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(85)“桂離宮との類似性も指摘されている栗林公園創始の謎”

 栗林公園(りつりんこうえん)は、江戸時代、高松松平藩の下屋敷だったところで、廻遊様式の大名庭園です。大きな池を中心にその周囲に樹木、花、石造物、建物などが配置されており、変化に富んだ風景を歩きながら楽しむことができます。
 この公園は、大きく分けて、築庭時の南庭と明治期に大改修された北庭に区分されますが、南庭の南湖一帯は、京都・桂離宮の造園手法と類似性が認められるといわれています。桂離宮は、後陽成天皇の弟である八条宮(桂宮)・智仁(ともひと)親王が造営した数奇屋造(すきやづくり)の別荘で、その廻遊式庭園は小堀遠州の造作ともいわれています。遠州は、大名でありながら茶人・造園家でもあり、三代将軍・徳川家光の時代の寛永期(1624年~1643年)を代表する文化人の一人で、仙洞御所、二条城、名古屋城などの建築・造園にも関わっています。

 栗林公園の創始については諸説がありますが、有力な説によると、室町時代末期、佐藤志摩介道益が園の西南端にある小普陀(しょうふだ)付近に居邸を構え、そこに小庭を築いたのが始まりといわれています。佐藤氏は室町初期より伏石(高松市伏石町)を本拠とした讃岐の国侍です。
 その頃、今の高松市街は箆原荘(のはらのしょう)という寒村で、現在石清尾山の西側を流れている香東川は、南で二本の水流に分かれ、この山を挟んで東西に流れていました。今の栗林公園の敷地も小普陀付近を除いてほとんど香東川の河川敷であったのではないかと推測されています。

 その後、天正15年(1587)、生駒親正が豊臣秀吉から讃岐一国を与えられて入り、箆原荘北端の海浜地に城を築きます。これが現在の高松城です。佐藤志摩介道益も生駒氏の讃岐入国にともない、その家臣となっています。
 生駒氏は、寛永17年(1640)までの四代54年間にわたり讃岐を領有しますが、この生駒時代、国内の情勢は元和元年(1615)に起きた大阪夏の陣の前後で大きく変化しました。大阪夏の陣より前の期間は、文禄の役(文禄元年(1592))、慶長の役(慶長2年(1597))、秀吉死去(慶長3年(1598))、関ヶ原の戦い(慶長5年(1600))、徳川家康への征夷大将軍宣下(慶長8年(1603))、大阪冬の陣(慶長19年(1614))、大阪夏の陣と、秀吉の朝鮮侵攻、豊臣氏から徳川氏への天下移行という戦乱の時代でした。これに対して、大阪夏の陣より後の元和期(1615~1624)から寛永期(1624~1640)にかけての期間は、元和9年(1623)に徳川家光が三代将軍を継ぐなど、幕藩体制の整備が進み秩序と安定が回復していく時代でした。

 大阪夏の陣から6年後の元和7年(1621)、生駒藩では三代藩主・正俊が若くして急死し、当時11歳の高俊(たかとし)が後を継ぎます。しかし、若年ということもあって、外祖父である伊勢津藩主・藤堂高虎が高俊の後見をすることになります。そして、高虎の家臣である西嶋八兵衛が「讃岐国の仕置(しおき)」のため派遣されてきます。八兵衛は、17歳から高虎に仕え、二条城の築城や大阪城の修築に携わるなど、土木の技術を習得していた人物でした。
 八兵衛は、古代に空海が修築したものの中世の時代約450年間決壊したまま見捨てられていた満濃池を改修するなど、灌漑、干拓、治水などの事業を行い、生駒藩の殖産と財政の確立に努めます。その一つの事業として、寛永8年(1631)頃、高松城下を洪水から守るため、香東川の東の水流を堰き止めて西の水流に一本化する治水工事を行っています。

 この香東川の改修事業の時、西嶋八兵衛の関与により、今の栗林公園の小普陀付近、南湖、西湖の辺りにおいて、佐藤氏の居邸址を基礎に、香東川の元東側水流の跡に湧出している伏流水を利用して築庭が行われたのではないかと考えられています。
 そして、この築庭は、小堀遠州の造園思想の影響を受けたのではないかと推測されています。というのは、遠州と生駒正俊の正室は、ともに藤堂高虎の養女であり、また、遠州は慶長5年(1600)から元和5年(1619)まで備中高梁(たかはし)の松山城主1万5千石であったことから、生駒家と親密な交友関係があったと考えられています。さらに、西嶋八兵衛も高虎の腹心であったことから遠州の考えの影響を受けていたと思われます。
 
 しかし、寛永17年(1640)、生駒高俊はお家騒動により改易となり、出羽国矢島藩1万石に転封となります。その後、寛永19年(1642)、水戸徳川家初代・頼房の長男である松平頼重(よりしげ)が、三代将軍徳川家光から東讃岐12万石を与えられて入封し、高松藩が成立します。
 頼重は着任して間もなく栗林荘に遊んだといわれており、以後、歴代藩主も庭園の拡充整備に努め、五代藩主・頼恭(よりたか)の時代の延享2年(1745)になって現在の栗林公園の姿が完成しました。それは頼重入封から103年を経たときでした。

 この記事を読まれるに当たっては、次の記事を参考にしてください。
(3話)“黒田官兵衛が設計したともいわれる水城
(4話)“関ヶ原で親子が別れて戦った生駒家
(5話)“海音寺潮五郎も書いた生駒騒動
(6話)“讃岐のために尽くした藤堂高虎の家臣
(7話)“讃岐高松二代目藩主は水戸黄門の息子

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(6)“讃岐のために尽くした藤堂高虎の家臣”

満濃池
 
 藤堂高虎
(とうどうたかとら)は、豊臣秀吉に仕えた後徳川家康につき、その信任厚く外様大名にありながら側近として遇された武将で、伊勢国津藩の初代藩主となりました。この高虎の家臣である西島八兵衛は、遠州浜松の生まれの人で、京都二条城や大坂城の増修築工事にも従事しており、また香川の大恩人です。
 
 元和7年(1621年)、生駒藩四代藩主の高俊はまだ幼かったため、外祖父である高虎が高俊の後見人として生駒藩の内政に関与することになりました。そこで高虎は、腹心の西島八兵衛を生駒藩に出向させ、藩政を援けることを命じました。八兵衛26歳のときです。
 
 元和8年(1622年)、生駒藩の客臣として迎えられた八兵衛は、郡奉行として郷村のことを掌り、赴任早々、観音寺市柞田町の湿田を改良し農家を移住させたほか各地で新田開発を進めるなど、殖産と藩財政の確立に努めました。

 その後、津藩へ帰りますが、寛永2年(1625年)、八兵衛30歳のときに、讃岐大旱魃で再び生駒家へ派遣され、寛永16年(1639年)、八兵衛44歳のときまでの15年間讃岐に在住しました。この間、寛永6年(1629年)、老齢で病気がちとなった高虎は、自分の身近にと八兵衛を江戸へ呼び返しましたが、高俊の岳父で老中の土井利勝の強い要請で讃岐へ戻っています。翌寛永7年、高虎は死去しました。

 この15年間において、八兵衛は満濃池を3年の歳月を経て復旧したほか瀬丸池(三豊郡高瀬町二ノ宮)、岩瀬池(高瀬町麻)、一の谷池(観音寺市一の谷)、亀越池(満濃町長炭)、小田池(高松市川部町)、立満池(香川町)、三郎池(高松市三谷町)、神内池(同西植田町)、山大寺池(三木町氷上)など、今日県下に名だたる溜池の多くを手がけ、僅か数年にして実に90余りの大池の築造又は増築を行っています。

 とくに満濃池は、450年もの長い間、破堤のままで見捨てられ、当時、池敷には「池内村」という高百石余りの村落が生まれ、池として名残りを留めるものは何も残っていませんでした。この復興によって、その用水は、那珂、多度、鵜多三郡四十四か村、3万5,842石、当時の讃岐純石高の凡そ6分の1にも達する広大な水田を潤すことになりました。

 また、それまで石清尾山を巡り二筋となっていた香東川の川筋を、現在の河道に一本化したり、高松市の福岡、木太、春日、新田の干拓工事を行うなど、水利と新田の開発に尽くしました。これを数字で示すと、寛永17年(1640)の領内総石高は23万2,948石となっており、慶長6年の時の石高17万3,000と比較して、40年の間に5万9,000石という著しい増加を示しています。

 寛永18年(1641年)46歳のときには、幕命により再び讃岐を訪れています。幕府の生駒家取り潰しに伴う諸事決裁のため讃岐の事情に精通する者として、幕吏に随行したものです。八兵衛が讃岐の灌漑、新田開発事業に精魂を尽くしている時期に、一方で生駒藩内において内紛が進行していたのは歴史の皮肉といえるでしょう。

 その後、津藩に帰った八兵衛は、山畑新田や美濃波多新田の開墾、雲出井手の開築などを手がけています。慶安元年(1648)には藩の山城大和を管括する城和奉行となりその後、約30年にわたって城和の民生に力を注ぎました。八兵衛は85歳で死去し、上野市紺屋町の正崇寺に眠っています。その功績は、まことに大きく、香川県民として一日も忘れることのできない一大恩人です。

 栗林公園内には、「大禹謨(だいうぼう)」と刻まれた碑石が置かれています。これは八兵衛が香東川の大改修を行った際自ら書いて鎮斎したものと思われ、その後洪水に流され不明だったものを大正元年に大野中津の住民が川(かわ)浚い(さらい)の折に拾い上げて川岸に安置し、その後栗林公園内に移されたものです。「大禹謨」とは、書経の語に出、中国の大聖禹王の遠大なはかりごとにあやかろうとした八兵衛の精神を表したものと考えられています。この碑石の横には八兵衛の顕彰碑が建っています。

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(5)“海音寺潮五郎も書いた生駒騒動”

 海音寺潮五郎の著作の一つに「列藩騒動禄」があり、その中に「生駒騒動」の物語があります。これは、寛永17年(1640)四代高俊(たかとし)の時、生駒家がお家騒動により讃岐を召し上げられ、出羽矢島1万石に左遷された話です。 元和7年(1621)、生駒家では三代目藩主正俊(まさとし)が36歳で急死したため、3歳(あるいは11才とも)の高俊が藩主を襲封することになりました。


 このとき高俊が幼少のため、津藩主藤堂高虎(とうどうたかとら)が監国(監使)として藩政を補佐することになりました。 高虎の養女が正俊に嫁いでおり、高虎は高俊の外祖父に当たりました。このとき高虎はすでに66歳の高齢であったため讃岐へは下向せず、実務は家臣の西島八兵衛らを派遣して讃岐の「仕置」をさせました。また、高虎は生駒家一門で生え抜きの国家老・生駒将監の力を抑えるため、生駒家では外様の家臣である前野助左衛門石崎若狭を江戸家老に加えさせました。


 このため生駒藩では江戸と国元の二元的政治の傾向が強まり、両派の対立が起こり始めました。 寛永7年(1630年)に高虎が死去すると、息子の高次(たかつぐ)が津藩二代藩主になるとともに生駒藩の監国になりましたが、前野助左衛門と石崎若狭は高次の意向を背景に権勢を振るい、寛永10年(1633年)に生駒将監が死ぬと藩政を牛耳るようになりました。しかし藩主の高俊は男色趣味を持ち美少年を集めて舞わせる遊び(世人はこれを「生駒おどり」と呼んだそうです。)に興じ、藩政をかえりみませんでした。高俊の正室の父に当たる幕府の老中首席土井利勝が厳しく諌めましたが高俊は行跡は一向に収まりませんでした。


 寛永12年(1635年)、生駒家は幕府より江戸城修築の手伝い普請を命じられ、江戸の材木商の木屋から借金をしましたが、前野と石崎はこの返済のために石清尾山の松林を伐採させました。しかしこの山は親正が高松城を築いたときに要害として伐採を禁じた土地であったため家中の者たちは憤慨し、寛永14年(1637年)7月、生駒帯刀が江戸へ出て高次や土井利勝らに前野と石崎の非違を記した訴状を差し出し、生駒藩の御家騒動が表面化しました。 その後藩内での決着も試みられましたが解決できず、ついに、寛永17年5月、前野・石崎派の家臣300人以上が鉄砲や刀槍で武装して国元を立ち退き、また江戸藩邸でも一味の者たちが立ち退くという大騒ぎになりました。 


 7年間にわたる家臣間の抗争の結果、ついに幕府の評定に上がりました。その結果、帯刀派については、生駒帯刀は主人に対して忠心あるとして出雲国松江にお預け、その他の者も諸大名家へお預けとなりましたが、前野・石崎派については死罪となりました。高俊は家中不取締りであるとして讃岐を没収され、出羽の矢島に堪忍料として1万石を与えられるのみとなりました。ここに讃岐での生駒氏の治世は四代54年間で終わります。


 




 

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(4)“関ヶ原で親子が別れて戦った生駒家”

 生駒親正は美濃の可児(かに)郡土田村(現在の岐阜県可児町)の出で、親正の父・親重は織田信長の母・土田御前の兄であり、信長の室となった吉乃は親正の妹であるとも言われています。親正は信長の美濃攻めに際してその臣下となり、その後は羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)付属の武将に任じられ、長篠の戦い、石山本願寺攻め、紀伊国雑賀攻めなどに参加しています。信長の死後は秀吉の家臣となり、山崎の戦いや賤ヶ岳(しずがだけ)の戦い、小田原征伐、文禄の役などで活躍しています。 


  四国の長曽我部元親を攻略した秀吉は、はじめ仙石秀久(せんごくひでひさ)に讃岐一国を与えましたが、秀久は約1年半後に、またその後に入った尾藤知宣(びとうとものぶ)も半年もたたないうちに讃岐を没収されました。いずれも九州の島津攻撃の失敗の責任を問われたためです。


 その後、天正15年(1587)、親正は秀吉から讃岐一国17万6千石を与えられ、秀吉の晩年には、中村一氏や堀尾吉晴と共に三中老に任じられて豊臣政権に参与しています。 慶長5年(1600年)の関ヶ原の合戦では、親正は思案の末に、どちらが敗れても生駒氏が存続できるようにするため、嫡子である一正を家康の元へ送り、自分と孫の正俊は豊臣方に味方しました。親正は讃岐に在国していましたが西軍に与して丹後国田辺城攻めに家臣を代理として派遣したのです。


 いっぽう家康方についた一正は岐阜城攻めでの活躍により手柄をたてました。この合戦では、信州真田氏も父・昌幸とその次男・幸村は西軍に、長男・信之は東軍につき親子・兄弟が別れて戦っています。 合戦は豊臣方の大敗に終り、天下は家康のものとなりました。


 親正は西軍に与した責任を取るため、家督を一正に譲り、高野山へ登って頭を丸め、ひたすらお家の安泰を願いながら処罰のご沙汰を待ちました。一正の功績により親正ほどなくして許されて讃岐に戻り、慶長8年(1603年)に高松城にて亡くなりました。69歳でした。一正は父の菩提を弔うため、高松城下浜ノ丁に弘憲寺を建立、境内に葬りました。今も弘憲寺には生駒親正夫妻墓所が残ります。


  弘憲寺とともに法泉寺も生駒家菩提寺です。法泉寺には釈迦像が立っていますが、その像の北側、奥まった場所に小さな半間四方の堂があります。この堂が生駒廟と呼ばれており、内部には二代・一正、三代・正俊の五輪塔の墓があります。法泉寺の寺域は空襲や戦後の区画整理等により大きく変化しており、西側道路の歩道に旧位置を示す石碑が戦前の状況を伝えています。なお、東門傍に吊られた「銅鐘」は、生駒家が朝鮮出兵・文禄の役のときに陣鐘として利用したものと伝えられています。


 




 

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(3)“黒田官兵衛が設計したともいわれる水城”

玉藻公園
 高松城は玉(たま)藻(も)城(じょう)とも呼ばれており、天正15年(1587)豊臣秀吉によって讃岐17万6千石を与えられた生駒(いこま)親(ちか)正(まさ)によって築かれました。讃岐入りした親正は、まず引田城(東かがわ市引田)に入りますが讃岐国の東部に寄り過ぎなど地の利が悪く、今度は聖通寺城(宇多津町)に移りました。しかし、そこも山城で狭小ということで新たな城を築くことになりました。 


 新しい築城候補地として選ばれたのが、当時「箆原荘(のはらのしょう)」と呼ばれていた今日の高松市街地です。この辺り一帯は、玉藻浦と呼ばれた寒村で、香東川の河口をめぐるデルタと水草の茎根が波に洗われる海辺でしたが、北は海、西に山塊をめぐらせ、東は入江を抱いて南に開け城地としては、理想的な条件を備えていました。 縄張り(なわばり)(設計のこと)は、当時、秀吉の名軍師として知られる黒田官兵衛孝高(くろだかんべいよしたか)(出家後の号は黒田如水(じょすい))ともいわれており、「この城地は稀に見る天然の要害で、船便も良く、国主の居住地として味方千騎に価する」と絶賛したといいます。 


 城は沖の寄州を中心として周囲2.2㎞に築かれ、軍港として城郭西部に港を、東に商港を設け、城下には武家屋敷・職人・商人を住ませ、完成までには3ヵ年を要しました。城名は源平合戦以来全国によく知られた屋島山麓南の高松の地名をとって高松城とし、元の高松の地は以降「古高松」と称しました。この城は北側を瀬戸内海、堀に海水を引き入れた水城で、今治城(愛媛県)、中津城(大分県)ととともに日本三大水城の一つに数えられています。しかし完全に海水を堀に取り入れた城は高松城だけです。 


 生駒氏の讃岐での治世は四代54年間で終わり、その後家康の孫にあたる松平頼重(よりしげ)が入ります。現在みることのできる城跡や建造物は、ほとんど松平氏によって整備されたもので、「讃州さぬきは高松さまの城が見えます波の上」と詠われたように瀬戸内海の浮城としてその威容を誇っていました。


  現在、この城は高松港の南の奥に位置し、北側には道路がはしっていますが、かつては城が陸の北端となって海に臨み北側の石垣が直接海に接していました。城と海の出入りをしていた北(きた)の丸水手御門(まるみずてごもん)が現在も残っています。


 高松藩には飛(ひ)龍(りゅう)丸(まる)という御座船(ござふね)があり、参勤交代のときに用いられていましたが、この城から出帆したものと思われます。飛龍丸(ひりゅうまる)は諸大名の御座船の中でも特に豪華な作りであったといい、県の歴史博物館には、船上で殿様がすごした「御座之間」が実物大で再現されています。 


 明治17年に天守閣が取り壊され、かつては三重にめぐらされていた堀も現在あるのは内堀と中堀の一部のみとなっており、城跡の広さも往時に比べると8分の1程度になりましたが、堀は潮の干満によって水位が変わり、今も海水魚が出たり入ったりして水城の名残をとどめています。


 


 


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