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(139)“讃岐に残る神功皇后伝説”

 神功皇后(じんぐうこうごう)は、第14代仲哀(ちゅうあい)天皇の皇后で、第15代応神天皇の母親に当たり、三韓征討を行ったという伝説をもつ日本古代の女傑として知られています。明治14年発行の一円札・五円札には神功皇后の肖像が描かれ、また、戦前の国定教科書には兵を率いて海を渡ったという勇ましい伝説が必ず記されていました。その伝説は北部九州から瀬戸内海沿いにかけて広く分布しており、讃岐にも残されています。
五円札 神功皇后
五円札 神功皇后
 仲哀天皇は、父が日本武尊で、祖父が第12代景行天皇です。叔父の第13代成務天皇に後継ぎが無かったため第14代天皇に即位しました。それは3世紀頃だと考えられています。父の日本武尊の魂が白鳥となって天に昇ったことから、仲哀天皇は父の陵の周囲に白鳥を放して慰めようと、各地から白鳥を集めたといわれています。その後、息長帯比売命(おきながたらしひめのみこと)を正妃に立て、彼女が「神功皇后」と呼ばれました。

 仲哀天皇は、神功皇后を正妃とすると、共に、角鹿(つぬが、現在の福井県敦賀)に行幸し、角鹿笥飯宮(つぬげのけひのみや)を建てます。皇后はここに留まりますが、天皇はさらに紀伊国に赴き、九州南部で熊曾(くまそ)の反乱が勃発したこと知ります。
 そこで、天皇はその足で穴門(あなと、後の長門)の豊浦(とよら、現在の山口県豊浦郡)に向かい、一方、皇后は日本海を伝わって天皇と合流します。ここで天皇は穴門豊浦宮(あなとのとゆらのみや)を建て、皇后と共に6年間過ごします。
 反乱を鎮圧するため豊浦宮を出発した天皇は、筑紫国に橿日宮(かしいのみや、現在の福岡市香椎にある香椎宮)を建て、南九州攻略の拠点とします。
 天皇は、橿日宮において、皇后、宰相の武内宿禰(たけのうちのすくね)と軍議を開きます。すると、皇后に「新羅を征伐せよ」との神託が下ります。新羅は、現在の朝鮮半島南東部に辺りです。その神託の内容は、熊曾の土地はやせて討つに値しないが、新羅は金銀財宝の豊かな国であり抵抗することなく服属するというものでした。しかし、天皇は、高い所に登って海のかなたを眺めてもそんな国は見えないと、その神託を信じず、熊曾征伐に向かいます。
 すると、神の怒りに触れたのか、天皇は熊曾に敗北を喫し、さらに突然発病して崩御しました。現在、福岡市東区にある香椎宮(かしいぐう)の鎮座している地が、仲哀天皇の崩御された地だと云われています。
武内宿禰
武内宿禰
 そこで、皇后が、神託を下した神の名を聞くと、天照大神と事代主神(ことしろぬしのかみ)、そして表筒男(うわつつのお)・中筒男(なかつつのお)・底筒男(そこつつのお)という神であることがわかりました。住吉三神から伝えられます。ちなみに、表筒男・中筒男・底筒男は、大阪市住吉区にある住吉大社の祭神とされている住吉三神です。
 このとき皇后は天皇の御子を身籠もっていましたが、神託に従って、熊曾を討伐して九州を平定した後、軍船を整えて自ら兵を率い、住吉三神を守り神として新羅の国に出兵します。すると、新羅は抵抗もせず降伏して朝貢を誓い、高句麗や百済の国も朝貢を約したといいます。これが三韓征討です。
 この物語が史実かどうかについては確証がありません。しかし、高句麗の国王・広開土王(好太王)の功績を叙述した石碑「広開土王碑」には、倭(当時の日本)が海を渡って新羅や百済などを臣民としたと読み取れる字句や、幾度か倭軍と高句麗軍とが交戦した記載があることから、歴史事実と考える説もあるようです。
 三韓を平定し筑紫国に戻った皇后は、その地で無事に出産し、この御子が誉田別命(ほんだわけのみこと)、後の応神天皇です。そしてその地を「宇美」(うみ)と呼ぶようになったということです。

 しかし、このとき、大和に居た香坂王(かごさかのみこ)と忍熊王(おしくまのみこ)の兄弟は、皇后が御子を出産したことを知り、反旗を翻し皇位を狙って御子の命を奪おうと企てていました。香坂王と忍熊王は、皇后が妃になる前に、仲哀天皇と大中津比売(おおなかつひめ)との間に生まれた皇子で、御子の異母兄に当たります。
 皇后は、九州から穴門豊浦宮に移り、仲哀天皇の遺体を仮埋葬します。そして、大和を奪還して御子を天皇の座につけるため、軍船に兵を乗せ、船団を組んで瀬戸内海沿いに海路大和を目指します。このときの皇后一行の船団進軍の様子が瀬戸内海沿岸各地に伝承として残されています。なお、天皇の遺体は後に藤井寺の方へ正式に埋葬されます。

 讃岐にも、神功皇后の船団が、大和に向かう途上に立ち寄ったという伝説が残っています。石船に乗ってこられた皇后軍は、風波の難を避けるために、当時は海だった現在の多度津町の青木(おうぎ)北山に上陸し、宿泊したといわれています。青木北山には沢寺大明神という小さな神社がありますが、この神社は、その際の石船を祀ったところであり、この近くには「宿地(しゅくじ)」という地名が残り、「いかり石」という石船の碇(いかり)を沈めたところがあるといいます。そして、皇后は出発に際し、幟(のぼり)、熊手を港の近くに留め置いたうえ、その船団は榜(かい)を立てて、出船したといいます。幟は旗で、熊手は武器として用いられた鎌のことです。皇后の船団が榜を立てて出発したところが桜川の畔にある榜立(かいたて)八幡神社で、幟と熊手を村人が祀ったのが現在の西白方に鎮座する熊手八幡宮だといわれています。その祭神は神功皇后と応神天皇です。真偽のほどは分かりませんが、多度津が古くから瀬戸内海航路の寄港地になっていたことをよく物語っている伝承といえるでしょう。
 なお、熊手八幡宮に関係して、和歌山県伊都郡かつらぎ町の三谷というところにある「丹生酒殿神社」には興味深い伝承が残っています。この神社の境内社である「鎌八宮」は、かつて熊手八幡宮とも称され、その御神体は神功皇后が三韓出兵のとき用いたという幟と熊手で、それは讃岐国屏風浦の熊手八幡宮に祀られていたものだといいます。空海が高野山を開いた時、そのご神体が空海の後をついてきたので、櫟(イチイ)の木をその証の代わりとして祀ったということです。和歌山の奥に多度津の白方にある神社の話しが残っているのは不思議なことです。
 讃岐の島にも神功皇后の伝説が残っており、直島は神功皇后が吉備の豪族とこの地で待ち合わせたことから古代は真知島(まちのしま)と呼ばれていたといいます。また、皇后の船団は小豆島に立ち寄って一息入れて休まれたと云われており、そのところにあった松を「息休みの松」といい、その場所を「伊喜末(いきすえ)」ということです。そこから小豆島の北海岸沖を進みますが、島の東北の突端にある岬の沖合で暴風雨により難破しそうになりました。そこでこの辺りに上陸して神楽を奏すると波もおさまったと云われています。それからここを神楽坂といい、それが蕪崎(かぶらざき)になったということです。
 神功皇后の船団が大和に向かっていることを知った香坂王と忍熊王は、戦うことを決意し、陣を張り皇后軍を待ち受けます。ところが、戦いを前に兄の香坂王は変死し、弟の忍熊王は上陸してきた皇后軍との戦い敗れます。こうして大和を奪還した皇后は、我が子を天皇の座につけ、武内宿禰の補佐を受けながら摂政として政務を執ったということです。

 神功皇后の「神功」という諡号(しごう)は、神勅に基づいて自ら軍を指揮して軍功をあげたことから、神(かみ)の功(いさお)とつけられたものです。また、身重の状態でありながら自ら軍を率いて海を渡って朝鮮半島を平定し、また、子を守って国内の乱を平定したということから、安産の神であると同時に、武の神としての神威も備え、勝運、厄除け、病魔退散などの御神徳もあるといわれ、全国各地の神社で祀られています。
 その息子の誉田別命すなわち応神天皇は、八幡神として信仰の対象とされ、宇佐八幡宮(大分県)を発祥として全国各地に広まり、今でも「八幡さま」として親しまれています。

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テーマ : 香川
ジャンル : 地域情報

(137)“瀬戸内の古代の風景が残る信仰の山”

 シルクロードという言葉を初めて使ったのは、ドイツの地理学者であるリヒトホーフェン(1833~1905年)だといわれています。リヒトホーフェンは、1877年に出版した著書の中で、ユーラシア大陸の東西を結ぶ交易路を始めて「ザイテンシュトラーセン」(絹の道)と呼び、その後、それが英訳されて「シルクロード」といわれるようになりました。
 リヒトホーフェンは、幕末の万延元年(1860)に瀬戸内海に立ち寄り、「広い区域に亙る優美な景色で、これ以上のものは世界の何処にもないであろう。将来この地方は、世界で最も魅力ある場所の一つとして高い評価をかち得、沢山の人を引き寄せることであろう。此処には到る処に生命と活動があり、幸福と繁栄の象徴がある。」と、その風景の美しさを称賛し、旅行記として世界に発表しました。
 そのリヒトホーフェンが称賛した瀬戸内の風景とは、静かな海面に多数の島々が点在し、多くの岬が突出した多島海的景観の美しさと、白砂青松の連なる海岸の美しさにあり、また、段々畑など古くから自然と人間の営みとが一体となった景観だといわれています。その特徴は、風化花崗岩の白砂とクロマツが形成する白砂青松、海に面するアカマツの生えた絶壁の崖地など、マツが景観の重要な要素を形成していたと考えられます。讃岐でも、津田の松原(琴林公園)や観音寺の有明浜(琴弾公園)は、瀬戸内を代表する白砂青松です。
 しかし、幕末から明治初期にかけての時期は、日本列島の自然が最も荒廃していたときだといわれており、特に瀬戸内海沿岸は製塩業が盛んであったことから、塩田近くでは多量の木が燃料として伐採され、ハゲ山が広がっていました。リヒトホーフェンも、その景観を、「それらの山々は、けわしく傾斜しているとはいえ、粗削りの形はどこにもなく、針葉樹の群を含む灌木で覆われている。数多くの露出個所が赤みを帯びた分解した土壌を示しているが、その土壌ははなはだ不毛に違いない。そのために、それぞれの山は全体が、赤みかかった荒涼たる外観を呈している」と記しています。

 リヒトホーフェンが訪れてきたときから約1600年前、3世紀頃の中国は三国時代(220~280年)でしたが、その三国の一つ魏(ぎ)の使者が、当時、倭(わ)と呼ばれた日本を訪れています。のちにその見聞は「魏志倭人伝」としてまとめられ、その中に女王・卑弥呼が治める邪馬台国のことが書かれていることはよく知られているところです。
 魏志倭人伝には、倭国は「土地は山険にして深林多く、草木茂盛・・・」であり、そこにはクスやカシなどの樹木が見られると記載されているということです。しかし、その中にマツの記載はないそうです。この記述から、魏志倭人伝の使者が見た倭の国の自然は、カシ・シイ・クス・タブなどの暖温帯照葉樹林で覆われ、うっそうとして黒々とした深い森だったと想像されています。この当時の瀬戸内沿岸の風景は、リヒトホーフェンが見たものとは全く様相が異なっていたと考えられます。卑弥呼が生きた時代からリヒトホーフェンが訪れてきたときまでの間に、瀬戸内海沿岸の自然は人によって手が加えられ、それに伴って風景も大きく変化していったのです。

 スギやヒノキなどの針葉樹に対して、温帯から熱帯を中心に分布し、葉が広くて平たい被子植物に属する木本を広葉樹といい、そのうち、生育に不適な季節になると全ての葉を落とすものを落葉広葉樹といいます。その樹冠つまり樹木の最上部は逆円錐形をしており、日本では、冬に葉を落とし、水分の消費を抑えて休眠状態で春を待ちます。一般的に、ある土地に生育している植物の集団を全体的にとらえて「植生」といいますが、日本における落葉広葉樹の自然植生は、水平的には平地では中部地方の山沿いから東北、北海道地方の南部にかけて、垂直的には本州南部では標高約1000m以上だといわれています。主な樹木はブナ、ミズナラ、カエデなどで、特にブナが中心になるので、ブナ帯とも呼ばれます。よく知られている白神山のブナ林はその自然植生の代表です。
 一方、広葉樹でも落葉する時期のない木を、常緑広葉樹といいます。樹冠は“もこもこ”と丸くなっており、葉は巾広で面積が大きく、初夏に新旧の葉を入れかえ、冬も青々と葉をつけます。熱帯から暖温帯にかけて通年の環境変化が少ない良好なところに生育します。常緑広葉樹の中でも暖温帯に生育するものは、冬の寒さに対する対策として葉が小さくて厚くなる傾向があり、また、葉の表面がロウ質の発達したクチクラ層で被われて陽光を受けるとテカテカ光ることから、「照葉樹」とも呼ばれています。主な樹木は、カシやシイ、クス、タブ、ヤブツバキ、サカキなどです。照葉樹林の林内は薄暗く、じめじめして、シーンと静まりかえっています。なお、地中海地方に見られるゲッケイジュやオリーブも暖温帯の常緑広葉樹ですが、夏期に雨が少ないため、それに対応して葉が硬くなっており硬葉樹とも呼ばれます。
 森林は長い年月をかけて気候的にできあがっていくものですが、照葉樹林の自然植生地帯は、アジアでは、ヒマラヤの南麓部からアッサム、東南アジア北部の山地、中国雲南省の高地、さらに揚子江の南側の山地を経て、日本列島の西南部と東アジアの暖温帯一帯に広がっています。日本列島においては、縄文時代前期の6500年前頃から、気候の温暖化により西日本の低地を中心に急速に拡大していき、倭国の時代にあたる弥生時代には、西日本の低地をびっしりと覆い、もうこれ以上変化しない極相林として安定したものと考えられています。
 ちなみに、西日本一帯を含めたアジアの照葉樹林帯では、ワラビ・クズなどを水に晒してアク抜きする方法、茶の葉を発酵させ加工して飲用する慣行、蚕から絹を作る技術、ウルシから漆器を作る技法、麹を発酵させた酒づくり、ミソ・納豆などの発酵食品づくり、コンニャクの製法、イモ類・アワ・ソバなどを栽培する焼畑農耕などの生活文化や、さらには神話・習俗においても共通の特色があることが指摘されています。これら地域を「照葉樹林文化圏」という概念でとらえ、日本文化をはじめ東アジアの伝統文化の基層を形づくる文化であると考える学説もあります。

 照葉樹林に覆われていた地域は気候も暖温であることから、そこには古くから人が住み着きました。人口が増加するにしたがって、食料、燃料、家屋、道具等を確保する必要があります。そこで、人は、田畑を開墾するために、また薪炭燃料や建築用材などを得るために照葉樹林の森を伐採していきました。そして、伐採した跡には、風・塩・砂に強くて痩せ地でも育ち火力の強いマツや、用材として加工しやすいスギ・ヒノキなど人が利用しやすい樹種を植林し、照葉樹林に置き換えていきました。また、人が再三の伐採などの人為的撹乱をしたことにより、照葉樹林は、コナラやアベマキ・クヌギなど落葉広葉樹の雑木林に移行していきました。
 ちなみに、マツは、6、7世紀にかけての飛鳥時代頃から急速に拡大したといわれています。これは、古墳に代わって寺院が建立されるなどにより、瓦を焼くための燃料、建築用材として多量の照葉樹林が伐採されていったためと考えられています。
 こうして、かつて日本列島を厚く蔽っていた原生の照葉樹林は、その大部分が失われていきました。わが国では、現在、原生の照葉樹林は、宮崎県綾町の照葉樹林地や、いわゆる「鎮守の森」といわれる寺社林、社寺林、とりわけ社叢などの一部例外を除き、まとまった面積のものはほとんど見られなくなってしまいました。
 その中で、瀬戸内海沿岸では、琴平町にある象頭山(琴平山)の金刀比羅宮社叢は、よく原生状態を残しており、全国的にも代表的で面積も広い原生林に近い亜極相の照葉樹林の森だといわれています。特に、この山のクスノキ林は、わが国のクスノキ林の北限地と考えられています。象頭山は、古くから神域として改変が禁止され、人の手が加えられてこなかったことから、原生状態をよく保ったものです。ちなみに、象頭山は昭和26年、天然記念物に指定されています。
 古伝によれば、太古の時代は、この辺りまで瀬戸内海の海水が深く湾入し、潮が常に山麓を洗い、湾奥に船の碇泊所が横たわっており、大物主神がここに行宮を営まれ、表日本経営の本拠地と定めて、中国、四国、九州の統治をされたといわれています。金刀比羅宮はその行宮跡に大物主神を奉斎したところで、のちに“海の神様”として広く親しまれるようになったものだと伝えられています。鬱蒼とした樹林に囲まれた象頭山の各所には、今も神の山という雰囲気が漂っています。卑弥呼が見ていた風景も、象頭山に見られるような照葉樹林の森の風景だったのではないでしょうか。

 このように、瀬戸内沿岸地域の元の自然植生は照葉樹林であり、マツ、雑木林、スギ・ヒノキなどは、人の手が入ったことにより、照葉樹から替わっていったものですが、人によって改変された植生も、人為的作用が加わらなくなると、その土地本来の元の植生に復帰していきます。これを「再極相化遷移」といいます。「遷移」とは、その土地で植物種が自然に交代して植生が変化していくことで、数百年から数千年単位のサイクルで繰り返しています。
 高度経済成長時代以降、我が国では、エネルギー源が、薪炭燃料から石炭・石油の化石燃料へ急速に転換していきました。また、農地肥料は、それまでの森林の落ち葉・下草を材料とした堆肥から化学肥料へ転換していきました。さらに、昭和38年に木材輸入が自由化され建築用材を外材に依存するようになりました。こうして、日本の多くの森林は人の手が入らず、放置されたままになっていきました。それに加えて、昭和30年代後半以降、マツクイムシが猛威をふるい、多くのマツ林が枯死しました。このため、放置されたままの雑木林や松枯れ地などが増加し、これらの森林には瀬戸内の本来の植生である照葉樹林へ徐々に移行する再極相化遷移が見られます。
 照葉樹林は、森から川に流れ出す降水のスピードが緩慢であるため緑のダムとして水源涵養の機能が高く、山火事にも耐性があり、魚つき林として河口付近に好漁場を確保するなど、多くの効用があります。したがって、照葉樹林への再極相化遷移を否定的に考える理由はありませんが、このままの再極相化遷移が進めば、リヒトホーフェンが見た瀬戸内の風景は、見られなくなってしまうでしょう。また、こうした再極相化遷移もすんなり進行しているわけではなく、放置されたスギ・ヒノキ人工林の水土保全機能の低下、モウソウチクの繁茂による竹害などが大きな問題となっています。

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(128)“山幸彦と豊玉姫のロマンスがのこる島”

 古事記は、和銅5年(712)に太安万侶(おおのやすまろ)が、稗田阿礼(ひえだのあれ)が暗誦していた帝紀・旧辞を書き記し、編纂した日本最古の歴史書です。また、日本書紀は、養老4年(720)に舎人(とねり)親王らの撰で、神代から持統(じとう)天皇の時代までを扱う日本における最古の正史です。いずれも奈良時代の初期に書かれたもので、両方をあわせて「記紀」といいます。
 記紀には、初代天皇である神武天皇の出生にまつわる山幸彦豊玉姫命(とよたまひめのみこと)の物語が書かれています。その舞台となったところは、一般的には南九州だといわれていますが、讃岐の島にもこの物語が伝わっています。

 記紀に書かれている山幸彦豊玉姫命の物語は若干内容に差異があり、また登場人物の表記にも差異がありますが、おおむねのストーリーは次のようなものです。
 大綿津見神(おおわたつのかみ)は、豊玉彦命(とよたまひこのみこと)ともいい、海底の綿津見神宮に住み海や水を支配する海神です。名前の「綿」は海を意味します。大綿津見神はその娘に姉の豊玉姫命(とよたまひめのみこと)と妹の玉依姫命(たまよりひめのみこと)がいました。
 一方、地上では、邇邇芸命(ににぎのみこと)が木花咲耶姫(このはなさくやひめ)との間にもうけた3人の息子がいました。長兄が火照命(ほてりのみこと)、次男が火須勢理命(ほすせりのみこと)、末っ子が火遠理命(ほおりのみこと)といいます。この3人は、木花咲耶姫が、邇邇芸命との一夜の交わりで身ごもり、そのことを邇邇芸命に疑われ、その疑いを晴らすために産屋に火を放ち、その中で生まれました。
 なお、邇邇芸命は天照大神の孫にあたり、三種の神器と稲穂と榊を持ち日向の高千穂に降り立った天孫降臨の神です。木花咲耶姫は山の神である大山津見神(おおやまつみのかみ)の娘です。
 3人の息子のうち、火照命は海幸彦ともいって、海で漁をするのが上手でした。末っ子の火遠理命は、山での狩猟が得意であったために山幸彦と呼ばれていました。あるとき、山幸彦は兄の海幸彦を説得して、互いの狩りの道具を交換して獲物を捕ることにします。海幸彦の釣り針は山幸彦が持ち、山幸彦の弓矢を海幸彦が持ちました。ところが山幸彦は、漁をしているうちに兄の釣り針を波間で失ってしまいます。山幸彦は仕方なく家に帰り、わけを話して兄に許しを請います。しかし、もともと二人はあまり仲がよくなく、兄は大事な釣り針だから探してくるまで家には入れぬと突っぱねました。しかし、落とした場所は広大な海で探しきれるものではありません。そこで、山幸彦は自らの剣を砕いて千本の釣り針に鋳なおして兄に献上します。それでも兄は許してくれません。
 途方にくれた山幸彦が悲嘆にくれて海辺にたたずんでいると、波間から塩椎神(しおつちのかみ)という老翁が顔を出し、悲しみの理由を尋ねました。それを聞いた老翁は小舟を作り、それに山幸彦を乗せ、波間に押し出しながら、「このまま潮に従って行けば海神(わたつみ)の宮に行けるだろう。着いたら門の脇の桂の木に登って待つといい。そうすれば海神の娘が出てきて相談に乗ってくれるだろう。」と告げます。
 山幸彦は、言われたとおりに海神の宮へ赴き、桂の木に登って待ちます。やがて美しい娘がやってきました。この宮の姫の豊玉姫です。姫は一目で山幸彦の素晴らしい姿に魅せられ、早速父に報告し、その許しを得て山幸彦と結婚しました。
 夫婦となった豊玉姫と山幸彦は、海神の宮で楽しく幸せに暮らしますが、結婚から3年後のある日、山幸彦はふと自分が何をしにここにやって来たのかを思い出し、帰らなければと豊玉姫に告げます。そのとき豊玉姫はすでに彼の子を宿していましたが、父にそのことを話したところ、父も承諾し、海幸彦の釣り針を飲み込んでいた鯛を捕らえて針を取り戻し、さらに呪文と塩満玉(しおみつたま)、塩乾玉(しおひるたま)という2つの宝玉を山幸彦に与えます。こうして山幸彦は豊玉姫を海神の宮に残し、宝物を持って一人地上へ帰っていきます。
 再び大地を踏んだ山幸彦は、兄の仕打ちに対する報復として海神から授かった呪文を使い、兄の国をたちまち貧乏にしてしまいます。これに怒った兄は山幸彦の国に攻めかかりましたが、山幸彦は兄を塩満玉によって溺れさせ、兄が命乞いをすると今度は塩乾玉の力で助けます。これによって山幸彦は海幸彦を服従させ、支配者となります。
 豊玉姫は、間もなく地上の山幸彦のもと行き、「海の国で天津神の子を産むのは畏れおおいので、この国へ来ました」と夫に妊娠していることを告げます。山幸彦は妻のため、海辺に鵜の羽を集めて産屋を造り始めます。しかし、屋根を葺き終わらないうちに産気づき、夫に「決して中を覗いてはいけません」と念を押して産屋に籠もります。
 しかし、それを不思議に思った山幸彦は、中の様子をこっそり覗いてしまいます。すると、そこには身をもがく八尋和邇(やひろわに)の姿があり、驚いた山幸彦はその場を逃げ出してしまいます。(一尋は180㎝ですから、八尋は14.4mになります。また和邇とは鮫のことだといわれています。)このことを出産後に知った豊玉姫はこれを恥じ、産んだ子を地上に残したまま「もう以前のように海と陸とを自由に往来して親しむことはできません」と言い残して海と地上との通路を遮断して海の宮へ帰っていきました。このとき生まれた子が、鵜葺草葺不合命(うがやふきあえずのみこと)です。葺草(ふきくさ)の代わりに鵜の羽で産屋の屋根を葺こうとしたが葺き終らないうちに豊玉姫が産気づいたため、「葺き合えず」と名付けられることになったといいます。
 しかし、豊玉姫は、海へと帰った後も山幸彦への恋しい思いと我が子への気がかりから、妹の玉依姫を地上に遣わし、生まれた子の世話を頼みます。やがて成人した鵜葺草葺不合命は、自分の育ての親で、自分の叔母に当たる玉依姫と結婚し、4人の子をもうけます。4人の子のうち、第4子を神倭伊波禮毘古命(かむやまといわれびこのみこと)といいます。この後、神倭伊波禮毘古命は、日向(ひむか)の国から東の大和の国へ向かい、橿原で日本の初代天皇に即位します。これがいわゆる神武天皇の東征です。つまり、山幸彦の子が鵜葺草葺不合命であり、その子が初代神武天皇だということです。
 したがって、天照大神の孫にあたる邇邇芸命は、神武天皇の曾祖父にあたります。山幸彦は神武天皇の祖父にあたり、豊玉姫は神武天皇の父方の祖母、かつ、母方の伯母にあたります。また、大綿津見神は神武天皇の曾祖父でもあり祖父でもあります。大山津見神は神武天皇の曾祖父にあたります。
 豊玉姫はしばしば浦島太郎の童話で知られる龍宮の乙姫と同一視され、また海の神の娘ということで、雨乞い・止雨の神としての信仰もあり、また孫が神武天皇になったということから子孫繁栄の神としても崇敬されています。また、安産や縁結びの神としても広く知られています。

 香川県の高松市沖には、南から北に、女木島男木島豊島という島が連なっています。これらの島などには、記紀の物語に登場する山幸彦と豊玉姫にまつわる神社、地名、伝説が数多く残されています。
 その中心舞台が男木島です。この島には、豊玉姫を祀る「豊玉姫神社」と、山幸彦を祀る「加茂神社」があります。山幸彦と豊玉姫は「神井戸」で出会い、「殿山(でんやま)」の東の「御宅(みやけ)」で暮らし、豊玉姫は「こもが浜」でお産をしたといわれています。その場所は現在の男木島灯台の辺りだといわれています。そして、豊玉姫が安産の祈願を願いながら籠もり余生を過ごしたところが「豊玉姫神社」のあるところだといわれています。
 また、女木島には玉依姫を地上に送ったという鰐(わに)を祀った「荒多神社」があります。玉依姫を海の国へ連れて帰るものだと思っていた鰐は、女木島男木島の潮の流れの速い瀬で玉依姫を待っていましたが、姫がいつまでたっても現れないのでそのまま石になってしまったといわれています。
 さらに、「おぎじま」・「めぎじま」という名称の由来は、それぞれ大姉の島ということから大姫島(おぎじま)、姪の島ということから姪姫島(めぎじま)と呼ばれるようになったものだといわれています(豊玉姫と神武天皇の関係でみれば、玉依姫は甥の妻ということから姪になる)。それが「男木」・「女木」と表記されるようになったのは、平安時代に陰陽道の考えが入ってきてからのことだそうです。
 男木島の豊玉姫神社の鳥居は西の方向に向いており、そこから沖合を眺めると、五色台沖にある大槌島と小槌島が鳥居の両側に立つ門柱のように見えます。この二島の辺りは、槌ノ戸(つちのと)といわれる海で、山幸彦が釣針を探しても見つからず思案に暮れていたときに塩椎神(しおつちのかみ)が現れたところといわれています。大槌島・小槌島の間には、龍宮城があると信じられ、その入り口は、亀水の淵(亀水町・下笠居)と考えられていました。
 男木島の北には産業廃棄物の不法投棄事件で全国的にも有名になった豊島(てしま)があります。この島には豊玉姫・玉依姫姉妹の父である大綿津見神すなわち豊玉彦を祀る「豊玉神社」があります。豊島の地名は、室町時代の初めの応永2年(1395)の文書にみえ、延元4年(1339)以上には遡るといいますが、その由来は豊玉彦を祀る島という意味だといわれています。また、この島の西南には、鵜葺草葺不合命が生まれたという伝承の残る「神子ヶ浜(みこがはま)」という海岸があり、その海上にはかって石の鳥居が立っていたそうです。
 また、男木島・女木島から南東の方向に海を渡り四国本土に向かうと、屋島の西側にある新川の河口に行き着き、そこを南に遡っていくと現在の三木町に辿り着きます。そこには「鰐河(わにかわ)神社」と「和爾賀波(わにかわ)神社」という二つの古い神社が鎮座しています。いずれも、豊玉姫を祭神としており、豊玉姫が鰐に乗って川を遡上して来たという縁起が残っています。これらの神社が鎮座する地は、現在ではかなり海から離れたところになっていますが、古代は海岸線がもっと南に後退していたと思われ、川を通じて海との往来も可能だったのではないかと考えられます。

 史実かどうかは別として、記紀によると、神武天皇は九州の日向国から東征に出発されたとされており、また、山幸彦・豊玉姫の物語はそれより前のものですから、この物語の舞台を讃岐の島だとし、神武天皇の出生地を讃岐だと考えることには無理があるように思われます。では、どうして讃岐の島に山幸彦・豊玉姫の物語が伝わっているのでしょうか。
 これは全くの想像ですが、神武東征が史実だとすれば、九州から大和に向かう神武天皇一行の旅は、瀬戸内海を船で東へ進んだものと考えられます。その航海には、航海術や地理に長けた瀬戸内海を支配する海人族の協力が不可欠だったものと思われます。大和へ向かう神武天皇一行は、豊島・男木島・女木島を中心に東備讃瀬戸一帯を支配していた海人族と接触し、その協力を得ることができたのではないでしょうか。そうだとすれば、その時、神武天皇一行が、自分たち一族の正統性を説くために、その出自に関わる物語を、豊島などを根拠とする海人族に語り伝えたとしても不思議ではありません。それを聞いた海人族はその物語を自分たち一族の物語として取り込み同化させていったのではないでしょうか。

 記紀には国生みの物語が書かれています。伊邪那岐命(いざなぎのみこと)と伊邪那美命(いざなみのみこと)は、淡路之穂之狭別(あわじのほのさわけ)島から始まり、伊予之二名(いよのふたな)島、隠伎之三子(おきのみつご)島、筑紫(つくし)島、伊伎(いき)島、津(つ)島、佐度(さど)島、大倭豊秋津(おおやまととよあきづ)島、と順番に生んでいきます。現在の淡路、四国、隠岐、九州、壱岐、対馬、佐渡、本州です。これらを総称して大八島(おおやしま)といいます。
 そして次に、吉備児島(きびのこじま)、小豆島(あづきじま)、大島(おおしま)、姫島(ひめじま)、知訶島(ちかのしま)、両児島(ふたごじま)、と6つの国土を生みます。通説では、吉備児島は岡山県の児島半島、小豆島は香川県の小豆島、大島は山口県の周防と屋代島、姫島は大分県の国東半島の北東に浮かぶ姫島、知訶島は長崎県の五島列島、両児島は五島列島よりさらに西の沖にある男女群島の男島と女島を指すと考えられています。
 通説では、最初の吉備児島・小豆島の2島だけは備讃瀬戸にあるにもかかわらず、大島・姫島・知訶島・両児島の4島は突然そこから遠く離れたところになっています。しかし、記紀の著者は物語性を持って書いたものと思われ、そうだとすれば6島はすべて近い距離にあると考えるのが自然ではないでしょうか。東備讃瀬戸で小豆島の次に大きい島は豊島です。しかも豊島は豊玉彦という親の島です。そう考えると、「大島」は親の島という意味で豊島、「姫島」はその娘の島という意味で男木島・女木島のことではないでしょうか。そして、両児島はその形から大槌島・小槌島を指しているのではないでしょうか。さらに、直島神功皇后が三韓征伐の時、吉備の豪族とこの地で待ち合わせたことから古代は真知島(まちのしま)と呼ばれていたといいますから、それが訛って「チカノ島」すなわち知訶島といわれたのではないかとも考えられます。

 真偽のほどは確かめようがありませんが、豊島、男木島、女木島などを中心とした島は、神話の島といえるでしょう。特に、豊島は、今ではごみの島というイメージが定着してしまっていますが、かっては、山の神である大山津見神を祀る大三島の大山祇神社とともに、海の神である大綿津見神を祀る島として瀬戸内海を支配する海人族の信仰の中心だったところではないでしょうか。

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(112)“走水の海で日本武尊の身代わりになった讃岐媛”

 4世紀前半頃、第12代景行(けいこう)天皇の御代、日本武尊は、九州で熊襲の反乱を鎮圧して大和へ帰ると、まだ疲れも癒えないうちに、今度は東国の乱を鎮めるよう父の天皇から命令を受けて出発します。この東征には妃の弟橘媛(おとたちばなひめ)が同行していました。
弟橘媛は、今の善通寺市にある大麻神社の神主・穂積氏忍山宿弥(ほづみのうじおしやまのすくね)の娘として讃岐に生まれたといわれています。

 日本武尊は、まず伊勢神宮に参拝し、そこで天叢雲(あめのむらくも)の剣を授けられます。その剣は、神話の中で、スサノオの命(みこと)が八岐の大蛇(やまたのおろち)を退治したときに、その尾から現れたと伝えられるものです。
 相模国(今の神奈川県)に至ったとき、武尊は相模の国造に騙され、野原の中に入ったところを火をつけられ、あやうく焼き殺されそうになります。そこで剣を出して草を薙ぎ払い、逆に火をつけて、敵を破りました。ここからこの剣は草薙(くさなぎ)の剣と呼ばれ、八咫の鏡(やたのかがみ)・八坂瓊の曲玉(やさかにのまがたま)とともに、やがて「三種の神器」として歴代の天皇に受けつがれる皇位のしるしとなったということです。

 さらに旅を続け、日本武尊は、相模の国から走水(はしりみず)の海を船で渡り対岸の上総の国(今の千葉県)に行こうとします。走水の海とは、東京湾の浦賀水道のことで、三浦半島の横須賀市辺りを船出し房総半島の木更津辺りを目指したと考えられています。
 しかし、武尊の軽はずみな言動に怒った海神が荒波を起こしたため、船は木の葉のように翻弄されて今にも沈没しそうになります。
 このとき弟橘媛命は、海の神の怒りを解くため、武尊の身代わりとなって海に身を投げました。そのとき媛が詠った歌が次のものです。
  さねさし 相模(さがむ)の小野(その)に 燃ゆる火の
  火中(ほなか)に立ちて 問ひし君はも
 (相模国の、あの野原の燃えさかる火の中で、私の身を案じてよびかけてくださったあなたさまだったことよ)
 するとそれまで荒れ狂っていた海も次第に静まり、難行した船も無事に上総の国に上陸することができました。彼女が持っていた櫛は、7日後、海岸に流れ着いたということです。

 この後、日本武尊は、東方の乱れを鎮めて大和へ帰る途中、箱根の碓氷の坂で、東の走水の海の方向を臨んで、弟橘媛のことを偲び、「吾妻(あづま)はや」(ああ、我が妻よ)と嘆きました。それから箱根より東の方を「東(あづま)」と呼ぶようになったということです。
 やがて武尊は、都への帰途、剣をもたないで、伊吹山(いぶきやま)(滋賀県をと岐阜県の境)に登り、山の神の祟りにあって、ついに伊勢の能褒野(のぼの)(三重県鈴鹿市)で病気が重くなり、亡くなってしまいます。人々がその場所に陵(みささぎ)をつくって、尊を葬ると、尊の魂は大きな白鳥となって都をさして飛び立ったということです。

 大麻神社は讃岐忌部(いんべ)氏と阿波忌部氏が協力してこの付近を開拓して麻を植え、祖先神の天太玉命(あまのふとだまのみこと)を祀ったのが起源だと伝えられており、延喜式内讃岐国24社の一つです。祭神の天太玉命は、天照大神が岩戸に隠れた折り、大神を誘い出すべく色々な飾りものを作った神様で、天下りをした後四国に来ていたと伝えられています。
 当時、朝廷は全国から才媛の女性を官女として毎年のように徴用しており、弟橘媛もこうして徴用された官女の一人で、それが日本武尊の目にとまり妃となったのではないかと考えられています。二人の間に雅武彦王命(わかたけひこのみこと)が生まれています。
 今でも、大麻神社の本殿左わきには弟橘媛を祀った祠があり、媛が讃岐出身だったことを偲ぶよすがとなっています。

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(82)“竹取物語に秘められた古代讃岐国成り立ちの謎”

 私たちが幼いときから聞いている「竹から生まれ、中秋の満月の夜、月に帰って行ったかぐや姫」の物語は、日本の各地で語り継がれており、香川県でもさぬき市長尾町に伝えられています。この物語は単なる民話ではなく、日本で最初の小説といわれている「今は昔、竹取の翁というものありけり。名をばさぬきの造となむいひける」で始まる「竹取物語」として書かれています。このような「かぐや姫」の物語は、古代の讃岐国の成り立ちと深い関係があるのではないかと考えられます。
倭迹迹日百襲姫命
所蔵:讃岐一宮 田村神社(.田村神社の主祭神は、倭迹迹日百襲姫命。女神をお祀りしています。) 

3世紀中葉から6世紀末葉までの約300年間にわたる古墳時代に、主に奈良盆地を本拠として倭国王といくつかの有力氏族が中心となって成立した政権をヤマト王権といいます。ヤマト王権による統一が進んでいくにともなって、5世紀末から6世紀にかけて、氏姓制度(しせいせいど)と呼ばれる中央、地方の豪族を単位とした支配体制が形づくられていきました。
 豪族は、氏という同族集団をつくり、多くの家に分かれていましたが、そのうち本家にあたる家の長が氏上として一族を率い、中央、地方において、それぞれ一定の政治的地位を与えられていました。各氏は、家柄や勢力によって臣(おみ)・連(むらじ)・君・直(あたい)・首(おびと)などの姓(かばね)をヤマト王権から授けられていましたが、それは各氏の政治的地位を示すものでした。また、多くの職能を分担する伴造(とものみやつこ)がおり、その下に品部(ともべ)という人民集団があって、貢納や技術によってヤマト王権に奉仕していました。

 讃岐をもっとも早く開発したのは忌部氏(いんべし)といわれています。忌部はケガレを忌み、神事などに奉仕する品部で、古来より宮廷祭祀における祭具の製造や神殿・宮殿の造営に携わってきました。その子孫は後に斎部と名乗ります。
 忌部氏は天太玉命(あめのふとだまのみこと)を祖先とし、その勢力は、大和から、九州・紀伊半島・四国・房総半島などに各地に広がっていきました。その中でも、天日鷲命(あめのひわしのみこと)を祖とする阿波忌部氏と、手置帆負命(たおきほおひのみこと)を祖とする讃岐忌部氏は、早くから四国に移住してきたといわれています。なお手置帆負命は天照大神が天岩戸に隠れたときに御殿を造営した神様です。
 後に讃岐忌部一族の斎部広成が書いたと言われる「古語拾遺(こごしゅうい)」(807年)には、「大和で矛竿(ほこさお)を造っていた手置帆負命神の子孫が今は別れて讃岐国に住んでいて毎年讃岐から大和朝廷に調庸以外に八百竹を貢進していた」と書かれており、讃岐忌部は工作を業としていたと考えられています。なお、“さぬき”という国名の由来は、矛竿をつくり貢物としたので、竿調国(さおつきのくに)と言ったのが縮まったともいわれています。
 讃岐忌部氏は、農業にすぐれた阿波忌部氏の助けを得て、讃岐の山野を開拓していったと伝えられており、大麻神社、粟井神社はともに忌部氏がその祖神である太玉命を祀ったものであり、財田、麻、粟井などの地名はその名残りであるといわれています。

 ところで、奈良県の中西部に広陵町(こうりょうちょう)という町があり、そこの巣山古墳の近くに竹やぶに囲まれて、「讃岐神社」という延喜式(えんぎしき)内社がひっそりと鎮座しています。延喜式内社とは、千年程前の平安時代中期に編纂された延喜式の神名帖に記載された神社で、当時朝廷から重要視された神社であることを示しています。神名帖には、大和国広瀬郡散吉郷に讃岐神社の名が記されており、散吉は讃岐と同音・同意の「さぬき」だそうです。
 この神社の祭神は、「天太玉命」とされており、地元では、香川県の讃岐にいた忌部氏が、大和の地に移り住み、その地を「散吉(さぬき)」とし、神社を造営して自分たちの祖神を祀り、讃岐神社としたといわれています。また、かぐや姫の名付け親は「三室戸の斎部の秋田」(みむろとのいんべのあきた)とされていますが、讃岐神社の近くが、彼が住んでいたという「三諸岡」(みむろ丘)であるといわれています。
 これらのことから、広陵町の人たちは、竹取物語に「さぬきの造」として出てくる竹取の翁は、讃岐神社を造営した讃岐忌部氏のことであり、竹取物語の舞台は広陵町であると考えています。

 一方、広陵町から南東の方向にある桜井市には箸墓(はしはか)という全長280mの出現期の前方後円墳としては最大規模の古墳があります。この古墳は「倭迹迹日百襲姫命(やまと・ととひ・ももそひめのみこと)」の墓といわれています。百襲姫(ももそ姫)は、第7代孝霊天皇の皇女で、大国主命(おおくにぬしのみこと)と結婚したことで知られています。
 興味深いことに、この百襲姫は、香川県の水主神社と田村神社でも祭神として祀られており、姫が讃岐に来たという伝承が残されています。両社とも延喜式内社で、田村神社は讃岐一宮の名神大社です。高松市仏生山町にある百相神社も百襲姫の来遊を伝えています。
それらの伝承は次のようなものです。

 百襲姫は、8歳で大和を旅立ち、讃岐・引田の安戸の浦に到着し、水主(水主神社)に住み地元の民に稲作・灌漑を伝えたが、讃岐全土を治めるため、馬篠(艪掛神社)から船に乗り、讃岐・船岡山(船岡神社)に入り落ち着いた後、讃岐一宮(田村神社)に住み、ため池を作り、稲作を伝えた。しかし、18才の時大和国から迎えが来て、地元の民は引き続き姫に讃岐に留まって欲しいと抵抗したが、それも空しく、大和の国に帰っていってしまった。その後、讃岐では姫を農業の開祖神として祀った。

 以上のような話を総合すると、次のようなストーリーの展開が想像できます。
 まだ讃岐が未開の地でヤマト王権の威光が十分に及んでいなかった頃、百襲姫は讃岐忌部氏の懇請によりヤマト王権の象徴として幼い時に讃岐に送り込まれ、讃岐忌部氏により守られていた。しかし、成人した時に、ヤマト王権から大和に帰るよう指示を受けたため、讃岐の民人と泣く泣く別れて大和へ帰って行った。その時、讃岐忌部氏の一部が百襲姫に仕えるため、お供で就いて行き、そのままその地に留まり、自分たちの祖を祀る神社を造った。その後、この百襲姫の物語がベースとなって、竹取物語が書かれた。
 このストーリーによると、百襲姫こそ、かぐや姫であり、讃岐はかぐや姫物語の原型の地ということができます。さらにおもしろいことには、百襲姫の弟には、吉備津彦命(きびつひこのみこと)と稚武彦命(わかたけひこのみこと)という弟(息子という説もあります)がおりますが、讃岐に伝わる桃太郎伝説のモデルは吉備津彦命あるいは稚武彦命ではないかといわれていることです。そうだとすれば、かぐや姫は桃太郎のお姉さんだということになります。
 このようなストーリー展開を裏付ける史実的根拠は全くありません。しかし、古代において、讃岐は大和と深い関りがあったということは間違いないようです。
 なお、この物語をお読みになるにあたっては、(54話)「讃岐に残る桃太郎と姉の物語」も参考にしてください。

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(56)“讃岐に残る日本武尊の弟と息子の物語”

  綾川の流域、古くは讃岐国阿野郡(あやぐん)と呼ばれていた地方には、悪魚退治伝説と呼ばれる次のような古代の物語が伝えられています。
 
 第12代景行天皇の頃、それは1世紀の頃ではないかと考えられていますが、土佐の海にエビのような姿の大魚が現れて、船や人を飲み込み、暴れていました。それを知った天皇は息子の日本武尊にその悪魚の退治を命じました。しかし尊は自分の息子の武殻王(たけかいこおう、武鼓王、武卵王、建貝児王とも書かれる)にその役目を命じるように天皇に勧めます。武殻王は尊が吉備武彦の女(むすめ)・吉備穴戸武姫(あなどのたけひめ)と結婚して生まれた第5皇子で、このときの年齢はわずか15歳でした。

 悪魚退治を命じられた皇子はさっそく土佐に向かいます。ところが大魚はすでに阿波の国鳴門に移りさらに讃岐国槌途(つちのと、槌戸とも書き、大槌、小槌付近の海)で暴挙の限りを尽くしていました。 皇子は讃岐まで大魚追いかけ、綾歌郡綾川の上に陣をしき、80余人(88人ともいう)の兵を軍船乗せ、大魚に戦いを挑みます(①)。

 しかし大海を自由に泳ぎ回る大魚に、皇子と兵は船もろともたちまち大魚に呑まれてしまい、兵は大魚の毒気に皆倒れました。この危機の中、皇子は隠し持った道具で火を炊き、火に焼かれてもがき苦しむ大魚の腹を切り裂きついに脱出に成功します。そして皇子の乗った大魚の死骸は海岸に流れ着きました。しかし魚の毒気にあてられた兵は死人のようでした。そこへ白峰の方より雲に乗って一人の童子が現れ(②)、水の入った壺を持って兵たちに飲ませるとたちまち蘇生しました。童子は横潮大明神という神様(③)で、兵士達80人が蘇ったということで、その清水は八十場(八十蘇)の清水と名付けられました(④)。

 大魚の亡骸は、それが流れ着いた浜に魚御堂が建てられて供養されました(⑤)。そこには大魚の腹部が地上に埋め残されていたので、この浦を腹江転じて福江といい(現在の坂出市福江町の県立坂出高校付近)、尾が海まで続いたのでその尾のあたりを江尻というそうです。更に、里人たちが皇子の成功を祝して、お供を献じたところが御供所だということです。景行天皇に大魚退治を認められた武殻王は、褒美として、讃岐の土地を与えられ、城山に館を構え、讃岐に留まる霊王という意味から讃留霊王(さるれおう)と呼ばれました(⑥)。讃留霊王は124歳まで長生きし、その子孫が綾氏だといわれています(⑦、⑧)。

 以上が中讃地域に残る武殻王の悪魚退治伝説ですが、この物語は東讃にも残っており、さぬき市志度には、悪魚のたたりを封じたというお堂(⑨)や、「えの魚」の口を葬ったことに由来するといわれる「江の口」という地名が残っています。

 また、悪魚退治物語の主人公は神櫛王(かんぐしおう)であるともいわれています(⑩)。神櫛王は、父が第12代景行天皇で、母が稚武彦命(わかたけひこのみこと)の娘である五十河媛(いかわひめ)です。稚武彦命は讃岐国平定で先陣を切り、桃太郎のモデルになった人物ともいわれており、神櫛王の祖父に当たります。また景行天皇には別の女性との間に既に生まれた日本武尊がおりましたので、神櫛王日本武尊の異母弟に当たります。したがって、神櫛王武殻王は系譜上叔父、甥の関係に当たります。神櫛王は讃岐の国造(くにのみやつこ)の始祖とされており、その子孫が分かれて三木、神内、植田、十河、三谷、由良、池田、寒川、村尾等の諸氏が生まれ、主として山田、三木、寒川の諸郡で繁栄したといわれています。神櫛王の伝承は東讃が中心ですが(⑪、⑫)、中讃にも残っています(⑩、⑬、
⑭)。

 これらの伝承を裏付ける歴史的記述はありませんが、桃太郎伝説とともに、大和勢力による黎明期の讃岐統一の物語の一つといえるかもしれません。


 



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(54)“讃岐に残る桃太郎と姉の物語”

倭迹迹日百襲姫命と井五十狭芹彦

 倭迹迹日百襲姫命(やまと・ととひ・ももそひめのみこと)は第七代考霊天皇の皇女で、神話のなかでは、三輪山の主である大物主命との神婚の話がいわゆる箸(はし)墓伝説として有名です。「日本書紀」の崇神天皇の条には、次のように記されています。
 
 倭迹迹日百襲姫命大物主命の妻となりましたが、夫は夜に通ってくるだけで、その顔を見ることができません。そのことに日々不満を募らせ、ある夜、是非顔が見たいと強引に迫りました。そこで大物主命は、「朝になったら櫛箱に入っているが、姿を見ても決して驚くなよ」と告げました。翌朝、櫛箱を開けた姫が中にいた小さな蛇を見て驚き叫ぶと、蛇はたちまち若者の姿となり、恥をかかされたことを激怒して、大空に飛び上がって三輪山に登ってしまいました。姫はそれを見て自分の行いを後悔し、箸で女陰を突き刺して死んでしまいました。後に姫が葬られた墓は、昼は人間が、夜は神が作ったといい、それを当時の人々は箸墓と呼びました。
 
 現在、倭迹迹日百襲姫命が葬られている墓は大和(奈良県桜井市)の三輪山麓西側にある箸墓古墳で、「大市墓(おおいちのはか)」といいます。日本でもっとも古い巨大古墳(全長約280m)であり、そのことから百襲姫は卑弥呼ではないかという説もあります。百襲姫という名は数々の勲功をあげたこと(襲は勲功の意味)によるもので、実際に「日本書紀」の記述にも、百襲姫はたいへん聡明で英知に長け、霊能力が優れていたと記されています。
 
 また、倭迹迹日百襲媛命には、吉備津彦命(きびつひこのみこと)と稚武彦命(わかたけひこのみこと)という弟(息子という説もあります)がおりました。吉備津彦命は本来の名を五十狭芹彦(いさせりひこ)といい、「日本書紀」に登場する四道将軍(しどうしょうぐん)の一人で、弟である稚武彦命と共に山陽道に沿って周辺域を平定し、さらに吉備国平定後、ここを足場として讃岐国、出雲国にも進出したといわれています。一説にはこの時の逸話が桃太郎伝説のモデルの一つになったと言われており、吉備国(岡山県)と讃岐国(香川県)には桃太郎伝説が伝わっています。ただし、「讃岐桃太郎」の主役は讃岐国平定で先陣を切った稚武彦命であるともいわれています。

 讃岐に残る倭迹迹日百襲姫とその弟桃太郎の伝説は次のようなものです。
 
 百襲姫は8歳のとき、讃岐国に派遣され、船で播磨灘を西へ進み、安堵の浦(今の東かがわ市引田町安戸)に上陸しました。そこから水清きところを求めて移動し、水主の里宮内に着きました。その地で御殿を造営して成人になるまで住み、土地の人に弥生米をあたえ、米作り又水路を開き、雨祈で雨を降らせ、文化を興隆しました。その地が今の水主神社です。この辺りの地名を「大内(おおち)」といいますが、その名は百襲姫の住居を付近の人たちが「大内」と称したことに由来するといわれています。
 
 その後、百襲姫は水主の地から船で西へ移り、現在の高松市仏生山の船岡山に宮を造り、讃岐地方の農業開発を指示しました。そしてさらに、農地開発を住民と共同作業するために、平地のど真ん中の農地のすぐそばに宮を造りました。その地が現在の田村神社です。
 
 その頃、桃太郎は吉備中山で鬼退治をしていましたが、吉備国内がある程度安定したため、讃岐の鬼退治のために姉の百襲姫命に会いにやってきました。鬼というのは、当時(2世紀後半)瀬戸内海の島々を中心にあばれていた海賊のことです。
 
 桃太郎は鬼を討つために衆を集めました。犬は犬島(岡山県の沖にある島)出身の水軍、猿は猿王(綾川町陶)出身の火を操る焼き物師の一族、雉は雉ヶ谷(高松市鬼無町)出身の弓の名手たちであると伝えられています。
 
 当時、生島湾近くには大きな泉があって鬼の子分が島から水を汲みに来ていたそうです。そこで桃太郎らはここで鬼の子分を取り押さえ、鬼ヶ島(女木島)へ行く道案内をさせ、鬼が島周辺で大海戦が行われました。鬼は島の岩窟に逃げ込みましたが、桃太郎は岩窟内に攻め込み鬼を降参させ、鬼の持っていた宝物を積んで中津の港に凱旋しました。しかし、鬼の残党が香西の海賊城に集まり攻めてきたので再び合戦になりました。桃太郎は急遽仲間に使を走らせて弓と矢をもってこさせ、威嚇のため弓の弦を鳴らしました。その辺りが「弦打」と呼ばれるようになりました。本津川一帯で激しい戦いが行われ、鬼はついに討たれ壊滅しました。鬼がいなくなったことから、その地域を「鬼無」と改名したということです。

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(25)“小豆島を遊幸した応神天皇”

 香川県小豆郡の小豆島は、瀬戸内海で淡路島に次いで大きな島です。小豆郡は「しょうず」、小豆島は「しょうど」と読みます。古代、この島は「あずきしま」と呼ばれ、「しょうどしま」と呼ばれるようになったのは鎌倉中期頃と言われています。

 日本最古の歴史書とされる古事記によると、伊邪那岐(いざなぎ)と伊邪那美(いざなみ)の夫婦神が淡路や伊予、筑紫などの大八州に続いて六つの島を国生みし、その六島の二番目に「小豆島(あづきしま)」別名「大野手比売(おおぬでひめ)」を国生みしたとあります。また日本書紀によると、応神天皇は、皇妃兄媛(えひめ)が吉備の国へ里帰りするに際し、難波から出帆する舟を高台から見送りながら瀬戸の島々を望み見て「阿波施辞摩(あわじしま)・弥二並び阿豆枳辞摩(いやふたならびあづきじま)・・」と詠んだとあります。小豆島はかって備前国に属しており、江戸時代になってから讃岐国に移されたといわれています。

 日本書紀によると、応神天皇は淡路島に狩りに行き、ついで吉備の国に行ったとあります。さらに、阿豆枳辞摩(あづきしま)で「あそびたもう」て、吉備の葦守宮に入ったそうです。応神天皇小豆島行幸に関する伝説は、島内のあちこちに残されています。

 応神天皇小豆島を遊幸したコースは、まず、四海の伊喜末(いきすえ)(現在の土庄港の北方)に上陸し、渕崎の塩土山(富丘)に登った後、しるしの森で柏樹をお手植えしました。「伊喜末」の地名は、天皇が鷹尾山に登り息をすえて休息したことから“息すえ”と呼ばれるようになったそうです。お手植えした柏樹が宝生院(ほうしょういん)のシンパクだそうです。

 また、池田半坂で小豆島の島魂神(しまたまがみ)である大野手比売(おおぬでひめ)を祀っています。島魂神を祀った場所は、現在の孔雀園に向かう道の途中にある道を、10mほど上ったところだそうですが、その後、小豆島の人たちの手によって、銚子渓お猿の国の頂上に大野手比売神社として、次いで、星ヶ城の山頂に阿豆枳島神社として移され、今に至っています。

 池田半坂で島魂神を祀った後、海路で西村へ向かい、水木に着きました。その後、苗羽の馬目木山(馬木)、草壁の神懸山(寒霞渓)に登りました。寒霞渓は、応神天皇が岩角や樹に鉤(かぎ)を懸けて登ったことから“かんかけ”と呼ばれるようになったと言われています。その後、橘(たちばな)から船に乗り吉備に向かいましたが、風雨のため福田(ふくだ)に避難した、ということです。「橘」の地名は浜に立ったことから“立ち浜”と呼ばれるようになったそうです。また、「福田」の地名は稲で屋根をふいた行宮(あんぐう)で休んだことから“葺田(ふきた)”と呼ばれるようになったといいます。

 「小豆島八幡宮五社由来記」によると、塩土山(富丘)は、応神天皇巡幸の跡地と伝えられ、その際、同じく巡幸の跡地4ヶ所へも八幡神社を勧請し、これら五社の八幡神社を「小豆島五社」と称している、とあります。天皇が、伊喜末、塩土山、池田の里、内ノ海の里、葺田の森を巡幸したという伝説は今も語り伝えられており、この伝説の地に応神天皇ゆかりの五社の八幡神社、すなわち「塩土山」に富丘八幡神社、「池田の里」に亀山八幡神社、「内ノ海の里」に亀甲山八幡神社、「葺田の森」に葺田八幡神社、「伊喜末」に伊喜末八幡神社が祭られたと伝えられています。


 




 


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(19)“讃岐に残る日本武尊の白鳥伝説”

 播磨灘の海岸沿いに広がる白鳥町は、白鳥神社の門前町として栄えた町です。神社裏の松原は三里(みり)の松原ともいい、往時、文字どおり三里12キロの美しい白砂青松の海岸があったといいます。この地には、日本武尊(やまとたけるのみこと)の霊が白鳥となって舞い降りたという伝説が残っており、白鳥神社日本武尊を祭神としています。

 4世紀頃、大和朝廷は日本の統一に乗り出し、強力な統治体制を確立しようとしました。景行(けいこう)天皇の第二皇子として生まれた日本武尊は九州の熊襲(くまそ)を征服し、その後、東国の蝦夷(えみし)平定にも成功しました。しかし、その帰り、伊吹山の悪神退治に出かけ、悪神の化身である白い猪(日本書紀では大蛇)を倒すことができず、怪しい大氷雨に悩まされ急病になります。それでも尊は大和へ帰ろうとしましたが、能褒野(のぼの)(三重県亀山市)に辿り着いた時、ついに力尽きてしまいました。能褒野に葬られた尊の魂は、白鳥となって大和へ向かい、琴弾原(ことひきのはら)(奈良県御所市)を経て、河内の旧市邑(ふるいちむら)(大阪府羽曳野市)に降り立ち、その後何処ともなく天高く飛び去ったと古事記・日本書紀は伝えています。亀山市・御所市・羽曳野市の三市には御陵があり、俗に「白鳥の三陵」と呼ばれています。

 これが有名な日本武尊の白鳥伝説です。全国に「白鳥」という地名はたくさんありますが、この伝説が関係しているところが多いようです。讃岐に残る伝説では、旧市邑で羽根を休まれた尊は、再び飛び立って、ついに三里の松原に留まれたので、ここに神陵を営まれたということです。そして、その時に羽根が落ちて地上につきささった所が羽立峠で、羽根が落ちた地が鶴羽だということです。また、源義経が劣勢のおり、白鳥の神に祈ると白羽が手中に舞い降り、奮起して屋島壇ノ浦の合戦に勝ったという話もあります。

 このような伝承を持つ讃岐の白鳥神社は奈良朝以前に存在していたと言われていますが、その後衰微し、高松藩初代藩主・松平頼重が現在の姿に再興し、幕府に願い出て朱印地としました。頼重は水戸光圀の兄です。

 頼重は寛文4年(1664年)、白鳥神社を再興すると、京都からこの神社の神官として猪熊兼古(いのくまかねふる)を招きました。猪熊兼古は奈良時代から亀卜(きぼく)を司る卜部(うらべ)家の直系で、「日本書記」の研究者として知られ、水戸光圀が「大日本史」をつくるときに資料を提供しています。この縁から猪熊家には光圀の書状が残っています。

 神社の東側には、猪熊兼古の神宮住居が残っています。この住居は京都から招かれたときに建てられたもので、平屋建て寄棟造りの母屋、切妻造り本瓦葺きの表門、本瓦葺きの長屋門や枯山水の庭園が残されています。邸内には国宝の『肥前国風土記』、国の重要文化財に指定された『紙本墨書周書』などが秘蔵されています。また熊野邸の前の神社境内には、樹齢700~800年のクスノキが生育しており、その高くそびえる景観は歴史的雰囲気を漂わせています。

 毎年10月に行われる白鳥神社の例大祭には、虎頭の舞(とらがしらのまい)が奉納されます。この舞は、和唐内にふんした少年が顔には隈取りをして日の丸の扇を持って虎を退治するという国姓爺合戦を模したものだといわれています。

 白鳥は讃岐三白(塩、砂糖、綿花)の積出港として繁栄し、江戸期には芝居小屋・茶屋・宿屋などが立ち並ぶ庶民の遊楽が許された東讃岐の唯一の町でした。


 




 


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