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(124)“京焼と讃岐との深い縁”

 
 陶磁器(とうじき)は練り固めた土を焼いて作ったものですが、焼方、用途、生産地などから瀬戸物(せともの)や唐津物(からつもの)などとも呼ばれています。このうち、京都で作られるものは一般的に京焼(きょうやき)と呼ばれています。
 京都が本格的な「やきもの」の生産地となったのは16世紀末、桃山時代末になってからのことで、江戸時代初期に活躍した野々村仁清(ののむらにんせい)という陶工が出て京焼の名を高めたといわれています。仁清はそれまでの唐物茶壺とは趣を異にした金銀彩色絵をふんだんに用いたいわゆる飾り茶壺や香炉等を数多く作ったことで知られており、京焼の租ともいわれています。

 仁清は、丹波国北桑田郡野々村(現在の京都府南丹市)に生まれ、俗名を清右衛門といいます。慶安年間(1648~1652)から延宝年間(1673~1681)の頃に活躍し、元禄7年頃に亡くなったと考えられています。若い頃、京都粟田口や瀬戸で陶芸の修業をし、後に京都に戻り、正保4年(1647)頃、洛西の御室(おむろ)の仁和寺門跡(もんぜき)の知遇を得て、門前に窯を開き、茶陶等を制作しました。仁清の号は仁和寺の“仁”と清右衛門の“清”をとって門跡から与えられたといわれています。仁清の制作した焼き物は始め、“御室焼”、“仁和寺焼”と銘されていましたが、万治3年(1660)になって“仁清焼物”などと記され、仁清の名が高まっていきました。
 仁清は、狩野派や土佐派の画風や漆器の蒔絵などを取り入れ、金銀を使った優美華麗な日本的意匠の絵付を創始したことから、色絵陶器の完成者ともいわれ、茶人の金森宗和の指導のもとに、茶壺、茶入、茶碗、水指(みずさし)など華麗な意匠をもりこんだ数々の茶器を制作しました。それらの作品は貴族をはじめ、大名や京坂の豪商などにひろく愛用されました。金森宗和は、公武の社会との交わりにより、清貧に甘んじた茶人、千宗旦との対比で「乞食宗旦、姫 宗和」と称された人物です。
 中世以前の陶工は無名の職人にすぎませんでしたが、仁清は自分の作品に「仁清」の印を捺したことから、近代的な意味での「作家」・「芸術家」としての意識をもった最初期の陶工だといわれています。現存する仁清の主要作品には、「色絵藤花文茶壺」、「色絵雉子香炉」、「色絵梅月文茶壺」、「色絵桜花文茶壺」などがあります。

 江戸時代、仁清の作品を数多く所持していたのが丸亀京極家です。京極家は色絵茶壷の名品を数多く収集しましたが、それらの名品の多くは、二代藩主京極高豊の時代に集められたものと考えられています。高豊は詩歌や絵を趣味とし、白からも絵筆をとるなど文人でした。また茶人でもあり、元禄元年(1688)には、中津にお茶所を設けています。
 仁清と丸亀藩京極家との関係については明らかでありませんが、一説によると、初代藩主高和(たかかず)に招かれ丸亀で窯を開いたともいわれ、京で本焼きして丸亀で上絵付けをしたともいわれています。晩年、京極家の招きに対して、「我齢80を過ぎ旅は困難なり」といったそうです。6万余石の小藩がこれほどの名品を数多く入手できたのは、ときの藩主の文化的な素養と卓越した手腕によるものといえるでしょう。
 仁清の色絵陶器は、大正時代までその存在が知られておらず、昭和の初めまでその生涯も謎に包まれていました。仁清の作品が世に出るようになったのは、所蔵していた旧大名家らが度重なる金融恐慌で手放していたからだともいわれています。
 平成9年、丸亀市では、丸亀城築城四百年を記念して、「丸亀藩京極家名宝・野々村仁清展」が猪熊弦一郎現代美術館で開催され、京極家が所蔵していたといわれる国宝、重要文化財の色絵茶壷と水指の秀作あわせて7点が展示されました。特に国宝の色絵藤花文茶壷は日本陶磁器の最高傑作といわれている絶品で、これらの名品が一堂に揃うのは京極家の手を離れて初めてのことでした。

 ところで、高松には、仁清が活躍していたのと同じ頃、その作風と類似した陶法が京とから伝わっていました。それは、高松藩初代藩主・松平重が京都粟田口で陶工をしていた森島作兵衛重利を高松に招いて焼かせた御庭焼です。作兵衛の父は、元は豊臣秀頼に仕える武士でしたが、大坂の役後故郷の信楽に閑居して焼物を業としていました。そして父を継ぎ陶工となった作兵衛が京都三條粟田口に出て作陶をしていました。
 正保4年(1647)、作兵衛は、頼重から10人扶持、切米15石を与えられ、名を「紀太理兵衛」と改め、高松藩別邸栗林荘(現在の栗林公園)の北に屋敷を賜って窯を築きます。このことから、この御庭焼は“理兵衛焼”、“高松焼”または“御林焼”と呼ばれ、京焼にも負けない色絵物や安南写などが多く作られました。
 初代理兵衛は、その作風は仁清のものと類似しているといわれ、「古理兵衛」あるいは「高松仁清」と呼ばれました。来讃時に色絵陶を作る使命を帯びていたのではないかともいわれています。明治初期に書かれた田内梅軒の「陶器考」によれば、「高松焼 利兵衛と云もの仁清に陶法を習ふ、是を利兵衛焼と云、作ぶり仁清に似て厚し、安南を写たる茶碗、朝鮮を写たる茶碗など有、土白、薄赤、黄、浅黄。薬白、浅黄」とあり、初代理兵衛は野々村仁清に陶法を学んだのではないかとも考えられています。
 以後、紀太家子孫が高松藩の御庭焼として代々「理兵衛」を襲名し、三代理兵衛以降は、「破風高」と呼ばれる「高」の印を押すようになりますが、一説によると高松藩の高の字を拝領されたともいわれています。
 九代目に至り、いわゆる明治維新で廃藩置県となったため、十一代目が京都に出て高橋道八に学び、名も「紀太理平」と改め、明治33年に現在の栗林公園北門前に「理平焼」として再興し、現在十四代紀太理平まで続いています。
                

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テーマ : 香川
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(122)“海を町に変えた塩づくり”

  町はその形成・発展の要因により、城下町、門前町、港町、宿場町などに分類されます。現在の香川県の町も、高松、丸亀は城下町、琴平、善通寺は門前町、多度津、引田、仁尾などは港町として発展しました。このような香川県の町の中でも、坂出塩田の町としてユニークな発展の歴史を持っています。
 坂出市は昭和17年(1942)に香川県で3番目に市制が施行されました。坂出市の中でも東部地域は、かつて讃岐の国府庁が置かれたり、また崇徳上皇にまつわる社寺仏閣、史跡が残るなど古い歴史を持っています。しかし、西を聖通寺山と角山、東南を笠山と金山で挟まれた現在の市街地の辺りは、かつて遠浅の海と砂州だったところで、街として発展していったのは江戸時代後期以降のことです。その歴史は、塩を採るために人々が集まり、海を塩田にし、さらにそれを基に土地造成を行うことにより展開されました。これに伴い海岸線も北へ北へと大きくシフトしていきました。

 鎌倉時代から室町時代を通じて、讃岐の政治文化の中心だったところは、現在の坂出市街と田尾坂を隔てて隣接する宇多津でした。青ノ山の東麓には讃岐の守護所が置かれ、古くから多くの寺院が建立されていました。
 これに対して、現在の坂出市街の地は、江戸時代までは、海岸線が大きく南に後退し、今の坂出高校や笠山の麓辺りが波打ち際でした。また、笠山の南西にあたる現在の福江町二丁目付近まで入江が大きく湾入し、大束川(あるいはその支流)の河口に続いていました。そこに自然の入江を利用した福江の湊がありました。そして遠浅の海を隔てた北側には、現在の市街西側の八幡町三丁目あたりの付け根から洲加(須賀)と呼ばれる長い砂州が東に向かって延びていました。洲加の東端は現在の坂出商工会館裏にある天満宮辺りだと考えられています。さらに洲加の東側には島津(洲)、横洲と呼ばれる砂州が島のように点在し、これらの砂州は、天然の防波堤の役割を果たしていました。ちなみに、横洲は現在の横津町あたりです。
 想像するに、南側の陸地と北側の砂州で囲まれた遠浅の海は、湾が砂州(さす)によって外海から隔てられ湖沼化した潟湖(せきこ)(ラグーン)に近い地形で、東西に長い楕円形をし、北東の方向が沖合いの海に開けていたのではないかと思われます。そして、この楕円の中心点が現在の坂出駅あたりで、JRの線路が楕円の軸になるような形だったのではないかと思われます。
 この辺りは、古くは山本郷といわれたところで、南北朝時代(延元3年:1338)には、京都・崇徳院御影堂の荘園(北山本新荘)が置かれ、福江の湊が年貢の積み出し港として地域の流通機能を担っていました。

 坂出で塩田の築造が始まったのは、安土桃山時代の文禄年間(1592~1596)の頃だと考えられています。播州赤穂から「塩焼」という塩づくりの技術をもった民人が移り住み、金山と笠山の北麓にあたる現在の谷町あたりで塩田を造ったのが始めてといわれています。この頃の讃岐の領主は生駒親正で、天正15年(1587)に豊臣秀吉から讃岐一国を与えられました。この頃、引田や高松にも赤穂から塩焼が移住してきており、生駒氏は讃岐にやってくる前は赤穂の領主だったことから、赤穂から塩焼を呼んで塩作りをさせたのではないかと思われます。
 江戸時代に入っても、赤穂からの流民は増え続けていたようで、慶長年間(1596~から1615)から元和年間(1615~1624)にかけて、赤穂の人々が洲加やその付け根の内浜(現在の八幡町三丁目あたり)に移住し、集落を形成したといわれています。また福江から移住してきた人も多く、福江は「本村」と呼ばれていたそうです。
 彼らは次第に埋没して干潟となっていた入江を塩田に変え、塩業を生業としました。当時の文献によると、赤穂から移り住んだ塩焼の子孫は播磨訛りを話し、坂出には多くの塩釜が炊かれ朝夕をとわず煙が出ていたといわれています。ちなみに、「坂出」という地名は、宇多津から田尾坂を越えて出たところにある集落という意味です。この頃、高松城下から丸亀城下に至る丸亀街道は、金山北麓から笠山南麓へ回り込み、福江を経由して川津・津之郷に出るという経路でした。

 寛永19年(1642)、松平頼重が東讃岐12万石を徳川幕府から与えられ、生駒氏の後の高松城に入り、坂出は高松藩の領地となります。元禄時代(1688~1704)になると、洲加と陸地の間の海は埋め立てにより塩田として利用され、洲加の東側に点在する鳥洲・横洲などの砂州にも集落ができ始めたようです。
 そして、元禄2年(1689)、坂出八幡神社が角山北麓の現在の地(八幡町二丁目)に建立されます。この頃、坂出は各地から移住してきた人々が集まってできた単なる集落から、共同体的意識を持ったムラに転化したものと考えられます。八幡神社と教専寺の界隈である内浜と新浜は、坂出村の臍(へそ)のようなところといえるでしょう。
 しかし、まだまだ寒村だったようで、寛文7年(1677)の記録では、人口は約600人程度でした。この頃、丸亀街道の経路は北へシフトし、笠山北麓から西へ真直ぐ延びて教専寺・八幡神社門前を経て田尾坂を越えていました。
 また、洲加と陸地の間の海の埋め立てにより福江にあった港はその機能を失い、それに代わる新たな港が、洲加の北側の海岸沿いに造られました。これにより、現在の地蔵通商店街周辺にあたる中洲加の界隈が、荷揚げ場を控えたところとして賑わいます。享保17年(1732)には、高松藩の舟番所が林田から西洲加に移され、海に突き出した東洲加には灯台が立てられて船着き場とされます。現在、元町四丁目のやや小高くなった路地のあたりが船着き場の跡で、そこには灯台の記憶を伝える幕末の金毘羅灯篭が今も立っています。
 しかし、元禄年間までに拓かれた塩田は、早くも享保7年(1722)に洪水で壊滅状態となってしまいます。荒廃した塩田は、天明6年(1786)、阿河武太夫によって田畑へと切り替えられます。現在でも標高0.5m以下の低い土地が広がる谷町・室町一帯にその名残りを見ることができます。この当時の坂出は、「田少なく、壮者は往々去って四方に餬口(ここう)す。村は蓋し海に瀕し、海潮満ちつれば則ち村居を浸す。退けば則ち平土数里」(坂出墾田之碑)という状態だったようです。

 江戸時代後期、荒廃した製塩業に新たな活力をもたらしたのが、久米栄左衛門(通賢)による坂出塩田の開発でした。当時、洲加と鳥洲の北側(現在の御供所地区から江尻地区にかけて地域)は、まだ遠浅の海浜で残された入江でした。栄左衛門は、文政12年(1829)、ここにその広さ110余町歩、釜数72という広大な東大浜・西大浜塩田を築きます。また塩田中央部を南北に延びる堀割(現在の西運河)に船溜りが設けられ、天保2年(1842)には西大浜の沖にも波止で囲まれた船溜りが造られます(沖湛甫)。この塩田は当時の讃岐の塩田としては最大規模のもので、これを契機に坂出は塩田の町として大きく発展していくことになります。
 海岸線が北にシフトしたことにより丸亀街道の経路もさらに北にシフトし、金山北麓から西へ真直ぐ延びて現在の元町商店街を経由して田尾坂を越えるルートと付け替えられます。そして、それまで坂出の中心として栄えた中洲加は港湾機能が失われたことにより衰退し、東洲加にあたる現在の元町・本町界隈が賑わっていきました。

 明治時代、坂出は塩の生産量日本一を誇るまで栄えます。しかし、明治後半から大正にかけて、坂出塩田は次第に商工業地としての利用が行われるようになり、また、昭和2~26年に3次にわたって行われた坂出築港事業により、坂出港は埠頭や臨港鉄道を備えた近代港湾として生まれ変わります。
 戦後になると、昭和39年(1964)から、沖合の番の州が埋め立てられ、昭和44年に竣工して川崎重工、三菱化成、四国電力坂出火力発電所等の大企業の工場が立地していきます。一方、イオン交換樹脂膜製塩法の導入により塩田は不用となり、昭和47年、東西大浜塩田での製塩が終焉します。そして、昭和50年代以降、塩田跡地は区画整理事業により埋め立てられ、工業地、住宅地、道路などに転用されていきます。
 坂出は、塩を求めて、常に土地造成という自然地形への積極的な働きかけ行ってきたことによりできた町で、いわば塩づくりが海を町に変えたといえるでしょう。

(関連記事)
(58)“伊能忠敬より進んだ測量技術を持った江戸時代の先端科学技術者で塩田の父
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(108)“桂小五郎ら勤王志士と親交のあった高松藩主の兄”

 幕末、讃岐にも勤王の志士がおり、水戸や長州の志士たちと連絡をとりながら活動していました。高松藩士の勤王家としては、長谷川宗右衛門(そうえもん)と息子の速水(はやみ)、甥の松崎渋右衛門(しぶえもん)の長谷川一族、在野の草莽の志士としては、小橋安蔵(こばしやすぞう)を中心とする木内龍山(りゅうざん)、村岡箏子(ことこ)、小橋橘陰(きついん)、太田次郎、小橋友之輔(とものすけ)、村岡宗四郎の小橋一族が高松と丸亀で活動していました。それに藤川三渓(さんけい)がいました。また金毘羅の草莽の志士としては、日柳燕石(くさなぎえんせき)を中心とする長谷川佐太郎(さたろう)、美馬君田(みまくんでん)、奈良松荘(しょうそう)らのグループが活躍していました。丸亀藩士では土肥大作と七助の兄弟がいました。
 これら讃岐の勤王志士を庇護したのが高松10代藩主・松平頼胤(よりたね)の異母兄・松平左近(さこん)です。高松では、よい意味でのへそ曲がりとか、一徹な人のことをもじって「左近さん」と呼びますが、左近は、高松松平家の中でもきわめてユニークな存在です。

 松平左近は、高松8代藩主・松平頼儀(よりのり)の長男として、文化6年(1809)に、江戸小石川の高松藩邸で生まれました。幼名を道之助、名を頼該(よりかね)、号を金岳といいます。
 左近は、神田の鬼子母神(きしもじん)に安産を祈願して生まれたので、その申子であるといわれたそうです。長男であるにもかかわらず8歳のときに廃嫡されて国元の高松へ帰されます。廃嫡されたのは、左近には母が異なる姉の倫姫(みちひめ)と弟の貞五郎がいましたが、頼儀が倫姫の婿に水戸7代藩主・徳川治紀(はるとし)の次男・頼恕(よりひろ)をむかえて高松9代藩主とし、次の高松藩主を倫姫と母が同じ貞五郎(後の頼胤)としたためです。
 以後、左近は高松で過ごし、政事にはかかわらず学問などに励みます。幼い時から聡明で学問好きだったといわれており、また武道もすぐれ、文武両道の人物だったようです。

 天保13年(1842)、高松藩では、水戸出身の頼恕の後、松平頼胤(よりたね)が10代藩主になります。この頃、左近は隠居して、城内の邸宅から城下の宮脇村にある亀阜荘(かめおかそう)に移り住み、「宮脇様」とも呼ばれています。31歳の頃だといわれています。家禄は2500石でした。
 左近と頼胤は4つ違いの腹違い兄弟ですが、幕末の動乱期に全く対照的な人生を歩みます。弟の頼胤は高松藩主として、溜間詰(たまりまづめ)という老中と列座する幕政中枢の要職を占め、井伊直弼らとともに幕府保守派として幕府権威の維持に奔走します。このため、攘夷・一橋派の頭目である水戸の徳川斉昭(なりあき)とは仲が悪かったようです。頼胤の藩主在任は20年近くに及びましたが、幕政に関わったことから、ほとんど江戸暮らしでした。
 これに対して兄の左近は、政事にはかかわれない立場から、学問や趣味の世界に沈溺し、かなり自由な生活をしていたようです。書・画・和歌・俳句・華道・茶道など、それぞれに達人の域に達し、その才覚は藩中で及ぶ者なしといわれました。亀阜荘では、能や芝居の舞台をつくり、小国広太郎という変名を使い自ら女形の役を演じて庶民にも公開したので、「左近さん」と親しまれていたそうです。さらに、法華宗の熱心な信者で、高松八品講を組織しています。仏典の研究も深く、寺での法話は坊さん以上だったといいます。
 また、左近は国史を読み、楠木正成を思慕していたといい、若い頃から尊王思想をもっていたようです。江戸へ出向いたとき、長谷川宗右衛門の引き合わせで水戸まで足を運び、徳川斉昭と国事を語り合い、斉昭に心服したといわれています。その影響から、佐幕派が主流を占める高松藩の中にあって、唯一、勤王家たちを陰で庇護した人でした。
 しかし、左近と頼胤の仲は、藩主継承の順番が逆になり、その考え方も正反対であったにもかかわらず、悪くはなかったようです。城内での会食のとき、どちらが先に食事をするかで双方が譲り合いをするために事が前に進まず、困った侍女たちが二人同時に食事をすすめたという話も伝わっています。

 左近は多くの勤王家と交友関係を持っていたようですが、左近が用いた人物の一人が藤川三渓です。三渓は、26歳のとき、長崎に行き、そこで砲術、兵術、築術、捕鯨術を学びます。その後、讃岐に帰り医者をしていましたが、海防の必要なことを報告するなど左近を助けて力を尽くします。
 嘉永3年(1850)、左近は金毘羅の勤王家である日柳燕石(くさなぎえんせき)の拝謁を受け、燕石を三渓に引き合わせています。
 また、文久3年(1863)6月、左近は三渓が献策した農兵取立てを取り入れ、試みに農兵の訓練を命じています。総勢545人の農兵隊は「龍虎隊」と名付けられ、左近は手製の軍旗を与えて激励しています。そして、三渓は屋島の長崎の鼻に砲台をつくり「震遠砲」(しえんほう)と名づけ、この砲身に自作の詩を彫刻したといいます。
 しかし、三渓の積極的な行動は藩内保守派の反感をかい、文久3年(1863)の「八・一八の政変」による尊王攘夷派の京都での失脚により、10月から以後6年間、鶴屋町の獄に繋がれます。後、日柳燕石が高杉晋作を匿った罪で美馬君田(みまくんでん)とともに入牢してきたときには、三渓は手製のこよりで編んだ敷物を燕石に贈ったといわれています。獄中で3人とも「皇国千字文」を著しています。
 当時、亀阜荘は、讃岐における勤王派の情報拠点基地のような存在だったらしく、国内外の勤王志士が出入りし、左近も長谷川宗右衛門、松崎渋右衛門、小橋安蔵、日柳燕石らと親交を結んだようです。
 さらに、左近は讃岐国外の勤王の志士も助け、その庇護に努めています。なかでも、長州の久坂玄瑞、桂小五郎、高杉晋作らとの交渉は深く、また備前の藤本鉄石、越後の長谷川正傑らは高松に来て、小橋安蔵の紹介で会見をしています。一方、土佐の中岡慎太郎、石田英吉や公卿の沢宣嘉らもしばらく左近の邸内に潜伏していたといわれています。

 慶応4年(1868)、鳥羽伏見の戦いによって高松藩が朝敵になり、官軍の土佐藩兵が高松征討に向かって進軍してきた際、藩内は官軍を向かえ討つべしという抗戦派と、恭順すべしとする和平派が対立し、3日3晩にわたる激論となります。抗戦派の主張が優勢になりかけたとき、左近は、儒学者藤沢南岳の献策をいれ、病の身ながら抗戦派を一喝して押さえつけ、藩内を恭順論に統一しました。これにより高松の御城下は戦火から救われました。
 最後の力を出し切ったのか、この年の8月6日、左近は病のため亡くなりました。享年60歳でした。
 しかし、高松藩内の対立は左近の死後も続き、佐幕派が勤王派の松崎渋右衛門を謀殺し、それを隠蔽するという事件が起きています。もし、左近がもっと長生きしていたならば、このような陰惨な事件は起きていなかったかもしれません。

 なお、この記事をお読みになるに当たっては、次の記事も参考にしてください。
○“井伊直弼と徳川斉昭との板挟みにあった高松藩主”(27)
○“西郷隆盛と入水自殺した幕末の勤王僧”(24)
○“吉田松陰と同じ獄につながれた讃岐の勤王親子”(105)
○“池田屋騒動で新撰組と白刃をまじえた讃岐の勤王志士”(106)
○“蛤御門の変で戦死した若き讃岐の勤王志士”(107)
○“高杉晋作をかくまった侠客の勤王志士”(34)
○“最後の高松藩主は最後の将軍徳川慶喜の従兄弟”(28)


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(107)“蛤御門の変で戦死した若き讃岐の勤王志士”

 蛤御門の変(はまぐりごもんのへん)は、幕末の元治元年(1864)7月19日、京都での勢力の挽回を図る尊王攘夷急進派の長州藩と、御所を守る会津藩、薩摩藩を中心とした公武合体派幕府軍との間における戦いです。御所の西側に位置する蛤御門付近で特に激しい戦闘が行われたことからこの名で呼ばれ、禁門の変、元治の変、元治甲子の変とも呼ばれます。この戦いには、当時19歳の小橋友之輔(とものすけ)という讃岐人が長州軍に従軍し、戦死しています。

 小橋友之輔は、香川郡円座村に住む小橋安蔵の次男として生まれます。祖父の小橋道寧は、高松藩儒菊池縄丈に学んだ後、江戸に出て昌平坂学問所に学び、さらに和歌山の華岡青洲に医を学んだという、当時、最高の学問と教養を身につけていた人でした。
 道寧には、長男安蔵、次男順二(文化8年(1811)生)、長女箏子(ことこ、文化12(1815)生)、四男多助(文政5年(1822)生)らの子供がいました。
 長男の安蔵は、伊藤南岳について漢学と数学を修め、のちに大坂や江戸に遊学して古賀洞庵・大槻磐渓らと交わり啓蒙を受け、尊王攘夷思想を持ちます。その立場から、嘉永4年(1851)、10代藩主・松平頼胤のときに、貧民の救恤(きゅうじゅつ)と海防の強化を高松藩へ建言しています。
 次男の順二は木内家に養子に入り、龍山と号します。兄と同じく伊藤南岳に学び、兄の相談相手として思想面から大きな働きをしました。儒学、歴史に関心が深く、多くの著述を残しています。
 長女の箏子は17歳で、丸亀の銀札出納係りを勤めていた村岡家に嫁ぎ、夫の死後は醤油醸造業を営み、兄らの尊攘運動を経済的も援助しました。箏子には宗四郎という息子がいました。
 四男の多助は、橘陰(きついん)と号し、大坂で藤沢東畡(とうがい)に学び、のち、江戸に出て古賀洞庵に入門します。江戸市中の動静や幕府の動きなどを兄に知らせ続けました。
 また、安蔵の娘婿の太田次郎も尊攘運動に身を挺します。次郎は、木田郡田中村の医者太田敬輔の次男で、父から漢学と製薬理学を、また久米栄左衛門の弟子である叔父の飯間八郎に火術を学んでいました。
 このような環境に育った安蔵の次男の小橋友之輔と箏子の息子の村岡宗四郎は、若い頃から父、叔父、叔母らとともに尊攘運動に身を捧げました。
 小橋一族は、安蔵を中心にして草莽の志士として一門あげて勤王家として活躍し、京畿の長州勤王志士の間では「讃岐名和氏」と呼ばれていました。

 嘉永6年(1853)6月ペリーが浦賀に来航し、翌年1月再来航して3月3日に日米和親条約(神奈川条約)が締結され、下田と函館の2港が開港されます。ここに、200年以上続いた幕府の鎖国政策は崩れます。
 この頃、小橋安蔵は尊王攘夷論者として讃岐の外でも知られていたようで、安政元年(1854)4月、安蔵47歳のとき、越後長岡の志士・長谷川正傑(しょうけつ)がやってきて、弟の木内龍山、娘婿の太田次郎らとともに時事を論じ、尊王攘夷に努めることを約しています。このとき、安蔵は箏子に依頼し、正傑を丸亀に潜伏させています。正傑は、翌年にも来讃し、安蔵に勤王の義兵を挙げるよう持ちかけます。安蔵はこれに応じ、軍備充実のための武器を提供することを約しています。

 安政5年(1858)9月、安政の大獄が始まり、尊王攘夷論者に弾圧が加えられます。これに対する反動として、安政7年(1860)3月、桜田門外の変が起こり、大老・井伊直弼が暗殺されます。
 この後、幕府は、その権威を回復するため、朝廷と幕府が協調して政局を安定させようという公武合体政策を進め、文久元年(1861)11月、その象徴として、の将軍家降下が決定されます。しかし、この強引な政略結婚に尊王攘夷論者は激しく反発し、翌年の文久2年(1862)1月、坂下門外の変が起こります。
 この頃、安蔵は太田次郎を丸亀の村岡箏子のところへ行かせ、箏子と宗四郎とともに、ガルバニ電器、臼砲3門、弾丸数百発、硝薬、刀百振り、槍15筋、甲冑8領などを整えさせ、村岡宅に隠しています。村岡家では居間の床下に地下室を掘り、東西に3.6m、南北に2.7m、深さ約1.8mの大きさ、周囲には花崗岩の切り石を敷き、底は漆喰で塗り、外部は豊島石で蓋をしていました。その家は現在の丸亀市魚屋町にありました。

 文久2年6月、幕政の混乱をみた薩摩の島津久光は、江戸に赴き改革を要求します。幕府はその意向を入れて、徳川慶喜を将軍後見職に、松平慶永を政治総裁に任命します。また、安政の大獄以来の処罰者を赦免します。これを文久の改革といいます。なお、久光の薩摩への帰途の8月に生麦事件が起きています。
 一方、この頃、長州藩は、中下級藩士の主張する尊王攘夷論を藩論とし、三条実美ら尊攘派公家と結んで、朝廷内部での主導権を握ります。この結果、朝廷の主流は、再び公武合体派から尊攘派に移り、攘夷実行の遵守を決定します。文久2年(1862)12月、孝明天皇が攘夷の勅書を将軍徳川家茂に授け、家茂はやむを得ず翌年3月に攘夷を決行する旨を奉答します。これにより、諸国の攘夷運動は大いに盛り上がります。

 文久3年(1863)3月、将軍家茂が上洛し、孝明天皇は攘夷祈願のため上下両賀茂社と石清水八幡宮へ行幸します。この頃、安蔵は、高松藩に再度上書して、幕府の攘夷決定という情勢下における武備の充実と正道一元、農民の救済、農兵取立てを強く要請しています。
 ところが、幕府が攘夷を決行しないため長州藩をはじめとする攘夷派は憤慨し、朝廷も幕府に攘夷の決行を迫ります。やむなく、幕府は5月10日をもって攘夷を決行すると答えますが、実行しませんでした。しかし、長州藩は下関海峡を通過するアメリカ船を砲撃して遂に攘夷を決行します。これが下関戦争です。また7月には、イギリス軍艦が、生麦事件の報復として鹿児島に砲撃し、薩英戦争が起きます。

 攘夷の機運が盛り上がる中、長州藩は、三条実美ら過激派公家と、8月に孝明天皇が大和行幸、攘夷親征を行い、幕府を追い詰めようと謀っていました。この計画は、天皇が大和行幸の機会に攘夷の実行を幕府将軍及び諸大名に命じ、幕府がこれに従わなければ長州藩が錦の御旗を関東に進めて徳川政権を一挙に倒すというものでした。
 この頃、讃岐では、長谷川正傑、野城(のしろ)広助らが高松円座の安蔵のところに来て、すぐ丸亀の箏子の方に移っています。安蔵は時期が熟したとして軍資金2千両を用意し、武器を点検させています。
 文久3年(1863)8月13日、孝明天皇により大和行幸、攘夷親征の詔勅が出されます。このとき、吉村寅太郎らは京都東山の方広寺で、公家中山侍従忠光を大将とする天誅組を旗挙げし、大和行幸の先鋒となるべく大和国へ向かいます。天誅組は8月17日には五條代官所を襲撃し、五條御政府を樹立します。これは武力による最初の倒幕決行でした。金毘羅の日柳燕石(くさなぎえんせき)も天誅組の挙兵に参加する予定でしたが、病により実行できなかったといいます。
 この頃、京都から特使が村岡宗四郎の導きで高松円座の安蔵のところに来て、天皇の大和行幸、攘夷親征を告げます。これに呼応して、長谷川正傑、小橋友之輔、太田次郎、野城(のしろ)広助、美馬君田らは、村岡家に隠しておいた武器弾薬を船に積み込み丸亀を出港し、京都に向かいます。安蔵、龍山、宗四郎はあとを追って出発する予定でした。

 ところが天誅組が大和で意気をあげていたとき、京では政局が一変します。当時長州藩と対立していた薩摩藩は、倒幕の計画を察知し、藩主松平容保が京都守護職を務める会津藩や公武合体派の公家らと連帯してこの陰謀を潰し、朝廷における尊攘派の長州勢力を一掃しようと巻き返しを図ります。孝明天皇も尊攘派の振る舞いを快く思っていませんでした。
 8月18日深夜、会津・薩摩などの藩兵が御所の警護を行う中、公武合体派の中川宮朝彦親王や近衛忠熙・近衛忠房父子らと、京都守護職松平容保、所司代稲葉正邦らが参内し、攘夷親征の延期、三条実美ら尊攘派公家の排除、長州藩の京都からの排除、長州藩士の御所出入りの禁止などを孝明天皇に上奏して裁可されます。この「八・一八の政変」により朝廷の実権は再び公武合体派に移り、攘夷派の三条実美・沢宣嘉ら公家7人は朝廷を追放され、長州藩兵とともに翌日の暁に京都を退去して長州へと向かいます。いわゆる「七卿落ち」です。この事件は、公武合体派によるクーデターでした。なお、京都での政変により天誅組は暴徒と決め付けられ、幕府から追討され、9月25日に壊滅します。
 この政変で安蔵らの決起行動も中断してしまいます。しかし、太田次郎と小橋友之輔は長州藩兵と行動を共にします。10月27日、安蔵は、攘夷親征のとき従軍を策謀したことが高松藩に発覚し、獄につながれ武器類もすべて没収されます。
 しかし、尊王攘夷の流れは止まず、翌年の元治元年(1864)3月には水戸藩士藤田小四郎らが筑波山で挙兵しています。一方、安蔵は、5月25日、許されて出獄しますが、その後自宅拘禁が続きます。

 元治元年(1864)6月、長州藩士らが新撰組に襲われ惨殺されるという池田屋事件が京都で起こります。この事件により、長州藩では、会津・薩摩を討つべしという強硬派が主導権を握り、7月に尊王攘夷派の勢力回復をねらい、長州軍約3000人が京都へ向かって進軍します。
 この軍のうち、約1600人は各地の尊王攘夷志士による浪士隊で、その指揮には久留米の神官・真木和泉守(まきいずみのかみ)と吉田松陰の弟子の久坂玄瑞(くさかげんずい)そして長州藩士の来島又兵衛(きじままたべえ)が当たりました。
 この浪人隊の中には、讃岐の出身の太田次郎と小橋友之輔が従軍していました。友之輔は、行軍の途中、丸亀に立ち寄り、叔母の箏子に「年月を空に過せし大丈夫の、散て匂はん大和魂」の辞世の句を託し、箏子は「大君の御為とならばながらえて、なお年久に心尽くせよ」と返し、死を急ぐのを戒めています。

 元治元年7月19日、長州軍は洛中に突入し、会津・桑名・薩摩各藩の諸隊と御所の蛤御門や堺町御門(さかいまちごもん)附近で激戦となります。このとき高松藩は小御所を守り、また長柄川の警備に当たっています。
 戦いは一日で終わり、長州軍の惨敗となります。その戦死者は265名ともいわれています。最大の激戦地となったのは蛤御門で、この門を守っていたのは会津藩でした。長州藩にとって、会津藩は8月18日の政変の首謀者の一人であり、池田屋事件で多くの同志の命を奪った新選組を抱えている仇敵でした。長州軍の戦意と進撃は激しく、会津藩の守りを突破して、一時は御所内に進入したほどでした。しかし、西郷隆盛が率いる薩摩藩が応援に駆けつけたために戦局が逆転し、長州軍は敗れて敗走しました。
 このとき、太田次郎と19歳の小橋友之輔が長州軍に従軍し、戦いに加わっていました。この戦いで友之輔は7月19日に堺町御門で戦死しました。次郎は重囲を脱して逃れ、後帰郷しています。

 慶応元年(1865)正月、安蔵は、友之輔が長州軍に加わったことにより再び投獄されます。これに連座して、村岡宗四郎も自宅拘禁されます。幽囚の生活の中で宗四郎は体を痛め、吐血して衰弱し、慶応3年1月、21歳の若さで没しました。このとき、母箏子は、「あさからず、御国をおもう真こころの、身のあだとなる世こそかなしき」と、その悲痛の嘆きを詠っています。またこの年11月、木内龍山も57歳で没しています。
 慶応4年(1868)正月、安蔵は、高松藩征討の際に出獄を許されます。在獄3年でした。しかし、なお活動を続けていたようで、6月には、丸亀の土肥大作らと謀り、松崎渋右衛門を出獄させています。
 明治2年(1869)6月、安蔵は、高松藩庁より積年の勤王の志厚きを賞され、10人扶持を与えられます。ところが、9月に松崎渋右衛門が謀殺されると、親交があったとして再び獄につながれます。翌年の明治3年7月には箏子が56歳で亡くなります。安蔵が自由の身になったのは明治4年のことで、翌年6月に65歳で亡くなります。最後に残った小橋橘陰(きついん)が江戸で亡くなったのは、明治12年、58歳でした。

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(105)“吉田松陰と同じ獄につながれた讃岐の勤王親子”

 安政の大獄は、幕末の安政5年(1858)から翌年にかけて、幕府の大老井伊直弼が、日米修好通商条約の調印に反対した攘夷派や、紀州藩の徳川慶福(よしとみ、後の家茂)を将軍継嗣(けいし)とすることに反対した一橋派に対して行った弾圧事件です。この事件のとき、讃岐の勤王家である長谷川宗右衛門(そうえもん)とその息子の速水(はやみ)は、吉田松陰が入れられていた同じ獄に繋がれていました。
 長谷川宗右衛門は享和3年(1803)の生まれで、速水はその次男です。宗右衛門の甥には文政10年(1827)生まれの松崎渋右衛門(しぶえもん)がおり、彼らは高松藩勤王派の一角をなしていました。

 文政9年(1826)、長谷川宗右衛門は高松9代藩主・松平頼恕(よりひろ)の江戸詰めの近侍として仕えます。頼恕は水戸藩の出身で、水戸9代藩主・徳川斉昭(なりあき)はその実弟にあたります。
 水戸藩では、学問好きの光圀のときから「大日本史」の編纂事業に着手しており、この事業を続けて行く間に、藩内では次第に、後にいわゆる水戸学と呼ばれる学問ができあがっていきました。水戸学は、18世紀の始め頃までは、儒学の大義名分の見地から皇室崇拝を説く思想にすぎませんでした。
 ところが、8代・治紀(はるとし)から9代・斉昭の時代にかけ、藤田幽谷(ゆうこく)、会沢正志斉(あいざわせいしさい)、藤田東湖(とうこ)たちが現実の政治、経済の問題を取り上げ、封建支配が長期にわたって続いたために現れてきたほころびに対して、ゆるんだ忠道徳の喚起を強調し、天皇の伝統的権威を背景にしながら、幕府を中心とする国家体制の強化によって、日本の独立と安全を確保しようと主張しました。これにより従来からの尊王論と攘夷論が結び付けられ尊王攘夷思想が形成されました。
 斉昭自身も熱心な尊王攘夷論者で、藩校として弘道館を設け、藤田東湖などを登用して藩政の改革を推進します。しかし、尊王攘夷思想は、開国以後、幕府に国家目標を達成する能力が失われてしまったことが明らかになるにつれ、反幕的色彩を強めていきます。

 斉昭の兄の松平頼恕も水戸出身らしく、「大日本史」の続編ともいえる歴代天皇の事績を編年体で記した「歴朝要紀」の編集や、崇徳上皇の遺跡を整備するなど、水戸光圀の流れをくむ学問・思想を踏襲します。また、久米通賢の建議を取り入れて坂出塩田を開くなど藩財政の建て直しにも努めています。
 長谷川宗右衛門は、頼恕の江戸詰め近侍として仕えることになった頃から、徳川斉昭の側近に仕える藤田東湖をはじめとする水戸の勤王家たちと接触し、尊王思想を深めていきます。宗右衛門の感化によりその息子の速水と甥の松崎渋右衛門も勤王家として育っていきます。渋右衛門は水戸弘道館でも学んでいます。
 天保13年(1842)、高松藩では、水戸出身の頼恕の後、松平頼胤(よりたね)が10代藩主になります。頼胤にとって水戸の徳川斉昭は義理の叔父に当たります。

 嘉永6年(1853年)6月、ペリーが浦賀に来航し、国内は開国論と攘夷論に分かれます。幕閣保守派の一角を占める頼胤は開国止むなしとする立場にたち、攘夷を主張し幕政を非難してその改革を要求する斉昭と対立していきます。
 一方、斉昭に心酔する長谷川宗右衛門は、安政2年(1855)、「海防危言」(かいぼうきげん)を著して斉昭や越前藩主・松平慶永(よしなが)、公卿の三条実方(さねつむ)に献じ、翌年には尊王論者の梁川星巌(やながわせいがん)、頼三樹三郎(らいみきさぶろう)、梅田雲浜(うめだうんびん)らと接触します。
 将軍継嗣問題も絡み高松藩と水戸藩の対立は極めて険悪となっていき、当時江戸詰めをしていた宗右衛門は両藩の確執を解くため懸命に奔走します。しかし、斉昭寄りだということでかえって頼胤の怒りに触れ、安政4年(1857)、ついに、同じく江戸詰めをしていた甥の松崎渋右衛門とともに帰藩のうえ謹慎を命じられます。

 翌安政5年(1858)6月、大老井伊直弼は朝廷の勅許を受けずに日米修好通商条約に調印します。これに端を発し、幕閣保守派と徳川斉昭ら攘夷派との対立は抜き差しならない深刻な状況となります。
 同年8月、高松で謹慎中の長谷川宗右衛門は脱藩して京都に向い、そこで数日滞在して梅田雲浜、頼三樹三郎、月照らと密かに会合した後、江戸に向かいます。数日後、雲浜が幕府に捕縛され、安政の大獄が始まります。その後、頼三樹三郎、橋本左内、吉田松陰らの勤王志士が次々と捕縛されて江戸に送られ、伝馬町の獄などで詮議を受けた後、切腹・死罪など過酷な刑に処せられていきます。
 宗右衛門に対しても、高松藩が追捕を幕府に依頼し、探索の手がのびてきます。宗右衛門は江戸から水戸へ行き潜んでいました。このとき、息子の速水も高松を脱して水戸に向かい、親子は水戸でしばらくぶりの対面を果たします。しかし、親子はたちまち別れ、速水は父の助命を嘆願するため江戸藩邸に自首します。
 一方、宗右衛門は丸岡淪(しずむ)と変名し、京都に潜入します。しかし、勤王の同士たちが捕らえられたこと知り、ついに大坂藩邸に自首します。宗右衛門は江戸に護送され、速水とともに、伝馬町の獄に繋がれます。また、高松に居る甥の松崎渋右衛門も不遇の日が続きます。

 このとき、江戸の伝馬獄には吉田松陰がすでに繋がれていました。松蔭は、萩で松下村塾を開いたことでよく知られています。速水は松蔭と同じ西揚場に留置されます。しかし同じ獄にいながら言葉を交わすことはできませんでした。
 松蔭はのち処刑されますが、その前々日から前日にかけて「留魂録」(りゅうこんろく)という遺書を弟子たちに残しています。この中で、松陰は、宗右衛門と牢獄で行き違ったとき、彼が独り言のようにして言った次の言葉を書きとめています。
 「讃の高松の藩士長谷川宗右衛門、年来主君を諫め、宗藩水家と親睦の事につきて苦心せし人なり。東奥揚り屋にあり、其の子速水、余と西奥に同居す。この父子の罪科何たる未だ知るべからず。同志の諸友、切に記念せよ。余始めて長谷川翁を一見せしとき、獄吏左右に林立す。法隻語を交ふることを得す。翁独語するものゝ如くして曰く、『寧為玉砕勿為瓦全』と、吾甚た其の意に感ず。同志其之を察せよ。」
 「寧為玉砕勿為瓦全」とは、「寧(むし)ろ玉(ぎょく)となりて砕(くだ)くるとも、瓦(かわら)となりて全(まった)かるなかれ」と読み、自分の命を全うするために、つまらない瓦となって長生きをするよりも、むしろ玉となって玉砕しなさい、すなわち、平々凡々と人生を終わるも良いが大義のために終わることはもっと大事であると、という意味です。勤王の志を同じくする者として、宗右衛門の言葉に松蔭はいたく感じ入ったのでしょう。
 安政6年(1859)10月、宗右衛門、速水の親子は、ともに高松に帰され、鶴屋の獄に移されます。翌年の万延元年(1860)、速水は獄中で血を吐いて亡くなりました。

 安政の大獄により、幕府は一時的に尊王攘夷派の勢力を削ぐことができましたが、結果は、その意に反し、水戸藩、薩摩藩を攘夷へ、尊王派の志士達を討幕の道へと駆り立てていくことになります。
 万延元年(1860)、井伊直弼は桜田門外の変により暗殺され、翌年、頼胤は病を理由に隠居して家督を頼聰に譲ります。さらに、文久2年(1862)1月には坂下門外の変が起こり、幕府保守派の力が衰えていきます。同年11月、長谷川宗右衛門は赦免されて出獄します。また、甥の松崎渋右衛門も家老となって再び活躍の機会が与えられます。
 しかし、元治元年(1864)7月蛤御門の変が起こり、尊王攘夷派の長州藩が朝敵となるとまた情勢が一変します。渋右衛門は家老を罷免されて閉門蟄居を命じられ、翌年の慶応元年(1865)2月には頼聰(よりとし)を廃するという謀反の嫌疑をかけられて鶴屋の獄に繋がれます。
 その後の慶応4年((明治元年)1868)1月、鳥羽伏見の戦いが勃発すると、高松藩は朝敵となり、宗右衛門は朝廷や長州藩との周旋嘆願に奔走します。しかし、かえって藩内保守派の中傷を受け、再び囚われの身となります。
 宗右衛門が出獄を許されたのは、明治2年(1869)2月のことです。同じ頃、甥の渋右衛門も出獄し、藩政に復帰して、神櫛王陵を修復し、満濃池を修築するなどの施策を進めます。しかし、同年9月8日、渋右衛門は藩内保守派の不満分子により、高松城内桜の馬場で謀殺されました。
 明治3年(1870)、速水と渋右衛門を失った宗右衛門は、皇居を拝してから死にたいと、病身の身をおして船で大坂に向かいますが、その途上、68歳で亡くなりました。
 高松藩では渋右衛門の死を自殺として隠蔽していましたが、その後の明治新政府の取調べにより、それは藩内保守派による謀殺だということが発覚し、明治4年4月、謀殺に関与した高松藩士が新政府により処断されました。時代の変わり目に起きた事件とはいえ、佐幕派が主流派を占めていた高松藩内で勤王の立場を貫くことは命がけのことだったことが伺えます。

 なお、この記事をお読みになるに当たっては、次の記事も参考にしてください。
(24)“西郷隆盛と入水自殺した幕末の勤王僧
(27)“井伊直弼と徳川斉昭との板挟みにあった高松藩主
(28)“最後の高松藩主は最後の将軍徳川慶喜の従兄弟

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(103)“江戸の玉川上水より早く整備された高松城下の上水道”

 江戸時代、玉川上水は江戸城下の飲料水を供給する貴重な水源でした。現在の羽村市から新宿区四谷大木戸までの43kmが露天掘りで、四谷水番所から木樋や石樋などで地下水道となる本格的な上水道でした。この上水は、玉川庄右衛門と清右衛門の兄弟が私財を投じて工事を行い、開削工事を承応2年(1653)の4月4日から11月15日までに完了させ、翌年から江戸市中へ通水を開始したものです。
 高松城下では、この玉川上水より9年も早い時期の正保元年(1644)に、配水管を地中に埋めた本格的な上水道の敷設工事が行われています。
 瀬戸内海式気候の下にある讃岐は年間の降水量が少なく、昔から水不足に悩まされてきました。このため各時代の為政者も水の確保に並々ならぬ努力を傾け、空海の満濃池修築、菅原道真の雨乞いなど水にまつわる多くの物語が残っています。
 
 寛永19年(1642)、高松藩の初代藩主となった松平頼重は、生駒藩の後を受けて高松城に入りました。ところが、その翌年の夏の讃岐は日照り続きで、灌漑(かんがい)用水はもとより、城下では飲み水にも事欠くありさまでした。これをみた頼重は、正保元年(1644)、飲料水に乏しく困っている城下の住人のために上水道を敷設することとします。
 飲み水の水源地として使われたのは、城下の南はずれにある水田の灌漑用に利用されていた辻丸井の湧き水でした。この湧き水は、その大きさがほぼ東西18m・南北36mあり、湧き水の出る穴が甕(かめ)の形をしていたところから甕井(亀井)霊泉と呼ばれ、現在の亀井町という地名の由来になりました。
 そして、ここから地中に水道管を埋設して侍屋敷や町屋などの井戸まで水を導きました。その導水の原理は、井戸の水を汲むことによりその水位が下がれば、水源から井戸まで水が樋管を通って自然に流れ込むという水の性質を利用したものでした。
 水道管には、松材で作った内径約10cm四方正方形の木樋(もくひ)や竹樋を用い、それを土管や約40cm四方の箱桝(はこます)でつなぎました。そして、この水道管を地下約1.5mの深さに埋設して暗渠(あんきょ)としました。
 正保元年に造られた高松城下の上水道は、本格的なものとしてはわが国初めてのものといわれており、同じ本格的な江戸・玉川上水より9年も早い敷設でした。

 伝承では、松平頼重の命令によりこの上水道の敷設工事に携わったのは、矢延平六(やのべへいろく)だといわれています。平六は、慶長15年 (1610) の生まれで、頼重が常陸国(今の茨城県)の下館藩主をしていたときから仕え、寛永19年 (1642) に讃岐国高松に国替になったとき、頼重にしたがって高松に来たといわれています。平六は、身分は低かったようですが、優秀な土木家であり、生駒藩時代の西嶋八兵衛の後を受けて、ため池の築造工事に大きな功績を残しています。
 正保2年(1645)、讃岐は「正保の旱魃」といわれるたいへんな日照りに見舞われました。そこで、松平頼重は平六に命じて領内の溜池・導水路などの築造・改修を行わせています。讃岐では生駒藩時代までに966のため池が造られていたようですが、松平藩時代になって406のため池が造られたといわれています。その多くは頼重時代に平六が中心となって造られたものといわれています。平六が築いたといわれる主なため池は、新池(高松市香川町)、仁池(丸亀市飯山町)、楠見池(丸亀市飯山町)、北条池(綾川町綾南)、羽間池(高松市牟礼町)、小津森池(綾川町綾歌)、城池(高松市植田町)、宮奥池(東かがわ市白鳥町)などです。

 讃岐の水普請に大きな功績を残した矢延平六ですが、高松市香川町浅野にある新池の築造について次のような伝承が残されています。
 高松藩では、荒廃地の多い浅野村の開墾に着手しましたが、土地の高低差が大きいため灌漑に困っていました。そこで、寛文年間(1660~1670)に藩がため池を築造することになりました。平六は、大川原某および篠原某と話し合い、川東上村を流れている香東川の水を引いてくることとしました。そして多くの労力を費し、ついに川内原に面積26町歩にわたる新池を築きました。農民たちの喜びもひとしおでした。
 ところが、ため池工事の規模を必要以上に大きくして藩費を浪費したということで、平六は国外追放の罪を受けて阿波藩 (徳島)に亡命します。伝承では、平六がこの池を築いたのは「高松城を水攻めにするためである」と藩主に讒言(ざんげん)をした者があり、それによって平六は裸馬に乗せられて阿波の国に追放されたともいわれています。その日は、旧暦8月3日だとされています。平六を慕う農民たちは行き先を探しますが分かりませんでした。そこでせめてその恩に報い、これを後世に伝えようと新池を見下すことができる高塚山頂に小さい祠を建てて平六を神として祀ったということです。これが今の新池神社だといわれています。
 その後、平六は再び高松藩に23石2人扶持で仕え、貞享2年(1685) 7月1日に76歳で死去したとされています。
 新池のある地元では、旧暦の8月3日に、高塚山から新池までの間を、神輿の渡御と扮装した人がおどけながら練り歩く「ひょうげ祭り」が今も行われています。これは平六の慰霊にちなむものだといわれています。

 江戸時代の高松上水道は、初めはごく限られた地域で敷設されただけでしたが、城下町が広がるにつれて、次第に給水区域が広げられていきました。新たな水源地として西瓦町の大井戸や外磨屋町の今井戸などが設けられ、そこに石清尾山の自然の伏流水と今の栗林公園の北にあった霊源寺池などの水が導水され、さらにそこから城下に配水されました。
 しかし、高松の水不足がこれで解消されたというわけではなく、その後も、特に夏季には水不足に悩まされました。城下の町に水を売って歩く、水売りの姿がみられ、讃岐の独特の風情をつくっていました。
高松において近代的な上水道が敷設されるのは大正時代に入ってからです。香東川の水を水源として西方寺山の配水池へ揚水し、市内に配水されました。大正3年の末に工事にかかり大正10年11月3日完成し、通水式が行われました。

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(100)“妖怪と怨霊の話に満ちた瀬戸内海を望む五つの色をした山”

 香川県は扇の形をしていますが、この扇の頂上に当たるところは、五色台という山塊になっています。この山塊は瀬戸内海に突き出たメサと呼ばれる溶岩台地で、紅、黄、青、白、黒の五つの峰から成り立っており、瀬戸内海国立公園にも指定された自然豊かなところです。また、四国霊場札所が2箇寺あり、古くから怨霊と妖怪の物語が伝えられています。

 五色台の呼び名のおこりには諸説があります。一説によると、いちばん北にあり海に臨んでいる峰(245m)は朝日や夕日が海に照り映えて紅色に輝くから紅峰、その南の峰(174.9m)は秋に霜で樹々の色が黄色になるから、または、おみなえしの花の色で黄色くなるから黄峰、その西の峰(375m)は黒い岩があり黒岩の峰がつづまって黒峰、その南の峰(449.3m)は冬になっても青いから青峰、その西の峰(336m)は山が深くて雪がなかなか消えないから白峰という、といわれています。
 また、中国古来の陰陽五行記(いんようごぎょうき)に基づくという説もあります。この思想は、世界は陰陽二元の和合により木火土金水の五行を生じて万物ができたと考えます。この五行を中央と東西南北・春夏秋冬・各月・五色に配当し、東は1・2・3月の春で木に当たり青、南は4・5・6月の夏で火に当たり赤、西は7・8・9月の秋で金に当たり白、北は10・11・12月の冬で水に当たり黒、中央は土に当たり黄とします。
 また、密教の教義に基づくという説もあります。白峰は平安時代以後真言密教の道場的霊山として、多くの僧が山頂を巡って修業をしていたところです。その頃、山塊の各方位の峰を、密教五仏になぞらえて、黄を中心に青、赤、白、黒の五色を配して黄峰、青峰、赤峰、白峰、黒峰と呼んだといいます。その他、五つの尾根の土壌の色が各々異なるからとか、5種類の石が掘り出されたからという説もあります。

 平安時代より、天災等の厄災は、怨みを持って死んだ人の怨霊のしわざと考え、それを畏怖し鎮めて祟りを免れ、あまつさえその霊力を借りようという信仰が盛んになりました。これを御霊信仰(ごりょうしんこう)といいます。怨霊になったと信じられた歴史上の人物の中でも、菅原道真平将門崇徳上皇の三人が日本三大怨霊といわれており、各時代を通じて文学、芸能等の題材としても採り上げられてきました。この三人のうち、讃岐は菅原道真崇徳上皇の二人と非常に深い縁があり、崇徳上皇の怨霊物語は白峯を舞台とするものです。
 江戸時代後期の安永5年(1776)、「雨月物語」(うげつものがたり)という読本(よみほん)が刊行されました。著者は上田秋成(うえたあきなり)という大坂生れの医者で、5歳の時に天然痘にかかったため指が不自由だったそうです。秋成は医者をしながら賀茂真淵門人の加藤宇万伎に師事して国学を学び、数々の著作を書いたり、本居宣長と論争を行なったりもしています。江戸時代後半、18世紀半ばから19世紀半ばまでの約100年間の文化を「化政文化」といいますが、秋成はこの時代を代表する文人の一人です。
 雨月物語という本の名は、雨が晴れ、月がおぼろにぼんやりと輝く夜、窓の下で本を編成したことに由来するといいます。この中に収められている物語には、「白峯」、「菊花の約」、「浅茅が宿」、「夢応の鯉魚」、「仏法僧」、「吉備津の釜」、「蛇性の婬」、「青頭巾」、「貧福論」の9篇の短編がありますが、その内容は、生霊、死霊、蛇精、金霊、魔王など数多くの怪しい存在が跋扈するという怪異物語です。
 その中の一つ「白峯」は、仁安3年(1168)、西行法師が讃岐の白峯に崇徳院の陵墓を訪れたとき、恨みと憤怒のあまり魔界の大魔王となった院の亡霊に出会うという物語です。その姿は、ひどく煤けた柿色の衣をまとい、髪は茫々で膝まで伸び、手足の爪は獣のように生え伸び、朱色の顔に白い目を吊り上げて灼熱の息を苦しそうにつき、みすぼらしいが恐ろしい魔王のような様子として描かれています。
 この崇徳上皇の怨霊は、化政文化を代表する文人の一人である滝沢馬琴の「椿説弓張月(ちんせつゆみはりづき)」の中でも登場しています。この物語は、保元の乱に敗れた源為朝を主人公にした伝奇ものですが、この中で、崇徳院の怨霊は為朝が危機に陥ると救いに現れる守護神的存在として描かれています。

 また、白峯には「相模坊(さがんぼう)」という天狗が住んでいるという伝承があります。上田秋成もこの天狗を崇徳院に侍る存在として雨月物語に登場させています。相模坊は、室町時代の初め、琵琶湖を望む大津の三井寺で修行をしていた相模坊道了という僧が、ある夜、突如として天狗となって飛び去り、はるか小田原(神奈川県)の大雄山最乗寺に降り立ち、その後、院の配流を知り、その霊を慰め鎮守するため讃岐の地へ飛び立ち“白峯相模坊”となったと伝えられています。日本の各地には色々な天狗伝承が伝わっていますが、中でも白峯相模坊は、相模大山の伯耆坊(神奈川)、飯縄山飯綱の三郎(長野)、比良山次郎坊(滋賀)、愛宕山太郎坊(京都)、鞍馬山僧正坊(京都)、大峰山前鬼坊(奈良)、英彦山豊前坊(福岡)とともに、日本八大天狗の一に数えられています。

 青峰の四国霊場82番札所・根香寺(ねごろじ)には、「牛鬼」(うしおに)という伝説が残っています。寺の名は、この山にあった枯木の根が香気を出していたことに由来し、さらに、その香気が渓に流れ入って川の水が香しくなったことからその川が香川(かがわ)と呼ばれるようになり、それが郡名となり、今日の香川県という県名になったともいわれていま
す。
 牛鬼伝説というのは次のような物語です。戦国時代の元亀年間(1570~1573)の頃、青峰山に牛鬼と呼ばれる怪獣が住んでいて、麓の人畜を害していました。村人の願い出により、領主の香西佳清が、香川郡井原郷安原(現在の高松市塩江町)の住人で、弓の名人といわれる山田蔵人(くらんど)高清に牛鬼の退治を依頼します。香西氏は、勝賀城を要城、佐料城を居館とし、香東、香西、綾南条、綾北条などの4郡を領有する鎌倉時代以来の讃岐の国人です。香西佳清はその十八代目の当主です。
 蔵人は、青峰山に行きあちこちと探しましたが、牛鬼は出没自在でどうすることもできません。そこで根香寺にこもり、怪獣が現れるよう、断食して一心に祈り本尊に願をかけました。すると満願の日、蔵人は千尋が嶽の下の鬼が原で、眼光のするどい、毛むくじゃらのクマのような怪物に出会いました。素早くねらいを定めて続けざまに矢を射たところ、三の矢が、牛鬼の口の中に刺さり、ギャーと悲鳴をあげ、姿を消しました。血の跡をたどっていくと、定が渕というところで異様な怪物が死んでいるのを見つけました。そこで高清は、牛鬼の角を切り取り、香西佳清から褒美にもらった米を添えて、根香寺に奉納したということです。
 その後、香西佳清は、天正10年、長宗我部元親による讃岐侵攻に際して激戦の末に降伏します。次いで天正13年、豊臣秀吉の四国征伐に敗れて下野し、ここに香西氏は滅びました。しかし、根香寺には今も牛鬼のものといわれる角と、牛鬼の姿といわれる絵が残っています。
 五色台には今も豊かな自然が残り、怨霊と妖怪の物語に満ちた神秘的な雰囲気を醸し出しています。

参考記事
(40)“保元の乱に敗れて怨霊となった崇徳上皇
(47)“崇徳上皇を偲び来讃した西行法師
(49)“長曽我部元親が四国制覇の野望をいだいた山

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(84)“小石川後楽園を大改造した高松藩主”

 東京ドームのすぐ近くにある「小石川後楽園」は、もと御三家のひとつ水戸藩の江戸上屋敷の庭園だったところです。いわゆる廻遊様式の江戸における最初の大名庭園といわれています。廻遊様式の庭園というのは、人が歩きながら変化に富んだ風景の移り変わりを楽しめるように、大きな池を中心にその周囲に樹木、花、石造物、建物などが計画的に配置されたものです。京都の桂離宮庭園がその代表例とされていますが、これに江戸の風土と大名の生活文化とが関わって生まれたのが大名庭園といわれています。

 小石川後楽園の歴史は古く、今から約380年前の寛永6年(1629)、第三代将軍家光のとき、初代水戸藩主の徳川頼房(よりふさ、家康の十一男)が将軍家から小石川に邸地を下賜されて造園に着手したのがその創始です。その後、徳川光圀(黄門)が寛文元年(1661年)に二代目藩主となり、完成させます。光圀は当時日本に亡命中だった明の遺臣朱舜水(しゅしゅんすい)に意見を聞き、中国様式も採り入れ造園しました。 「後楽」という呼び名は光圀に命じられて舜水が選んだもので、宋の范文正(はんぶんせい)の書「岳陽楼記(がくようろうき)」の中にある、士はまさに天下の憂いに先んじて憂い、天下の楽しみに後れて楽しむという武士の嗜みである「先憂後楽」の思想に則ったものです。なお、岡山の後楽園は明治4年に名づけられたもので、それまでは城の背にあるので「後園」と呼ばれていたそうです。

 享保3年(1718)、水戸藩では、14歳の宗堯(むねたか)が四代藩主を継ぎます。宗堯の実父は第三代高松藩主の松平頼豊(よりとよ)です。頼豊は息子の宗堯が年少だったため水戸藩政を後見し、事実上の水戸藩主的な立場にあったようです。ちなみに高松松平家の上屋敷は、小石川橋を隔てて水戸邸の南向かいにありました。
 頼豊は宝永元年(1704)に第三代高松藩主になっていますが、この頃の高松藩の財政は余裕もあったようです。頼豊は栗林荘(栗林公園のこと)をことのほか愛し、桧御殿を増築して園内の所々に茶屋を作り、入口には諸番所、諸役所まで設け、在国中はほとんどここで過ごしたといわれています。また、桧御殿で能を催したりしています。

 さらに庭園好きの頼豊は、栗林荘だけでは満足できなかったようで、水戸藩の小石川後楽園も自分の好みに大改造しています。当時すでに創始から100年近くを経た後楽園は、樹木が繁茂し、鬱蒼としていたと思われます。この景観が瀬戸内の明朗な自然の中にある栗林荘の風致に馴染んでいた頼豊の眼からすれば、陰鬱に見えたのでしょう。
 頼豊は宗堯に指示して、後楽園の景観の見晴らしをよくするため、高木700余本を伐採し、大泉水のほとりの護岸石組みを崩して石積みに改め、険しく聳え立つ奇石をすべて取り払い、古木もほとんど切り払ってしまいます。また、高松の石清尾八幡を勧請し、金毘羅大権現を祀り、讃岐風のものを後楽園に持ち込んでいます。
 この享保時代の大改造により、創始以来の後楽園の景観は一変したといわれており、水戸家に仕える者の中には、表向きの批判は口にしなくても、「ここにおいて園中の絶勝大いに変ず」と、内心大いに憤懣を抱いた者があったようです。

 幕末になって文政11年(1819)斉昭が九代水戸藩主になると、創造時代の方針に従って後楽園を旧に復すことに努めますが、安政の大地震で多大の被害を受けます。明治維新後は陸軍の秘園として保存されますが、関東大震災の時、唐門・西行堂・九八屋・得仁堂を除き園内の建造物は総て焼失しました。さらに残ったものも、アメリカ軍の空爆で得仁堂以外は全部焼失し、現在も復元されていません。
 水戸藩上屋敷は最大時で約8万7783坪(約29ヘクタール)でしたが、現在残っている後楽園の面積は約2万坪だといわれています。これに対して、栗林公園は約23万坪の総面積を持ち、大きな災害などにも遭わなかったことにより、約400年といわれる歴史を経てもなおお庭の国宝といわれるにふさわしい景観を保ち続けています。

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(79)“田沼時代と寛政の改革時代に活躍した二人の讃岐人”

 江戸時代中期の1767年、田沼意次は10代将軍家治の側用人に就任し、享保の改革以来の殖産興業を継承するとともに、商業資本の積極的導入を図りました。銅・鉄・真鍮・朝鮮人参・朱の専売制の開始、株仲間の奨励による運上・冥加収入の増加政策、長崎貿易の拡大と金銀の流出防止策による貿易収入の拡大政策、蝦夷地の開発計画などを次々に推進しました。
 しかし、その重商主義政策は、商業奨励の反面、賄賂の横行による金権政治の風をまねき、門閥譜代層や親藩の反発をかいました。そうした中、天明の大飢饉や浅間山大噴火などの天災が頻発したことから社会不安が広がり、意次の子で若年寄の意知(おきとも)が江戸城中で暗殺されるという事件を機に1786年老中退任を余儀なくされます。意次が幕府の実権を握っていたこの20年間を田沼時代といいます。
 その後、11代将軍に家斉(いえなり)がつくと、松平定信が老中に就任し、1787年から1793年にかけて寛政の改革が行われます。この時代は田沼時代とはまったく反対の施策が実施され、武士の士風をひきしめるため、質素倹約と文武が奨励され、賄賂や風俗の乱れなどの社会の不正を正すという「クリーンな政治」の実現が目標とされました。「白河の清きに魚もすみかねて もとのにごりの田沼恋しき」は寛政の改革を皮肉った狂歌ですがこの歌に対照的な両時代を読みとることができます。
 この田沼時代と寛政の改革時代にそれぞれ活躍した讃岐人がいました。平賀源内柴野栗山です。

 宝暦11年(1761)2月、高松藩に2度目の辞職願いを提出した源内は、半年後に高松藩を辞することを許されました。34歳のときです。ただし、その許可には「他家への仕官構う」という他藩への仕官を禁ずる条件が付けられており、以後源内は生涯を浪人として暮らさなければなりませんでした。
 後に、高松藩家老の木村黙老は、辞職願いを出した源内の心境を、「源内はもと足軽の子だから、登用せられても同僚達が彼を侮蔑し、また君寵を得たるも妬殺するためだ。」と書いています。あの有名な源内がキセルを右手で構えた絵は黙老の作です。
 自らの手で高松藩との縁を断ち切った源内は、まず、本草学者・物産学者として引き続き行動します。宝暦12(1762)、35歳のとき、第5会の物産会を主催して大成功を収めます。さらに、翌年にはこれまでの物産会の成果をまとめて「物類品隲」(ぶんるいひんしつ)を刊行します。この本は、我が国の本草学や博物学に新時代をもたらす記念すべき書物だといわれています。度々の物産会開催により江戸における源内の知名度は上がり、杉田玄白らとも交友します。玄白の回想録である「蘭学事始」にも源内との対話に関連する章があります。
 また源内は、技術家・企業家として鉱山開発などを始めます。高松藩を辞した年の秋には、伊豆山中で芒硝(ぼうしょう)(硫酸ナトリウム)を発見し、商品経済を発展させようとする政策を進める田沼意次とのつながりも得て、幕府から芒硝御用を命じられています。明和元年(1764)、37歳のときには、秩父の中津川山中で石綿を発見し、火浣布(かかんふ)を創製して将軍や意次に献上しています。そして明和3年には、中津川で金山事業に着手します。

 一方で、源内は、戯作者(げさくしゃ)として作家活動も始めています。高松藩を辞した年に書いた随筆「木に餅の生る弁」が好評で、宝暦13(1763)、36歳のときには、「風来山人」のペンネームで「根南志具佐(ねなしぐさ)」、「風流志道軒伝」をあいついで刊行し、当時のベストセラーになっています。これらは世態・世相をうがい作者の批判を加え、滑稽にあるいは教訓的にした読物で、今でいう小説ですが、当時は「談義本」といわれていました。
 「根南志具佐」は、歌舞伎役者が隅田川へしじみを採りに行きおき、溺れ死んで地獄で大騒ぎを起こすという物語です。「風流志道軒伝」は、主人公の浅之進が小人の国や女ばかり住んでいる女護ガ島など多種多様な国々を遍歴するという物語で、「ガリバー旅行記」との類似性も指摘されているそうです。
 その後も源内は、「萎陰隠逸伝(なえまらいんいつでん)」、「根無草後編」、「里のをだ巻評」、「放屁論(ほうひろん)」、「天狗髑髏鑒定(しゃれこうべめきき)縁起」、「菩提樹之弁」、「飛んだ噂の評」など多くの談義本を晩年まで書いています。いずれも、源内を疎外した封建体制や社会の欠陥への痛烈な批判、風刺を滑稽、洒落、諧謔(かいぎゃく)を交えた内容で、仕官の道を絶たれた不平不満のはけ口だったのではないかといわれています。ペンネームも「風来山人」のほか、「天竺浪人」、「貧家銭内(ひんかぜにない)」、「桑津貧楽(くわずひんらく)」というふざけた名を使っています。
 さらに、源内は、明和4年(1767)、40歳のとき、「福内鬼外(ふくうちきがい)」のペンネームで、江戸浄瑠璃「神霊矢口渡(しんれいやぐちのわたし)」を執筆しています。この物語は、矢口の渡し舟の上で自害した新田義興の弟の義岑、遺児の徳寿丸、遺臣が、義興の魂魄の力や渡し守の娘お舟の身を捨てての助けをかりて、敵を倒し、義興は矢口の村の社に祭られるという話の筋で、大評判をとり、江戸浄瑠璃に一時期を画しました。その後も源内は、年に1作ずつ「源氏大草子」、「弓勢智勇湊」、「忠臣伊呂波実記」、「霊験宮戸川」等8編の浄瑠璃を発表しています。
 源内がこのように、談義本から浄瑠璃まで手を出すようになったのは、名声を得ようと野心だけでなく、浪々の身を養う生活費の捻出と鉱山開発で必要となった金策にあったといわれています。

 秩父の中津川での金山開発は結局失敗し、源内は心機一転を図って、明和7年(1770)、43歳のとき、田沼意次の世話で、幕府から阿蘭陀(おらんだ)翻訳御用の役を得て、18年ぶりに再び長崎に1年あまりの遊学をします。この2回目の長崎遊学では鉱山の採掘や精錬の技術を学んでいます。
 このとき、壊れたエレキテルを通訳から譲り受けて江戸に持ち帰り、その後7年の歳月をかけて復元をしています。また、「西洋婦人図」を描いています。
 また、長崎からの帰途、郷里志度に立ち寄り、源内焼の陶法を伝えています。なお、源内を見いだした高松藩主松平頼恭が没したのは明和8年7月、源内44歳のときです。
 江戸に戻った源内は、安永2(1773)、46歳のとき、中津川で今度は鉄山事業に着手します。また、秋田藩に招かれ、鉱山再開発の指導にも当たります。このとき、秋田藩主佐竹曙山と藩士小田野直武に洋画を伝え、司馬江漢らと親交しています。
 しかし、中津川での鉄山開発は製錬技術の未熟さなどにより、翌年の安永3年には閉山に追い込まれます。それでも抜け目のない源内は、そこの豊富な森林資源に着目し、今度は木炭の生産を始めます。一時は好調でしたが、資金不足で頓挫していまいます。
 この頃、もう50の坂を越そうとしていた源内は、知人に「古今の大山師と相成り申し候」と言っていたそうです。

 源内が発明・発見したものは、量程器(今の万歩計)、磁針計、寒暖計、火浣布、エレキテルなど100以上といわれています。また、土用の丑の日に鰻を食べるという風習は、売り上げ不振に悩んだ鰻屋に請われて源内が考案したといわれています。明和6年(1769)にはCMソングとされる、歯磨き粉「漱石膏」の作詞作曲を手がけ、さらに、安永4年(1775年)には音羽屋多吉の清水餅の広告コピーを手がけてそれぞれ報酬を受けており、源内は日本におけるコピーライターのはしりだとも評されています。
 このような多彩な活躍をした源内ですが、晩年には「功ならず 名ばかり遂げて 年暮れぬ」と、野心が満たされず世に入れられない自分をしみじみと省みて吟じています。
 安永7(1778)、源内はあやまって人を殺傷して投獄され、翌年獄死します。辞世の句は「乾坤の手をちぢめたる氷かな」です。享年52歳でした。杉田玄白の手になる墓碑には、「嗟非常人、好非常事、行是非常、何死非常」(ああ非常の人、非常のことを好み、行いこれ非常、何ぞ非常に死するや)と刻まれています。
 源内は殖産興業が中心だった田沼時代の申し子のような人物だといえるでしょう。意次の政策に源内の懸案によるものもあったかも知れません。二人とも早く生まれすぎたため、他に理解してもらえず不遇の生涯を送ったところも似ています。このためか、源内は後年逃げ延びて、意次の保護下に天寿を全うしたという伝承も残っているそうです。

 源内が亡くなってから8年後の1786年に田沼時代は終わり、翌年、白河藩主であった松平定信が老中に就任して寛政の改革が始まります。定信は倹約を奨励し、風紀をひきしめ、幕府の財政難を救うと同時に儒学の振興も積極的に図ろうとします。このような目的を持つ定信が自己の顧問として、まず第一に抜擢したのが芝野栗山でした。栗山は、1788年(天明8年)53歳のとき、儒者として採用され、定信の知恵袋として幕政に大きく貢献しました。その代表的な例が「寛政異学の禁」の建議です。栗山は、1807年72歳で病に倒れるまで20年間、幕府の儒官として長く仕官しました。
 このような大学者であった栗山ですが、その著作は意外に少なく、彼の死後編まれた「栗山堂文集」と「栗山堂詩集」とがあるのみです。「栗山堂文集」は天保13年の刊行で広く流布したようですが、「栗山堂詩集」の方はなんと明治39年の発刊だそうです。
 これは栗山自身が積極的には著作をしない主義だったことによるようで、ある時友人に問われて、「書を著するのは人に役立てるためであるから、自分のようなつまらぬ学者がいい加減な本を書くとかえって人の害になる」と答えています。

 源内をキーワードで表現するとすれば、「田沼意次」、「反体制的」、「商工業重視」、「多才」、「多筆」、「短命」、「非業の死」といえます。これに対する栗山のキーワードは、「松平定信」、「体制的」、「農業重視」、「その道一筋」、「寡筆」、「長命」、「往生死」と、なにからなにまで正反対です。しかし、この2人の間には意外な共通点があり、また接点があります。
 源内も栗山も同じ讃岐生まれで、しかも、志度と牟礼という隣村の出身です。源内の先祖は元は牟礼に住んでいたといわれていますから、ほとんど同郷だといえるでしょう。
 源内は、宝暦6年(1756)3月、29歳のとき江戸の昌平黌に入門して湯島聖堂に寓居していますが、一方、18歳の栗山は、源内より3日前に昌平黌に入っています。このとき、栗山は源内について、「学術は無き人なり」と手厳しい評をしています。栗山のように学問で身を立てようと志している者から見ると、学問も実利のためと考えていた源内は野心に満ちたうさんくさい俗物に見えたのでしょう。逆に、源内からすると、すでに長崎遊学も経験しており、藩の役目も辞し家督も譲って背水の陣で江戸に出てきていたわけですから、栗山は勉強しか知らない青臭い小生意気な若造と映ったことでしょう。
 遠く郷里を離れた広い江戸で。年齢こそ違え、同じ学校で勉強をしていれば、普通は仲良くなり助け合うものです。2人は全く考えが合わなかったのでしょう。
 ほぼ同時代に、讃岐からこのように対照的な人物が出、しかも、中央で活躍したということは興味深いことです。

 この記事を読まれる場合には、次の2つの記事を参考にして下さい。
(78話)“高松藩を二度辞職した平賀源内
(55話)“松平定信のブレーンだった讃岐出身の儒学者

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(78)“高松藩を二度辞職した平賀源内”

  平賀源内(ひらがげんない)は江戸時代の中期に活躍した人で、本草学者、蘭学者、発明家、美術家、文芸家、鉱山師など多技・多芸・多才な顔を持ち、日本のレオナルド・ダ・ビンチと呼ばれています。源内は本草学(植物学)から始めて、地方特産品を集めた展示会の開催、世評風刺から浄瑠璃戯作・滑稽本の著作、化学薬品の調合、西洋油絵の制作、石綿による防火布や源内織りなどの織物等の工芸品の製作、地質調査と鉱山開発、水運事業等など、ありとあらゆる分野に先鞭をつけてそれらを企画開発しました。その際たる物が「エレキテル」でした。

 源内は八代将軍徳川吉宗の時代の享保13年(1728)、高松城下の東に当たる寒川郡志度浦(現在の香川県さぬき市志度)で生まれました。幼名を伝次郎、四方吉(よもきち)といい、元服して国倫(くにとも)といいました。源内というのは通称です。父は白石茂左衛門(良房)といい、高松藩の志度御蔵番(おくらばん)を務め、一人扶持切り米三石の足軽でした。
 源内の遠祖は「太平記」に出てくる平賀三郎国綱(くにつな)といい、その子孫ははじめ信州にいましたが武田信玄に滅ぼされ、その後仙台伊達家に仕えました。そのとき奥州白石(現在の宮城県白石市)に住んだことから白石姓を名乗っていました。その後、伊達家の一族が宇和島に移封されたとき、それに従って四国にやって来ました。しかし、讒言にあい宇和島を追われ讃岐国に逃れてきたといわれています。高松藩の家臣となったのは、源内の曽祖父が、初代松平頼重のとき、高松藩の御藏番に召し上げられてからです。
 源内は少年の頃から利発で書物をよく読み、また色々なことを調べるのが好きだったようです。12歳の頃には掛け軸に細工をした「御神酒(おみき)天神」を作り、天狗小僧の異名をとっています。13歳からは阿野郡南の陶の三好喜右衛門に見込まれ本草学、医学、焼き物を学んでいます。源内と本草物産学との結びつきはここから始まります。また儒学も学んでいます。

 その頃の高松藩主は第五代目の松平頼恭(よりたか)でした。頼恭は正徳元年(1711)、奥州守山藩2万石の(福島県郡山市)の領主松平頼貞の五男として生まれました。初代高松藩主松平頼重の弟・頼元の孫に当たり、元文4年(1739)、29歳のときに高松松平家の養子となりました。源内より17歳年上で、高松藩主となったのは源内が12歳のときです。
 頼恭が藩主となった頃、高松藩は深刻な財政危機に見舞われていました。このため頼恭は様々な藩政改革に取り組むとともに、人材を登用して殖産興業を進めます。讃岐三白のうち塩と砂糖の生産化に着手したのも頼恭です。後に高松藩中興の祖と呼ばれる所以でもあります。
 また、頼恭は学問好きで、特に博物学に造詣が深く、寛延元年(1748)ごろ、紫雲山の麓にあった藩の薬園を、「御林(おはやし)」と呼ばれていた栗林荘(現在の栗林公園)内に移し、その整備を行っています。
 源内の評判は高松城下にも聞こえていたと思われ、頼恭は源内を志度から呼び寄せ、藩の薬坊主(やくぼうず)として取り立てます。源内が19歳頃のときです。源内は栗林荘にあった薬草園の世話や図譜づくりの手伝いをしていたようです。博物趣味の頼恭はよく薬草園に出かけて行ったそうで、源内とも直接のやりとりがあったと考えられます。

 寛延2年(1749)22歳のとき、源内は父の死により御蔵番を継ぎます。そして白石姓を平賀姓に改めます。一方この頃、渡辺桃源ら志度の俳諧グループに属し、李山と号して俳句を行っています。
 宝暦2年(1752)25歳のとき、源内の生涯を変える出来事がありました。頼恭の引き立てにより、その援助を受けて長崎に1年余り遊学したのです。当時、足軽の身分で藩から長崎遊学を許されるというのは異例だったのではないかと思われます。頼恭は若者の才能を見込んで、それを取り立てるという才覚のあった人です。この遊学で源内は本草学とオランダ語、医学、油絵などを学び、蘭学という新しい世界に好奇心をたぎらせ、讃岐から出て飛躍したいという大望を抱いたようです。

 宝暦4年(1754)27歳のとき、源内は病気を理由に藩の役目を辞し、さらに妹の里与に従弟の権太夫を入婿させ平賀家の家督を譲ります。封建社会の中でこのような思い切った行動に出たのは、学問や研究に専念したいという気持ちとともに、その才能が故に上司や同僚のねたみを受けたため宮仕えに嫌気がさしたからではないかといわれています。
 江戸へ出るチャンスを伺っていた源内は、宝暦6年(1756)3月、29歳のとき、ついに郷里を出立し江戸へ向かいます。江戸へ向かう途中、渡辺桃源らと有馬温泉に遊び、句集を編んでいます。「井の中をはなれ兼たる蛙かな」と詠んだ歌はまさに源内のそのときの心境を表しているでしょう。大坂に立ち寄った後、江戸へ出て本草学者の田村元雄(藍水)に弟子入りします。また、漢学を習得するために林家にも入門して湯島聖堂に寓居しています。
 宝暦7年(1757)、30歳の時、師の藍水を説いて我が国で初めての物産会を湯島で開催します。翌年、翌々年と物産会を開催すれにつれて、源内の江戸での名声は高まり、源内の前途は洋々と広がっているようにみえました。

 ところが、自由に羽ばたこうとする源内に足かせがはめられました。源内の評判が参勤交代で江戸に居た頼恭の耳にも聞こえ、宝暦9年(1759)9月、源内は高松藩から「医術修業候に付き」という名目の三人扶持で、一方的に再び召抱えられてしまったのです。翌年の5月には薬坊主格を拝命し、銀十枚四人扶持を給されました。高松藩では当時、一人扶持昇任するのに普通は十数年かかったそうで、これは異例の出世でした。しかし、讃岐での生活のすべてを断ち切って江戸へ出てきた源内としては、これからいよいよ飛躍しようとするときであり、この高松藩の措置はありがた迷惑だったようです。
 とはいえ、頼恭は身分の低い御藏番の身から引き立て世に出るチャンスを与えてくれた恩義のある人でした。源内はその恩に報いるため仕え、頼恭も源内をかわいがり、どこへ行くにも随行させ、江戸目黒の下屋敷には薬園まで開いています。
 宝暦10年(1760)7月、源内は頼恭に随行して一時帰郷します。途中紀州の物産を調査し、ホルトの木を発見しています。その年の秋には、薬草採取班の初代頭取となり、小姓5、6人と南は安原の奥、東は阿波境、西は金比羅山まで一週間くらい泊りがけで藩内各地を出張して薬草を採取し、栗林薬園で栽培していたようです。

 源内は自由に自分の研究に没頭したかったのですが、それがかなわず、悶々としていたようです。悩んだ源内は、再度の仕官から1年半後の宝暦11年(1761)2月、34歳のとき、学問に専念するために高松藩に2度目の辞職願いを提出します。しかし藩からの返事はなかなか出ず、半年以上も経った9月にやっと許可されました。ただし、「他家への仕官構う」という条件付きでした。高松藩屋敷への出入りは自由だが、他藩への仕官は禁止するというものでした。これ以降、源内は讃岐との縁が切れ、文字通り江戸の人となり、自由奔放で波瀾万丈の浪人生活を送ることになります。

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