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(番外1) 細川頼之と讃岐

  プロローグ
一、頼之の生まれ育った時代
二、父とともに阿波へ
三、父の後を継ぐ
四、清氏との戦い
五、四国管領
六、幕府管領
七、讃岐帰行
八、再び上洛
九、頼之後の讃岐

● プロローグ
 京都の右京嵯峨の衣笠山に、地蔵院という臨済禅宗の寺があります。通称、「谷の地蔵」とか「竹の寺」と呼ばれています。この寺の本堂前に細川頼之(ほそかわよりゆき、一三二九年~一三九二年)という人物の墓があります。この人は室町時代初期の南北朝時代に足利尊氏(たかうじ)、義詮(よしあきら)、義満(よしみつ)の三代の将軍に仕えた武将で政治家です。
 頼之は管領(かんれい)として義満をよく補佐し、誠実を貫き、仁政を布いて信望を集めたといわれています。また武士でありながら和歌や詩文、連歌など公家文化にも親しみ、詠んだ和歌が勅撰集に入撰するなどの文化人でもありました。
 地蔵院は、南北朝時代の一三六七年(貞治六年)に、頼之が夢窓疎石(むそうそせき)を開山として創建したものです。この寺は一休禅師が幼少の頃修養した寺でもあります。頼之は幼少の頃に禅僧である夢窓疎石から影響を受けたといわれており、禅宗を信仰して京都に地蔵院のほか景徳寺、阿波に光勝寺などの建立も行っています。
 しかし、創建された当時の地蔵院堂舎は応仁の乱により悉く焼失してしまい、現在のものは江戸時代の一七○四年(宝永元年)に再建されたものです。本堂には本尊地蔵菩薩や、頼之が帰依したといわれる夢窓疎石とその高弟・宗鏡禅師、頼之公の木像が安置されています。また方丈の前庭には「十六羅漢の庭」と呼ばれる枯山水庭園があります。
 南北朝時代の動乱を描いた「太平記」は頼之が管領になったときで終わっており、頼之は動乱を収束に導き、室町幕府の基礎を築いた人ですが、頼之と讃岐とは深い縁があり、讃岐にはその足跡が現在も多く残っています。

一、頼之の生まれ育った時代

● 細川一族
 細川氏は足利氏の一門で、足利氏の祖・義康(よしやす)の曾孫・義季(よしすえ)に始まり、鎌倉時代に三河国細川郷(現在の愛知県岡崎市)へ移住したためその郷名にちなみ細川の姓を名乗るようになったものです。頼之は、鎌倉時代末期の一三二九年(元徳元年)、細川頼春(よりはる)の長子として三河国細川郷に生まれました。幼名を弥九郎といい、母は里沢禅尼です(ただし出家後の名前)。頼之の弟には、頼有(よりあり)、詮春(あきはる)、頼元(よりもと)、満之(みつゆき)がいます。妻は持明院保世の娘で、足利義満の乳母をしていたといわれています。
 頼之の祖父は細川公頼といい、父・頼春には兄の和氏(かずうじ)と弟の師氏(もろうじ)がいます。祖父・公頼の弟は細川頼貞といい、その息子には顕氏(あきうじ)・定禅(じょうぜん)・直俊・皇海(こうかい)がいます。したがって、和氏・頼春・師氏の三兄弟と顕氏・定禅・直俊・皇海の四兄弟は従兄弟関係に当たります。後日、和氏・頼春の兄弟は阿波へ、顕氏・定禅の兄弟は讃岐へそれぞれ進出していくことになります。
 頼之は幼少時に聡明さを見せ、また従兄弟の清氏(きようじ)と力比べをしたというエピソードが残っています。清氏は頼之の伯父・和氏の息子で、後日頼之と戦う運命にありました。

● 後醍醐天皇の倒幕活動
 一三二四年(正中元年)、皇位継承についての鎌倉幕府の裁断に不満をもっていた後醍醐天皇は、幕府を打倒しようと企てます。しかしこの計画は露見して天皇の側近の日野資朝(すけとも)、俊基(としもと)らが幕府に捕らえられ処分されます。これを正中の変といい、後醍醐による最初の倒幕活動でした。
 その後の一三三一年(元弘元年)(頼之三歳の頃)、天皇は再度倒幕を企てますが、これも発覚し、身辺に危険が迫ったため御所を脱出して笠置山(現・京都府相楽郡笠置町内)に篭城します。しかし、幕府軍の圧倒的な兵力の前に笠置城は陥落し、天皇は捕らえられ、隠岐に配流されます。これが元弘の乱です。
 なお、このとき天皇の第三皇子である宗良(むねなが)親王は讃岐へ配流となり、備前国を経て詫間に上陸し、荘司の詫間三郎という者に預けられ、しばらく海辺に近い地に滞在したと伝えられています。今も、ここには王屋敷という地名が残り、石碑が建てられています。ただし、親王は松山の津(現在の坂出市林田)に上陸したともいわれています。その後、親王は自ら勝間郷加茂村松林(現在の三豊市高瀬町)の丘上を好まれてそこで過ごし、まもなく国府や守護所に近い阿野郡松山に移されたといわれています。

● 鎌倉幕府の滅亡と建武の新政
 ところが天皇の倒幕計画には悪党や海賊などの勢力も味方となっており、後醍醐天皇が捕えられて配流された後も各地での反乱は収まりませんでした。
 天皇は一三三三年(正慶二年/元弘三年)、密かに隠岐島を脱出し、伯耆国船上山で挙兵します。これにより各地の軍勢が、続々と天皇方に味方していきます。この年、足利高氏は鎌倉幕府の命により反幕勢力を鎮圧するために大軍を率いて上洛します。(尊氏は当初、高氏と名乗っていた。)ところが、幕府執権の北条氏に反感を抱いていた高氏は、反旗をひるがえして倒幕に転じ京都の六波羅を攻撃します。また関東では新田義貞(にったよしさだ)らが鎌倉を攻略します。これにより鎌倉が陥落し、ここに鎌倉幕府は終焉を迎えます。宗良親王も讃岐に留まること一年三ヵ月の後、京に戻ります。
 その後、天皇は親政を開始します。これが建武の新政です(一三三三年、頼之五歳の頃)。このとき、細川一族は足利一門として尊氏方につき多くの戦功を上げます。
 新政がなった後、尊氏は鎌倉幕府の残党を押さえるため、細川定禅(じょうぜん、頼之の父・頼春の従兄弟)を讃岐に、細川和氏(かずうじ、頼之の伯父)を阿波にそれぞれ派遣します。定禅はもと鶴岡八幡宮の別当をしていたといわれる人物です。

● 尊氏の叛乱と細川一族の四国への進出
 親政を開始した後醍醐天皇は、天皇への権力集中を進めようとします。しかし、その改革は、戦功にみあう恩賞を受けられなかった武士だけでなく、旧来の公家社会からも反発を招き、崩壊へと向かいます。
 一三三五年(建武二年)七月(頼之七歳の頃)、旧幕府勢力が北条高時の遺児である時行を擁して信濃で挙兵します。これを中先代の乱といいます。北条軍は一時鎌倉を占拠しますが、京から向かった足利尊氏に撃破されます。しかし、鎌倉を奪回した尊氏はそのまま動こうとせず、後醍醐天皇の上洛命令を拒絶して建武政権に対して反旗を掲げます。
 建武政権は尊氏を討伐するため、尊良親王(たかよししんのう又はたかながしんのう)を大将とした新田義貞の軍が京から鎌倉に向かいます。尊氏軍と新田軍は箱根の竹下で衝突し、この戦いに勝利した尊氏は京に攻め上がります。
 この尊氏の動きに呼応して、讃岐では、細川定禅が、かねてから建武政権に不満を持つ香西・詫間・三木・寒川氏らの讃岐武士を率いて香西郡鷺田(さぎた)(現在の高松市鶴尾地区)で挙兵し、屋島の南方にある喜岡城(別名高松城)に居た宮方の舟木(高松)頼重(よりしげ)を攻めます。舟木氏は美濃源氏・土岐氏の流れをくみ、鎌倉時代に伊勢から渡ってきたといわれ、新政の勲功により宮方から讃岐の守護に任じられ、高松郷と呼ばれたこの地を居城としてから高松氏を名乗っていました。
 頼重は屋島の麓に打ち出て兵を集めようとしますが、定禅らが機先を制して夜討ちをかけたため、高松氏一族の多くは討死し、落城しました。喜岡城跡は、JR屋島駅の南東の小高い丘の上にあり、今は喜岡寺や喜岡権現社などが建っています。 
 なお、それから約二五○年後の一五八五年(天正一三年)四月、この城は再び歴史の舞台に登場します。豊臣秀吉は四国を平定するため、弟の秀長を大将に阿波、讃岐、伊予の三方面から大軍を送り込みます。讃岐へは宇喜多秀家を総大将として、蜂須賀正勝、黒田孝高、仙石秀久らの軍が屋島に上陸します。最初に攻撃の目標となったのがこの喜岡城でした。このとき、城主の高松左馬助(頼邑)をはじめ、香西より援軍にきていた唐渡弾正(からとだんじょう)、片山志摩(かたやましま)以下二○○人余の兵は防戦に努めましたが、全員討死にしました。これにより讃岐の戦国時代は終わりを告げ、近世の幕が開きます。また、この戦いは讃岐国内での最後の戦でした。
 喜岡城を落とした定禅は、さらに反宮方の四国勢を結集し、宇多津で兵船を整えて備前児島に上陸します。そして、中国勢と合流して播磨の赤松範資と共に新田軍を破って入京し、ちょうど関東から攻め上がっていた尊氏軍と共に三井寺、賀茂河原、糺河原などで奮戦します。
 尊氏や定禅らの反宮方勢はいったん京都を占領しますが、奥羽の兵を率いて上洛してきた北畠顕家に大敗し、九州に向かって海路撤退します。定禅も敗兵をまとめて讃岐に戻り、再挙を図ります。九州へ下る途中のこのとき、尊氏は、播磨の室の津で軍議を開き、後備えのため、山陽・四国の国々に武将たちの統率にあたる国大将を配置します。四国には、細川一族の七人(和氏・頼春・師氏の三兄弟と、その従兄弟にあたる顕氏・定禅・直俊・皇海の四兄弟)を配置し、特に和氏(頼之の伯父)と顕氏(頼之の父の従兄弟)の両人には尊氏軍に加わる国人に対して恩賞を行う権限を与えます。一三三六年(建武三年)(頼之八歳の頃)のことです。

● 湊川の戦
 京都を逃れいったん九州に撤退した尊氏は、多々良浜(現福岡市内)の合戦で菊池氏ら九州宮方に勝利して態勢を挽回します。そして、建武政権に不満を持つ武士を糾合し、大軍を率いて再び京へ海路向かいます。讃岐で再挙の機をうかがっていた定禅も五○○余りの軍船と五○○騎の兵を率いて再び尊氏軍と合流します。
 一三三六年(建武三年)五月二五日、ついに尊氏軍は摂津の和田岬に上陸し、新田義貞・楠木正成の軍と衝突します。これが湊川の戦です。定禅が率いる香西・詫間氏ら讃岐武士はこのときも尊氏軍に加わり活躍しています。この戦いに敗れた楠木正成は弟・正季(まさすえ)とともに自刃し、勝利した尊氏は京都を奪還します。

● 室町幕府の開幕と南北朝時代の始まり
 京都を占領した尊氏は、北朝の光明天皇を擁立して征夷大将軍の宣下を受け、建武式目を制定して一三三六年(延元元年)(頼之八歳の頃)、一一月七日に京・室町に幕府を開きます。そして足利一門を各地に派遣して諸国を指揮させます。
 一方、後醍醐天皇は吉野に逃れ、南近畿の勢力を背景に挽回を図ります。ここに京都の北朝と吉野の南朝が分立する南北朝時代が始まります。その後約六○年間にわたって動乱が続き、両朝が 合体したのは頼之が六四歳で死去した年です。
 なお、讃岐で挙兵した定禅はその後も畿内における南朝勢力と戦って多くの武功を挙げたといわれていますが、その後の動向は定かでありません。

二、父とともに阿波へ

● 和氏・頼春の阿波進出
 頼之の伯父・和氏と父・頼春は、足利尊氏の挙兵にあたり、関東や近畿の各地を共に転戦して軍功をたてました。尊氏が京都に幕府を開くと、和氏は引付頭人次いで侍所頭人と幕府の要職に補任されとともに阿波・淡路の守護となり、弟・頼春と阿波の秋月城に「四国軍府」を開き、吉野川流域の武将を従えていきます。秋月城は土豪秋月氏の元居城で、現在の徳島県土成町の北側山麓にあります。
 和氏は幕府の要職にあったため、ほとんど在京していたものと思われますが、早々に引退し、阿波を弟・頼春に、淡路を弟・師氏にそれぞれ委ねます。隠居後、和氏は阿波で過ごし、夢窓疎石を招いて補陀寺を開いたといわれており、一三四二年(康永元年/興国三年)、四七歳で死去しました(頼之一四歳の頃)。その後、頼春は代々管領を輩出する細川氏の宗家である京兆家、師氏は淡路守護家の始祖となります。
 和氏から秋月の軍府を継いで阿波守護となったのは、和氏の弟・頼春でした。頼春は、阿波西部の在地武士の旗頭である池田城の小笠原義盛を細川陣営に引き入れるなど、阿波の南朝勢力の掃討を進めます。なお、阿波の小笠原氏は甲斐源氏を祖とし、鎌倉時代の承久の乱のときに信州から阿波に領地を与えられて移住してきた東国武士です。戦国時代に活躍する三好長慶をはじめとする三好一族のルーツです。
 さらに頼春は尊氏から四国大将に任じられ、伊予の脇屋義助が病死した機会をとらえて、阿波・讃岐・淡路の軍を率いて、川之江城を攻め落とし、さらに金谷経氏を破り、世田城の大館氏明を攻め滅ぼしています。この頼春の伊予侵攻により四国の南朝方は大打撃を被りました。
 なお、脇屋義助は、新田義貞の弟で、南朝方から四国・西国の大将に任じられて伊予へ下向したものの、わずか一ヵ月で病死しました。その後、義助の息子の義治や家臣は讃岐にやってきたといわれており、三豊市高瀬町の上高瀬楠井には新田義貞を祭神とする新田神社があり、東かがわ市大内町のJR丹生駅から西の山裾には義治の墓があるといわれています。
 頼春は畿内でも戦っており、一三四八年(貞和四年/正平三年)の四条畷合戦では四国の軍を率いて、楠木正行(まさつら)(楠木正成の遺子)を敗死させています。
 頼之が父・頼春に従って三河から阿波へいつ渡り、どのような活動をしていたかはよく分かりません。頼春は幕府の重臣であったことから在京していた時期が長いと思われます。しかし、父・頼春が一三五二年(観応三年/正平七年、頼之二四歳の頃)に京の七条大宮の戦いで戦死したとき、頼之は阿波から京へ上り父の弔い合戦をしていることからすると、父・頼春に代わって統治をするため阿波で居住していたものと思われます。その後、頼之は阿波から讃岐へと進出していくことになります。なお、徳島城は、頼之が絶海中津(ぜっかいちゅうしん)という臨済宗の僧をともないこの地を訪れ、風光明媚な土地に「渭津城」を創築したのが始まりだといわれています。

● 讃岐守護・顕氏
 隣国讃岐においては、和氏・頼春の従兄弟で定禅の兄に当たる顕氏(あきうじ)が幕府成立直後に守護となります。顕氏は、讃岐国のほか河内国、そして和泉国の守護と侍所頭人にも任じられています。このため、在京しているか、あるいは畿内での南朝軍との交戦に従事しており、分国讃岐に下ることはほとんどなく、その経営も守護代を通じて行われていたようです。このときの讃岐守護所は鎌倉時代を通じて宇多津にありました。
 顕氏が守護をしていた頃の讃岐の南北朝軍の形勢は、北朝方に香川郡の香西氏、三木郡の三木氏、寒川郡の寒川氏、三野郡の詫間氏などがつき、南朝方に阿野郡の羽床氏がついているという状況で、すでに北朝が優勢でした。しかし、一三三七年(建武四年、頼之九歳の頃)、阿波の南朝方に通じる財田義守が本篠(もとしの)城に立て籠もり叛旗を翻すという事件が起きています。本篠城は、現在の財田町財田中の猪鼻越の北西の山峡にあり、阿波、伊予の南朝方と連絡するのに都合の良い地にありました。このため、讃岐の南朝勢力がそこを拠点にしようとしたものと考えられます。結局この反乱は顕氏の命により鎮圧されます。
 顕氏は、父・頼貞の菩提を弔うため宇多津に長興寺(ちょうこうじ)を建立しています。この寺は、夢窓疎石の勧めで尊氏が諸国に建立を命じた安国寺にあてられた寺でしたが、今は廃寺となり、春日社の東にある長興寺井戸と呼ばれる井戸のみがその名残をとどめています。

● 観応の擾乱
 一三五○年(観応元年/正平五年、頼之二四歳の頃)、将軍である尊氏と、弟の直義(ただよし)の二頭政治が幕府内に二つの党派を生み、両派の対立が表面化します。この幕府の内部抗争を観応の擾乱(かんのうのじょうらん)といいます。その経緯は次のとおりです。
 まず、尊氏の執事の高師直(こうのもろなお)と直義が激しく対立しました。尊氏の権限を代行する立場にあった師直の勢力拡大に危機感をもった直義は、養子の直冬(ただふゆ)を中国地方へ派遣し、師直の打倒をはかりました。しかし、師直は自派の軍勢を率いて幕府をかこみ、尊氏にせまって直義を引退させました。
 先手をとられた直義派は各地で挙兵し、南朝方について師直討伐を正当化して京都を占領し、両派は全面戦争へ突入しました。そして一三五一年(観応二年/正平六年)二月一七日、両派の主力が摂津国の打出浜で激突し、直義派が勝利します。このとき高師直一族は謀殺されてしまいます。また、東北や関東でも直義派が勝利します。そこで尊氏と直義はいったん和睦し、直義は尊氏の子の義詮(よしあきら)を後見するかたちで幕府政治に復帰することになりました。
 しかし、その後、尊氏と義詮があいついで京都を離れ、直義を挟み撃ちする作戦に出たため、直義は京都を脱出して自派勢力の強い北陸を経て鎌倉へ逃走しました。  
 すると今度は尊氏が南朝方に降伏して直義討伐を正当化し、直義派を追って鎌倉へ向かいます。このときの尊氏の南朝方への降伏により、一時期南北両朝が南朝により統一されます。これを正平一統といいます。鎌倉へ向かった尊氏は直義を降伏に追い込み、直義は毒殺されたといわれています。

● 阿波守護・頼春と讃岐守護・顕氏の対立
 観応の擾乱において、讃岐守護の顕氏は直義側に与して尊氏と敵対します。これは、一三四七年(貞和三年/正平二年)、顕氏が南朝勢力である楠木正行(まさつら)(楠木正成の遺子)の和泉・河内での蜂起に対して、守護であるにもかかわらずその鎮圧に失敗して和泉・河内の守護権を高師泰に奪われたことなどが原因だといわれています。
 これに対して、阿波守護の頼春は尊氏方に与します。このため讃岐守護の顕氏と阿波守護の頼春とは、それぞれ直義側と尊氏側に属して敵対します。しかし、両者が阿波や讃岐で正面衝突することはなかったようです。これは双方ともに、讃岐・阿波両国内での所領が混在・錯綜しており、それぞれに従う国人土豪層も色分けしかねる状態だったためだといわれています。
 後に、顕氏は再び尊氏に帰順していますが、直義の勢力が弱まると顕氏の勢力も弱まり、阿波守護・頼春の勢力が讃岐国内でも強くなっていきます。

 三、父の後を継ぐ

● 父・頼春の死
 正平一統が成立したことにより、南朝の後村上天皇が帰京するという噂が広がり、各地で南朝勢力の活動が活発化します。一三五二年(観応三年/正平七年)二月二六日(頼之二四歳の頃)、南朝の後村上天皇は賀名生(あのう、奈良県五條市)を出発し、閏二月一九日、山城国男山(京都府八幡市)に行在所を置き、翌二○日、北畠顕能、楠木正儀らの南朝軍がいっせいに京都に突入します。尊氏は直義を打つために鎌倉へ向かっており、京に残っていた北朝方武将は息子の義詮と讃岐守護・顕氏や阿波守護・頼春などだけでした。顕氏と頼春は、南朝軍を迎え、讃岐・阿波の武士を率いて奮戦しますが、頼之の父・頼春は奮戦かなわず七条大宮で戦死します。
 義詮は顕氏らと近江に逃れ、各地の北朝側の武士に参陣を命じて反撃に移ります。阿波に居た頼之もこれに応じて京奪還のために阿波の兵を率いて京へ向かい、男山八幡に籠もる南朝を攻撃する軍勢に参陣しています。五月一一日、北朝軍の反撃により八幡の南朝軍は総崩れとなり、後村上天皇も賀名生へ逃げ帰ります。この戦いを男山合戦といい、顕氏が北朝軍の主将を務め、讃岐武士も参戦しています。
 この戦いの後、頼之は父・頼春の遺骸を収めて阿波へ帰り、秋月補陀寺の傍に光勝院を建てています。後に、細川詮春により、光勝院は現在の大麻町萩原に移転されています。
 頼春の死に遅れること四ヵ月後、顕氏も後を追うように病死します。これにより阿波、讃岐ともに世代が変わり、頼春の子・頼之が阿波守護となり、顕氏の息子の繁氏(しげうじ)が讃岐守護となります。

● 伊予守護・中国管領
 一三五四年(文和三年/正平九年、頼之二六歳の頃)、頼之は伊予国の守護にもなり、南朝に属して京都を脅かしていた足利直義の養子・直冬の勢力が伊予に及ぶと、河野氏ら伊予の国人勢力らと戦い四国における領国支配体制を固めていきます。
 さらに一三五六年(延文元年/正平一一年、頼之二八歳の頃)、頼之は備前・備中・備後の守護にもなり、中国管領として中国の平定を命じられ、中国地方における山名時氏や大内弘世の勢力と戦います。このようにして頼之は北朝側の有力武将として次第に幕府内で頭角を現していきます。

● 頼之の讃岐進出
 一方、顕氏から讃岐守護を継いだ繁氏は、一三五九年(延文四年/正平一四年、頼之三一歳の頃)、九州の南朝勢を攻略する大規模な遠征を計画し、讃岐で兵力を蓄えていましたが、出陣する直前に急死してしまいます。太平記によると、繁氏は軍資金を得るために崇徳院陵(崇徳天皇の墓所)を横領して呪詛にされたといいます。
 繁氏の死により讃岐では守護権限が空白となり、隣国・阿波の守護である頼之の勢力が及んでいくことになります。

● 岡屋形
 一三五七年(延文二年/正平一二年、頼之二九歳の頃)から、頼之は香川郡岡(現在の香南町岡地区)に居館を築き、讃岐の進出拠点とします。これを「岡屋形(おかのやかた)」といいます。
 頼之が進出する前この地には岡蔵人行業の城があったといわれています。讃岐を巡見した頼之は、この地が讃岐の中央にあり、西南に山を負い、東に大河が流れ、北は荒野茫々として要害堅固で風景勝絶であることから、ここに高城を築いて岡屋形と号したといわれています。また、城の守備として一里四方に神祠を営み、四方権現とし、東は芦脇権現、南は池谷権現、西は池の内権現、北は龍満権現を祀ったということです。今もある池谷神社はその一つだといわれています。
 岡の地は、阿波の吉野川中下流域とその山岳地帯から阿讃山脈を超えて讃岐中央部へ抜ける讃岐側の結節点に位置します。また、阿波と鎌倉時代から讃岐の守護所がある宇多津との中間点にも位置しています。このようなことからこの地が阿波と讃岐を支配するための適地だったのではないかと思われます。
 岡屋形は行業城の側に築かれたといわれており、その場所は現在の天福寺の麓の小丘上にある岡城跡の東と見られています。岡城跡の微高地に続く東の高まりは、ほぼ南北に走る二mの段差で東端になっており、この辺りが岡屋形跡で、「キタダイ、ヒガシキタダイ」の小地名が残る辺りにあったのではないかといわれています。
 また、頼之は、母が京都石清水八幡宮に祈願して自分が産まれたことから、熱心な八幡宮の熱心な信仰者であったといわれており、岡屋形の近くにあった宝蔵寺という寺と一体の小さな祠に、京都石清水八幡宮の冠を請うて納め、自ら供奉するかわりとしたといわれています。それ以降、「尾」は「緒(お)」=「ひも」の意味だということから、「冠尾(かむりお)八幡宮」と呼ぶようになったといいます。冠纓神社と呼ぶようになったのは、明治以降のことです。
 頼之は、伊予の河野氏を討ったとき、冠尾八幡宮に戦勝を祈願して大勝したので、社殿を壮麗にしたといわれています。なお、冠纓神社には陰陽師の安部晴明が祀られており、晴明は讃岐の出身だという説があります。
 また、香東川東岸に仏地院立善寺という寺がありますが、この寺は頼之が岡屋形の鬼門鎮守として建立したものといわれています。

 四、清氏との戦い

● 清氏の叛乱
 細川清氏(きようじ)は、頼之の伯父・和氏(最初の阿波守護)の息子で頼之とは従兄弟関係にあります。清氏は、観応の擾乱では叔父の頼春らとともに常に尊氏方として戦い、伊賀守護・若狭守護・評定衆・引付頭人と幕府内における地位を高めていました。一五五八年(延文三年/正平一三年、頼之三〇歳の頃)四月三〇日に尊氏が没し、足利義詮(よしあきら)が二代将軍の座につくと、清氏がその執事に就任します。なお、尊氏の死後、丁度一〇〇日目にその後三代将軍となる義満が誕生しています。
 執事となった清氏は急速に勢力を拡大していきますが、その強引な性格から、幕府内の諸将と対立し、一三六一年(康安元年/正平一六年、頼之三三歳の頃)、清氏に恨みを抱いていた佐々木道誉(どうよ)に讒言(ざんげん)を受け、義詮から謀反の疑いをかけられてしまいます。佐々木道誉は近江源氏の出で、丸亀京極家の祖先です。当時、沙羅(ばさら)大名と呼ばれていた人物です。
 義詮に追われ京を逃れた清氏は、分国若狭へ逃れますが、国人たちに背かれたため北朝方から南朝方へ寝返ります。その後、清氏は、かつて父・和氏の分国であった阿波へ渡り勢力を回復しようとしますが、阿波にはすでに頼之の支配が及んでいたため讃岐へ移ります。清氏が讃岐に来たのは、讃岐では守護の細川繁氏が一三五九年(延文四年/正平一四年)に亡くなり、守護権限が空白になっていたためではないかと思われます。
 清氏は、まず、三木郡白山の麓に陣を置き、讃岐の国人に自己の陣営に加わるよう呼びかけます。そして、山田郡を根拠とする植田一族らがこれに応じます。
 植田氏のルーツは、南海道を治めるために讃岐に派遣された神櫛王(かんくしおう)であり、その父は景行天皇であるといわれています。王の後裔が讃岐公(さぬきのきみ)となり、鎌倉時代には山田郡を根拠とする植田氏となって東讃岐を勢力圏としていくとともに、十河・神内・三谷などの諸氏に分かれていったといわれています。
 植田一族の中でも清氏の呼びかけにすぐに応じたのが十河首領十郎です。次いでその兄の神内次郎景辰、三谷八郎景之が加わりました。この三兄弟の父は、植田景保という国人です。このとき、清氏は「十河は庶子ではあるが、惣領の挙動だ」といって、これ以降十河を植田一族の惣領に定めたといわれています。
 清氏は、その後、白山から今の坂出市林田の地にある白峯雄山の高屋城に陣を構えて兵を募ります。
 一方、義詮は、清氏追討の令を清氏の従兄弟である頼之に対して発します。このとき頼之は中国管領として備前・備中・備後の守護を兼ね、さらに阿波、伊予の守護でもありました。頼之は清氏が讃岐に進撃してきたときは、備中の国に渡り、山陽道一帯の南朝方の反乱を鎮圧しているところでした。
 そこで、頼之は急いで宇多津に帰り青ノ山に陣をはり、中国の兵の応援を求めます。しかし、小豆島の星ヶ城を拠点とする佐々木信胤(のぶたね)や、塩飽諸島の塩飽十郎らが率いる水軍が瀬戸内海の海上権を押さえていたため、備前から増兵を迎えることは困難な状況でした。なお、信胤にはお才居の局との悲恋物語が残っています。

● 白峯合戦
 頼之と清氏は、宇多津と高屋で陣を構え、睨み合いを続けますが、形勢は頼之に不利でした。そこで頼之は母の禅尼を清氏に遣り策略をもって交渉させ、日を延ばしてその間に兵力を増強し、陽動作戦に出ることとします。頼之は家臣の新開真行とはかって、西長尾城(現在の満濃町)に籠もる南朝軍を夜討ちするようにみせかけて軍を派遣します。清氏はこれをみて驚き、高屋城の兵の大部分を西長尾城の救援に向かわせてしまいます。頼之がこの虚をついて高屋城を急襲したところ、清氏は自ら城を飛び出してしまい、あえなく味方の三六人とともに討ち死にしてしまいます。この戦を白峯合戦といいます。一三六二年(貞治元年/正平一七年、頼之三四歳の頃)の出来事です。この合戦は北朝側の勢力関係を決定づけたという意味で日本史上も重要なおいわれています。
 坂出市林田町のさぬき浜街道と産業道路の交差点から産業道路を少し南に行くと、左手の田んぼの中に「細川将軍戦跡碑」という史跡が残っています。ここが白峯合戦の古戦場です。この碑は江戸時代、中山城山の筆になるものです。この辺りの所は、「三十六さん」と呼ばれ、清氏とその従士三六人が、頼之の軍と奮戦苦闘、遂に力つきて、主従共に壮烈な戦死を遂げ、屍を埋めたと伝えられています。このことは「太平記」にも描かれています。
 なお白峯合戦では頼之の家臣で乃木備前次郎という人物が討ち死にしています。日露戦争のときの旅順攻略で有名な乃木希典はその子孫です。
 敗れた清氏は三木郡白山の麓に葬られたといわれています。白山の麓の畜産試験場の横に小さな祠があって五輪塔が建っているそうですが、この塔は、清氏のものと伝えられており、毎年八月には供養祭が行なわれているとのことです。
 またこの戦で勲功のあった備前の国の住人である伊賀掃部助(かもんのすけ)は阿野郡千疋ノ巴を頼之から所領として与えられています。
 白峯合戦についての言い伝えは他にもあります。合戦に際して、頼之は青ノ山に陣を張りましたが、清氏の追撃を受け危機迫り、土器八幡宮に祈願したところ、海水が押し寄せ田畑を没し、敵の攻撃を防ぐことができたので、それから土器八幡を「田潮八幡」と呼ぶようになったといわれています。田潮八幡宮の社頭には、頼之御手植えといわれる松の老樹(頼之の松)がありましたが、明治四五年に枯死し、今は石碑があるのみとなっています。戦いの際の先勝祝いにこの松が神社に寄進されたといわれています。
 また、青ノ山の北西の麓に「駒ヶ林」というところがあります。ここは頼之が白峰合戦の時、その出陣をこの松林の中に軍馬を隠して勢揃いして進軍したということに由来するといわれています。

 五、四国管領

● 讃岐守護・四国管領
 白峯合戦の勝利により、頼之は追認の形で讃岐守護に任じられ、同時に土佐守護にも任じられて四国全体の守護となります。一方、この頃、山名時氏や大内弘世らが南朝方から幕府方に帰服していったため、中国地方が安定していきます。このため頼之は中国筋の守護を徐々に辞し、四国管領と呼ばれるようになり、細川家の中でも中心的な存在となっていきます。なお、山名時氏の説得工作には頼之も関わっていたといわれています。
 なお、頼之は、讃岐守護時代に、宇多津の西光寺本堂の建立、滝宮神社(祭神須佐之男命(すさのおのみこと))の再興や六万寺の保護なども行ったといわれています。長尾の亀鶴公園の宮池も一三六四年(貞治三年/正平一九年)に頼之が築造したものといわれています。

● 東国武士の讃岐入国
 頼之の讃岐入国にともない、その家臣である東国武士も頼之に従って讃岐に入って来ています。香川、奈良、安富、由佐などです。
 香川氏は、相模国の香川郷(神奈川県茅ヶ崎市郊外)の出といわれ、白峯合戦の功により多度、三野、豊田の西讃三郡を与えられ、多度津本台山に居館を置き雨霧山に城を築きます。
奈良氏は、もと武蔵国大里郡奈良を本拠とする関東御家人といわれ、白峯戦の功により鵜足(現宇多津あたり)・那珂(現丸亀あたり)の二郡を与えられ、聖通寺山に城を築きます。
 安富氏は、下総国(しもうさ)の出といわれ、三木郡の平木城に移り住んだ後、雨滝山に城を築きます。
 由佐氏は、常陸国の出身で、今の香南町に由佐城を築きました。冠纓神社の東一km、香東川の西畔にその跡があります。
 この他、石丸氏、二川氏、益戸氏なども、頼之とともに讃岐にやって来た東国武士だといわれています。

● 讃岐国人の被官化
 頼之が守護として四国を領有し、讃岐もその治下になったことにより、讃岐国内の国人(地元はえぬきの武士)もことごとく頼之に隷属していきます。主な国人は、香西・羽床・新居・福家氏など讃岐藤氏の一族、長尾・寒川・三木氏など讃岐橘氏と呼ばれた一族、十河・神内・三谷などの植田一族、その他秋山・近藤・大平氏などです。なお、秋山氏は鎌倉時代の元寇があった頃に、甲斐から讃岐に移住してきたといわれています。
 香西氏は、頼之のときに細川氏の家臣となった讃岐の代表的な国人です。その祖先は、平安時代の一二世紀初めに、讃岐国司となった藤原家成と綾氏の娘との間にできた綾章隆(あきたか)で、綾氏は武殻王(たけかいこのみこと)の子孫であるといわれています。章隆の子孫が次第に勢力をあげて武士団化し、羽床、香西、大野、福家、西隆寺、豊田、柞田、柴野、新居、植松、三野、阿野、詫間などの諸家に別れていきました。これらの国人を讃岐藤家といい、中でも香西氏は鎌倉時代、承久の変で幕府のために戦い、その功によって香川・阿野郡を支配することになっていきました。そして、勝賀山に城を築き、東山麓の佐料に居館をつくって海陸ににらみをきかせながら勢力を伸ばしていきます。香西の町は道が至るところで折れ曲がり、家の向きが整然としていないところがあり、このことから「むきむきの町」といわれていなすが、これは香西の町が中世の城下町だった頃の名残だといわれています。
 羽床氏は、香西氏と同じ讃岐藤家の流れで、その中でも嫡流に当たり、現在の綾南町羽床下にある城山に羽床城を築きます。しかし、鎌倉時代の承久の変で朝廷側に与したり、南北朝時代に南朝側に与したことにより、讃岐藤家棟梁の地位を香西氏に替わられ、のち香西氏の陣代として細川氏に従います。羽床氏は南北朝時代、羽床七人衆を率いて、京・機内で武勇を轟かせたといわれています。
 十河・神内・三谷などの植田一族は、南北朝時代の初めは南朝方の清氏に従いますが、その後、細川氏に従います。十河氏は、現在の高松市十川東町の丘陵に城を築き、代々居城とします。現在、十河城跡には、称念寺という寺が建っています。十河氏は、戦国時代には、阿波の三好長慶の弟・一存(かずまさ)を養子に迎え、一存は、長兄三好長慶と共に畿内で奮戦し 「鬼十河」との異名をとります。一存の没後は、三好義賢の子存保(まさやす)が継ぎ、三好氏の勢力を背景に讃岐の旗頭となり、土佐の長宗我部元親と戦います。三谷氏は王佐山城を築いています。
 寒川氏も讃岐公の一族で、世々寒川郡の郡司を務め、その後裔が寒川氏を称したと伝えられています。昼寝・挙山・虎丸等の諸城を構えて東讃岐に威勢を振るい、細川氏に属し大内郡内で一万石を領していました。

● 宇多津守護所
 頼之は岡屋形とともに、宇多津の守護所にも巨館を構えています。宇多津の守護所は、青ノ山の北西の麓と大束川に挟まれた現在の多聞寺とその南の円通寺の辺りにあったのではないかと考えられています。円通寺には頼之公お手植えの松がありましたが、残念ながら枯れてしまいました。宇多津は鎌倉時代から讃岐守護の居城となっており、室町時代は細川氏、次いで奈良氏の城下となり、生駒氏が高松に築城するまで讃岐の中心的な城下町として栄えました。
 今でも宇多津には多くの寺が残っていますが、これらの寺は、守護所を防衛する軍事的な役割と軍勢の宿営地に当てられたためだといわれています。今の高松、丸亀にある寺の中には元は宇多津にあったものがあります。高松の浄願寺や見性寺、丸亀の円光寺や威徳寺などです。生駒氏が高松、丸亀で城下町を造るため、宇多津からこれらの寺を移転させたものです。
 宇多津に守護所のあった当時、この辺は旧国道一一号線から以北は遠浅の海で、青ノ山の北麓まで海水が寄せていたと考えられています。このためこの当時丸亀方面から宇多津に行くには、青ノ山を越えるか、南から迂回するしかなかったようです。当然のことながら、この当時、丸亀、坂出は寒村だったところです。坂出という地名も宇多津から田尾坂を越えて出たところにある土地ということからついたものです。高松も箆原荘(のはらのしょう)というところでした。宇多津は鎌倉・室町時代を通じて讃岐の政治・文化の中心だったところです。

● 第一次伊予攻略
 讃岐守護となった頼之は、清氏追討の際、伊予の河野通盛が将軍の命令に応じなかったことを責めて、一三六四年(貞治三年/正平一九年、頼之三六歳の頃)の九月、伊予に向かって侵攻を開始します。これにより河野氏は通盛とその子通朝を相次いで失い、通朝の子の通堯(後の通直)は九州へ落ち延びて南朝方に帰順し、南朝方から伊予守護に補されることになります。その後も、伊予と讃岐の両国間では、細川・河野両軍の応酬が繰り返されます。
 頼之は、伊予への出陣にあたり、箆原の庄(現在の高松市)にある石清尾神社に参詣して戦勝を祈願し、神社社殿を拡築し武具を奉納したといわれています。
 石清尾神社では、五月の二、三日に「市立祭(いちたてさい)」が催されていますが、これは頼之が伊予の河野氏を討ったとき、石清尾八幡宮に立願成就を感謝して始まった祭りで、頼之の名が右馬頭であるところから市の名がついたといわれています。また、九月四日に「蜂穴神社例祭(はいあな)」が催されますが、これは合戦の折り、頼之がお参りしたところ、祠の穴から数百匹もの蜂が飛び出して敵方の兵を襲い戦に勝つことができたという言い伝えによるそうです。
 なお、石清尾神社のおこりは、平安時代の九一八年(延喜一八年)、八幡大神が赤塔山(現石清尾山)に現れたのでこれを祀ったとも、また時の国司が京都の石清水八幡宮の御分霊を戴きこれを祀ったともいわれています。石清尾八幡宮の社名は、社殿を造った赤塔山が亀ノ尾山(亀命山)の山裾にあたり、石清水と亀ノ尾をひとつに併せて、「石清尾」となったといわれています。

 六、幕府管領

● 上洛・幕府管領就任
 二代将軍足利義詮の時代、室町幕府はまだ不安定で、守護大名達が我が物顔に振舞っていました。幕府の管領となっていた斯波義将、その父の斯波高経が佐々木道誉らの策謀で失脚すると(貞治の政変)、病床にあった義詮は、頼之を讃岐から京へ召還し、幼い息子・義満の後見に頼之を起用します。義詮は「汝に一子を与えん」として、頼之に義満を託して逝ったといわれています。義満は幼名を春王といい、当時一○歳でした。頼之には義満と同年代の実子がいたようですが、早世したといわれています。
 頼之は佐々木道誉、赤松氏ら反斯波派の支持で、一三六七年(貞治六年/正平二二年、頼之三九歳の頃)幕府の管領に就任し、武蔵守と称します。
 頼之が上洛時に守護職を持っていたのは、讃岐・阿波・土佐・伊予でしたが、讃岐では弟・頼有を守護代とし、後事を託します。阿波守護職については、一三七二年(応安五年/文中元年)頃に弟の頼有に譲っており、さらに頼有からその弟詮春の子義之に伝えられていきます。阿波守護所も秋月城から勝瑞城(板野郡藍住町)に移っています。
 管領に就任した頼之は、将軍足利義満に仕える連歌師として、周阿(しゅうあ)という人物を讃岐から京に呼んでいます。周阿は香川郡太田村の出身者で、伴阿弥と号しました。讃岐は南北朝時代の初期から細川京兆家の本国地だったことから、地方にしては連歌が盛んな地だったのではないかと思われます。
 京都での頼之の邸は、六条万里小路(京都市中京区)付近と考えられており、幕府が花の御所(室町第、京都市上京区)へ移されるまでは出仕に近い場所でした。

● 管領時代の治世
 管領となった頼之は、将軍就任当時一一歳の義満に我が子以上の愛情を注ぎ、立派な将軍となるべく教育する一方で、執事として不安定だった室町幕府の基礎固めに取り組みます。佐々木道誉や赤松則祐をはじめ反斯波派の支持を得て、官位の昇進、将軍新邸である花の御所の造営など将軍権威の確立に尽力します。内政面では倹約令など法令の制定、公家や寺社の荘園を保護する半済令(応安半済令)を施行するなど、幕府の安定化を図ります。また、後光厳天皇の皇位継承問題や、「ばさら」と呼ばれる華美な社会風潮を規制します。
 対南朝政策では交渉を進め、楠木正儀(くすのきまさのり)を足利方に寝返らせる工作に成功し、また、個人的交友もあった今川貞世(了俊)を九州へ派遣して懐良親王(かねよししんのう又はかねながしんのう)ら南朝勢力を駆逐させ、九州制圧を後援します。
 宗教界では、比叡山など伝統的仏教勢力と南禅寺など新興の禅宗勢力とが対立し、幕府が南禅寺楼門の建造を援助すると比叡山が抗議し、両宗派は衝突寸前という状況になります。このため頼之は衝突を回避するため楼門を撤去させます。これに反発した南禅寺の春屋妙葩(しゅんのくみょう)は、これ以降頼之と対立します。
 頼之は「名執事」と賞賛され、彼の政治は人々に歓迎されました。頼之の管領時代のエピソードとしては、管領を辞任して出家すると言い張り義満を困らせたという話や、評議の場で故意に義満の怒りを買って将軍の権威を高めようとした話などが残っています。

 七、讃岐帰行

● 康暦の政変
 頼之はすぐれた手腕によって幕府権力の強化に成功しますが、義満は成長とともに頼之の庇護下から抜け出て独り立ちしたいと望み始めます。また、頼之による執政が長く続くにつれ、その権勢を妬む者からの反発が強まり、次第に斯波義将ら反頼之の勢力が幕府内外に広がっていきます。
 一方で、頼之の施政は、政敵である斯波氏や山名氏との派閥抗争、義詮正室の渋川幸子や寺院勢力介入、南朝の反抗などで難航し、また今川貞世の九州制圧も長期化していました。
 このような状況の下、頼之の弟の頼基が紀伊における南朝征討に失敗すると、義満は、これに替えて反頼之派の山名氏を派遣し、また、斯波氏や土岐氏に対して大和での軍事活動を許します。そして、頼之と斯波派、土岐、山名氏らとの抗争が表面化し、反頼之派の諸将が京都へ兵を進めて将軍邸の花の御所を包囲し、義満に頼之の罷免を迫るクーデターを起こします。
 このため義満は、内乱の危機が迫ったとして、一三七九年(康暦元年/天授五年)、頼之を幕府管領から罷免して有力守護たちの不満を押さえようとします。そして、後任の管領には義将が就任し、幕府人事も斯波派に改められ、一部の政策も覆されます。これを康暦の政変(こうりゃくのせいへん)といいます。頼之が上洛してから一二年後のことでした。

● 海南行
 義満から退去令を受けた頼之は、自邸を焼き払い、一族を連れて領国の讃岐へと向かいます。途中で出家し「常久」と称します。時に頼之五一歳。義満から京追放の命令が下された日、頼之は京都を出発する時に「海南行」という漢詩を残しています。「海南」とは讃岐のことです。
 この詩は権力に集り、讒言する侫臣を青バエに例え、小人どもの讒言がうるさいから、こんな世の中は捨てて座禅の長椅子でも探し出して(禅門に入って)、清らかな風の吹くところで余生を送りたいものだ、というその折の頼之の心境を述べています。なお、宇多津の大束川東岸に、海南行の石碑が建立されています。

 海南行
 人生五十愧無功 人生五十 功無きを愧(は)ず
 花木春過夏已中 花木春過ぎて 夏已(すで)に中ばなり
 満室蒼蝿掃難去 満室の蒼蠅(そうよう) 掃(はら)えども去り難し
 起尋禅榻臥清風 起(た)って禪榻(ぜんとう)を尋(たず)ねて 清風に臥(が)せん

 (註) 海南(かいなん)=讃岐。 愧=恥。 花木=花の咲く木。 蒼蝿(そうよう)=青バエ、讒言(ざんげん)して自分を失脚させたつまらない人たちにたとえる。 禅榻(ぜんとう)=座禅に用いる長椅子。俗世を離れた場所のこと。
 (口語訳) 自分の人生も、はや五十となったが、これという功績もなく過ぎてしまったのが恥ずかしい。それにひきかえ、歳月の移るのは早いもので、花咲く春も過ぎて、今はもう夏も半ばで、もはや花は咲かない。部屋いっぱいに飛び回っているうるさい青蝿どもは、いくら追い掃っても去ろうとしない。自分の方が立ち上がって部屋を出、座禅をする床几をさがして、涼しい風に吹かれて寝ころぶことにしよう。

● 第二次伊予攻略
 康暦の政変により、頼之は伊予守護職も解任されます。すると、河野通直(通堯)は、南朝方と縁を切り幕府方に帰順します。そして、幕府は通直を伊予守護職に任じ、頼之の追討を命じます。
 しかし、頼之は河野軍の機先を制して伊予へ攻め入ります。頼之軍は、東予に出張っていた通直の軍勢を奇襲しこれを打ち破り、通直以下一族の大多数を討ち死にさせます。河野氏は、通直の遺児亀王丸らが生き延びたものの、もはや対抗する力を失ってしまいます。頼之の力量は改めて顕現されて京にも届きます。
 そこで義満は両者の調停に乗り出し、一三八○年(康暦二年/天授六年、頼之五二歳の頃)、亀王丸を伊予守護とし、ついで伊予を侵略した頼之・頼元兄弟には赦免の条件として亀王丸の伊予守護承伏の事を伝えます。翌年、頼之は、亀王丸・鬼王丸兄弟と対面のうえ和議を結びます。和議は細川方の優位に行われ、東予の新居郡・宇摩郡は割譲され頼之の末弟満之が分郡守護となります。
 一三八一年(永徳元年/弘和元年、頼之五三歳の頃)、頼之の養子となった頼元は義満の側近に復帰し勤仕するため上洛します。事実上の人質でした。

 八、再び上洛

● 義満との再会
 その後十余年、頼之は再び宇多津に居を構えます。
 一三八九年(康応元年/元中六年、頼之六○歳の頃)、将軍義満は宮島厳島神社へ参詣します。この参詣は山陽道の武将らに将軍の威厳を示すとともに、九州の南朝勢力を牽制するということが目的でした。また、四国へ渡り頼之に対面することも目的の一つでした。三月五日、義満は京を出発し、兵庫から船出し海路を宇多津に向かいます。
 大槌小槌の島を見ながら、六日夜半に義満一行は宇多津に到着し、義満と頼之は感激の対面をします。「鹿苑院殿厳島詣記」は、その頃の宇多津の情景を「なぎさにそって海人の家々連なり、東は山の峰々海中に入り長く見える。海岸には古松の大木、むろの木など立ち並び、寺の軒処々に見える。」と記しています。東の山とは聖通寺山のことだと思われます。
 八日朝、義満一行は宇多津を離れ宮島に向かいます。その途上、荘内半島の先端に鎮座する三崎神社に参拝し、次の歌を詠っています。
 へだてゆく 八重の汐路の浦島や 箱の三崎の名こそしるけれ
 荘内半島の三崎は昔から瀬戸内海航行上の重要な地点であったことから、ここには、三崎大明神と呼ばれる神社が祀られ、航路の安全や管理を司る陣屋が置かれていました。
 そして、二二日、義満は厳島からの帰りにも宇多津に立ち寄っています。その時は、多度津に上陸し、陸路で青ノ山を越えて宇多津に入り、今度は、余人を交えず二人だけで対談したといいます。
 義満と頼之の再会の裏では弟頼元の幕府に対する赦免運動があり、また、頼之はこの参詣の折、船舶の手配などに尽力しています。これにより、頼之は義満とのわだかまりを解き、かつての父子のような関係に復することとなります。

● 再び京へ
 一三九○年(明徳元年/元中七年)、頼之は備後国の守護となり、この年の明徳の乱で幕府方として山名氏清と戦い、功績を上げます。このとき頼之が寺院で供え物を拝借したというユーモアなエピソードが残っています。
 清風に臥すること十余年、頼之は再び将軍・義満に召し出されて京に戻り、幕政に返り咲きます。一三九一年(頼之六二歳の頃)四月、斯波義将が管領を辞任し、頼之の弟で養子の頼元が幕府管領に就任し、頼之は政務を後見し、宿老として幕政に復帰したのです。

● 晩年
 しかし、頼之は一三九二年に風邪をこじらせ重態となり、その年の三月に死去しました。享年六四歳でした。義満は頼之の死をこの上もなく悲しみ、自ら葬送したといわれています。葬儀は相国寺で行われました。戒名は法号を用いて、「永泰院殿桂巌常久大居士」とされました。
 南朝の後亀山天皇が北朝の後小松天皇に三種の神器を渡し、南北朝が合体したのは、その年のことでした。なお足利義満は金閣寺を建てたことで知られていますが、その完成は頼之没後五年目のことです。
 岡屋形の菩提寺である立善寺には、京都から分骨したという頼之の墓があります。

九、頼之後の讃岐

● 細川京兆家本国
 頼之の功績により、細川一族は八ケ国(讃岐・阿波・土佐・淡路・和泉・摂津・丹波・備中)におよぶ世襲分国を獲得し、室町幕府において確固たる地位を占めます。頼元が管領となった後、幕府では斯波、細川、畠山を三管領として、三家が交替で管領職を勤めることになっていきます。そして、細川氏では頼元の後、満元、持之、勝元、政元と続いて管領となっていきます。
 この頼之系統の細川家は京兆家(けいちょうけ)と呼ばれ、細川一族の嫡流となります。京兆家当主は、讃岐・摂津・丹波・土佐の四ヵ国の守護職を世襲し、中でも頼之以来、讃岐がその本国的存在で、細川氏の重要な勢力基盤となっていました。
 なお、「京兆」というのは「右京大夫」の唐名の呼び方で、頼之の養嗣子となった頼元が、従四位下右京大夫に任ぜられ、その子孫が代々この官途を踏襲したことから呼ばれるようになったものです。
京兆家を宗家とし、阿波守護家、淡路守護家、和泉守護家、備中守護家が細川一族を形成していました。
 義満の時代は室町幕府の将軍の力が最も強かった時代で、金閣寺に代表される北山文化が花開いたときです。その陰に頼之の功績があり、その本拠地が讃岐であったということです。その後、細川氏は、勝元とその息子の政元の時代に最盛期を迎えます。

● 京兆家家臣団
 細川京兆家の家臣には、頼之の時代に讃岐にやって来た香川、安富、奈良、由佐などの東国武士がいますが、香西、羽床、寒川、十河、三谷など讃岐の国人(地元はえぬきの武士)も家臣として取り立てられています。彼らは京兆家から他国の守護代に任命されたり、近臣である内衆として京で仕えます。
 京兆家は室町幕府の管領となる家柄であったため、守護本人が領国に居住することはなく、その領国には守護代が置かれています。讃岐守護代は頼之の代より二分割二人制となり、東讃七郡を安富氏、西讃六郡を香川氏がそれぞれ任じられます。しかし守護代も在京して細川氏に近侍するのが常態で、任地には又守護代がおかれます。安富氏が守護代をつとめる東讃は、香西・寒川・植田氏らいずれも大分限者が割拠していました。なかでも香西氏は安富氏をしのぐ力を有していました。
 香西氏は京兆家から重臣として取り立てられ、常に京都にあって管領を補佐したり、山城国、丹波国の守護代になるなどの活躍をしており、細川勝元のときには、信任を受け、長男は京都にあって勝元を助け上香西と呼ばれ、次男は讃岐の香西氏をついで下香西と呼ばれました。

● 応仁の乱
 細川京兆家の中でも細川勝元は応仁の乱のときの東軍の大将として名を馳せています。第八代将軍足利義政は、政務を忘れて奢侈と風流の生活を続け、政治を近臣や妻の日野富子に任せっきりにしていました。その結果、幕府の実権は管領の勝元や、四職の一人山名持豊(宗全)らに握られ、両者は互いに権勢を競い相反目していました。一方でこの時代は銀閣寺に代表される東山文化が華開いたころです。
 このような中で、管領家の斯波、畠山両家で家督争いが起こり、また将軍家でも義政の弟義視(よしみ)と子義尚(よしひさ)との跡継ぎ争いが起こります。勝元と宗全は、両家のそれぞれの一方を支持して譲らなかったため、ついに一四六七年(応仁元年)両派は京都の東西に対陣して、戦端を開くに至ります。世にいわれる「応仁の乱」の勃発です。
 応仁の乱の火ぶたは、畠山正長と畠山義就の合戦から始まります。勝元は正長を、宗全は義就をそれぞれ助けますが、正長が御霊林の戦いで敗れたため、勝元は大いに怒り、急ぎ一六万余の兵を集めて京都の東北に布陣します。一方、宗全は、一一万余の兵を集め、京の西南に布陣します。このことから勝元軍を東軍、宗全軍を西軍といいます。
 東軍一六万の構成は、細川勝元の領国である讃岐・土佐・丹波・摂津から六万余、残りがその他の国からでした。細川京兆家にとって讃岐は本拠地であったため、多くの讃岐武士が京へ出陣し、東軍の中心となって活躍しています。讃岐では軍勢の通過により沿道や航路は著しく混乱したといわれています。
 讃岐から出陣した諸将は、香川・香西・安富・奈良・羽床・長尾・寒川、そして三谷・神内・十河の植田一族らです。中でも香川、安富、香西、奈良の各氏は「細川四天王」と呼ばれ、細川軍の中でも重要な役割を果たしていました。いずれも讃岐に領地を持つ者であり、京兆家にとって讃岐が重要な領国であったということが分かります。
 一四七二年(文明四年)五月、香西、安富の二将は、寒川、羽床、長尾、三谷、植田、十河らの諸将を率いて相国寺で大合戦を行い、一○月に相国寺が炎上し、安富元綱・同盛継らが戦死しています。安富元綱は勝元の寵臣の第一であったといわれています。
 一四七三年(文明五年)三月に山名宗全が、五月に細川勝元が相次いで死去し、一一年間にわたる大乱もここに至りようやく終息します。讃岐の諸将も安富氏に率いられて帰国したといいます。
 讃岐と勝元との関わりで現在も残っているものとしては、一宮田村大社の壁書があります。これは勝元が応仁の乱の七年前に領国をかためるために行ったものといわれています。
 また、観音寺市大野原町にある地蔵院萩原寺は、細川勝元以後細川氏の祈願所だったところであり、その山門は勝元の寄進によるものといわれています。

● 京兆家の没落・戦国の世へ
 細川勝元が亡くなった後、息子の政元(まさもと)が細川京兆家の家督を相続し、讃岐のほか摂津、丹波、土佐の守護職を継承します。そして、一四八六年(文明一八年)には、室町幕府管領に就任します。
 政元は、一四九三年(明応二年)、日野富子や赤松政則と結託して将軍義材を追放して義澄を一一代将軍とします。この後、足利将軍家を傀儡化して幕政を牛耳り、幕政を手中のものとしたので、政元は世に「半将軍」と呼ばれました。しかし、修験道に凝り、生涯女性を傍に寄せつけず、奇行があったといわれています。
 政元には実子がいなかったため、前関白九条政基の子を養子とし澄之(すみゆき)と名付けます。しかし、内衆や他の細川家から京兆家の家督を公家が相続するとして反発を招きます。そこで政元は分家の阿波細川家から、改めて澄元(すみもと)を養子に迎えます。このように政元が後継者を二人も立ててしまったために、一枚岩を誇った京兆家家中は澄之派と澄元派に分裂し、互いにいがみ合う状態になってしまいました。
 一五○六年(永正三年)、政元は、澄元を摂津国守護とし、その後見役を阿波の三好之長とします。しかし、このことに山城守護代・香西元長と摂津守護代・薬師寺長忠らは強い危機感を持ちます。香西元長は讃岐の香西一族の出です。
 翌年の六月、政元は、自邸の湯殿で行水をしていたところを、警護役の竹田孫七らに襲われ、あえない最期を遂げます。この暗殺は香西元長と薬師寺長忠が謀ったものでした。この事件を契機とする将軍家を巻き込んだ京兆家内の一連の抗争を永正の錯乱といい、栄華を誇った京兆家の崩壊の始まりでした。
 その後も京兆家は内部抗争を繰り返し、没落の一途を辿ります。細川氏の名が再び歴史に登場するのは、信長・秀吉・家康の時代における庶流の幽斎(藤孝)・忠興父子からです。忠興の夫人は明智光秀の娘細川ガラシアです。細川氏は関ヶ原の合戦では家康に従って戦功を立て、戦後、豊前小倉城主となり、その後加藤氏の改易後を受けて熊本城主となります。前の総理大臣の細川護煕氏はその子孫です。
 一三六二年の白峯合戦から一五○七年の政元暗殺までの約一四○年間、讃岐は京で中心的な役割を果たした細川京兆家の本国地であったことから、讃岐武士も京で活躍し、讃岐は中央政治と非常に密接な関係にありました。この時代、讃岐は我が国の政治の中心にあったということができるでしょう。
 応仁の乱や永正の錯乱により、讃岐武士も自立割拠し、それぞれ自らの領地支配のために力を尽くす戦国時代が始まっていきます。

● 長宗我部・秀吉の侵攻
 戦国時代末期には、長宗我部元親の讃岐侵攻により、讃岐武士は元親に下るか、逃亡するか、滅亡しています。
 元親は讃岐を平定しましたが、直ぐ秀吉から讃岐を取り上げられ、讃岐武士も秀吉の軍門に下ります。そして秀吉は讃岐を仙石秀久に与えます。これにより秀吉の九州平定が開始されると、秀久に率いられた十河、安富、香川、香西、羽床などの讃岐武士は大分の戸次川(へつぎかわ)で島津軍と戦います。この戦いでは島津軍が勝利し、讃岐武士の多くが討ち死にしました。このため、中世以来の讃岐武士の中には、羽床氏、十河氏などのように、本宗が途絶えた家が多かったといわれています。
 秀吉から讃岐一国を与えられた生駒親正は、まず引田城(東かがわ市引田)に入りますが、東部に寄り過ぎなど地の利が悪いため、次は聖通寺城(宇多津町)に移ります。しかし、そこも山城で狭小だったため新たな城を築くことになりました。そこで、新しい築城地として選ばれたのが、当時箆原荘(のはらのしょう)と呼ばれていた現在の高松城のある地です。また、現在の丸亀の亀山の頂きに高松城の支城が築かれます。これにより、この両地に近世の城下町が築かれる基盤ができあがります。ちなみに、生駒氏は城下町を築くため、宇多津から高松に浄願寺、見性寺など四ヵ寺、丸亀に円光寺、威徳寺など七ヵ寺を移転しています。

● 江戸時代へ
 生駒氏が讃岐を去った後、江戸幕府により讃岐は東西に分割され、東讃岐が一六四二年(寛永一九年)に高松松平藩、西讃岐がさらに山崎を経て一六五八年(万治元年)に丸亀京極藩となり、明治維新まで続くことになります。
 細川頼之以来の讃岐武士は、生駒、松平、京極各氏の入封により、帰農した者、讃岐の新たな領主に仕官した者、他国に出た者など様々でした。また、頼之以来の讃岐武士が本拠地としてきた勝賀、雨霧、雨滝、十河、昼寝などの城はすべて廃城となり、宇多津や香西などの城下町も政治的役割を終えます。こうして、現在の高松、丸亀の地に新たに城下町が築かれていき、今日に至ります。
                                                      (完)

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