと伝えられています。また、小野好古も、追捕使として兵船200隻を率いて伊予に向かう途中、この神社に太刀・冑を奉納して戦勝を祈願したといわれています。
 瀬戸内海を通る参勤交代の大名も三崎神社の沖に来ると、船の帆を下ろして通っていたといいます。
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●ドンドロ石
 三崎神社の参道にあります。昔、ドンドロさんが誤って天から落ちてきたときに、この岩の上をあわてて這い上がった跡があるといいます。ドンドロとは、讃岐方言で雷のことです。
●関の浦
 三崎神社入り口の所にある入り江です。昔は重要な入り江でした。明治から昭和初期にかけては、漁船の水の補給や潮待ちの待機所となり、盛漁期には酒や食料、日用品を販売する店も開かれていたといいます。
●三崎灯台
●御幸石(おこのいし)
 半島の先端から約200m沖合にある海面から突き出た岩です。
●よみの穴
 生里から仁老浜に行くところにクビッチョという小峠があります。この下の浜辺に「よみの穴」という洞穴があります。昔は人を葬っていたとか、「よめ」という盗賊が住んでいたとかいわれています。
●仁老浜(にろうはま)  MAP
 かつて小浜といい、太郎の母の出身地で、白髪の老翁となった太郎が余生を送った地です。仁義深い老人の浜という意味です。
●生里  MAP
 旧名を三崎といい、太郎の両親が住んだ新家のあった地で、太郎が誕生したといわれる地です。ここの三宝荒神では、旧2月1日の近い日曜日に「生里百々手(ももて)祭」が催されます。

【三豊市詫間町粟島】

 この島は3つの島が1つの陸繋島となったもので、スクリューのような形をしています。江戸時代、瀬戸内と日本海の港、さらに蝦夷地を結んだ北前船でにぎわい、島には多くの商人を兼ねた船主がいました。
●亀戎社(かめえびす)
 太郎を乗せた亀の死骸を葬ったところに建てた社といわれています。
●姫路  MAP
 太郎を送り届けた後、潮流の関係で乙姫が一時立ち寄った地といわれています。
●粟島神社  MAP
 ここでは、3月の第1日曜日に「粟島ももて祭」が催されます。
●粟島海洋記念公園  MAP
 粟島海員学校は、明治30年に日本初の地方商船学校として設立され、後に国立となり、以来90年間にわたり数多くの船員を育ててきました。旧粟島海員学校校舎は、昭和62年に廃校になってから海洋記念館として整備・保存されています。
●伊勢神宮の船絵馬
 粟島の伊勢神宮は廻船問屋として栄えた伊勢屋の氏神で、13面の船絵馬が奉納されています(うち2面は瀬戸内海歴史民俗資料舘保管)。これらの絵馬は、伊勢屋庄八奉納の外、奥州福山城下伊達千船船頭源歳、奥州箱館松浦嘉七手船船頭久右衛門など遠方の船頭からの奉納ですが、そのうちの3面に廻船の掲げる幟に「堺糸荷船」「御用」の字がみえます。これはオランダから長崎に輸入した絹織物等を江戸へ運ぶ幕府の仕事をしていることを示すもので、この廻船は糸荷船とよばれました。糸荷船の絵馬はこの外に長崎県に1面あるだけといわれる貴重なものです。昭和53年12月26日、県指定有形民俗文化財に指定されました。

【三豊市詫間町志々島】

 この島には、樹齢1200年以上、根元の周囲12.2m、高さ約40mの大楠があります。「男はつらいよ」、「機関車先生」の映画ロケが行われました。

大水上神社を中心とする地域

 この地域は、三豊市高瀬町のうち、南から北に、羽方・西股・上麻・下麻・上勝間・上高瀬の区域です。
 眉山(まゆやま・189.4m)、傾山(かたぶきやま・237.1m)、朝日山(238.1m)、鬼ヶ臼山(おにがうすやま・209m)などの里山と多くのため池があるところです。

【三豊市高瀬町羽方】

●大水上(おおみなかみ)神社  MAP
 大水上神社は、財田川の支流、宮川の渓谷沿いにある讃岐国延喜式内二十四社の一つです。土地の人々から「二宮さん」と呼ばれ、東の一宮(田村神社)に対して西の二宮です。社歴は古く、創建は不詳ですが、神代の昔からであるとさえいわれています。祭神は大山積命(おおやまづみのみこと)、保牟田別命(ほむだわけのみこと)、宗像大神(むなかたのおおかみ)の三神で、秋の祭礼は10月15日です。
 昔から皇室をはじめ武門武将の信仰が厚く、三代実録には、貞観7年5月乙己 讃岐国大水上神授 正五位下貞観17年5月戊申 授讃岐国正五位下大水上神 正五位上など、神位階が授けられており、また源平合戦に際しては、戦勝を祈願した源平それぞれの願書や御神納の矢の記録が残されています。さらに藤原良基の寄進といわれる「しぐれ灯籠」や平氏の祟りを鎮めるために営まれた、教盛、経盛、資盛、有盛を祭るという「四社宮」もあります。現在の建物は永禄年間の再建したのを、明治以降改築したものです。
 大水上神社は、古代より水利の神(水上(源))として崇められてきました。神殿横には竜王淵と呼ばれる深淵があり、三島竜神が祀られています。「鰻淵(うなぎふち)」(竜王淵)には黒・白の鰻がいるといわれ、雨乞いのとき黒い鰻が現れれば雨が降り、白い鰻のときは日照り、カニが現れると大風になると伝えられ、この水は昔から涸れることがないといわれてきました。
 うなぎ淵の横の石段上に「千五百王子(せんごひゃくおうじ)」を祀る社があります。願掛けのしるしに境内の高麗犬の足に藁を結んでここを参詣すると子種を得るといいます。
 境内にある「二宮瓦窯跡」は、平安後期の瓦を焼いた窯の跡であり、昭和7年(1932)、国史跡に指定されています。
 境内には、葉タバコ耕作の「神豊葉(とよほ)神社」もあります。また、戦国時代、長宗我部氏に因縁のある幹周4m高さ11mの「ネズミサシ」の古木があるといいます。
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【三豊市高瀬町西股】

●西股神社  MAP
 傾山の北麓にあります。西股(にしまた)神社は、明治7年に改称されるまでは「荒魂神社」といわれていました。本殿脇にある五輪は、戦国時代、傾山の合戦で長宗我部元親に敗れ討ち死にした麻城主・近藤出羽守国久(くにひさ)とその一族の山中にあった拝み石を合祀したものだといわれています。

【三豊市高瀬町上麻】

●麻城跡  MAP
 麻城は、戦国時代に近藤出羽守国久によって築かれた詰の城です。国久は、獅子の鼻城主・大平国祐の弟で麻を領して「麻殿」と呼ばれ、天霧城主香川氏に臣従していました。長宗我部元親による西讃岐侵攻により麻城は落城し、城主国久も討ち死にしました。その谷はおじが谷(横死ヶ谷)とよばれています。
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【三豊市高瀬町下麻】

●歓喜院法蓮寺(かんきいんほうれんじ)  MAP
 この寺は真言宗の古刹です。この寺に祭られている観音菩薩は、人の願いを空しくせず羂索で漏らさず救済するという不空羂索観音(ふくうけんさくかんおん)という像で、平安時代前期(10世紀)に作られたものと考えられています。その表情は一面八臂(いちめんはっぴ)といい、顔が一つで目が二つ、左右に四本ずつ計八本の手があります。

朝日山  MAP
 朝日山は傾山の北にあります。頂上には朝日山森林公園、伊勢朝日山本宮があります。
「朝日山森林公園」は町民が手作りで創った公園で、城を模した視界360度の展望所から瀬戸大橋を遠望することができます。「伊勢朝日山本宮」は天照大神神武三賢大神他の神々を祀ります。

【三豊市高瀬町上勝間】

●平照寺(首山観音)  MAP
 東部山(標高311.7m)の南山腹にあり、「首山の観音さん」と呼ばれています。本尊は十一面観音で脇侍に勢至菩薩が祀られています。寺号は平照寺といい、昔は平勝寺といわれていました。首山の地名は、近くにある「鬼ヶ臼」にいた鬼が捨てた人の首で谷が埋まり山になったことによるという伝説があります。進学、交通安全などに霊験があるといわれています。お開帳は旧暦8月1日です。

●地蔵寺(嫁楽観音)  MAP
 讃岐三十三観音霊場第23番。行基による開基。御本尊は准胝観世音菩薩・地蔵菩薩。この寺では、大賀博士が発見した古代ハスの分根があり、見事な大輪の花を咲かせます。昭和26年3月、千葉検見川東京大学グランド地下より発見された3粒の蓮の実は、大賀一郎博士に依り、約2000年前のものと鑑定され、その年の5月発芽し、翌年7月18日見事に開花しました。その後、ここから各地にも分根が送られました。
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【三豊市高瀬町上高瀬】

●新田神社  MAP
 祭神は、新田義貞とその息子の義興、義宗子です。脇屋義助の死後、その家臣である安藤村重とその弟村久は難を避けて讃岐に逃れ、弟村久は上高瀬村に居て新田家の再興を祈願して新田神社を建立したといわれています。
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鬼ヶ臼  MAP
 鬼ヶ臼山の山頂には、高さ5m、幅3m、奥行き2mほどの異様な形をした巨岩があり、女神が村人に悪さをする鬼を懲らしめた伝説が残っています。
 昔、男神(鬼)が里へ出て村人をさらって臼でついていた。やがて人の首で山ができ、臼からあふれ出た血が麓に池を造った。その山を首山といい、その池を血の池という。そこで、男神の乱暴を見かねた女神が、自分の赤ちゃんと男神の馬を山の頂上から跳ばせる競争を行い、赤ちゃんが勝てば男神が乱暴をやめるよう誘った。競争の結果、赤ちゃんが勝ったので、以後男神の悪行は収まった。山裾には鬼と女神の戦いの跡として「赤子と馬の足跡」が残されている。

●産巣日神社  MAP
 産巣日(むすび)神社は、上高瀬上ノ荘の集落の中に鎮座しています。古くは妙見宮と称され、應和4年2月毘沙門谷より今の地に遷座しました。
 平将門の長子と伝えられる太郎良門(よしかど)は、家臣の貞廣丑之助、神戸城太郎、下戸城五良、成房三良、成行十郎、成行千代春ら6人とともに、善通寺五岳山の西端の火上山(ひあげやま)の南麓にあたる今の三豊市高瀬町の音田(おとだ)の毘沙門谷(現在は、おにが谷)という所に落ちのびてきて、そこに住み着き、六名(ろくみょう)を名乗ったといいます。
 そして、天徳2年(1618)、産土神である下総国(現在の千葉県)の妙見神社を迎へて上高瀬村音田の地に奉祀したと云われています。この神社の境内には、平良門の六名の家臣を刻んだ碑があり、付近には良門の死後、祀られたとされる祠(若宮社)もあるそうです。
 なお、平良門は、父亡き後、臣下や一族の人望を集めて、いちはやく挙兵を模索し奥州や西国を巡ったといわれています。江戸中期に入ると、良門の存在は妖怪あるいは悪鬼として近松門左衛門の人形浄瑠璃や歌舞伎、舞台劇などに登場し、源頼光によって退治された姿として描かれます。
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テーマ : 香川
ジャンル : 地域情報

70番本山寺を中心とする地域

 この地域は、三豊市豊中町(本山甲・笠田笠岡・上高野・岡本・下高野・比地大)と同市高瀬町(比地中・下勝間)の区域です。

【三豊市豊中町本山甲】

●四国霊場第七十番札所本山寺  MAP
 七宝山(しっぽうざん)持宝院(じほういん)本山寺(もとやまじ)。財田川北岸にあります。寺伝によれば、平安時代初頭の大同2年(807)、平城天皇の勅願寺として、弘法大師空海が自ら刻んだ馬頭観世音菩薩像を本尊として開創したといわれています。本堂は、弘法大師が阿波の井内谷(いのうちだに)で木ごしらえをしてここまで運び、一夜で建立したという言い伝えがあり、大師は本堂の用材を運んでくる途中、乾(いぬい、北西)の隅の柱を本山寺から東一町ばかりのところで落としてしまったということです。その柱は「枯木の地蔵尊」として祀られています。
    (御詠歌 本山に誰が植えける花なれや 春こそ手折れ手向(たむけ)にぞなる
 戦国時代末期、土佐の長宗我部軍が侵攻してきた時、当時の住職が進入を拒んで兵に切られ、兵が建物に侵入すると脇士阿弥陀如来の右手から血が流れ落ちたという伝承が残っています。以後「太刀受けの弥陀」と呼ばれ、兵火からも免れています。江戸時代の寛延元年(1748)に起きた西讃大一揆のときには、三野・豊田郡の百姓たちが本山寺付近に集まったといわれています。
 昭和28年の解体修理の際、礎石の裏に「為二世悉値成就円観房 正安2年3月7日」などの墨書銘が発見され、正応4年(1291)から勧進をして準備をはじめ、12年後のこの年に基礎工事が行われたことが明らかとなりました。昭和30年に解体修理が完成した結果、多い鎌倉時代建築のうちすぐれたものとして昭和30年6月22日国宝に指定されました。
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【三豊市豊中町笠田笠岡】
●七義士神社(権兵衛神社) MAP
 寛延の百姓一揆で処刑された七義士を祀る神社です。境内の中央には、権兵衛が残した「この世をば沫と見て来し我が心、民に代わりて今日ぞ嬉しき」という辞世の句を記した句碑が立っています。この句碑は、元総理大臣の大平正芳の揮毫によるものです。
 ここでは、毎年8月第1日曜日に、農民の守り神としてひそかに祀られてきた七義士の志を伝える「ごんべい祭り」が催され、夜、7人の遺徳をしのぶ「権兵衛芝居」が地元有志で上演されています。
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●道音寺 MAP
 七義士神社の近くにあり、境内には権兵衛と妻子の小祠が祀られています。

●宇賀神社  MAP
 宇賀(うが)神社の随身門の天井裏は、寛延の百姓一揆の時、大西権兵衛等七義士の評議所として利用されたところです。
 この神社は、延喜年間(901~923年)から、神酒の醸造法が口伝授によって継承されてきたとされ、今でも全国的に珍しい醸造が許された神社です。古くは岡神社と呼ばれ、「笠岡の鎮守様」として知られています。岡大明神は酒造りの名人で、生駒家から神田2反5畝20歩の寄付や、嵯峨御所から菊花紋入りの幕などが寄進され、この幕は現在も神社に伝えられています。
 明治33年6月、当時の大蔵省より献供の「どぶろく」を醸造することを許可され、毎年3月には伊勢神宮へ献納しています。年2回春秋の祭りには、一般参拝者にもお神酒として振舞われており、使用されている古式醸造用具一式は県指定文化財に指定されています。
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【三豊市豊中町上高野】

●七宝山妙音寺宝積院  MAP
 第70番札所本山寺の奥の院です。讃岐三十三番観音霊場第18番。その創建は現存する古代寺院としては四国で一番古く、白鳳時代の650―660年頃といわれており、今でも寺院付近から古瓦がたくさん出土しています。
 宗吉瓦窯から約10km程離れたところにあり、宗吉瓦窯から出土した「単弁八葉蓮華文軒丸瓦」は、妙音寺から出土した瓦と文様、胎土が一致し、宗吉瓦窯で生産された瓦が藤原京だけでなく、地元の古代寺院にも運ばれていたことが判明しています。
 本尊の木造阿弥陀如来坐像は平安中期(12世紀)の作で国指定の重要文化財。月に1度公開されています。
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●延命院  MAP
 弘法大師開基とされる寺で、毘沙門天を祀っており、「四国讃州七福神」の一つ。菅原道真が書き奉納したという「一」の字が彫られた石碑があり、この字をなぞると願い事がかなうといわれています。境内の蝋梅の木はよく知られています。
 また、この付近一帯を治めた富豪の墓「延命古墳」が見られます。
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【三豊市豊中町岡本】

●不動ノ滝  MAP
 七宝山の西南部中腹にある落差約50mの滝です。桜、紅葉の名所で、讃岐百景の1つです。七宝山は弘法大師が七つの宝を埋めたという伝説があります。「不動の滝」の名は、弘法大師修行の際、この岩に不動明王の像を刻んだことに由来しているといわれています。

【三豊市豊中町下高野】

●延寿寺  MAP
 七宝山の南東麓にあり、昔から桜の名所として知られています。明治6年(1873)6月26日、「子ぅ取り婆あ」が現れたという流言のあった直後、下高野村の矢野文治がこの寺で早鐘を鳴らし続けて人々を集め暴動にかりたてたことが、西讃血税一揆(竹槍騒動)の発端になったといわれています。矢野文治は打首となっています。
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●興隆寺石塔群  MAP
 延寿寺から石仏を辿って谷沿いの道を登ると、鎌倉後期から室町末期の、約200年もの期間をかけて造立された石塔群があります。崖の上段には五輪塔や宝塔など70基、下段には磨崖仏を中心に五輪塔が30基残されています。

●竹槍騒動発生地  南の池 MAP    
 下高野村帰来原(きらいばら)南の池の北方数百メートルの地点が、「子ぅ取り婆あ」が現れたというところで、明治6年に起きた西讃血税一揆(竹槍騒動)の発生地だといわれています。
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【三豊市豊中町比地大】

●惣官寺  MAP
 この寺の創立時期は定かでありませんが、恵心僧都の作の位牌が残っており、室町時代に創立された寺であろうと考えられています。惣官寺(そうがんじ)という名は、江戸時代、この寺が通行手形を発行するなど現代の町役場のような仕事をしていたことによるといわれています。

●熊岡八幡  MAP
 宮山に鎮座。閑院宮邦家親王が13歳のとき大病をし、ここでの祈願のかいがあり、平癒したことから、旧閑院宮家の祈願所といわれています。ここの秋の例大祭では、神輿が御旅所まで行くとき、母親が抱かれた男児が、萱の穂を持ち行列に加わります。この男児はその年に生まれた満1歳に満たない子で、地面を踏まないことから「土つかず」といわれます。また、萱の穂は笠田の「州野志(すのし)」という場所でとれたものだといいます。

【三豊市高瀬町比地中】

●高瀬富士  MAP
 三豊市にある標高約210mの爺神山(とかみやま)です。爺神山という名は、神代にイザナギの命が降臨されたところで、「トトカミ山」を略して「爺神山」と呼んだそうです。この山は昭和30年代から始まった採石により半分削りとられてしまい、現在は異様な山容となっています。
 戦国時代、この山頂には、詫間弾正の築いた山城がありましたが、江甫草山城と同じように長宗我部元親によって滅ぼされました。長宗我部軍が攻めてきたとき、弾正は降伏せず西麓で激戦中馬の足が瓜のつるにとられて討ち死をし、その日は七夕の日だったので一族はその後この日にはつるに実った物を食べないといいます。
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【三豊市高瀬町下勝間】

●高津神社(加茂高津神社) MAP
 この神社は、「皇子屋鋪」とも呼ばれ、醍醐天皇の皇子である宗良親王を祀ります。京から詫間浦に流された親王は、海辺の気候が身体に合わず、この地に移り住んだといわれています。皇子が京へ戻った後、この仮殿を後世に残そうと土地の豪族田中某が自ら資材を投じて一庵を建立し、里人の崇敬を集め今日にいたっているといいます。
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●威徳院勝造寺  MAP  MAP
 讃岐観音霊場第22番。弘仁12年(821)弘法大師空海により創建されたと伝えられています。「勝間大坊」とも称され、境内は愛本池をはさんで本坊と奥の院に分かれています。本像は、地天に両足を支えられ二邪鬼をしたがえて直立する兜跋毘沙門天で、中国西域地方にその起源をもつ特殊な毘沙門天です。後世七福神としても信仰が厚く、この威徳院では毎年1月3日に大祭がおこなわれ、福をさずかろうとする人々でにぎわいます。

●勝造寺層塔  MAP
 地元では「石の塔」と呼ばれる高さ8メートル余の十三重の石塔で、角型の石を16段ばかりに築いたものです。この塔は、弘法大師が一夜で建立したとか、若狭の人である八百比丘尼(はっぴゃくびくに)が建立という伝承が残っています。塔の四面には梵字が刻まれていますが風化して判読が困難ですが、塔の東面に南北朝時代の「永和4年(1378)戍午3月6日建之」の銘があることなどから、この辺りで戦乱があった折りの死者の冥福を祈るために祀った供養塔だと考えられています。

67番大興寺を中心とする地域

 
この地域は、現在の三豊市の山本町と財田町の区域です。

【山元町辻】

●六十七番札所大興寺(だいこうじ)  MAP
 四国霊場67番札所。小松尾寺不動光院と称します。平安時代初期の弘仁13年(822)、嵯峨天皇の勅願により、空海が開創したといいます。戦国時代の末期には、土佐から侵攻してきた長宗我部元親の兵火により本堂を残してことごとく焼失しましたが、その後再建されました。
   (御詠歌) うえおきし小松尾寺を眺むれば のりのおしえの風ぞふきぬる
 山門前に、「中司茂兵衛義教(なかつかさもへえよしのり)」という人物の名が刻まれた道標があります。この人は、本名を中司亀吉といい、弘化4年(1847)に周防国大島郡椋野村(現周防大島町椋野)に生まれました。生家は大庄屋でしたが、若い頃に家を飛び出して放蕩三昧を尽くしたため勘当され、慶応元年(1866)2月19才の時、四国に渡り88ヶ所遍路巡拝の旅に入ったといいます。茂兵衛は、この時から大正11年(1922)3月76才で亡くなるまで一生遍路の旅を続け、霊場廻りの回数は実に280回にも及びました。また、巡拝者のために道しるべの建立を行い、四国各地に建てた石の道しるべも220余ヶ所に及びました。
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●菅生神社  MAP
 縁起によると、菅生(すがお)神社は、鎌倉時代の嘉禄2年(1226)、香西資村(すけむら)が、霊夢によって河内国(現大阪府)丹比郡菅生神社の神霊を迎えて創祀したとされています。この神社の社叢では、ツブラジイ、カンザブロウノキ、ミミズバイなどの照葉樹林を見ることができ、古い時代の香川の植生を見ることができます。ます。昭和53年天然記念物に指定されました。この神社の社前の老松は、天狗松と呼ばれ、天狗がここまで飛んできて羽休みをしたといわれています。
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●鋳物師辻の集落  MAP
 菅生神社の近くに鋳物師辻(いもんじつじ)という集落があり、ここには多くの鋳物師が住み、江戸時代前期から梵鐘などの鋳物産地でした。彼らは、昔、近江国(現在の滋賀県)の辻村というところから移住してきた人たちで、最初は豊田郡の花稲村(はないねむら、今の観音寺市大野原町稲村)で鋳物の仕事をしていました。ところが、そこは海沿いの土地であったことから、たたらの火が海に映って漁師は魚が採れなくなったため、現在の辻の地に移っていたといわれています。この集落の人たちは原姓を名乗り、鋳物の神として金神(かなかみ)さんを祀っています。

【山本町河内】

●薬王寺(やくおうじ)  MAP
 ボタン寺として知られています。明治維新までは菅生神社の別当寺でした。この寺の弘法大師像の両眼は弘法大師みずからの真筆と伝えられています。

●逆瀬池(さかせいけ)  MAP
 昭和31年に築造された池ですが、この池の底には昔から池があったといわれ、その古池にまつわる話が残されています。
 川上の正体(しょうたい)という所にある竜王渕に住む竜神が、毎年5月に降りて来て、この池で水遊びをしたといいます。竜神の水遊びが終わり、正体へ帰ってから(樋(ゆる)を抜くことになっていました。ある年、竜神が水遊びに疲れて、木陰で休んでいるのに、もはや正体へ帰ったと思い違いをした里人が樋を抜いて水を取ってしまいました。すると、腹を立てた竜神が、この池の残り水も谷川の水も全部上流へ逆流させ、正体の竜王渕へ吸い上げてしまいました。それで「逆瀬」と書くようになったということです。また、そのことがあってから、毎年正体の竜王渕で「水もらいのお祭り」をするようになり、前のように水がもらえるようになったといいます。
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【山本町財田西】

●宗運寺  MAP
 讃岐観音霊場第十五番駒石山宗運寺。平安時代初頭の延暦15年(796)、桓武天皇の勅願により、右大臣藤原内麿が創建したと伝えられています。山王山観音院総本寺中の坊と号していました。天正7年、長曽我部の武将だった山下市郎右衛門藤原盛久が裏山に居を構え当寺を菩提寺として復興したので、その隠居名宗運をとって寺号としました。

【財田町財田中】

●本篠城(もとしの)跡  MAP
 この山城のある地は阿波・讃岐の交通の要路にあたり、南北朝時代と戦国時代末期の2度にわたり戦が繰り広げられています。延元2年(1337)には南朝方の財田左兵衛頭(さひょうえのかみ)義宗が北朝方と戦い、天正6年(1678)には財田和泉守常久が長宗我部軍を相手に激戦を繰り広げています。讃岐へ侵攻した長宗我部軍はまず藤目城を開城させましたが、香川氏に属する諸将によって城を奪い返され、再び讃岐に侵攻してきた長宗我部軍は、今度は本篠城に攻めかかり、多数の死傷者を出す激戦の末に落城しました。その後、長宗我部の部将中内藤左衛門が守ったが天正13年秀吉の四国征伐により長宗我部の退転とともに廃城となりました。山頂には土塁、馬返し、空濠のあと、のろし台などがある。付近には「伯母淵」「財田左兵衛頭義宗の墓」「財田和泉守常久の墓」等があり、待の段、土釜といった地名も残っています。
 本篠城主だった財田左兵衛頭義宗の墓と伝えられる五輪塔の近くには、樹齢200年以上といわれる根元の幹回りが約4.9四・九メートルで、樹高は約二十メートルあり、通称「義宗桜」と呼ばれる樹齢200年以上の山桜があります。
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●密蔵寺  MAP
 この寺は、「四国讃州七福神」の一つで「南極福神」だとされています。

●伊舎那院(いしゃないん)  MAP
 讃岐観音霊場第14番北田山伊舎那院。聖徳太子により創建され、薬師如来、不動明王は太子の作と伝えられています。後に理源大師が再興し、本尊の如意輪観世音菩薩と毘沙門天を自ら刻んで安置したといわれています。一時は末寺が24ヶ寺を数え、寺領も120石を有するほどでしたが、天正6年(1678)に長曽我部の兵火にかかり、七堂伽藍がことごとく焼失し、慶長年間に再興されました。
 この寺には善女竜王の伝説が残っています。伊舎那院に心がけの良い一人の召使いがいました。ところが不思議なことにこの男は雨の日には姿を見せませんでした。ある大雨の日にその男が傘もささずに出ていくので、住職が水晶の数珠を取り出してその玉を通して後ろ姿を見るとなんと大蛇でした。住職はこれはただの大蛇ではなく、善女竜王(ぜんにょりゅうおう)だと思い、小豆飯を炊いて食べさせて暇をやりました。この善女竜王は天王淵(てんのうぶち)の主であったといいます。

●香川用水記念公園  MAP
 吉野川の水が阿讃トンネルを通り最初に水面を見せる香川用水東西分水工のところにある県立公園です。平成9年5月に開園されました。ここから東部および西部幹線水路に分配されます。この公園では、香川用水をはじめ満濃池や豊稔池など讃岐の人々が水を求めてきた歴史を知ることができます。
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●常覚院(じょうがくいん)  MAP
 入樋(いるひ)にあるこの寺は、修験道の道場で、かつてここには多くの山伏がいたといいます。山伏たちは大坂夏の陣のとき、三斗三升入りの大法螺貝(おおほらのかい)を持って徳川方に参陣し、その吹き鳴らす音に徳川家康は大いに喜び、常覚院の周りの山地8町4方を御免地として与えたといいます。

【財田町財田上】

●萬福寺  MAP
 讃岐観音霊場第13番殊勝山萬福寺。平安時代初頭の大同3年(808)、弘法大師による開基といわれています。

●鉾(ほこ)八幡宮  MAP
 七尾山に鎮座。財田郷の総氏神。財田三郷と呼ばれていた財田上、財田中、財田西にそれぞれ御神体として鉾が祀られていましたが、天正6年(1578)、橘城主大平伊賀守国秀が七尾山に社殿を建立し、財田郷鎮護の神としてこの三郷の鉾を合祀しました。ご神体が鉾であることから鉾八幡宮と呼ばれています。鎌倉時代末期の木彫りの狛犬が保存されています。
 この神社の境内の「たからだの碑」は、大正4年の大嘗祭に際し、当時の東宮侍従長御歌所長の子爵入江為守が、「たからだの やつかのたりほ かりつみて たみのこころも ゆたかなるらん」と歌を詠んだ記念碑です。

●戸川ダム・戸川ダム公園・たからだの里・鮎返りの滝  MAP
 渓道川の上流に昭和32年に竣工した「戸川ダム公園」があります。戸川ダム公園には、大久保湛之丞の大きな肖像があります。毎年桜の季節には瀬戸大橋、香川用水構想を提唱した大久保湛之丞を記念した「湛之丞祭り」が4月上旬に開催されています。
 また、近くには、温泉施設「たからだの里・環の湯」があり、物産館においては地域の食材が販売されています。付近には、町指定無形民族文化財の雨乞い踊り「さいさい踊り」発祥の地である「渓道神社」、若鮎がこの滝で上流に進めなかったという「鮎返りの滝(あゆがえりのたき)」などもあります。
国道32号と主要地方道・観音寺池田線の交差点に位置し、讃岐と阿波・土佐を結ぶ交通の要衝にあります。
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●大久保之丞顕彰碑  MAP
 大久保之丞の偉業をたたえ、40tにも及ぶ巨石の上に、高さ4m、幅2m35cm、厚さ55cmの記念碑が立てられています。翁は四国新道の実現、さぬき鉄道の完成、瀬戸大橋、香川用水の構想を提言、産業の振興、無医村解消、北海道移民、多度津港の改修など郷土発展に力を尽くしまた。また、近くに財田の地名発祥を物語る「一石一字宝塔」があります。
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●猪ノ鼻峠(いのはなとうげ)  MAP
 香川県三豊市から徳島県三好市にかけて存在する標高413mの峠です。かつては、うさぎ道とよばれるけもの道でしたが、明治27年に四国新道が開通してからは、人力車や荷馬車が通る商いの道となりました。その後、昭和42年に一般国道32号として整備され、現在に至っています。
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68番神恵院・69番観音寺を中心とする地域

 この地域は、現在の観音寺市のうち、八幡町・有明町・室本町・高屋町・観音寺町・村黒町・流岡町・池之尻町の区域です。概ね琴弾山の68番神恵院・69番観音寺を中心とした旧観音寺市の区域です。琴弾山は観音寺市の財田川河口近くにあり、その西側の有明浜一帯とともに県立琴弾公園に指定されています。園内には、神恵院・観音寺や琴弾八幡宮、砂絵「寛永通宝」などがあり、白砂青松の有明浜と松の美しい琴弾山々頂からの展望が見所となっています。
 現在の裁判所の前付近の財田川河口が、かつて堪保(港)があったところだといわれており、この辺りの旧市街には、海産物問屋、蒲鉾製造場、エビせんべい製造店などがあります。

【観音寺市八幡町】

●四国霊場第六十八番札所神恵院と第六十九番札所観音寺  MAP
 琴弾山の北東山麓にあります。地名の由来にもなった観音寺は、約1300年前に日証上人が琴弾宮の別当寺として創立し、その後大同2年(807)空海が第7代住職をしていたときに、本尊聖観世音菩薩をはじめ諸像を安置して観音寺と改名したものです。一方、神恵院(じんねいん)は、日証上人が琴弾八幡宮を奉祀したとき、琴弾八幡宮の本地仏として阿弥陀如来を祀ったものです。
 こうして、明治時代を迎えるまで、琴弾八幡宮が68番、観音寺が69番の札所でしたが、明治初期の神仏分離の際、琴弾八幡宮の本地仏である阿弥陀如来の画像が観音寺西金堂に移され神恵院とされました。こうして神恵院が観音寺に同居することになり、1寺に2つの札所が生まれました。四国八十八寺の中で、1寺2霊場となっているのはここだけです。
 観音寺境内には、廻遊式枯山水庭園である「巍々園(ぎぎえん)」や大楠も見ることができます。
  (御詠歌)68番 笛の昔も松吹く風も琴弾くも 技うも舞うも法のこえごえ
        69番 観音の大悲の力強ければ おもき罪をも引きあげてたべ
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●琴弾八幡宮  MAP
 琴弾山の南東に大鳥居があり、そこから381段の石段を登ったところの琴弾山頂に琴弾八幡宮本殿が鎮座しています。この創始については、次のような伝承があり、今も、秋の大祭で「お稚児さん」として古事にのっとった祭事が行われています。
 大宝3年(703)のある日、日証(にっしょう)上人が琴弾山で修行していたとき、有明浜一帯に黒雲が立ちこめ3日間暗闇が続き、やがて、薄暗い海上がにわかに光り輝きそこに漂うよう一隻の船から琴の音が流れてきた。日証上人が船に声をかけると、「われは宇佐八幡大明神なり、この地風光明媚なる故に去り難し」と答えたので、上人が船にその証を求めたところ、海水であったところが竹林に、砂浜が蒼松の林に変わり、再び琴の音が響き渡った。驚いた日証上人は、里人数百人とともに船を山上に引き上げ、社殿を造って琴を添えて祀った。日証上人が問答をしたころという「問答岩」が山の麓にあります。
 源家の信仰が厚く、源頼義は前九年の役に代参を立てて願文を納め、八幡太郎義家は父頼義の志を継いで社殿を造営し神馬を奉納したといわれています。また、源義経は屋島合戦の後、平家追討を祈って名馬望月と木之鳥居を奉納し、頼朝は一千貫文の土地を寄進しています。
 琴弾八幡宮は琴を弾く神様、つまりは技芸の神様を祭っているということから、昭和60年より全国奉納絵馬コンクールが始まり、全国から応募のあった絵馬がゴールデンウイーク中に展示されます。
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●興昌寺・一夜庵・根あがり松  MAP
 琴弾山の北東隣接に興昌寺(こうしょうじ)山があり、その南山麓に臨済宗東福寺派の禅宗である興昌寺と俳諧の祖・山崎宗鑑(そうかん)が建てた一夜庵(いちやあん)があります。宗鑑は、京都東福寺の住職梅谷(ばいこく)と親交があったので、梅谷が興昌寺に帰山とまもなくこの地に訪れてきてそのそばに庵を結んだといいます。
 興昌寺には、山崎宗鑑の遺筆として、紫金仏勧進帳(本堂再建の寄付集め趣意書)、徳寿軒宛の書簡、「貸し夜着の袖をや霜にはし姫御」の短冊等があり、遺品として銅雀台の瓦硯、岩床の花瓶・自作の木彫半像などが残されているそうです。また、この寺の本堂正面の右寄り塀ぎわに「仏足石」(短辺53センチ・長辺114センチ・幅60センチ・厚み33センチ)があります。なお、宗鑑の墓は七宝山頂にあるそうです。
 一夜庵は享禄元年(1528年)の創立と伝えられています。宗鑑没後、荒れるにまかせていたようですが、江戸時代になり俳人を中心として再興されました。数寄屋の形態で屋根の形は方形に近い寄棟です。庵内は6畳と4畳半という実用以上の面積を用いない点に特色があり、日本独特の静けさや寂しさ、佗しさが表現され宗鑑の俳味をおびたつつましい建物です。庵は、数度の修繕を経ていますが、旧形をよく保っているといわれています。近くは昭和59年に屋根葺替改修工事が行われ、その葺替の「ヨシ」は琵琶湖産で姉妹都市草津市から寄贈され、保存技術者の手で葺替られたといいます。
 多くの俳人が宗鑑の俳蹟を訪れており、古くは与謝蕪村、小林一茶、近代では高浜虚子、河東碧梧桐(かわひがしへきごとう)などが訪れており、その句碑も残されています。この地では毎年11月に宗鑑忌が営まれているそうです。
   宗鑑の墓に花なき涼しさよ         高浜虚子
   浜から戻りても松の影ふむ砂白きに   河東碧梧桐
 興昌寺山には、ミニ四国八十八か所である「昌寺山四国八十八カ所霊場」があります。本尊石仏の最古のものは明和2年6月8日(1765)、新しいものは明治3年(1870)で約100年間に造られたものと考えられています。また、興昌寺山には、山崎宗鑑とは関係ありませんが、その山麓に根の部分が地上に露出し、根の太さ1m高さ3mのものが数本もある珍しい黒松があります。根が幹のように上がっていることから「根上がり松」といい、天然記念物に指定されています。
(関連記事)“俳諧の祖・山崎宗鑑が隠棲した観音寺
一夜庵

【観音寺市有明町】

●観音寺市郷土史博物館・観音寺市ちょうさ会館  MAP
 琴弾山の麓にあります。大正3年(1914年)に三豊郡農会農事試験場として建築された欧風建築(洋館建)で、大正ロマンが漂うたたずまいを残しています。後に産業勧業館として使用され、昭和2年に町立讃岐博物館となりました。戦時中は一時閉館されましたが、戦後町立図書館と併設で再開館し、昭和30年の市制発足で市立図書館、市立博物館となりました。昭和55年に建物の保存修理を行い、市立郷土資料館となり現在に至っています。旧石器から縄文・弥生・古墳時代の考古資料、古文書・武具などの歴史資料、農耕用具・生活用具などの民俗資料や、化石・貝・鳥の剥製などが展示されています。
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観音寺郷土資料館

観音寺郷土資料館だんじり


●世界のコイン館  MAP
 世界110カ国のコイン・日本の貨幣が集められ展示されています。

●琴弾公園 MAP・有明浜海岸・有明浜の海浜植物 MAP
 琴弾公園では、白砂青松の松原を見ることができます。白砂青松の有明浜に、銭形砂絵と呼ばれる砂で描かれた寛永通宝があります。有明浜は瀬戸内海国立公園に指定されており、風雪に耐えた約5万本の黒松があります。
(関連記事)“欧米人が賛美したわが国初の国立公園

●寛永通宝銭形砂絵  MAP
 銭形は現在も毎年春と秋の2回、市民の奉仕で化粧なおしが行われています。「銭形を見た人は健康で長生きし、しかもお金に不自由しなくなる。」という言い伝えもあり、多くの人が訪れています。昼間だけでなく夜も年中、タリューム水銀灯によって緑色に浮かびあがっています。
(関連記事)“銭形平次でおななじみの寛永通宝の砂絵のある街

【観音寺市室本町】

●内浜霊神社  MAP
 明治6年に起きた西讃血税一揆(竹槍騒動)では、観音寺の有明浜、室本あたりで小島勝卦(封)と宮崎瀧松の2人の羅卒(らそつ、巡査のこと)が殉死しています。この神社は、この2人を祀ったものです。
(関連記事)“神様になった一揆のリーダー

●高屋神社  MAP
 延喜式内社讃岐二十四社の一つ。本宮は稲積山の山上にあり、下に下宮(遙拝所)があります。この社は当初稲積山頂にあったのを1600年頃に、山の中腹に移し、さらに1760年頃に山嶺に移しましたが、里人はその祟りをおそれ、1831年に山頂の旧地に再び本殿を造営しました。山の名を取り稲積社とも呼ばれています。大祭は4月第2土・日曜日に行われています。

●有明富士(ありあけふじ)・九十九山城跡  MAP
 有明富士は、標高153.1mの江甫草山(江甫山・九十九山、つくもやま)です。南側の有明浜側の斜面が砕石のため削られていますが、北側から見るとまだ形が残っています。山頂は平で細川家の居城「九十九山城」がありましたが、天正7年(1579)長宗我部氏によって落城しました。現在は石垣らしき石や井戸の跡が少し残っています。
(関連記事)“七つも富士のある讃岐平野”  “長宗我部元親が四国制覇の野望をいだいた山” “三月三日に雛祭りをしない町

【観音寺市観音寺町】

●観音寺旧市街と財田川河口付近
 財田川と柞田川に挟まれたところが観音寺の旧市街です。この辺りの旧市街には、蒲鉾屋、えびせん屋、海産物屋などのお店があり、ノスタルジアを感じさせる町並みが残っています。いま、この街のお店を訪ね歩き、試食もさせてもらう、食べ歩き観光が行われています。
裁判所付近の川岸にある「官許拝借地」の石標
 明治時代、財田川の南岸は港町として船の発着荷物の積卸に利用されていました。その頃、仮屋浦の問屋衆3名が浜方役所より川岸を荷物揚場として使用する許可を得ていました。この石標は使用の範囲を示すものです。3本が明治22年に建立され、2本がそのままの状態で現地に残っています。残りの1本は郷土資料館の敷地内にあります。
観音寺財田川沿いの官許拝借地

常夜灯と金毘羅大権現 財田川沿いの蔵
 港町として栄えた名残りでしょう。
「金毘羅大権現」と刻んでいます。
観音寺財田川沿い金毘羅大権現
観音寺財田川沿いの倉庫



財田川河口から上流を見た風景
観音寺財田川下から上を見る

海産物問屋
観音寺海産物問屋

えびせん屋
観音寺えびせん屋2

かつての商家
観音寺民家2

旧市街に残る常夜灯
観音寺常夜灯

中二階のある民家
観音寺民家

今も使われているレンガ造りの倉庫
観音寺レンガ倉庫

●専念寺  MAP
 観音寺市の財田川を隔てて琴弾八幡山の向かいにあります。小林一茶はこの寺の住職五梅和尚を頼って、寛政4年(1792)と寛政6年(1794)から翌年にかけての2回ここに来ています。
 「寛政紀行」の寛政7年歳旦詠として「今日立春向寺門 寺門花開清 入来親友酌樽酒豈思是異居古園」(七言絶句)があり、その後「元日やさらに旅宿とおもほへず」以下数句が載せられています。ここに滞在していた頃の句に次のものがあります。
    乞食も護摩酢酌むらん今日の春
    遠かたや凧の上ゆくほかけ舟
    白魚のしろきが中に青藻哉
    天に雲雀人間海にあそぶ日ぞ
(関連記事)“与謝蕪村、小林一茶も訪れた讃岐路

●高丸城(観音寺城)趾(一心寺)  MAP
 この城は、戦国時代、西讃に強大な勢力を誇った天霧城主香川信景の弟景全が、天文年間に築城した居館で、観音寺殿といわれていました。天正7年(1579)天霧城が長宗我部元親の侵攻により開城すると、景全も兄の信景と共に元親に従いました。その後、秀吉の四国統一により、兄と共に土佐に走りました。
 景全が敗走した後、上坂丹波守が城主として居城し、天正15年生駒氏が讃岐守に封ぜられた時、丹波守は生駒氏に服しました。秀吉はその内1万石を割いて大阪の御蔵入の料所にあて、丹波守をその代官とし、観音寺城が代官所にあてられました。その後、豊臣氏の滅亡により生駒氏に没収され、廃城となりました。上坂氏はその後家老として生駒家に仕えましたが、生駒家のお家騒動の折、不義派に組みして一家が断絶しました。
 城趾は約74アールのほぼ正方形の地形で、周囲に内堀をめぐらしていた跡が、明治時代まで端の池、城の池として一部残っていました。今も城趾の北と東側は一段低くなっており、「殿町」など城跡を物語る地名等も多く、現在「一心寺」にある樓門は城の太鼓門を移したものと伝えられています。一心寺近くの小公園に観音寺城の城址碑が建っています。また殿町には城神がまつられ、琴弾宮境内十王堂には上坂丹波守の小祠があります。

【観音寺市村黒町】

●高木神社  MAP
 高木神社の創始については、高木馬之介という強力の弓の名人が、本山寺から西に向かって弓を引き、この矢のとどまるところに葬って欲しいと言って放ち、その矢が落ちた地に祠を立てて祀ったのが始まりだという伝承があります。

【観音寺市流岡町】

●加麻良神社  MAP
 加麻良(かまら)神社は、丸山(橘亀山)に鎮座し、讃岐延喜式内社二十四社の一つといわれています。流岡(ながれおか)の地名は、昔、神田(こうだ)の千五百神(せんごひゃくかみ)という神様の中に顔が小さくて夜な夜な泣く御子神がおり、それを憎んだ親神が枡に入れて流し、その流れ着いた処なのでこう呼ばれるようになったといいます。また、その神様を祀ったのが加麻良神社だということです。

【観音寺市池之尻町】

●黒嶋神社  MAP
 讃岐国延喜式内二十四社の一つで、万延3年、京極高矩が江戸の邸に居たとき、将軍家より悍馬を賜ったある夜、我は黒島神なりと夢に出てきたので、祭田10石余りを寄付したという伝承があります。この神社の闇山津見神は毒蛇の災いを防ぐ神様という一面があり、御神体は黒蛇で本殿下に住んでいるといい、毒蛇を嫌い、神域、氏子区域から毒蛇を追い払ったと言われています。

【観音寺市柞田町】

●山田神社  MAP
 延喜式内社讃岐二十四社の一つ。山田村の名は山田皇女の御名代地だったことから起こったといわれています。山田大娘命は、安閑天皇の皇后である春日山田皇女だといわれています。

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