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(109)“大坂の鴻池も舌をまいた塩飽の豪商”

 鴻池家といえばかつての関西財閥の一つですが、その発祥は、安土桃山時代の頃、摂津国伊丹村(今の兵庫県伊丹市)で清酒の醸造を始めたことによるそうです。そして、江戸時代初期、大坂から江戸へ多量の酒を海上輸送するため海運業も始めたそうです。この酒造業と海運業で財を成し、さらに大名の蔵屋敷にある年貢米などを担保にして金を貸し付ける「大名貸し」を始め、それを足掛かりに17世紀半ばに両替商も営むようになり、それが明治以降、金融財閥化したということです。

 この鴻池家も舌をまく大船持ちの豪商が、江戸時代、塩飽諸島牛島という面積0.7平方km、周囲4.2kmの小さな島に居ました。丸尾五左衛門という人物で、瀬戸内随一の豪商とうたわれ、また「内海の海上王」ともいわれました。「珊瑚の杖」という逸話の中でも、鴻池家もしのぐといわれたその富裕ぶりが語られています。元禄時代のこと、丸尾家主催の宴会に招かれた鴻池家の主人が、家宝にしている珊瑚の杖を宴席に置き忘れてしまい、あわてて引き返して丸尾家の番頭に尋ねたところ、番頭は珊瑚でできた同じような杖を両腕でかかえ、「このうち、どちらでしょうか。」と涼しい顔で尋ねたので、自分こそ日本一の商人と思っていた鴻池家の主人もこれには驚き、すごすごと帰ったということです。

 丸尾氏は、元は東氏と称する肥後(今の熊本県)の武士だったといわれています。阿蘇氏、加藤氏と仕えていましたが、江戸時代の初め頃、東勝右衛門のときに、不遇な身に愛想をつかして浪人をし、上方へ行く途中、塩飽の牛島に立ち寄りそのまま住み着いて初代丸尾五左衛門と名乗るようになったといわれています。
 加藤氏が肥後を支配したのは、加藤清正(きよまさ)が、天正15年(1587)に豊臣秀吉から肥後の北半国25万石を与えられ、熊本城を居城としたときからです。ちなみに、このとき、清正は秀吉から肥後半国と讃岐のどちらかを選べといわれ、肥後を選んだということです。肥後南半国24万石は小豆島から移封された小西行長が支配しました。関が原の戦いの後、清正が肥後一国を領有しましたが、その死後の寛永9年(1632)、息子の忠広が幕府から改易され、加藤氏は肥後を去ります。その後、肥後一国を領有したのが小倉より入った細川氏です。室町時代、讃岐は幕府管領をつとめる細川京兆家の本国地で、肥後の細川家はその支流にあたる家柄です。

 丸尾氏が牛島で廻船業を始めたのは、二代目五左門重次のときからだといわれています。重次は元禄7年(1694)に69歳で亡くなったといわれており、寛永2年(1625)の生まれと考えられます。三代将軍家光の時代の寛永15年(1638)には、島原の乱が収まって世の中が平和になり、軍兵輸送の必要もなくなっているので、重次が牛島で廻船業を始めたのはこの頃ではないかと考えられます。ちなみに、寛永19年(1642)には、初代高松藩主・松平頼重が高松に入封しています。

 17世紀後半になると、江戸の町は大きく発展しました。このため幕府は、全国に散在している幕府領年貢米である城米(じょうまい)を大量に江戸に運ぶ必要に迫られます。そこで、幕府は東北地方の城米を江戸へ輸送することとし、4代将軍家綱 の代(在位1651~1680)の寛文10年(1670)から同12年にかけて、商人の河村瑞賢(かわむらずいけん)に東廻り・西廻り航路の整備を命じます。海上輸送は一度に大量の米を運ぶことができ、しかも積み替えによる手間が省け、傷みや損失も少なくてすんだからです。
 寛文11年(1671)、瑞賢は、まず東廻り航路の開発に成功します。そのルートは、陸奥の城米を太平洋側へ運び、そこから南下して房総半島を回って江戸へ入るというもので、後には日本海沿岸から津軽海峡を経て太平洋を南下しました。
 そして、翌年の寛文12年(1672)には西廻り航路の開発にも成功します。そのルートは、出羽国(今の山形県)の城米を酒田湊へ運び、日本海を南下して赤間関(あかまがせき、下関)を経て、東に瀬戸内海を航行して大坂へ至り、さらに紀伊半島を回って江戸へ入るというものです。往復の所用日数は約3箇月でした。(18世紀以降は短縮され、19世紀中期には平均2箇月、速い時には32日になりました。5月下旬に出て7月に江戸に着くように、日本海の航行には夏の静穏な時期を当てていたといいます。)
 また瑞賢は、城米船は幕府が直接雇って運賃を支払う官船とすること、その船は北国・山陰方面の航行に慣れた讃岐の塩飽、備前の日比浦、摂津の伝法・河辺などの船を雇うことなどを幕府に提案します。この方策が採用され、塩飽廻船の多くが城米御用船として幕府に直接雇われ西廻り航路に従事することになりました。このときから塩飽の廻船業は隆盛期を迎えていきます。

 塩飽の廻船業は、元禄年間(1688~1704)の頃を中心に、5代綱吉(在位1680~1709)・6代家宣(在位~1712)・7代家継 (在位~1716)の将軍治世の時代を通して大いに栄えます。ちなみに正徳3年(1713)、塩飽では5石積み以上が472艘をかぞえ、1,500石積みなどの大型船が112艘もありました。多くの塩飽廻船が江戸や大阪など諸国の港を頻繁に出入りし、その評判は全国に知れわたります。6代家宣・7代家継の代に活躍した 新井白石も、諸国の廻船の中でも、「塩飽の船隻、特に完堅精好、他州に視るべきに非ず、その賀使郷民また淳朴」と、「奥羽海運記」に記しています。塩飽廻船は金毘羅大権現の旗を掲げて諸国を巡ったので、これが金毘羅さんが航海の神として全国に広く知られるようになった由来ともいわれています。

 塩飽の廻船業の中でも中心だったのが牛島です。延宝7年(1679)当時、牛島には52人の船持ちが住んでいて4万8,750石の船を所有していたといいます。その中でも丸尾五左衛門は1万1,030石の船を持ち、塩飽一の船持ちでした。
 元禄7年(1694)、二代目丸尾五左衛門の重次は69歳で亡くなりますが、その名は三代目重正、四代目正次へと引き継がれていき、牛島船持ち衆の長老として栄華をうたわれました。持ち船の最高は、元禄16年(1703)の11,200石で、320石から1,150石積みの廻船を13艘も持っていたといわれています。讃岐には、「沖を走るは丸屋の船か まるにやの字の帆が見える」という古謡が残っていますが、これはこの頃のものだと思われます。
 丸尾家の財力は他国にも知られていたのでしょう。肥後藩主の細川家は、丸尾家から借金をしています。細川家がこの借金を返済した様子はなく、いわゆる借りっぱなしだったようです。丸尾家は肥後に対してずっと愛着を持っていたのでしょう。

 享保元年(1716)、徳川吉宗が8代将軍に就任します。塩飽廻船は引き続き城米御用船として幕府から直接雇われ隆盛を誇っていましたが、4年後の享保5年(1720)、幕府は、城米をより安全にかつ安く運ぶため、その輸送方式をこれまでの直雇方式から廻船問屋請負方式へ変更し、江戸商人の筑前屋作右衛門に御城米船の差配を行わせます。いわゆる享保の改革の一環だったのかもしれません。これにより塩飽の船持衆は、今までのように直接荷受けすることができなくなり、廻船問屋の雇船として安く下請けされるようになりました。以降、塩飽の廻船数は急激に減少していきます。ちなみに、牛島には、宝永(1704~11)から享保7年(1722)にかけて45から49艘の廻船があったといわれていますが、享保13年(1728)には23艘とそれまでのほぼ半数に減っています。

 しかし、塩飽廻船が全く無くなったわけではなく、寛保年間(1741~44)頃からは、米の輸送だけでなく、土地の特産品である塩・砂糖・酒・醤油・むしろ、などを積み込んで、港々に立ち寄って販売しながら東北・蝦夷地の北国へ行き、帰路は米を第一に干魚・昆布・にしん・織物などを積んで、大坂などで商売をしていたようです。このように大坂と北国を日本海航路で往復した廻船を「北前船」といい、明治中頃まで塩飽をはじめ讃岐の各港でもみられました。北前船の寄港地だった日本海側の港町には、「塩飽屋」という屋号のある商家や、塩飽衆の墓が残された寺など塩飽衆の足跡を見ることができるそうです。

 18世紀後半には、塩飽の廻船業は衰えていき、17世紀後半から18世紀初めにかけてみられたような隆盛を迎えること二度とありませんでした。幕府から直接御城米輸送を請け負っていた頃は、廻船業が塩飽の産業で、船乗りや造船・船の修理などで多くの人が生計を立てていました。しかし、廻船が減少したの頃には、それまでの船大工の技術を生かして家大工や宮大工へと転身し、瀬戸内海沿岸を中心に他国へ出稼ぎに出、塩飽大工と呼ばれました。島の中は老人や子供ばかりになっていたといわれています。牛島の長徳院極楽寺には、明和2年(1765)に塩飽の年寄から江戸勘定奉行へ差し出された「塩飽島諸事覚」という書類が残っているそうですが、その中には、「島内で暮らしを立てるのは難しく、男子は12、3歳から他国へ出て水夫をしたり、多くの者は大工職として近国に出稼ぎに出た」と記されているそうです。

 丸尾家も五代目の時から衰退がはじまったといわれています。文政5年(1822)、丸尾家の没落をみかねた牛島の船頭たちは、丸尾家が多額の金を貸していた肥後の細川家に対して、銀223貫900匁の返還を請求したといわれています。しかし、細川家からは一文の返済もなかったそうです。ただし、細川家も、心苦しく思っていたのかもしれません。領主自らが参勤交代の途中、牛島にお忍びで立ち寄り、丸尾家に侘びたといわれています。
 このほかにも、牛島には、丸尾五左衛門にまつわる言い伝えが残されています。一つは「無間(むげん)の鐘」という話で、次のようなものです。牛島では、極楽寺にある鐘をつく者はたちまち巨万の富を得て栄華を極め、人生無上の福に恵まれるが、その栄華の後には必ず災難がきて、生きながらの無間地獄に陥る、といわれていました。このため誰もこの鐘をつく者はおらず、「鳴らずの鐘」と呼ばれていました。ところが、この島にやって来た五左衛門はこの鐘をついてしまいました。このため五左衛門はこの世の極楽と思われる富を得たが、まもなく地獄の没落を味わった、ということです。
 また、次のような言い伝えもあります。ある年の正月、五左衛門は、牛島の沖から大槌島まで船を並べてその数を数えようとしたが、数え終えないうちに日が暮れそうになってしましました。そこで、金の扇で「しばらく待ってくだされ」といって太陽を招き返したところ、少し昇ってきたので船を数え終えることができました。しかし、そのことが船霊(ふなだま)様や太陽の怒りにふれ、その夜のうちに海が大しけになって船が沈んでしまい貧乏になってしまった、ということです。
 この丸尾五左衛門の言い伝えは、塩飽の栄華と没落の物語を語っているのでしょう。

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(60)“榎本武揚とともに函館五稜郭で戦った讃岐人”

 1868年(慶応4年/明治元年)から1869年(明治2年)にかけて戦われた、王政復古で成立した明治新政府と江戸幕府勢力による内戦を戊辰(ぼしん)戦争といいます。1868年の干支が戊辰だったことからこの名で呼ばれます。この戦争は、鳥羽・伏見の戦いから始まり、江戸城開城・上野戦争、北越・会津戦争を経て、箱館戦争で終結します。本陣が五稜郭に置かれていたため、五稜郭の戦いとも呼ばれています。このとき、旧幕府勢力に加わり戦った讃岐人がいました。

 江戸城無血開城を不服とした幕府海軍の副総裁だった榎本武揚ら一部の旧幕府軍は、1868年9月16日(慶応4年/明治元年8月19日)、旧幕府艦隊の開陽丸を旗艦として、咸臨丸、回天丸など計8隻の軍艦を率いて江戸を脱出し、新天地を求め当時蝦夷と呼ばれていた北海道へ向かいます。このときの旧幕府艦隊の水夫には、かなりの人数の塩飽出身の者がいたと考えられます。1855年(安政2年)に幕府が長崎海軍伝習所を開設して以来、塩飽から御用水主(かこ)役として多くの者が幕府艦隊の水夫になっていたからです。

 瀬居島の出身の古川庄八は、このとき開陽丸乗り組みの水兵頭として榎本武揚に従った者です。塩飽出身の水夫の中でもリーダー的存在だったそうです。榎本と庄八は草創期における長崎海軍伝習所以来の関係で、1862年(文政2年)に幕府が造船、操船などの技術研究のためわが国で初めてオランダに留学生を派遣したときにも、一緒に渡欧しています。士官、水夫という身分の差はありましたが、いわゆる同じ釜の飯を食った間柄だったと思われます。3ヵ年の留学を終えた榎本と庄八は、幕府がオランダに発注した開陽丸を一緒に日本へ回航しています。開陽丸は長さ73メートル、排水量約2600トン、咸臨丸の4倍の大きさの最新鋭鑑でした。

 北海道へ向かった榎本艦隊は途中、仙台で歩兵奉行の大鳥圭介や新撰組副長の土方歳三らの旧幕府軍を収容し、函館で新政府軍を津軽に追いやり、五稜郭を根拠地に蝦夷地開拓事業を掲げ地域政権を打ち立てます。この政権は、入札という選挙によって総裁を選出し、榎本武揚が初代の総裁となりました。このため蝦夷共和国ともいわれています。

 榎本はオランダ留学で身につけた国際法の知識に基づき、函館の各国領事に対して自軍を新政府と対等の「交戦団体」と認めさせます。さらに北方の防衛開拓を名目として旧幕臣政権による蝦夷地支配の追認を求める嘆願書を朝廷に提出しました。しかし、新政府はこれを認めずついに戦いとなりました。

 榎本軍は松前、江差などを占領しましたが、新政府軍に対抗する決め手であった開陽丸を座礁沈没させて失った後は津軽海峡の制海権を失い、1869年5月6日(明治2年3月25日)宮古湾海戦を挑んだものの敗れ、新政府軍の蝦夷地攻略を許してしまいます。同6月27日(同5月18日)、五稜郭で榎本軍はついに政府軍に降伏し、ここに戊辰戦争は終結します。

 土方歳三はこの戦いで戦死しましたが、捕らえられた榎本武揚大鳥圭介は後に赦免されて新政府の官僚として活躍します。古川庄八も一時期獄舎生活を強いられますが、その後、オランダ留学の技術を買われて横須賀の造船所に入り、技師として活躍しました。庄八と榎本武揚の交友は晩年まで続いたといわれています。


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(59)“幕末に勝海舟と咸臨丸で太平洋を渡った塩飽の水夫”

 幕末の1860年(万延元年)、日本人は自ら操縦する艦船で初めて太平洋を横断しました。その船は咸臨丸です。このとき、西郷隆盛との江戸城無血開城で有名な勝海舟の下、35名の塩飽出身の水夫がともに太平洋を渡っています。

 1853年(嘉永6年6月)、アメリカのペリー提督が、軍艦4隻をひきいて浦賀に来航し、幕府にアメリカ大統領の信書を提出してわが国の開国を強く要求しました。この威力に屈し、幕府は翌年再び来航したペリーと日米和親条約(神奈川条約)」を締結します。1633年(寛永10年)の鎖国令以来、200年以上にわたって泰平の夢を見続けてきたわが国も、これによってようやく海防の重要性をさとり、外交関係を継続していたオランダに依頼して欧式海軍の創設を始めます。

 1855年(安政2年)、幕府は長崎に海軍伝習所を開設し、オランダより贈呈された汽船と派遣された教育隊により、勝海舟榎本武揚ら旗本と各地から徴用した水夫に航海術を修得させます。このとき、塩飽からは30人の島民が幕府に御用水主(かこ)役を命じられ、航海練習に参加しています。咸臨丸は、江戸幕府が海軍創設のためオランダに発注した排水量625トン、長さ49.5m、幅7.2mの木造軍艦で、1857年(安政4年)に長崎に到着し、長崎海軍伝習所で九州近海の練習航海や長崎・江戸間の往復航海にあたっていました。

 1858年(安政5年)、井伊直弼が大老となり、幕府はアメリカ総領事のハリス「日米修好通商条約」を調印します。そしてこの批准書を交換するため、外国奉行の新見豊前守正興を正使、村垣淡路守範正を副使とする総勢84人の遣米使節団がアメリカ軍艦ポーハタン号で派遣されることになりました。このとき、遣米使節を護衛するという任務と、オランダ人の教官に学んだ技術を実際にためす目的で、咸臨丸も一緒に渡航することになりました。長崎海軍伝習所が開かれたから、4年あまり。小型艦の咸臨丸で太平洋を横断するのはかなりの冒険でした。

 咸臨丸には、軍艦奉行の木村摂津守喜毅(よしたけ)、艦長の勝海舟以下総勢96名の日本人が乗り組み、他に日本近海で難破したアメリカ人11人も同乗しました。乗組員には通訳の中浜(ジョン)万次郎や、後の慶応義塾創始者の福沢諭吉もいました。このとき咸臨丸に乗り込んだ水夫50名のうち塩飽の者が35名(本島12人、牛島2人、広島11人、櫃石島3人、瀬居島3人、高見島4人、佐柳島2人)を占めていました。

 1860年2月4日(万延元年1月13日)、咸臨丸は後尾マストに国旗の「日章旗」を掲げて、品川沖を出帆し、浦賀に寄ってアメリカへ向かいます。ときに桜田門外の変が起きる約1ヵ月前の頃です。

 この時代は蒸気船とはいえ、航海中は帆走するのが一般的でした。37日間の航海中、好天の日は数日しかなく、ほとんどが悪天候でした。勝海舟は船酔いで部屋から出られず、温厚な木村喜毅は「勝はふてくされて出てこない」と思ったといわれています。

 3月17日(旧暦2月26日)、咸臨丸は遣米使節が乗船したポーハタン号より12日早くサンフランシスコに到着します。50日余りの滞在期間中、日本から来た最初の船だということで、一行はさまざまの接待饗応を受けました。でも、技術的な事についてはその大規模なのには感心しても知っていることばかりで、それよりも社会制度や風習の違いに大いに驚き、不思議に思ったそうです。しかし、塩飽出身の35人のうち2人が病に倒れ、異国の地に埋葬されました。

 5月8日(旧暦3月18日)、咸臨丸は遣米使節と別れ、一足先に帰路につきます。帰路は天候に恵まれ、ハワイに立ち寄り、6月23日(旧暦5月5日)浦賀に着きます。こうして咸臨丸は日本人が始めて独力で太平洋横断の壮挙をなし遂げました。なお、遣米使節一行は、サンフランシスコから南下しパナマへ行き、地峡横断鉄道で大西洋岸へ出、北上してワシントンへ向かいました。

 この遣米使節と咸臨丸一行が、実際にアメリカの政治制度や社会を見聞したことはその後の日本の近代化に大きな影響を与えたといわれていますが、その裏側には長い伝統に培われた優秀な水主(かこ)の技術と誠実な資質をもつ塩飽水夫35人の活躍があったといえるでしょう。

 その後アメリカでは1860年11月の大統領選挙でリンカーンが当選し、翌年3月4日大統領に就任すると、その年の4月12日に南北戦争が勃発しています。

 なお、1862年(文政2年8月13日)、咸臨丸は本島に寄港しています。この年、幕府は造船、操船などの技術研究のため、わが国で初めてオランダに16名の留学生を派遣することになりましたが、この中には榎本武揚西周らに交じり、塩飽から瀬居島出身の古川庄八と高見島出身の山下岩吉の2名が選ばれていました。その渡欧の折り、留学生を乗せた咸臨丸が本島に立ち寄ったわけです。咸臨丸には古川、山下のほか多くの塩飽水夫が乗船しており、西周はそのときの様子を「咸臨丸のいたるや、島民は端艇に乗りて群り来たり、母は子を認め、婦は夫を認めて歓呼相応ず、その喜び知るべし」と記録しています。

 幕府留学生は3年後帰国しますが、待ち受けていたのは、非情にも薩摩、長州を中心とする討幕のあらしでした。


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(23)“北海道から来た草”

 香川県の塩田跡地などの一部には、アッケシソウ厚岸草)という草が生えているところがあります。この草は、一年草で、5~6月ごろほうきを逆さにしたようなふっくらとした芽が生えて、春から夏にかけては緑色で、秋の訪れと同時に全体の色が赤くなり平たくて丸い実を結びます。その赤い葉の群落の広がり方が海中の珊瑚に似ていることから別名サンゴ草とも呼ばれています。本県では、昭和3年に詫間塩田、坂出の木沢塩田などで発見され、かっては瀬戸内海沿岸各地の塩田などで自生していたようです。しかし塩田の廃止とともに現在では限られた生育環境でわずかの個体が残っているのみで、絶滅危惧種に指定されています。

 アッケシソウは、その名の由来のとおり、北海道釧路近くの厚岸湖湖畔で明治24年に発見されたものです。この草は、寒冷地における代表的な植物で、海水の浸入する砂泥地などの汽水域にのみ生育する塩生植物で、内湾の塩性湿地の干潟の陸地側に一面に広がった群落を作ります。しかし、現在、厚岸湖湖畔でもほとんど姿を消してしまい、群落があるのは主としてオホーツク海側沿岸だそうです。特に網走市郊外の「能取湖(のとろ)湖」南岸には国内最大級の群生地があるそうです。

 このアッケシソウは、塩を北海道に運んだ北前船が讃岐に持ち帰ったといわれています。北前船は、17世紀に、西回り航路が整備されて、蝦夷地や本州の日本海沿岸諸港と瀬戸内海諸港を経て大阪を結んだ回船です。千石船とか弁才船(べざいぶね)ともいわれています。

 この船は、船の深さを浅く、幅を狭く、かわら(船底材)を短くしています。したがって、水押を長く垣立(船の両舷に柵のように立てる垣)を高く、船尾のふくらみを大きくし積載能力を高くする構造になっています。船の大きさは300~600石積みのものが多く、中には1,500石をこえるものもありました。多度津町の資料館には宝暦年間(1755年)に塩飽諸島の高見島八幡宮に奉納された弁才船千石船)の縮尺10分の1の模型が展示されています。

 瀬戸内沿岸の塩は江戸時代から明治にかけ、北前船で北海道に運ばれました。帰り船には、海辺の砂混じりの昆布や魚粕(かす)が積み込まれ、さらに船の安定を保つために船底に石や砂が運び込まれました。その石や砂に混じってアッケシソウの種子が塩田地に運ばれたのではないかといわれています。

 網走市郊外の能取湖には、アッケシソウが赤く色づく九月初旬から、1カ月間で約14万人が見物に訪れるといいます。塩田の廃止、埋め立て、海洋汚染といった流れの中で今、瀬戸内のアッケシソウは絶滅の危機に瀕していますが、讃岐と蝦夷地との交易を物語る歴史の証人ともいえるものです。

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(18)“瀬戸内の漁場争いを裁いた大岡越前守らの名判決”

 讃岐地方には、“はちはん(八判)”とい方言があります。“公に認められた”という意味ですが、この言葉は瀬戸内の漁場争いを裁いた大岡越前守(えちぜんのかみ)らの名判決と関わりがあります。 現在は坂出の番の州工業地帯として陸続きになっている瀬居島(せいじま)の沖に、かって“かなて(金手)の阻(そあい)”という、岩礁地帯ですが鯛(たい)・鰆(さわら)などの格好の釣り場がありました。

 天文3年(1738年)、この“かなて”で釣りをしようとした高松藩の漁民が塩飽人名の漁民によって追い払われるという事件が起きました。翌年、高松藩の高松魚屋町・東浜・北浜・西浜・三木郡原浦・大内郡引田浦の漁民は幕府評定所に訴えを起こしました。両者の主張はまったく対立しており、高松藩は親藩、塩飽人名は幕府直轄地の天領でもあり、第三者の調停なしには解決できない大きな問題になっていました。

 幕府評定所は双方の関係者を江戸へ呼び出し、証拠書類も調べ、提訴から2年後の寛(かん)保(ぽう)元年、裁定を下します。この時の裁許状(判決書)は、結論については「かなでは全く高松の猟場と相見え候(そうろう)」としていますが、続けて具体的な線引きについては「瀬居島・小瀬居島・室木島の東の端を見通し、それより西側は塩飽漁場、東側は高松漁場とする」としており、裏面には絵図で境界の線引きをハッキリと示しています。その絵図を見ると、裁許状の結論の言葉とは違って、“かなて”の全てが高松藩領になったのではなく、11あった釣り場のうち5が塩飽、6が高松藩のものとなっただけでした。

 この裁許状は一見高松藩側の前面勝訴のようにみえますが、線引きにより塩飽の側の漁場もしっかりと確保された名判決とされています。しかし、“かなて”の東に広がる瀬居島漁場のほとんど全てが高松藩領になった意味は大きく、時の高松藩主松平頼恭(よりたか)の喜びは格別で、功労のあった馬廻番頭(うままわりばんかしら)間宮武右衛門らに褒美を与えています。

 裁許状裏面絵図に描かれた境界線上には、幕府評定所の奉行8人の印判が押されており、この8人の中には大岡越前守忠相(ただすけ)も含まれています。この8人の印から“はちはん”という方言が生まれたと伝えられています。この裁許状は本島塩飽勤番所に保存されています。

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(17)“信長・秀吉・家康の朱印状が残る島”

 江戸時代、1万石以上の領主を「大名」といい、それ未満の領主を「小名」といいました。香川県の塩飽諸島は、この大名でも小名でもない「人名」が支配したところとして特色ある歴史を持っています。

 塩飽諸島とは岡山県児島半島と香川県坂出市の間の瀬戸内海狭水域に浮かぶ大小28の島々のことをいい、昭和63年(1988年)4月、これらの島に橋脚を建て、瀬戸大橋が開通しました。この辺りの海は、東西から潮流が微妙にぶつかり合い白く湧き立つように見えることから“塩飽”と言われるといいます。塩飽諸島塩飽水軍の根拠地でもあります。

 塩飽の海は畿内に近く、古代より瀬戸内海海上交通の要衝の地だったところで、中央で政権を掌握するためには、塩飽を押さえておく必要がありました。このため、ときの権力者は、常に塩飽に特権を与えて保護しました。特に戦国時代から江戸時代を通じて、塩飽水軍はときの権力と密接な関係を持ち、運輸、交易、軍事に強力な力を発揮しました。

 塩飽諸島の中心である本島には、7通の朱印状が残されています。年代の古い順では、織田信長の1通が大坂石山本願寺との抗争の時、豊臣秀吉の1通が九州島津氏を討伐する時、豊臣秀次の3通が朝鮮出兵の時、徳川家康の1通が関ヶ原の戦いの時、最後が徳川秀忠の1通です。これらは、塩飽衆を自己の支配下に組み込むために出されたもので、特に、秀吉のものは、塩飽領1250石を650人の船方衆に与えるという内容で、その後の塩飽の命運を決定づけたものです。小田原攻めの際も兵士や兵糧を輸送しています。

 これらの朱印状により、塩飽では明治維新まで、幕府の支配を受けながら1250石を650人の船方衆が領有して支配するという特異な政治体制がとられました。この船方衆は船の所有者と乗組員の総称で、1250石を領有するかわりに動員があれば船で出動することを義務づけられており、大名小名に対して「人名(にんみょう)」と呼ばれ、それぞれが個々に人名株を持っていました。650人は御用水主(かこ)の動員数で、その配分は、元禄13年(1700年)で、本島308、広島76、高見島77、佐柳島7、手島66、牛島37、沙弥島9、瀬居島20、与島40、櫃石島10でした。

 しかし、一般の人名層は島政に参加していたわけではなく、塩飽全体の支配は、近世初期以来、宮本家・吉田家等4家の年寄(としより)の中から年行司(としぎょうじ)1名が互選されて行われていました。この年寄は世襲され、在地領主的存在として200年にわたって島民に君臨していました。しかし、塩飽大工一揆など一般人名層の不満も噴出し、寛政4年(1792年)、幕府は世襲の年寄を解任し、人名の意向を入れた新しい年寄を選ぶこととしました。塩飽勤番所はこの改革に際して建てられたもので、以後年寄りが毎年回り持ちで詰め、この島の統治に当たりました。中には、信長らの朱印状大岡越前の守の漁場の裁許書、咸臨丸乗組員の遺品など、貴重な品が展示されています。

 塩飽衆は海外にも進出して倭冦として活躍したとも伝えられます。また江戸時代には多くの廻船を操って巨額の富を蓄えたときもありました。塩飽諸島の中心である本島は面積6平方キロ、周囲16キロの小さな島ですが、この島には40件もの国、県、市指定の文化財があり、また、かつて24の寺院と11の神社があり、往時の隆盛ぶりを知ることができます。

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