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(147)“漂泊の俳人が終焉を迎えた島で生まれた二十四の瞳”

 瀬戸内海に浮かぶ小豆島は、「アヅキジマ」の名で「古事記」の国生み伝説にも登場する古い歴史をもち、海上交通の要衝であったことから各時代に様々な文化が入り込み、その温暖な気候と風光明媚さともあいまって、歴史と自然が織り成す一つの小世界としての独特の風土をつくっています。
 その小豆島の風土に引き付けられるかのように、島外の人々は、憩いと安らぎを求めて訪れてきます。大正末期、安住の地を求めてやって来た漂白の俳人尾崎放哉もその一人でしょう。
 しかし、小豆島で生まれ育った若者が、何か新しいものを求めようとするときには、その風土の重さは桎梏と感じられ、彼らは島外へ羽ばたこうとするのでしょう。小豆島が生んだ壺井繁治(しげじ)、黒島傳治(でんじ)、壺井栄の3人の文学者もこのような若者だったのでしょう。繁治は厳しい国家弾圧の下で詩を書きつづけ、傳治はプロレタリア文学の旗手として名作を次々と発表しました。中でも、栄は、その代表作「二十四の瞳」で小豆島を全国に知らしめました。
 日本近代文学史に記されるこの4人にまつわる物語や遺品などが、小豆島には多く残されています。

 小豆島は、自由律俳句の鬼才といわれた尾崎放哉が終焉を迎えた地です。自由律俳句は、約束ごとや制約に縛られない自由な表現という思想から、五七五の定型句や季語などにとらわれず生活感情を詠い込んだ俳句です。明治時代後期に荻原井泉水(はぎわらせいせんすい)が俳誌「層雲」を主宰し確立されたといわれており、大正時代になると尾崎放哉、種田山頭火がその代表的な俳人として登場します。
 放哉は、大正14年(1925)年8月、40歳のとき、京都から小豆島にやって来て、土庄の西光寺奥の院の南郷庵(みなんごあん)の庵主として入り、翌年4月7日に病没するまでの8ヶ月間居住しました。その間に自由律俳句200余句を創作しています。
 しかし、この放哉の来島は、著名な作家が創作活動に打ち込むために新たな環境を求めたというようなものではなく、社会的地位や金も家族も捨て身体を病んだ世捨て人が死に場所を求めて辿りつたとどのつまりでした。その臨終は、庵の近くに住む漁師の妻、南堀シゲだけに看取られた孤独で寂しいものでした。

 侘しい人生の終焉を迎えた放哉ですが、その途中までは、多くの人が羨望する典型的な秀才エリートの道を歩んでいました。
 放哉は、本名を尾崎秀雄といい、明治18年(1885)年1月20日、鳥取県邑美郡(現鳥取市)吉方町に生まれます。父は裁判所書紀官をしていました。当時、優秀な若者にとっては、「末は博士か、大臣か」といわれたように、勉学に励み、官僚や学者になることが立身栄達の道でした。放哉もごたぶんにもれず、この道を進み、鳥取県立第一中学校を経て、第一高等学校(現在の東大教養学部の前身)そして東京帝国大学法学部へと進みます。秀才として親や親類からも将来の出世を大いに期待されていたと思われます。
 しかし、放哉は、もともと、法律の勉強や官僚の仕事にはあまり興味がなかったようです。大学時代には「ホトトギス」や「国民新聞」の俳句欄にしきりに作品を投稿していたといいます。大学も追試験で卒業し、東大同級生の多くの者が権力の座を目指して官僚の道を選ぶのに対して、通信社を経て生命保険会社に就職します。
 そこでは、管理職としてそれなりに仕事をこなしていたようですが、会社組織の中で上手く立ち回れないのか、酒に溺れ人間関係の不都合から35歳のとき退職します。その後、職を得て朝鮮へと渡りますが、そこでも酒による奇行により不都合を生じ約1年で退社し、旧満州に移り肋膜を病んで入院治療の身となります。

 退院後、大正12年(1923)年秋に帰国しますが、すでに身体は酒と病でボロボロになり、普通の社会生活は困難になっていたのでしょう。放哉は妻と財産のすべてを捨て、京都にある修養団体の一燈園に身を寄せ、読経と托鉢、労働奉仕の日々に入ります。38歳のときです。
 その後、京都知恩院の常称院、兵庫県西須磨の須磨寺、福井県小浜町の常高寺と、堂守や寺男をしながら寺院を転々とし、再び京都に舞い戻ってその頃京都に居た荻原井泉水を頼ります。井泉水は一高の一級先輩で、俳句の上での師匠でもありました。
 井泉水は、かつて小豆島に来島したことがあり、そのときの縁で地元の「層雲」同人井上一二(いちじ)に放哉の世話を頼みます。こうして、土庄の西光寺の住職をしていた杉本宥玄の好意で南郷庵の庵主として入ることになったわけです。放哉は、やっと安住の地を得ることができたそのときの心境を、「これでもう外に動かないでも死なれる」と詠っています。「春の山のうしろから煙が出だした」が辞世の句となりました。放哉を慕う山頭火は、昭和3年、14年の2度にわたり、放哉の墓参りに小豆島を訪れています。

 一方、放哉が小豆島にやって来る半年前の大正14年(1925)2月、岩井栄という一人の若い女性が島を去っています。後に、「二十四の瞳」などを発表して一世を風靡する女流作家となった壺井栄です。
 壺井栄は、明治32年(1899)8月5日、醤油の樽職人である岩井藤吉、妻アサの五女として小豆郡坂手村(今の小豆島町坂手)に生まれます。幼少の頃、蔵元が倒産したことで家計が傾き、他家の子守や内職をしながら小学校へ通うなど苦労を重ねますが、大正2年(1913)14歳で内海高等小学校を卒業し、その後、村の郵便局、村役場に勤めます。この頃、同郷の壺井繁治(しげじ)、黒島傳治(でんじ)との交流から文学への強い関心を抱いていたようです。

 壺井繁治は、栄より2つ年上で、小豆郡苗羽村(現在の小豆島町苗羽)の出身です。栄とは遠縁にあたります。生家は村でも有数の農家であり、また網元でした。小学校を卒業すると、地元の内海実業補習学校(現小豆島高校の前身)に入学しましたが3年で退学し、大正2年に大阪の私立上宮中学2年に編入します。大正7年、上京して早稲田大学に学びますが、中退し、アナキスト詩人として左翼系の文学雑誌の出版などに携わっていました。
 黒島傳治は、壺井繁治より1つ年下、壺井栄より1つ年上で、繁治と同じ苗羽村の生まれです。貧しい半農半漁の家庭に生まれて網引きや醤油工場で働いていましたが、大正7年19歳のとき、文学を志して上京し、同郷の壺井繁治に出会い、その世話で、翌年、中学を経ないで進学できる早稲田大学選科に入学します。しかし、選科には徴兵猶予がなく12月学業半ばにして召集され、シベリアへ出兵し、そこで肺を患って大正11年(1922)内地へ送還されて除役となり、いったん療養のため小豆島に戻っていました。

 大正14年2月、栄は、26歳のとき、村役場を辞め、壺井繁治をたよって上京します。そして、結婚して世田谷・三宿の小さな貸家で新生活を始め、4月には世田谷・太子堂の二軒長屋に移ります。この年の初夏には、黒島傳治も再度上京し、壺井夫婦宅に一時寄宿しています。当時、小豆島では、文学をやる人間は国賊のようにいわれていたようです。栄と傳治が島を出たのは、ここに居ては好きな文学をやることができないという思いがあったのでしょう。
 栄が世田谷・太子堂に住んでいた頃、二軒長屋の隣には林芙美子、近所には平林たい子の夫婦が住んでおり、共に夫がアナキスト詩人だという親近感からか、互いに生活を助け合い、文学的な影響を受け合ったようです。
 しかし、栄の東京での生活も厳しいものでした。大正14年12月には、小豆島の母が亡くなり、妹2人と兄の子1人を引き取っています。また、昭和2年から9年頃にかけては、軍国化の流れの中で、夫の繁治が、左翼系の思想犯として数回検挙されて入出獄を繰り返していたため、事務員の仕事や筆耕の仕事をして生活を支えていました。
 故郷の小豆島も壺井夫婦には冷たかったようです。昭和3年、帰島中の夫が高松警察に拘留されて小豆島の実家から親戚宅まで家宅捜査を受けたときは、親類らから国賊と罵られたといいます。

 一方、黒島傳治は、大正15年に「二銭銅貨」・「豚群(とんぐん)」を「文芸戦線」に発表します。昭和2年の日本プロレタリア芸術連盟の分裂に際しては、労農芸術家連盟の創立に加わり、後には日本プロレタリア作家同盟(ナルプ)に参加して、ナルプ内の農民文学研究会の主要メンバーとして活躍します。そして、シベリアでの軍隊生活の体験から、この年、「雪のシベリア」・「橇(そり)」・「渦巻(うずま)ける烏(からす)の群(むれ)」・「国境」などの、すぐれた反戦作品を生み出します。しかし、昭和8年、35歳のとき、病気療養のため再び小豆島へ帰ります。

 昭和10年頃から栄は、童話、短篇小説を書き始めます。そのきっかけは、繁治が左翼系機関誌「戦旗」の発行責任者となり、その編集・経営を手伝ううちに、昭和7年頃から窪川稲子(後の佐多稲子)や宮本百合子と知り合い、親しく交わるうちに書くことを勧められたようです。
 栄は、昭和13年(1938)39歳のとき、処女作「大根の葉」を文芸に発表し、作家としてデビューします。そして、昭和15年41歳のときには、「暦」・「赤いステッキ」を発表し、翌年第4回新潮文芸賞を受けます。
 なお、小豆島に帰っていた黒島傳治は、10年近く闘病生活を過ごし、戦争たけなわの昭和18年10月17日、小豆島芦ノ浦の自宅で亡くなっています。享年45歳でした。

 戦後、栄の作家活動はさらに磨きがかかり、昭和22年(1947)48歳のときには「浜辺の四季」・「妻の座」を発表します。そして、昭和27年(1952)53歳のときに「二十四の瞳」を発表します。この作品は、昭和29年に木下惠介監督・高峰秀子主演で映画化され、一躍脚光を浴びます。なお、昭和27年に「坂道」、「母のない子と子のない母」で芸術選奨文部大臣賞を、昭和30年に「風」で第7回女流文学賞を受けます。
 栄は、300篇にのぼる作品を発表していますが、これらは、東京の生活の中から生まれたものもありますが、小豆島を描いたものも多いといわれています。苦しい東京での生活の中でも、故郷への思いは離れることはなかったようです。好きだった言葉は、「桃栗三年 柿八年 柚子の大馬鹿 十八年」といわれています。柚子(ゆず)と自分自身の遅咲きを重ね合わせていたようです。
 栄は昭和42年6月23日67歳のとき、繁治は昭和50年9月4日77歳のときに亡くなり、二人は東京の小平霊園で眠むっています。

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(143)“バブル経済真っ只中のときに開通した瀬戸大橋”

 昭和63年(1988)4月10日、瀬戸大橋が開通しました。同時に高松~岡山間にJR瀬戸大橋線も開通しました。昭和53年(1978)10月10日に起工され、着工から9年6ヶ月を経ていました。本州四国連絡橋3ルートの中で最も早い開通でした。
 瀬戸内海に大橋を架けようという構想が提起されたのは、明治22年(1889)に香川県会議員の大久保之丞(じんのじょう)が四国新道の起工式における祝辞の中で「塩飽(しあく)諸島ヲ橋台トシテ架橋連絡セシメバ・・・」と発言したことが最初だといわれており、瀬戸大橋が開通した年は、それからちょうど99年目のことでした。また、現在の香川県は明治21年(1888)12月3日付で全国において最後に設置された県であり、それからちょうど100年目のことでした。さらに、昭和天皇は1989年1月7日に崩御されており、昭和の終焉を迎える年でもありました。

 瀬戸大橋が開通するまでは、香川と本州間を自動車で行き来する場合、フェリーを利用する必要がありましたが、大橋の開通によって待ち時間なくいつでも本州間を行き来することができるようになりました。また、新幹線は昭和47年(1972)3月15日に新大阪駅~岡山駅間が開業していましたが、大橋開通前は、高松から新幹線に乗ろうとすると、高松港から宇野港までの宇高連絡船に約1時間乗り、そこで乗り換えて岡山までの在来線(宇野線)にまた約1時間乗る必要がありました。ところが、大橋が開通してからは、高松~岡山間を約50分間の直通列車で行くことができることとなりました。JRで高松から坂出へ行く場合、橋の開通前は“下り”でしたが、開通後は“上がり”になったということは、香川の人に大橋の開通による変化を印象づけました。
 瀬戸大橋の架橋工事と並行して四国内における高速道路の整備も進められ、大橋開通前年の昭和62年(1987)12月16日には、香川県にとって初めての高速道路である四国横断自動車道・善通寺IC~川之江JCT間が開通しています。そして、4年後の平成4年(1992)1月30日には川之江JCTで高知自動車道と接続し、さらにその年の4月19日には高松西IC~善通寺IC及び坂出支線坂出JCT~坂出IC開通により、坂出ICで瀬戸中央自動車道と接続します。一方、香川県では新空港の整備も進められ、瀬戸大橋開通翌年の平成元年(1989)12月16日には、新高松空港が開港します。従前の高松空港は滑走路が短いためジェット機が就航できませんでしたが、新空港は2,500mの滑走路を持ち、大型ジェット機の就航が可能となりました。これら一連の交通インフラの整備は、香川県にとってまさに交通革命ともいえる出来事でした。

 瀬戸大橋の開通によりすぐに影響が出たのは観光の分野でした。本州から香川へやって来る観光客は大きく増え、県外観光客は、開通前の昭和62年(1987)が約490万人であるのに対して、開通後の昭和63年には約1035万人と約2倍以上となりました。香川の代表的な観光地である琴平・栗林公園・屋島の付近は県外ナンバーの自動車で溢れ、飲食店や土産物店などは大繁盛します。しかし、一方では、県外観光客に素うどんを千円で売りつけるというような“ぼったくり”も生じました。
 きしくも、瀬戸大橋開通に始まる香川の交通革命は、日本経済がバブルに踊っていた頃の真っ只中に起きた出来事でした。
 1980年代後半から1990年代初頭にかけて、日本は、いわゆるバブル経済に陥り、特に地価と株価が異常に高騰しました。瀬戸大橋が開通した昭和63年(1988)には、日経株価が初の3万円台を突破し、いよいよバブルが大きく膨らみ始めるときでした。

 このバブル経済は、昭和60年(1985)9月のプラザ合意による急激な円高と、一方で内需拡大を図るために打ち出された金融緩和が原因だといわれています。低金利による過剰流動性すなわち「金あまり」の現象が生じ、それが投機的な株式や不動産の投資をもたらし、日本経済にバブルを生じさせたのです。そのバブルの象徴的な政策がいわゆるリゾート法でした。この法律は、内需拡大政策の一環として昭和62年(1987)に制定され、日本全国が競うようにリゾート開発に向けて突き進んでいきました。また、だぶついた資金をもとに「ジャパンマネー」と呼ばれる日本投機家による外国資産買いも始まっていきました。平成元年(1989)の三菱地所によるニューヨークのロックフェラー・センター購入は、当時の日本企業による国外不動産買い漁りの象徴でした。昭和62年(1987)11月に発足した竹下登内閣が、ふるさと創生事業として、全国の市町村に対し一律1億円を交付するという今では考えられないようなバラマキ施策が行ったのもこのときのことです。
 平成元年(1989)12月29日の大納会、日経平均株価は38,915円とついに史上最高の値に至ります。昭和61年(1986)1月1日に比べ3倍でした。また、土地の価格は、地価調査の全用途平均対前年平均変動率によると、昭和61年(1986)では全国2.7%(香川県1.6%)でしたが、最も高い変動率を示した平成2年(1990)では全国13.7%(香川県8.5%)と高騰します。
 しかし、平成2年(1990)4月から、大蔵省が不動産向け融資に上限を加える総量規制を実施すると、バブル経済は急激に崩壊へと向かっていきます。この年の10月1日、日経平均株価は2万円台を割り込み、わずか9ヶ月あまりの間に半値近い水準にまで暴落します。また、地価は、株価の暴落に遅れ、翌平成3年(1991)には下落しはじめて、バブル経済は崩壊へと向かっていきました。
 なお、香川県内では、平成3年(1991)4月20日に、全国的なテーマパークブームに乗り、レオマワールドが開園しています。ちなみに「レオマ」という呼称は、当時の社長の名前から「レジャーは、大西に、任せろ」に由来するといわれています。

 一方、世界に目を向けると、瀬戸大橋が開通した年は、9月17日にソウルオリンピックが開かれていますが、東欧革命、東西ドイツ統一、ソ連解体と続く戦後の冷戦構造が崩壊していく端緒になった年でした。
 昭和63年(1988)3月、ユーゴスラヴィアを訪問した当時のソビエト連邦共産党書記長・ゴルバチョフは、他の社会主義諸国に対するソ連の指導性を否定した「新ベオグラード宣言」を発表します。さらに5月にはアフガニスタンからの撤退を開始します。
 翌年の平成元年(1989)8月にハンガリーで行われた汎ヨーロッパ・ピクニックでは1000人程の東ドイツ市民が一斉に国境を越えてオーストリアへ亡命し、これを契機に11月9日夕刻、ベルリンの壁が崩壊します。その後、12月のルーマニアのチャウシェスク体制の崩壊に至るまで、東欧の共産国家は次々と民主化されていき、平成2年(1990)10月3日には東西ドイツが統一されます。そして、平成3年(1991)12月25日、ソビエト連邦が解体されて消滅し、ついに東西冷戦構造が完全に崩壊しました。

 バブル経済が崩壊したわが国では、不況に陥り、その後「失われた10年」と呼ばれる長期の停滞に苦しみます。香川県でも、平成12年(2000)8月31日にレオマワールドが閉園し、平成18年(2006)には県外観光客が約799万人まで減少しました。
 瀬戸大橋が開通した時期は、わが国だけでなく世界においても、大きな時代の変わり目のときだといえるでしょう。

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テーマ : 香川
ジャンル : 地域情報

(136)“日本モダニズム建築の到達点といわれる香川県庁舎”


 パリやローマなどのヨーロッパの都市を歩くと、日本の都市の街並みと大きな違いがあることに気が付きます。ヨーロッパの都市には、あまり高くなくクラシカルな外観の個性的な建物が多く残っています。これに対して、日本では、全国どこの都市でも、四角い箱のような没個性的なビルばかりが目立ちます。それは、広く開けられた四角いガラス窓や、凹凸や装飾の少ない外壁をもち、外壁の色も白系統か薄く目立たない色のものであるという共通性を持っています。ヨーロッパと日本のこのような差異は、建築思想の受け入れ方の違いに基づくものです。
 中世ののち、19世紀以前のヨーロッパでは、古代ギリシャ・ローマに起源を持ち、ルネサンス建築で復興された建築様式が長く主流とされてきました。建築は建物の基本構成から細部の装飾に至るまでやり方が決まっており、建築家は過去の歴史的様式を深く理解し、その決まった枠の中で個性を発揮して芸術的な作品を造ることが求められました。これを“歴史主義”あるいは“様式主義”といます。ヨーロッパの都市に残っているクラシカルな外観の建物は、この歴史主義に基づくものです。
 日本でも、1868年の明治維新以降、文明開化により欧米の文物が導入されるのに伴い、歴史主義に基づく洋風建築物が建てられていきました。今でも、東京日本橋にある日本銀行本店や、高松でも百十四銀行高松支店(旧本店、大正15年:1926)に、それを見ることができます。ただし、この“歴史”主義とは、ギリシャ・ローマに始まる洋風建築のものであり、日本の伝統的和風建築のものではありません。

 20世紀に入ると、18、19世紀に起きた市民革命と産業革命以降の合理主義的・社会改革的な思想を背景に、“モダニズム”(近代主義)と呼ばれる実験的な芸術運動が各分野で起こります。モダニズムは従来の19世紀芸術に対して、伝統的な枠組にとらわれない表現を追求し、その後、未来派、キュビズム、シュールリアリズム、ポップアート等へと展開していきます。
 建築の分野でも、19世紀以前の様式建築を桎梏としてそこから離脱し、合理的な精神から成り立つ近代精神をベースに、人が快適な生活を送ることができるための経済的・合理的・機能的な現実に合った建築を造ろうという試みが行われるようになります。その背景には、技術革新により、鉄骨造や鉄筋コンクリート造が普及し、また大量生産のガラスなどの新しい素材が使われるようになったことと、また社会生活の多様化に応じて建築に様々な要求が求められるようになったことがあるといわれています。これを“モダン・ムーブメント”(近代運動)といい、これにより生まれた建築様式を“モダニズム建築”(近代主義建築)といいます。
 モダニズム建築は、民族や国境を超えた、世界共通の普遍的なデザインを目指すことから“インターナショナル・スタイル”とも呼ばれ、機能的・合理的で装飾のない直線的構成を持つ立方体を特徴とします。モダン・ムーブメントは、1920年代に西ヨーロッパで明確な形をとり、その後世界に広まっていき、各国で新しい建築を求めて様々な試行錯誤が繰り返されていきます。

 日本でもヨーロッパの動きに応じ、1920年代からモダニズム建築の理念が導入され、第二次世界大戦による中断を含みながらも急速に普及していきました。日本では洋風の歴史様式をまとった建築は否定され、装飾のない“豆腐のような”、“白い箱”といわれる機能性・合理性だけの無味乾燥な建物が主流を占めます。その背景としては、日露戦争から第1次世界大戦にかけての日本の工業生産の発展、また日本にはギリシャ・ローマに始まる洋風建築の歴史的伝統が存在しなかったことなどが考えられます。

 戦後の20世紀半ばになると、世界ではモダニズム建築の理念が普及し、国連本部ビル(1952年)に代表されるような装飾のない建物が一般的となり、白い箱ばかりの街並みが生れていきました。しかし、このような街並みについては、単調で味気ないという批判が起こり、モダニズム建築は次第に革新性を失っていきます。そして、モダニズム建築が世界各国にも普及していくに従い、それぞれの地域の伝統に適用した建築、抽象と伝統との折り合いがその課題となりました。
 日本では、洋風としての歴史主義が消えても、和風あるいは“日本らしさ”への追求までが消えたわけではなく、むしろ、桂離宮などの数奇屋建築とモダニズムの近親性が論じられ、柱と梁(はり)で構成される日本の伝統的建築の方が、煉瓦や石を積み上げて造る西洋の建築よりも、モダニズムの理念と適合していると主張されました。

 第二次世界大戦後、モダニズムの旗手として登場したのが丹下健三です。丹下はすでに戦時中、伊勢神宮の中に伝統と抽象の同居する形を見出していたといわれ、白く四角い箱のモダニズムを“衛生陶器”と揶揄し、新たなモダニズムへの追求を試みます。
 丹下の戦後における実質的なデビュー作が、昭和30年(1955)に完成した「広島ピースセンター」です。この建物は、モダニズム建築でありながら、日本の伝統を強く感じさせる作品として、丹下の名声を一気に高めます。なお、平成18年(2006)、戦後の建築物としては初めて国の重要文化財に指定されています。
 さらに、丹下が、日本の伝統表現を建物の構造全体にまで及ぼしたのが、昭和33年(1958)に完成した香川県庁舎(現・東館)です。広島ピースセンターでの伝統表現は、ルーバー(羽板と呼ばれる細長い板を平行に組んで板状にして取り付けたもの)という表面の“装飾”にほぼ限定されていましたが、香川県庁舎では、日本の寺社建築に見られる柱と梁の繊細な組み合わせが、鉄筋コンクリートで表現されました。特に、床とベランダを支える小梁は、構造的な強さを確保しつつ、極限まで細く薄くすることにより、その連続・反復する様子は、下から見上げた時、五重塔のようにイメージされました。香川県庁舎は瓦屋根や日本的な装飾を用いずに、人々の感性に日本的伝統を訴えかけたモダニズム建築でした。
 「構造と表現」は、モダニズム建築が最初から抱えていたテーマでもありますが、香川県庁舎(現東館)は日本的伝統という切り口でこの難題に初めて明確な解答を出し、世界へ発信した作品という点で高い評価を得ています。日本におけるモダニズム建築の到達点を世界に示したともいえるものです。
 なお、香川県庁舎(東館)が完成した年は、巨人軍の長嶋茂雄選手が4打席4三振デビューをし、東京タワーが完成しています。また、現在の天皇・皇后である明仁・皇太子と正田美智子さんが婚約を発表し、ミッチー・ブームが始まったときで、日本が高度経済成長に突き進んでいたころでした。

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テーマ : 香川
ジャンル : 地域情報

(135)“日本野球史上最大のライバル劇を演じた二人の讃岐男”

 日本における野球の発祥は、明治5年(1872)、アメリカ人教師のホーレス・ウィルソンが第一大学区第一番中学(現在の東京大学)で生徒たちに教えたのが最初だとされています。それを記念して、東京神田の神保町にある学士会館敷地内には、「日本野球発祥の地」の碑が建立されています。香川で野球が始まったのは、その22年後の明治27年、高松中学校(現在の県立高松高等学校)の校長がアメリカの「ベースボール技術書」を手にし、野球部を創設したときからだといわれています。
 以降、日本では学生野球を中心に普及していき、大正4年(1915)には、夏の甲子園といわれる全国高等学校野球選手権大会の前身である全国中等学校優勝野球大会の第1回大会が大阪の豊中で開催されます。また、大正13年には、春の甲子園といわれる選抜高等学校野球大会の前身である選抜中等学校野球大会の第1回大会が名古屋で開催されます。夏、春の甲子園大会が甲子園球場で行われるようになったのは、それぞれ第10回大会、第2回大会のときからです。
 さらに、大正14年(1925)秋からは東京六大学野球が始まり、学生野球が大学間のリーグ戦として行われるようになります。
 日本での本格的なプロ野球が始まったのは、昭和9年(1934)に来日したアメリカチームと対戦するために組織された全日本野球倶楽部(現在の読売巨人の前身)が結成されたのがきっかけで、昭和11年に巨人、阪神などによって日本職業野球連盟が発足します。
 この甲子園、東京六大学野球、プロ野球を通じて二人の讃岐男が、戦前から戦後にかけて、まるで運命の糸が絡み合うように、宿命の闘いを繰り広げます。その闘いのドラマは、あたかも戦国時代の武将を髣髴させ、日本中の観客を興奮と感動の渦に巻き込みました。
 その二人の讃岐男とは、巨人軍の監督として第二期黄金時代を築いた水原茂と、セ・パ両リーグ日本一を初めて達成し、「野球は筋書きのないドラマである」という名言を残した三原脩(おさむ)です。水原と三原は小次郎・武蔵にも例えられた永遠のライバルでした。

 水原は明治42年(1909)1月19日、香川県の高松市福田町で、父庄八・母章江の長男として生まれます。旧姓を竹林といい、のちに親子で五番丁(今の番町2丁目)の水原家へ養子に入ったことから水原姓を名乗ります。家業はクリーニング業を営んでいました。大正4年(1915)に築地尋常小学校へ入学し、3年のときに高松尋常高等小学校へ転校します。大正12年、14歳のときに高松商業学校(現高松商業高等学校)へ進みます。
 一方、三原は明治44年(1911)11月21日、現在のまんのう町で、父一彦・母政子の末っ子5男として生まれます。実家は大地主でした。大正7年(1918)、丸亀城西尋常小学校へ入学し、大正13年、13歳のとき丸亀中学校(現丸亀高等学校)へ進みます。しかし、野球に熱中したため野球嫌いの父親の意向で、昭和2年(1927)、4年生の秋、16歳のときに高松中学校へ転校します。ところが高松中学の校長が野球部に入ることを条件に転入を認めたことからさらに野球にのめり込んでいきます。
 高松商業は香川県における中等実学教育の中心で、一方、高松中学は県内第一の進学校でした。その校風は対照的で、大正の終わりから昭和の初めにかけて、高松商業と高松中学は野球で競い合い、高松の町も高中(たかちゅう)派と高商(たかしょう)派に別れて激しい応援合戦を繰り広げていました。高松中学の校長が三原に野球部に入ることを条件に転入を認めたのもこのような背景があったといわれています。
 水原が入ったころの高松商業野球部は、春の第1回選抜大会(大正13年)で全国優勝したのを皮切りに黄金時代を迎えようとしていました。水原の1年先輩で剛腕投手として知られた宮武三郎や同級生の井川喜代一、堀定一など、のちに慶応大学に進み、東京六大学野球やプロ野球界などで活躍する多くの逸材を輩出しています。
 水原は、高松商業では、投手・三塁手として活躍し、春夏合わせて5回甲子園へ出場しています。大正14年(1925)、3年生のとき、春の第2回選抜大会で全国準優勝し、その夏の第11回選手権大会では全国優勝を達成します。このときの高松商業の投手は宮武三郎でした。さらに、翌々年の昭和2年(1927)、5年生のとき、夏の第13回選手権大会でも全国優勝し、優勝投手にも輝きます。
 水原と三原は、夏の第13回選手権大会四国予選の準決勝において初めて対決しますが、このときは、三原を含めて高松中学は高松商業の水原の前に手も足も出ずノーヒットノーランで敗れています。しかし、水原が高松商業を卒業した後の昭和3年(1928)、三原のいる高松中学は高松商業を破り、夏の第14回選手権大会で甲子園へ出場します。三原は遊撃手として参加します。この大会で高松中学は準決勝戦まで進みますが、松本商業に「豪雨によるコールド負け」で無念の敗退をします。ちなみに、このとき高松中学野球部のマネージャーは、後に日本社会党中央執行委員長となる成田知巳でした。
 そのころの日本の野球は、学生野球が花盛りの時代で、甲子園の中等野球(今の高校野球)や東京六大学野球に観衆は熱狂していました。また実業団の都市対抗も人気を集めていましたが、プロ野球はまだ始まっていませんでした。このような中で、高松は野球が盛んなところで、大正13年から昭和5年の7年間における中等野球全国大会での成績は、高松商業が優勝2回、ベスト8が2回、それに次ぐ高松中学がベスト4が2回、ベスト8が1回という成績で、「野球王国」と呼ばれました。

 昭和3年(1928)、水原は、先輩の宮武三郎がいる慶応大学へ、同級の井川喜代一・堀定一とともに入ります。昭和4年春の慶応野球部メンバー27名のうち、高松商業出身者は、宮武、水原、井川、堀のほか野村栄一の5名がいました。
 一方、翌昭和4年、三原は早稲田大学へ入ります。中学校を卒業するとき、三原は旧制第四高等学校(現在の金沢大学)を受験しており、野球を続ける気持ちはなかったようです。受験の間に東京の親類のところへ行ったときにスカウトされたといいます。
 水原と三原の二人が早慶戦で最初に顔を合わせたのは、昭和4年5月21日のときです。このとき2年生の水原は三塁手と投手をやっていますが、新入生の三原はピンチ・ランナーに出ただけでした。この年の10月13日、二人は初対戦をします。水原は投手として登板し、三原は新人でしたが左翼手としてスターティング・メンバーに入ります。この対戦では、三原は水原に対して、三振を2回を喫しています。ちなみに昭和4年には世界大不況が始まっています。
 二人の本格的な対戦は、昭和5年5月17日の早慶戦のときからです。このとき、水原は5番・三塁手、三原は2番・二塁手して出場し、三原は宮武三郎投手から安打を放っています。その後、水原と三原の二人は東京六大学野球のスター選手として人気を博します。ちなみに、宮武三郎は、打者としても活躍した選手で、長嶋に破られるまでは東京六大学のホームラン記録を持っていました。昭和40年に野球殿堂入りをしています。
 昭和6年(1931)春季の早慶戦2回戦で、早大の三原は、6回慶大が2-2の同点とした直後の7回、2死満塁の場面でホームスチールを敢行します。このときの慶大の投手は水原でした。三原のホームスチールは左打者が打席に入っていたときに企てたもので、打者が左打席に立てば三塁走者の動きは相手捕手から丸見えになるばかりか投手は右投げの水原であり、通常ホームスチールが考えられない局面でした。このホームスチールで勝ち越した早大は流れをつかみ、その後も加点して6-3で対戦成績を1勝1敗とし、前年春からの早慶戦の連敗を5で止めています。ちなみに昭和6年は満州事変が勃発し、翌昭和7年には五・一五事件が発生しており、世相は暗くなる一方でした。
 しかし、三原は、昭和8年(1933)春季終了後、スター選手の座を捨て野球部を突然自主退部します。病床についていた郷里の父が眼の黒いうちに三原が身を固めるのを見たいと言い出したのですが、当時早大野球部は学生結婚を認めていなかったので、結婚を機にあっさり退部したというわけです。三原は早稲田を中退して一時、香川へ帰郷します。
 一方、水原も、昭和8年秋のリーグ戦終了後、慶応野球部を退部します。この当時の早慶戦は応援もかなり過熱気味だったようで、この年の秋のリーグ戦で、早大側応援席から投げ込まれたリンゴを慶大三塁手の水原が投げ返したことにより乱闘事件が発生し、その責任をとったというわけです。のちに「水原リンゴ事件」と呼ばれるこの事件以降、早慶戦では、早大と慶大のダック・アウト・応援席は、それぞれ一塁側、三塁側に固定されたといいます。

 昭和9年(1934)、水原は、奉天(今の中国瀋陽市)の自動車会社に入り、実業団野球に活躍の場を求めます。一方、三原は、香川から大阪へ出て就職し、都市対抗全大阪チームに参加します。
 この頃、わが国ではプロ野球を結成しようという動きが急速に高揚し、昭和9年(1934)、読売新聞社長の正力松太郎の招聘により、ベーブ・ルースらが加わるアメリカ大リーグ選抜チームが来日することになりました。そして、アメリカ選抜チームと対戦するため日本でも全日本チームが結成され、大阪にいた三原、満州にいた水原茂らが全日本チームに参加します。投手の沢村栄治もこのとき一緒に参加しています。三原23歳、水原25歳のときです。
 アメリカ選抜チームとの対戦では、水原と三原の二人は、交互に二塁を守り、三原は11試合出場で38打数6安打、水原は10試合出場で21打数2安打でした。なお、三原は両チームトップの5盗塁を記録します。ちなみに、静岡県草薙球場における試合で、沢村栄治投手がベーブ・ルース、ルー・ゲーリックらを三振にしとめる好投をした話はよく知られているところですが、このときの二塁手は水原でした。
 こうして日米野球の盛り上がりもあり、昭和9年12月26日、全日本チームを基礎としてわが国で初めてのプロ野球団体である「株式会社大日本東京野球倶楽部」(現在の読売巨人軍)が創設され、水原も三原も加わります。なお、大日本東京野球倶楽部と最初に契約し、我が国のプロ野球選手第1号となったのは、三原でした。
 翌、昭和10年2月、大日本東京野球倶楽部一行は105日間のアメリカ遠征に向かい、水原は沢村栄治らと参加します。しかし、三原は、陸軍から召集を受け、昭和10年1月に郷里の丸亀連隊に入隊したため参加できませんでした。これから本格的に活躍の場ができたと思っていた三原は悔しい思いをしたことでしょう。
 この年、大日本東京野球倶楽部が帰国すると、全国各地にプロ野球球団設立の動きが出てき、10月末に大坂タイガースができたのを皮きりに、名古屋軍、東京セネタース、阪急軍、大東京軍、名古屋金鯱軍の合計6球団が名乗りをあげます。そして翌昭和11年(1936)2月5日に巨人軍を含む7球団で「日本職業野球連盟」が結成され、初めてプロ野球のリーグ戦が始まります。
 昭和11年の前半、水原は巨人軍のメンバーとして第2回目のアメリカ遠征をしています。一方、軍隊にいた三原は、この年の7月末、1年余りで除隊することができ、早大の先輩である巨人軍藤本監督の要請で秋のリーグ戦から選手兼助監督として巨人軍に復帰します。そして、この年の秋の優勝チーム決定戦は、巨人軍と大阪タイガースとの戦いとなり、巨人軍は、トップ・二塁手三原、二番・三塁手水原で始まる打線で、沢村投手を擁してタイガースに勝ち初優勝をします。ちなみに、この年、二・二六事件が発生し、日本は軍国主義へ大きく傾いていきます。
 しかし、翌昭和12年7月、三原は、日華事変の勃発により再び召集され、丸亀連隊に入り、中国戦線へと赴きます。そして機関銃隊第1分隊長として大場鎮の激戦に加わり、このときの戦闘で左太腿に貫通銃創弾を受けます。翌昭和13年3月、除隊した三原は再び巨人軍に復帰しますが、審判とのトラブルにより、その年、27歳で現役を引退し、その後報知新聞のスポーツ記者に転向します。このときの報知新聞の社長は、高松中学、早大の先輩で高松出身の三木武吉でした。
 水原はその後も巨人軍で活躍し、スター選手となります。昭和12年に後楽園球場が竣工すると、オールスター紅白試合では後楽園球場第1号のホームランを打ちます。昭和15年(1940)にベストナイン、昭和17年(1942)にMVPにそれぞれ選ばれ、主として三塁手として活躍します。
 当然のことながら、現役選手としては、選手生活の長かった水原の方が活躍しており、通算では、三原が92安打、0本塁打であるのに対して、水原は昭和11年から昭和17年までの7年間で476安打、12本という成績でした。
 日米開戦直前の昭和16年10月、三原は、30歳のとき、3度目の召集令状を受け陸軍曹長として善通寺第十一師団の司令部勤務となり、楯師団に配属されビルマ戦線へ赴きます。一方、水原も昭和17年のシーズン終了間際の9月、33歳のときに応召されて丸亀歩兵連隊に入隊し、満州へ出征します。二人の戦争体験は悲惨を極め、三原は多くの兵士が病死したビルマでのインパール作戦に従軍し、水原はソ連軍に連行されてシベリアで強制労働に就かされます。

 ビルマ・タイ国境で終戦を迎えた三原は、敗戦後1年近くも経てた昭和21年(1946)6月、九死に一生を得て帰国します。35歳のときです。その後、読売新聞の記者として勤務していましたが、再び野球の世界に復帰するチャンスが廻ってきます。翌昭和22年、請われて総監督の立場で巨人軍に復帰したのです。1年目のその年は5位に終わりましたが、2年目の昭和23年には2位となります。
 一方、水原は、昭和24年(1949)7月20日、40歳のとき、4年間のシベリア抑留生活の末ようやく帰国し巨人軍に合流します。出征から7年ぶりでした。そしてその4日後の24日、巨人対大映の試合前にホームベースのところで「水原茂、ただいま帰ってまいりました」とマイクを握って報告し、ファンから大歓声を受けます。このとき、三原が花束を持って水原を迎え、二人は固い握手を交わします。
 戦前、水原は名プレイヤーとして多くのファンの人気を得ており、そのプレーを再び見たいという声が高まります。しかし、水原は既に現役選手としてプレーするには無理な年齢となっており、試合に勝つことを優先する三原が水原を起用することはありませんでした。そのような中、三原にとって3年目のこの年、巨人は2位に16ゲームという圧倒的な差をつけて優勝を果たします。
 ところが、巨人軍のチーム内から、「三原は水原に対し冷たい仕打ちをしている」という批判の声が出てきます。そして、その動きは、昭和24年のシーズン終了後、巨人選手たちが監督の三原を排斥して水原を擁立しようとするいわゆる「幻の連判状事件」に発展します。選手たちは、要求が聞き入れなければ巨人を退団して他球団に移籍するとの姿勢をほのめかしたといいます。慌てた球団はこれをみて「総監督・三原、監督・水原」の人事を発表し、昭和25年、ついに水原が三原のあとを受けて巨人の監督に就任します。
 三原は球団から説得されて専任の「総監督」に就きますが、それは事実上の棚上げでした。水原はこの謀議にはかかわっておらず、「優勝に導いた監督が辞めさせられるのは筋が通らない」と監督交代には否定的だったといいます。総監督に祭り上げられた三原に球団から仕事が与えられることはなく、退屈しのぎに新聞社で将棋や碁を打つ毎日だったといいます。第一線に立ち自己の考える野球をやりたいという三原にとっては、座敷牢に閉じこめられているような屈辱の日々でした。ちなみに、昭和25年は朝鮮戦争が始まったときで、翌昭和26年は日本がサンフランシスコ平和条約に調印してようやく占領統治から独立したときです。
 巨人を去ることを決意した三原は名前を修から脩に改名し、昭和25年のオフ、西鉄ライオンズの監督に就任します。そのときの心境を三原は、後に、「私は報復の思いを胸に秘めて関門海峡を渡った」と記しています。翌昭和26年、40歳のとき、初のキャンプで「我いつの日か中原(ちゅうげん)に覇を唱えん」と第一声を発し、巨人総監督時代の悶々とした気持ちを晴らすため、西鉄を強大なチームに育て上げて、日本シリーズで巨人と対戦して負かそうと誓ったといわれています。

 一方、巨人軍の監督に就任した水原は、就任1年目の昭和25年(1950)こそ3位でしたが、昭和26・27・28年と3年間連続でリーグ優勝と日本シリーズ制覇を果たします。そして、その名声はますます高まり、球界の寵児となります。一方、三原西鉄は、昭和26年が2位、27年が3位、28年が4位と、なかなか成果が出ず、我慢の日々が続きます。ちなみに、昭和28年から野球のテレビ中継が始まります。
 こうした中、昭和29年、ついに転機が訪れます。忍耐のチームづくりにより地力をつけた三原西鉄は、チーム初のパリーグ優勝を果たします。この年、セリーグでは中日ドラゴンズが優勝し、水原巨人は2位に終わります。日本シリーズでは、三原西鉄は中日ドラゴンズと対戦しますが、3勝4敗で敗れ、日本一の座へはまだ一歩及びませんでした。

 昭和30年(1955)、水原巨人は2年ぶりにセリーグ優勝を果たします。しかし、三原西鉄はパリーグ2位にとどまります。水原巨人はさらに2年ぶりの日本シリーズ制覇も果たします。
 昭和31年、水原巨人は前年に引続いてセリーグ優勝し、三原西鉄も2年ぶりにパリーグ優勝を果たします。ついに、三原と水原は日本シリーズで闘うことになったのです。当時、この2人の闘いはマスコミから「巌流島の決闘」と評されるほどの注目を集め、知将・三原vs勝負師・水原ともいわれました。そして、この闘いで、三原西鉄は4勝2敗で水原巨人を倒し、念願の「巨人を破っての日本一」を成し遂げます。ついに、三原は自分を追った巨人に対して、報復を果たしたのです。
 翌年の昭和32年も、三原西鉄と水原巨人は再度それぞれリーグ優勝を果たし、日本シリーズで対戦します。このときも、三原西鉄が水原巨人を打倒し、日本一に連続して輝きます。
 さらに翌年の昭和33年、三原西鉄と水原巨人は再々度それぞれリーグ優勝を果たし、3年連続、日本シリーズで対戦します。巨人には新人の長嶋が加わっていました。2年連続で三原西鉄に辛酸をなめさせられた水原巨人は初戦から3連勝し、日本中の者がとうとう水原巨人が三原西鉄の息の根を止めるときがやってきたと思いました。しかし第4戦以降、奇跡が起きたのです。西鉄はなんと稲尾和久が一人で4連投し、しかも4連勝したのです。まさに逆転の日本一で、三原の凄まじい執念が試合の流れを一気に変えたのではないかと思われました。この時稲尾が受けた称号が「神様・仏様・稲尾様」というものでした。ちなみに、この年の10月14日には東京タワーが完成しています。
 また、この頃の三原西鉄を打撃で支えたのが「怪童」といわれた中西太です。中西は、昭和8年4月11日に高松市で生まれ、高松市立第一高等学校に進み、昭和27年に西鉄に入団します。新人王を獲得し、翌昭和28年から31年にかけては4年連続で本塁打王に輝いています。ちなみに、三原の長女・敏子は中西太の妻であり、三原は中西の義父にあたります。
 昭和34年、パリーグでは鶴岡率いる南海(現ダイエー)が優勝し、三原西鉄は力を使い果たしたかのように4位に終わります。一方、水原巨人はセリーグ5連覇を果たし、セリーグの覇者としての地位を守ります。しかし、日本シリーズでは鶴岡南海に破れ、日本一の座に4度涙を呑みます。

 昭和34年(1959)のオフ、三原は、9年間在籍した西鉄を去り大洋監督に就任します。当時大洋は昭和29年から昭和34年まで6年連続最下位でした。いよいよ、水原と三原の二人が同じセリーグで闘うことになったのです。セリーグ覇者の地位を守ろうとする水原、これを攻め取ろうとする三原、二人はペナントレースで死闘を繰り広げます。
 昭和35年、三原大洋は開幕から6連敗を喫し、苦しい幕開けとなります。しかし、すぐさま選手起用が冴え渡り、水原巨人と激しく優勝を争います。そして、三原は「超二流選手」たちを巧く組み合わせる采配を取り、1点差試合を33勝17敗で勝ち越し、ついに水原巨人を突き放して大洋球団史上初のリーグ優勝を果たします。水原巨人は2位に終わり、またしても三原に煮え湯を飲まされる結果となりました。
 この年の日本シリーズで、三原大洋は、「ミサイル打線」との異名を持つ大毎オリオンズと対戦します。そして、1点差勝ちの4連勝を果たしセリーグから日本一に輝きます。前年度最下位からの日本一でした。両リーグから日本一を達成したのは三原が初めてでした。また監督として3球団での優勝はプロ野球史上初の快挙でした。この功績が評価され、三原はスポーツ界では初めて菊池寛賞を受賞します。この賞は同郷の文豪菊池寛を記念して設けられたものでした。
 なお、三原大洋が日本一となったこの年、新人の近藤昭仁(あきひと)が日本シリーズMVPに輝いています。近藤は、昭和13年4月1日に高松市で生まれ、高松第一高等学校、早稲田大学を経て、昭和35年に三原大洋に入団していました。
 このときが三原の絶頂のときでした。一方、水原はセリーグ6連覇を達成できなかった責任を取り、昭和25年から昭和35年まで11年間務めた巨人軍監督を追われるような形で退任します。勝者が出れば、必ず一方に敗者が出るという勝負の世界の厳しい掟でした。なお、水原の後任は川上哲治です。

 しかし、野球の世界はまだまだ水原を必要としていました。水原は、請われて昭和36年から東映(現日本ハム)の監督に就任したのです。今度は水原がパリーグに移ったのです。そして、翌昭和37年(1962)、リーグ優勝を果たし、さらに阪神を破って日本シリーズを制覇します。水原自身にとって5度目の日本一でした。巨人を追われた水原が東映を育てて巨人に一矢を報いたのです。
 水原は、東映監督を昭和42年まで7年間務め、その後昭和44年から中日の監督を3年間務めます。昭和46年を最後に62歳で監督を退任します。
 一方、三原は、8年間務めた大洋監督を辞した後、昭和43年から3年間近鉄バッファローズの監督に就きますが優勝は出来ず、その後、昭和46年から3年間ヤクルトに移籍しますが、3年連続でBクラスのままに終わり、昭和48年を最後に62歳で監督を退任します。ちなみに、水原の中日監督最終日の第一試合の相手は終世のライバル・三原率いるヤクルトでした。

 通算成績は、水原が1586勝1123敗73分け、三原が1687勝1453敗108分けでした。
リーグ優勝は、水原が昭和26~34年(昭和27年を除く)の巨人優勝8回と昭和37年の東映優勝1回の計9回であるのに対して、三原が昭和24年の巨人優勝1回と昭和29~33年(昭和30年を除く)の西鉄優勝4回それに昭和35年の大洋優勝1回の計6回です。
 日本シリーズ優勝は、水原が昭和26~30年(昭和29年を除く)の巨人優勝4回と昭和37年の東映優勝1回の計5回であるのに対して、三原が昭和31~33年の西鉄優勝3回と昭和35年の大洋優勝1回の計4回です。
 水原は昭和52年に、三原はその6年後の昭和58年にそれぞれ野球殿堂入りを果たします。昭和57年3月26日、水原逝去、享年74歳。その2年後の昭和59年2月6日、三原逝去、享年72歳。
 水原と三原は小次郎・武蔵にも例えられた永遠のライバルで、犬猿の仲とも評されましたが、ユニフォームを脱いだ後は交流があったといいます。水原は「三原は素晴らしいライバルだった。彼の先を見通す眼の確かさ、着眼点の素晴らしさには敬服した。」と、三原は「彼がいなかったら私の闘争心はあれほど燃えなかっただろう。そういう意味で感謝しなければならない。」と、それぞれ相手を称えたといいます。

  「讃岐国の風俗、気質弱く、邪智の人、百人に而(しか)して半分如(ごと)く斯(か)くなり。武士の風、別諂い(わけてへつらい)強く方便をもって立身をすべきなどと思う風儀の由(よし)、兼ねて聞き及ぶに不替形(ふたいけい)儀なり。」といわれるように、讃岐人は、利害にすばしこく、おべっかを使って出世しようという小利口で思慮の狭い「へらこい」県民性などと評され、昔から讃岐では大器が育たない風土ともいわれています。しかし、水原、三原の両監督は、このような讃岐人の典型から全く正反対の人で、自分の信念を、自分の実力でもって突き進んだ気骨のある讃岐男でした。
 高松市の中央公園には、水原と三原が並んで立っている像があります。その像を見ると、今まさに何かを二人が語ろうとしています。二人は永遠のライバルとして二人だけにしか分からない何かを語ろうとしているのでしょう。

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テーマ : 香川
ジャンル : 地域情報

(121)“紀伊水道から瀬戸内海へ吉野川の水の流れを変えた用水”

 日本三大暴れ川といえば、「坂東太郎」の利根川、「筑紫次郎」の筑後川、それと「四国三郎」の吉野川です。太平洋から北上してきた台風がぶつかる四国山地は日本有数の多雨地域として知られていますが、吉野川は、その四国山地の西部に位置する高知県土佐郡本川村の瓶ケ森(標高1896.2m)にその源を発しています。その水は、四国中央部を四国山地に沿って東に流れ、高知県大豊町豊永から北に向きを変えて四国山地を横断し、徳島県三好市池田町に至って再び東に向きを変えて徳島平野に入り、紀伊水道に注いでいます。その幹線流路延長は194kmに及ぶ日本有数の大河川です。
 ある河川に降水が流入する全域をその河川の流域といい、流域の互いに接する境を分水界(流域界)といいますが、吉野川の流域面積は3,750km²と、四国の面積18,299.04km²の約20パーセントを占めています。なお、吉野川の流域面積の四国四県での割合は、徳島県63%・高知県28%・愛媛県8%・香川県1%で、香川県も徳島県境に接する東讃の一部地域(三木町、さぬき市、東かがわ市の一部)が吉野川流域に属しており、吉野川は文字通り四国四県にまたがる河川です。

 香川県は瀬戸内海気候の下にあり、降水量が少なく、また、大きな河川もないため、古来から日照りが続くと水不足となって、農業や生活に支障をきたしていました。一方、讃岐山脈の南側を流れる吉野川は「暴れ川」と呼ばれ、氾濫を繰り返し、その流域は長年洪水の被害を受けてきました。そこで、讃岐山脈にトンネルを掘り、吉野川の水を讃岐平野にひくべきだというアイデアが明治期に唱えられました。このアイデアを最初に出したのは、明治時代に活躍した大久保之丞(じんのじょう)だといわれています。之丞は讃岐鉄道の完成に尽力したほか、四国と本州を隔てている瀬戸内海を橋で結ぶという、当時では画期的なアイデアを出した人物としても知られています。「笑わしゃんすな、百年先は財田の山から舟出して、月の世界に行来する」という都都逸(どどいつ)風の歌を之丞はよく歌っていたといいます。

 戦後、之丞のアイデアは吉野川総合開発計画として実現されることになります。この計画は、吉野川上流にダムを築造して貯水池をつくり、これによって洪水調節を行うとともに四国四県に対する新規用水の供給及び電源開発など一連の事業を行うというものです。吉野川の水資源を有効に活用しようというプランは、戦後間もない頃の昭和25年(1950)、当時の建設省、農林省、通産省、四国4県、各電力会社によって吉野川総合開発の原案が作られます。しかし、四県の利害得失が複雑に絡み合い、なかなか実現には至りませんでした。こうした中、開発の機運が急速に高まったのは、昭和35年(1960)の四国地方開発促進法の制定でした。昭和39年(1964)には四県の足並みもそろい、ついに原案作成から16年後の昭和41年(1966)に基本計画が決定されました。
 その事業内容は、高知県の吉野川上流域に「早明浦ダム」を建設し、これと並行して、本・支流に池田ダム(徳島)、新宮ダム(愛媛)などを築造し、洪水調節と発電を行うとともに、新たに生み出される年間8億5,600万 の用水を四県の農業、上水道、工業用水の水源として分水するというものでした。また、香川県では、吉野川総合開発の一環として、吉野川の水を導水する「香川用水」の敷設が計画されました。これは、早明浦ダムの年間水量8億5,600万 のうち2億4,700万 を、徳島県三好市池田町に建設された池田ダムの取水工から讃岐山脈を貫く8kmの導水トンネルを経て三豊市財田町まで導水し、ここから県内陸部を東西に貫通する幹線水路98km(一部トンネル、サイホン)を通じて県内各所で、農業用水・水道用水・工業用水として利用するというものでした。
 早明浦ダムは、昭和42年(1967)に着工され昭和48年に完成しました。多目的ダムとしては西日本一の規模、貯水量は全国第4位です。それとともに、香川用水も、昭和43年(1968)から建設が始められました。讃岐山脈をくり貫くトンネル工事は、山脈が安山岩という格別硬い岩でできているため大変な難工事だったといいます。
 こうして昭和49年(1974)6月1日に初めて通水が行われ、今まで紀伊水道に流れていた吉野川の水が備讃瀬戸の海に注がれるようになりました。106kmに及ぶ香川用水幹線水路の全線に通水が開始したのは、着工から10年後の昭和53年6月11日でした。昭和25年の計画発表から実に24年の歳月と、総工費3,200億円(うち香川県負担分1,154億円)という莫大な経費を費やし、わが国屈指の大用水が誕生しました。
 以後、香川用水は、香川県の山間部及び島嶼部を除くほぼ全域に農業用水、水道用水、工業用水を供給しています。農業用水としては農地30,700ha(水田25,100ha・果樹園5,600ha)に供給しており、水道用水としては香川県人口の約80%に給水し、使用量は県内で使用される水道水の約50%を占めています。さらに工業用水としては、香川の中讃地域である坂出・丸亀地区工業地帯に給水し生産活動を支えています。香川用水は、香川の生命線といっても過言ではないでしょう。

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(113)“自民党を創った高松生まれの政党政治家”

 昭和58年(1983)、「小説吉田学校」という映画が公開されました。これは戦後の被占領下から吉田内閣辞任までの日本政治の世界を描いた戸川猪佐武(とがわいさむ)の同名小説を映画化したもので、森繁久彌が扮する吉田茂と芦田伸介が扮する鳩山一郎の抗争が描かれています。この中で、鳩山の盟友で、吉田を総理大臣の座から引きずり下ろそうとする着流し姿の老人が登場しています。若山富三郎が扮するこの人は、三木武吉(みきぶきち)という高松生まれの政治家で、昭和30年(1955)、自由民主党の結党による保守合同を成し遂げた最大の功労者といわれています。
 武吉は大臣などの公職には就かず、「ヤジ将軍」とか「策士」、「寝業師」、「影の実力者」、「政界の大ダヌキ」などと呼ばれていたことから闇の政治家のようなイメージをもたれているようです。また、旧制高松中学時代のうどん食い逃げ事件にはじまり、数々のエピソードが語られています。選挙中の立会演説会において、対立候補から愛人を3人も囲っていると批判されたところ、次に演壇に立ち、「先ほどの候補は3人と申しましたが、正しくは5人であります。それも今は年を取り役にたちませぬがこれを捨てるに忍びず、今まで誰一人捨てた事がありませぬ」と反論し、その率直さが逆に選挙民の好感を呼んだとか、また、「女3人も喧嘩させずに御せないで一国の総理になれるか!」と言ったとか、松子・竹子・梅子という松竹梅といわれた3人の愛人を囲っていたとか、愛人に神楽坂で待合茶屋を持たせていたとか、枚挙にいとまがありません。
 しかし、武吉は、戦後の活躍だけでなく、戦前、藩閥政治に対抗して政党政治の確立に努めて大正デモクラシーの時代に活躍した生粋の政党政治家でもあります。議会選挙で多数派を占めた政党が政権の座につくという原理を政党政治といい、この原理は今では当然のことと考えられています。しかし、明治維新以降、わが国では、薩長土肥(さつちょうどひ、薩摩・長州・土佐・肥前の4藩)、特に薩長両藩の出身者が中心となった藩閥勢力が、官僚組織や軍部など国家機関の要職を掌握し、長きにわたって政治の実権を握っていました。これが終焉し、憲政の常道として政党内閣の慣行が生まれたのは、大正13年(1924)に誕生した護憲三派内閣以降のことです。武吉はその実現に大いに寄与しています。また、武吉は、戦時中、軍部に対抗して翼賛選挙を非推薦で当選し続けた数少ない自由派党人の一人でもあります。
 その波乱万丈に富んだ人生は、日本の政党政治の歴史そのものといえるでしょう。

 三木武吉は、明治17年(1884) 8月15日、父三木古門、母あさの長男として高松旧城下の外磨屋町(現在の番町3-31)に生まれました。この当時、現在の香川県は愛媛県に統合されており、愛媛県から独立するのは明治21年12月のことです。
 三木家は松平藩の藩儒の家柄でしたが、維新後に家禄を失い、武吉が生まれた頃には生活もかなり困窮していたようです。父の古門は書画の鑑定にかけては高松随一との定評があり骨董屋を営んでいたといわれていますが、実際は売り喰いの生活だったようで、一家の生計を支えていたのは母あさでした。武吉が生まれた4年後の明治21年には、同じ旧高松城下の七番丁(現高松市天神)で菊池寛が生まれています。

 武吉が生まれるより前の明治前期には、板垣退助らによる民撰議院設立建白書の提出(明治7年(1874))に始まり、藩閥政治に反対して国民の政治への参加を要求する自由民権運動が全国的に広がっていきました。政府内部でも早期国会開設論の大隈重信と漸進的開設論の伊東博文らが対立します。結局、政府は、明治14年(1881)、大隈重信を追放するとともに天皇の名で10年後の明治23年(1890)を期して国会を開設することを約する勅諭を発します。これが明治14年の政変です。
 国会開設が約束されると、板垣退助の自由党、大隈重信の立憲改進党などの政党が結成され、自由民権運動の組織的な展開が進みます。しかし、政府の弾圧と懐柔策により民権運動は分裂するとともに過激化し、福島事件・秩父事件などが鎮圧されるなかで、自由党は解散、立憲改進党は大隈重信が脱党するなど、しだいに衰退していきます。

 明治22年(1889)2月11日、武吉が4歳のとき、大日本帝国憲法が発布され、翌年には、最初の衆議院議員の総選挙が行われて帝国議会が開かれます。総選挙の結果、立憲自由党(自由党の後身)や立憲改進党などかつて自由民権運動を進めてきた人たちが議員の多数を占め、藩閥政治のやり方を激しく攻撃しました。この勢力は「民党」と呼ばれました。これに対して、政府は、政党の動向に制約されることなく、超然として独自に政策実現を図るとの方針を打ち出し、政党勢力の伸長を抑制して政党内閣も認めない超然主義政治を推し進めます。しかし、それにもかかわらず政党は衆議院で次第に勢力を伸ばしていき、藩閥政府も政党勢力との妥協・提携の道を探るようになっていきます。
 武吉は、5歳のとき、漢学塾の葆真学舎(ほうしんがくしゃ)に通い四書五経を学んでいます。なお、この頃、高松藩は幕末に朝敵になったことから藩閥政府からにらまれ、旧高松藩の子弟は陸軍士官学校などを受験してもなかなか受からず、籍を大坂に移して受験した者もいたといいます。

 明治27年(1894)、武吉が9歳のとき、日清戦争が始まり、翌年には日本勝利のもとに下関条約が調印されます。尋常小学校から高等小学校を経て、武吉は、明治32年(1899)、15歳のとき、高松中学(現、香川県立高松高等学校)に入学します。しかし2年生の7月の時、「うどん食い逃げ事件」の首謀者として退学処分を受けます。この事件は、同級生数人がいたずら半分に夜鳴きうどんの食い逃げをやったときに、たまたまその場に居合わせた武吉が巻き込まれてその首謀者にされてしまったもので、冤罪だったといわれています。しかし、武吉はいっさい言い訳をしなかったそうです。その後、武吉は京都の同志社中学(現、同志社高等学校)の2年に編入しますが、胃腸衰弱でやむなく休学して療養のために高松に帰郷します。京都の水は武吉に合わなかったのでしょう。

 病が癒えたあと、明治34年(1901)6月、武吉は17歳のとき、父の友人であった川口万之助弁護士の紹介で横田千代之助のつてを頼り、当時東京市会議長をしていた星亨(ほしとおる)の書生になることとなり上京します。
 星亨は、貧窮の中で英学を学び、各地で英語教師をつとめる一方、維新後、横浜税関長を経て英国に留学し、日本人初の英国法廷弁護士資格を取得した人物です。帰国後司法省附属代言人となりますが、自由党に入党して自由民権運動に加わり、明治20年(1887)には保安条例で横浜へ退去させられ、翌年投獄もされています。その後、明治25年(1892)、衆議院議員に当選し議長にまでなり、伊藤博文と結んで立憲政友会に勢力を張って第4次伊藤内閣では逓信大臣に就任しています。
 しかし、武吉が一時落ち着き先の神田猿楽町の下宿屋から星家に移る日の前日、星亨は東京市会の議事堂で刺殺されてしまいます。このため、武吉は神保町の駄菓子屋の2階3畳間を月1円で借り、印刷屋の手伝いなどをしながら神田の大成中学に通います。武吉は星亨の世話になろうとしていたことから、この頃、すでに弁護士を経て政党政治家への道を志していたのかもしれません。
 そして、父の友人である中野武営(たけなが)の紹介で、当時、早稲田の校長をしていた高田早苗に身の振り方を相談し、その年の明治34年(1901)9月、18歳のとき、早稲田大学の前身である東京専門学校に入学を許されます。
 中野武営は、高松生まれの旧高松藩士で、版籍奉還後、県庁の役人を経て中央政府の官僚となり、明治14年(1881)大隈重信らの立憲改進党の創立にも参加し、明治23年(1890)の国会開設以来、高松を地盤に衆議院議員に連続当選していました。この時には、衆議院議員のほか、東京商業会議所副会頭、東京株式取引所理事長も務めていました。武営は、その後、明治38年(1905)から12年間、渋沢栄一の後を継いで東京商工会議所会頭を務めるとともに、大正3年(1914)から東京市会議員、議長を務め、大正7年(1918)、70歳で亡くなっています。
 東京専門学校での武吉の同学年には大山郁夫や永井柳太郎がおり、武吉は法律の勉強や野球に懸命に取り組んだといいます。また、後に夫人となる天野かね子とのなれそめもこの頃だといわれています。

 明治37年(1904)2月、日露戦争が始まり、武吉はその年の9月、満21歳のとき早稲田大学専門部法律科を卒業し、一時、早稲田大学の図書館創設の仕事に就きます。そして、その翌年1月、当時早稲田で教えていた鈴木喜三郎の世話で日本銀行に入り、門司支店配属となります。鈴木喜三郎はその後、政友会総裁となった人物です。
 その年の明治38年(1905)9月、アメリカの斡旋でポーツマス条約が締結され、日露戦争が終結します。しかし、この戦争でわが国は多くの犠牲を払ったにもかかわらずロシアからの賠償額が少なかったことから、日露講和に反対する日比谷焼き討ち事件が発生し、全国各地でも屈辱講和反対の大会が開かれます。このとき門司でも講和反対の大開が開かれましたが、武吉は生来からの性分でしょうか、そこに飛び入り参加して反政府の大演説をぶってしまいます。このため日本銀行を免職されます。
 その後、武吉は東京に戻り、高等文官試験司法科試験を受けることを決意して猛勉強の日々を送ります。そのかいあって、明治39年(1906)7月、満22歳のとき試験に合格して東京地方裁判所の司法官試補となります。しかし、武吉はもともと裁判官という宮仕えの官僚をやる気はなかったのでしょう、7ヶ月で辞め、弁護士に転じます。この頃、武吉は政治の道に入ることを明確な目標としていたものと思われます。

 明治45年(1912)、28歳のとき、武吉は、政治家を目指し、初めて衆議院議員選挙に東京から立候補します。しかし、このときは次点で落選します。この年の大正元年(1912)12月には、藩閥の桂太郎が陸軍・官僚勢力を後ろ盾に第3次内閣を組織しますが、立憲政友会の尾崎行雄や立憲国民党の犬養毅らの政党人や新聞記者、商工業者などが中心となって、「閥族打破・憲政擁護」をスローガンに掲げ、桂内閣打倒を目指す運動を起こします。後に第一次護憲運動といわれるものです。翌年の2月10日には、数万人の民衆が議会を取り囲み、さらに警察署や交番、御用新聞の国民新聞社などを襲撃したため、桂内閣はわずか2ヶ月足らずで倒れます。いわゆる大正政変です。
 武吉は、大正2年(1913)、今度は牛込区議会議員に立候補して当選します。翌年の大正3年(1914)7月には、オーストリア・ハンガリー帝国がセルビアに宣戦布告し、第一次世界大戦が勃発しています。続いて、大正5年(1916)、武吉は憲政会に入党し、翌年、満32歳のとき衆議院議員に初当選し、国政の場に躍り出ます。以降、昭和6年(1931)まで連続6回当選を果たしています。

 第一次世界大戦も末期になると、わが国では物価が上昇し始め、地主の売り惜しみと大商人の買占めにより特に米価が戦前の4倍まで急騰して庶民の生活を圧迫します。こうした情勢の下、大正7年(1918)7月、富山の漁村の主婦たちによる米屋襲撃事件に端を発し、全国各地で米騒動が起きます。これに対して、時の藩閥内閣である寺内内閣は、前年にロシア革命が起こっていたこともあり、米騒動に対して厳しい弾圧を加えます。しかし、この処置は世論の激しい非難を受け、寺内内閣は9月に退陣し、衆議院第一党を占めていた立憲政友会の総裁である原敬に組閣の大命が下ります。こうして原敬を首班とする日本最初の本格的な政党内閣が誕生します。この年の11月には第一次世界大戦が終結します。
 このとき、武吉は野党側にあり、蔵相の高橋是清が「陸軍は10年、海軍は8年」と海軍予算案を説明していると、「ダルマは9年」とヤジったといいます。高橋是清のあだ名がダルマだったからです。武吉は舌鋒鋭く政府を批判して「ヤジ将軍」といわれ、次第に頭角を現していきます。
 原敬は平民宰相といわれ、組閣当初は国民的人気がありましたが、財政負担を国民に求めて批判が高まり、汚職事件も発覚していったため、大正10年(1921)に暗殺されます。
 この頃の武吉は、大正11年(1922)年6月、東京市議会議員にも立候補して当選しています。当時は衆議院議員と東京市議会議員を兼ねることが可能でした。こうした中、大正12年(1923)9月1日、関東大震災が起きます。

 原内閣の後、同じ政友会の高橋是清が組閣しますが、政友会内部の不一致ですぐに倒れ、その後、軍人の加藤友三郎や山本権兵衛と、政党に関係のない内閣が続き、大正13年(1924)年1月には貴族院・官僚勢力の後押しを受けた清浦奎吾に組閣の大命が下ります。
 これに対して、憲政会、政友会、革新倶楽部のいわゆる護憲三派は、この内閣を立憲政治に背を向けた特権階級による超然内閣として攻撃します。これは後に第二次憲政擁護運動といわれています。このとき、武吉は、衆議院当選2回、39歳の若さで憲政会幹事長に抜擢され、大正13年5月の総選挙を陣頭指揮します。
 この選挙では護憲三派が圧勝し、憲政会が第一党となります。その結果、6月7日に清浦内閣は総辞職し、憲政会総裁の加藤高明を首班とし、政友会総裁の高橋是清、革新倶楽部党首の犬養毅も入閣した護憲三派内閣が成立します。武吉は、大蔵大臣として入閣した浜口雄幸の下で大蔵参与官に任命されます。戦前における武吉の絶頂期でした。
 以後、昭和7年(1932)の五・一五事件で犬養内閣が倒れるまでの足掛け8年間、衆議院に勢力を占める政党の党首が内閣を組織するという政党政治が「憲政の常道」とされ、政党内閣の時代が続きます。
 護憲三派内閣は、大正14年(1925)に、長年にわたる国民の要求に応え、25歳以上のすべての男子に選挙権を与えるという普通選挙法を制定します。しかし、一方では治安維持法を制定して社会秩序維持の強化を図ります。

 昭和2年(1927)、武吉は、浜口雄幸を代表とする立憲民政党に参加します。また、東京市会では、東京市政浄化を主張して市政革新同盟を結成して政友会系の新交会と対決します。後に同志となる鳩山一郎は新交会で、東京市政をめぐるこの時点では武吉の政敵でした。なお、この年の3月には、金融恐慌が起きています。そして、武吉は東京市会で重きをなしていき大御所的存在となります。
 ところが、この頃、武吉には大きな落とし穴が待っていました。昭和5年(1930)、46歳のときに、東京市会の京成電車疑獄事件に連座したのです。そして、7年にわたる裁判の結果有罪が確定し、これにより武吉は失脚して政界を引退します。

 この当時は、昭和4年(1929)10月24日木曜日のニューヨーク株式市場での株価の大暴落に端を発した世界恐慌が拡大しているという暗い世情でした。国内では、昭和5年(1930)1月に浜口雄幸内閣の大蔵大臣である井上準之助が行った金解禁が、「嵐の中で雨戸を開けっ放しにする」という結果になり、日本経済は深刻な打撃を受けて恐慌状態に陥っていました。一方、昭和6年(1931)9月には、軍部の独走により満州事変が起きています。
 続いて、昭和7年(1932)には、海軍将校らが五・一五事件を起こし、犬養毅首相が暗殺されます。これにより大正13年(1924)から始まった政党政治の時代はついに終焉を迎えます。さらに昭和11年(1936)には、青年将校が3日間にわたり帝都中枢を武力制圧するという二・二六事件が勃発します。
 この二つの事件によって、軍部が政治上の有力な勢力となり、わが国はファシズムと戦争への道を突き進んでいきます。昭和13年(1938)4月には、国家総動員法が公布され、さらに昭和15年(1940)には、ナチス・ドイツをまねて一国一党の強力な全体主義的国民組織をつくりあげるという新体制運動が提唱されます。そして、社会大衆党が真っ先に解党してこの運動に加わり、立憲政友会各派、立憲民政党などの既成政党や諸団体がつぎつぎと解散し、近衛文麿を総裁とする大政翼賛会が発足します。こうして政党の存在によって成り立つ自由主義的議会制度はまったく形骸化、無力化します。
 昭和16年(1941)12月8日、真珠湾攻撃により大東亜戦争が始まります。日本軍が緒戦で勝利を収め、国内は熱狂的興奮の中に包まれ、政府・軍部に対する国民の支持が一時的に高まったことにより、東条英機内閣は、この機会をとらえて、昭和17年(1942)4月、衆議院議員選挙を実施しようとします。この選挙は、形式的には自由立候補制でしたが、実際のところは政府の支援を受けた団体が定員一杯の候補者を推薦するといういわゆる翼賛選挙でした。
 武吉は、政界を引退した後、実業界に身を置き、朝鮮鶴翼金山の経営や、昭和14年には報知新聞社の社長を務めたりしていましたが、この総選挙に打って出ます。選挙区を以前の東京から郷里の高松に移し、非推薦候補として出馬したのです。58歳のときです。若い頃から藩閥政治に対抗して政党政治の実現に力を注いできた武吉からすれば、軍人政権が主導する翼賛選挙など認めるわけにはいかなかったのでしょう。このときの非推薦候補者の中には、武吉のほか、尾崎行雄、鳩山一郎、芦田均、片山哲、中野正剛ら経験豊かなかつての政党政治家も名を連ねていました。
 選挙の結果、当選者466名のうち80%以上の381名が推薦を受けた翼賛候補者でしたが、武吉と彼らは見事に当選を果たします。こうして政界に復帰した武吉は、翌昭和18年(1943)、鳩山一郎、中野正剛らと組んで反東条運動を展開します。しかし、敗退して東条に狙われる存在となり、郷里の高松に引き籠もります。このとき、武吉は、従来政敵であった鳩山一郎と強く政治的に結ばれ、他の非翼賛議員らと敗戦後のわが国の政治の再建を約して東京を去ったといわれています。

 敗戦後、非翼賛議員らが中心となって政党の再建が始められます。昭和20年(1945)10月、武吉は東京に戻り、11月、鳩山一郎と呼応して自由党結成に参画し、総裁に鳩山一郎、筆頭総務に武吉が選ばれ就任します。そして、鳩山首相・三木衆議院議長の体制による日本政治の再建が約されます。昭和21年(1946)年4月、戦後初めての新選挙法による第22回衆議院議員総選挙が実施され、鳩山も武吉も当選を果たして自由党が第一党となり、鳩山首相・三木衆議院議長が現実化の一歩前となります。武吉62歳のときです。
 ところが、組閣準備が進められているとき、鳩山はGHQによって公職追放されてしまいます。このため鳩山は英米強調派の外務官僚である吉田茂に総理・総裁の地位を一時任せ、危機を乗り越えようとします。鳩山と吉田との間には、鳩山が追放解除になったらいつでもその地位を譲るという約束が交わされていたといいます。こうして鳩山に代わって吉田が自由党総裁となり、第一次吉田内閣が発足します。
 武吉は衆議院議長に就任することとなっていましたが、吉田内閣成立の2日後の昭和21年(1946)5月24日に、戦前、新聞経営に携わったことにより、公職追放を受けます。武吉は淡々として郷里の香川に戻り、小豆島で悠々自適の隠棲生活を送ります。小豆島では濤洋荘という旅館に住んで読書三昧の生活を送り、地元の青年に「老子」など中国古典を教えたりしていたといいます。

 昭和25年(1950)6月25日、朝鮮戦争が勃発し、この年の7月、武吉は約4年間の郷里での隠遁生活に終止符をうち、再び上京します。66歳のときです。そして翌年6月、武吉は鳩山一郎とともに公職追放を解除され、自由党に復帰します。この年の9月、わが国は、吉田内閣のもと、サンフランシスコ講和会議で平和条約に調印するとともに、米国との間で日米安全保障条約を締結しています。そして、翌年の昭和27年(1952)4月28日、7年間に及んだ連合国による日本占領が終了します。
 武吉は、昭和27年(1952)の総選挙で当選して政界への復活を果たし、自由党総務会長に就任します。しかし、自由党は、終戦直後の結成当時は戦前からの政党政治家が中心でしたが、鳩山や武吉が公職追放を受けている間に、吉田が池田勇人・佐藤栄作といった戦前からの若手官僚を大量に抜擢したことにより、親吉田派の議員が多数を占めて主流派を形成していました。彼らが俗に言う「吉田学校」の生徒です。また、鳩山が復帰したら総裁を譲るという約束も事実上反故にされていました。このため、自由党内は官僚出身者からなる吉田支持派と、戦前からの政党政治家からなる鳩山支持派が対立します。そして、武吉はかねてからの念願であった鳩山内閣の実現に向け、あらん限りの智謀を傾けて、反吉田の先頭に立って激しい権力抗争を繰り広げます。武吉は、戦前には藩閥の官僚・軍人政治家たちと戦ってきた根っからの党人政治家であり、吉田ら官僚から政治家に転身した者とは肌が合わなかったものと思われます。
 昭和29年(1954)年11月、武吉は、鳩山一郎、河野一郎、岸信介らとともに、吉田に不満を持つ自由党内の同志や野党の改進党などの他の保守系政党と大同団結を図り、日本民主党を結成します。そして、総裁に鳩山一郎、幹事長に岸信介、総務会長に武吉が就任し、12月には吉田内閣がついに総辞職します。ここに武吉が悲願としてきた鳩山内閣(第1次)が成立します。しかし、武吉の仕事はここで終わりませんでした。
 昭和30年(1955)2月に行われた総選挙の結果は、民主党185議席、自由党112議席、左派社会党89議席、右派社会党67議席などで、左派社会党が躍進し、保守政党や経済界では社会主義勢力の台頭を危惧する念が強くなっていきます。こうした情勢の下、この年の4月13日、武吉は保守政党の結集を呼びかけ、そのために鳩山内閣が障害となるなら内閣総辞職も辞さないと発表します。武吉は以前から、社会主義勢力の台頭に対抗するためには保守合同を実現する必要があると考えていました。このとき、武吉は癌を患っており、医者から余命わずかと宣告されていたようです。しかし、病身の身を押し、保守合同に向けて、党内外の合意の取り付けのため政治の裏舞台で東奔西走します。
 昭和30年(1955)10月13日、右派と左派に分裂していた社会党が統一し、続いて、11月15日、困難と思われた保守合同が実現し、自由民主党が結成されます。いわゆる55年体制の始まりです。
 しかし、合同を果たしたものの保守勢力間の溝は深く、総裁人事がまとまらなかったため、自由・民主両党の総裁と総務会長であった鳩山、緒方、三木、大野伴睦の4人による総裁代行委員体制として始まり、鳩山が総裁に就任したのは5ヵ月後の昭和31年(1956)4月でした。
 保守合同を成し遂げた後、武吉は自民党について「10年持てば」と言っていたそうです。そして、その翌年の昭和31年(1956)7月4日、自分の役目が終わったことを自覚していたかのように静かに息を引き取りました。享年72歳でした。


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(74)“アートとテクノロジーの島”

 香川県の高松と岡山県の宇野との間の備讃瀬戸に宇高連絡船が就航していた頃、連絡船は宇野の沖にある直島の近くを通っていました。船から見える直島は禿げ山が多く、精錬所の島というイメージでした。ところが、この島が近年アートの島へと変貌しています。
 直島は、香川県高松市の北約13キロメートル、岡山県玉野市の南約2キロメートルに位置し、東西2キロメートル、南北5キロメートル、周囲16キロメートルの小さな島です。この本島を中心に、葛島、荒神島、寺島、家島、屏風島、牛ヶ首島、井島など27島が香川県直島町を形成しています。町の人口は約3600人です。島内には、フェリーの発着港を持つ「宮ノ浦」、戦国時代の海賊の城下町を原型とする「本村」、古くからの漁港である「積浦」という3つの集落のほか、北西部に三菱マテリアル直島精錬所の工業地帯があります。

 直島の歴史は古く、喜兵衛島製塩遺跡にみられるように、古墳時代から製塩集団が生活をしていたと考えられています。日本書紀の中にも、応神天皇が吉備(今の岡山地方)に行く途中で直島に立ち寄り、本村で何日か過ごされたという伝承が残されています。応神天皇はまず今の宮ノ浦に上陸し、いったん海岸伝いに南に出て、今の揚島(あげしま)で休憩し、積浦(つむうら)に上陸して桃山を越えて本村まで行ったといいます。
 平安時代末期には、保元の乱で敗れた崇徳上皇が讃岐へ流される際に、3年間直島の泊ヶ浦(積浦)で過ごされたといわれており、「直島(なおしま)」という地名も、上皇が島民の純真素朴さを賞賛して命名したという言い伝えがあります。
 戦国時代末期には、水軍の将である高原次利が八幡山に城を築き、城下町として町並みや寺院群、神社などを整備しました。次利は、豊臣秀吉に仕え、備中高松城水攻めの際に秀吉軍の水先案内を行った功績により1582年に男木島、女木島、直島の3島600石を与えられました。その後は秀吉の四国、九州、朝鮮への出兵でも海上輸送で功績が認められ、関が原のときは東軍に味方して徳川の旗本となり、90年間直島を統治しました。しかし江戸初期の6代目の時に改易され、家系が絶えました。高原次利はキリシタンだったといわれています。
 高原氏の後、1671年、直島は幕府直轄領である天領となり、倉敷代官所の支配下に入ります。この時代は、瀬戸内の地の利を生かした廻船業(北前船)などや、製塩業の島として栄えました。水軍時代の技術を生かして全国、遠くは北海道まで出向いていたようです。また、天領であったため歌舞伎や人形浄瑠璃などの公演が特別に認められ、島内外からの一座や観客で大変にぎわったそうです。とくに淡路島から伝わったという人形浄瑠璃の人気は高く、明治時代に盛況を迎えます。その後一時途絶えていましたが、第2次世界大戦後に女ばかりで演じる女文楽として甦っています。
 直島は、元は小豆島・豊島とともに吉備国・備前国の児島郡に属していましたが、幕末に高松藩の預かり地となります。明治元年(1868)に土佐藩預かり地となった後、倉敷県(現在の岡山県)に移管され、明治4年(1871)丸亀県の管轄を経て香川県の一部となりました。当時、備讃瀬戸の島々を香川県・岡山県のどちらに分類するかを決めるに際しては色々議論があったようです。結局桶を瀬戸内海に流して桶が流れた線で線引きすることで話しがまとまり、その結果、香川側に有利に桶が流れ、直島も香川県に属することになったといいます。この逸話の真偽は不明ですが、今もまことしやかに語られています。

 直島は農業には向かない地形で、古来より製塩業に始まり、漁業や交易で生計を立てていましたが、明治以降の我が国の近代化の中で次第に取り残されるようになりました。このような中、大正5年(1916)、三菱合資会社から銅製錬所の受け入れが打診されます。この頃、足尾銅山など各地で銅の製錬の際に出る亜硫酸ガスによる煙害問題が起きており、三菱は煙害の心配の少ない離島を探していました。
 これに対して将来のことを考えた直島は製錬所を受け入れる決断をします。以降直島は三菱の企業城下町として発展していくこととなります。この精錬所は銅鉱石から銅の精錬、またその過程で生産される金・銀を生産し、現在でも、金(地金)は約5トン生産され東洋一を誇っているそうです。三菱合資会社は、現在の三菱マテリアルです。しかし、その代償も大きく、精錬所の煙害で島の北半分および周囲の島々の木々はほとんど枯れて禿山となってしまいました。

 しかし、直島の南側は瀬戸内海国立公園に指定された緑豊かな海岸が残されていました。そこで、直島町は、島の南端の風光明媚な地区を秩序だった観光地にしようと観光開発を誘致します。最初に観光開発に着手したのは藤田観光でしたが、その撤退した後を受けたのが岡山の福武書店(現・ベネッセコーポレーション)です。ベネッセは、昭和62年(1987)に一帯の土地を購入し、平成元年(1989)に安藤忠雄氏のマスタープランによる「直島国際キャンプ場」を整備します。さらに「直島南部を人と文化を育てるエリアとして創生」するための「直島文化村構想」(現・ベネッセアートサイト直島構想)を発表し、平成4年(1992)には「ベネッセハウス」(現・ベネッセハウスミュージアム)の建設などへと事業を拡大させていきました。
 平成9年(1997)からは、直島に残る民家を修復・保存し、そこで現代美術作家が作品を制作・展示することで、古い民家の空間を現代に甦らせるという「家プロジェクト」を進めます。また、平成13年(2001)には、直島全体を舞台にそこでの人々の暮らしや歴史と深く関わる作品を創作・配置する企画展を、「スタンダード」展として始めて開催します。その後も、平成16年(2004)7月に地中美術館をオープンし、平成18年(2006)10月から「直島スタンダード2」を開催しています。
 このような取り組みにより、古い集落にもカフェや民宿等ができるなど徐々に変化してきています。また欧米などの高級リゾートホテル誌に取り上げられ、直島に来る外国人観光客が徐々に増えてきています。

 一方、直島では、東隣の豊島(てしま、香川県小豆郡土庄町)で発生した産業廃棄物の不法投棄問題から端を発して、産業廃棄物処理施設を総合的に整備する「エコアイランドなおしま事業」(循環資源回収事業)が展開されています。この事業は、直島町に蓄積された製錬施設や技術、人材等の既存産業基盤を活用し、これまで再資源化が困難であり、最終処分されていた廃棄物等を「都市鉱山」と位置づけ、これらから社会に有用な資源を回収するとともに、ゼロエミッションを目指し、広域的な循環型社会システムの構築に貢献しようとするものです。

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(44)“2億5千万人を運んだ宇高連絡船”

 海や湖などで隔てられた鉄道の駅間を結ぶ船を鉄道連絡船といいます。日本国内では、青森と函館を結ぶ青函航路、宇野と高松を結ぶ宇高航路(うこうこうろ)、下関と門司を結ぶ関門航路の3航路がありましたが、橋やトンネルの開通によりいずれも廃止されました。

 宇高航路は、岡山県玉野市の宇野港と香川県高松市の高松港の間で運航されている航路で、瀬戸内海における本州と四国を結ぶための主要航路の一つです。この航路には、かつて旧国鉄・JR四国が宇野駅から高松駅間で鉄道連絡船宇高連絡船)を運航していました。

 四国と本州の鉄道を船で結ぶ鉄道連絡船は、1903年(明治36年)に「岡山―高松」と「尾道―多度津」の2航路が開設されたのが始まりです。この前の明治22年には、讃岐鉄道という県内で初めての鉄道会社が開業し、多度津を起点とする琴平、丸亀2方面の路線が開通しています。志賀直哉の「暗夜行路」では、時任謙作が尾道から多度津港に上陸し、浜多度津駅から蒸気機関車に乗り琴平へ向かう場面が描かれています。この頃までは多度津港が県内最大の港湾としての位置を確保しており、明治33年の入港船舶数は多度津港が38,663艘であったのに対し、高松港は9,480艘でした。

 しかし、明治30年頃から始まる高松築港事業や讃岐鉄道の丸亀・高松間の開通により、高松港の出入港数が次第に増加していき、1910年(明治43年)、国鉄宇野線の開通に伴い「国鉄宇高航路」が開設されたことにより四国の玄関は多度津から高松へと名実ともに移りました。就航した船は、「玉藻丸」(224トン、定員146名、速力10.6ノット)と「児島丸」の2隻でした。尾道-多度津航路は廃止され、岡山-高松航路は宇野-高松航路に変更されました。その後、宇高連絡船は、1988年(昭和63年)の瀬戸大橋開通までの78年間、「本四間の大動脈」としての役割を担ってきました。

 この78年の間には、2度の世界大戦があり、宇高連絡船は様々な歴史を刻んできました。第2次世界大戦中、宇高航路は軍事的に重要な路線であったため、空襲などへの防衛として機関銃が連絡船に配備されていたといいます。昭和20年7月24日には水島丸が、8月8日には第五関門丸が米軍の空母艦載機による銃撃を受けて多くの乗員と水兵に死傷者を出しています。また、1955年(昭和30年) 5月11日には、タイタニック号、前年の洞爺丸に次ぐ世界でも第3番目という大きな海難事故が発生しています。

 瀬戸内海では春によく濃霧が出ますが、この日の朝も濃霧注意報が発令され視界200m以下という状況でした。高松港を出港した紫雲丸(1,449総トン)は、午前6時50分、高松港に向かう第三宇高丸(1,282総トン)の霧中信号を聞き応答をし、第三宇高丸はレーダーで紫雲丸を確認して双方とも相手が正面から来ていることを把握しました。この時、双方の距離は約1.5マイル(約2.5km)で、高松港沖の女木島西方海上ですれ違う予定でした。しかし、その6分後、轟音と共に紫雲丸の右舷に第三宇高丸の船首が食い込み、みるみるうちに紫雲丸は沈没していまいました。衝突から沈没までわずか4分、SOSを出す間も救命胴衣を付ける間も無い、あっという間の悲劇でした。事故の原因は、相手が正面から来ていると思われるときはお互いが舵を右に切るべきだったのに紫雲丸が左に舵を切った「謎の左転」であると言われています。このとき紫雲丸には修学旅行の小中学生が多数乗船しており、犠牲者168名のうち100名が児童生徒(男子19名、女子81名)で占められ、多くの人々の涙を誘いました。

 この事件がきっかけとなり、瀬戸大橋の構想が本格化していくことになります。1972年(昭和47年)11月8日にはホーバークラフトが就航し、宇野-高松間をわずか23分で運行しました。

 1987年(昭和62年)4月1日、国鉄が分割民営化され、宇高航路はJR四国の受け持ちになりました。その1年後、1988年(昭和63年)4月9日、瀬戸大橋線が開通し、宇高航路は廃止されました。1910年(明治43年)から1988年(昭和63年)までの78年間において宇高連絡船が運んだ乗客は約2億5千万人と云われています。

 宇高連絡船が廃止されてからの高松港頭地区はサンポート高松地区と称され、新JR高松駅、高松港湾旅客ターミナル、2万トンバース、シンボルタワーなどの再開発事業が展開され、四国の中枢拠点としての機能向上が期待されています。

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(11)“駅前広場の池に海水魚が泳ぐ頭端駅”

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 線路が行き止まりになってプラットホームに入ってきた列車が必ずバックをしなければ発車できないような構造の駅を頭端駅(とうたんえき)といいます。行き止まり駅とも言われ、特徴として、改札から上下ホームまで階段を利用せずに行き来ができ、乗り入れる電車はほとんどこの駅が始発・終着駅となります。頭端駅は、欧米では多く見られる形式だそうですが、日本では珍しく、JR線の門司港駅函館駅それと高松駅が有名です。

 現在の高松駅は4代目で、昭和63年(1988年)の瀬戸大橋開通による宇高連絡船の廃止とウォーターフロント開発に伴い駅前広場を確保するため、水際から離れた現位置に新しく建設され、平成13年(2001年)5月13日に開業しました。

 初代の高松駅は、今から百年以上前の明治30年(1897年)に、高松・丸亀間に讃岐鉄道が開通するときに現在より南西の位置に建設されました。二代目は明治43年(1910年)に、岡山県宇野・香川県高松間に宇高連絡線が就航することにあわせて車両の海上輸送を念頭に置き建設されました。三代目は昭和34年(1959年)、近代的駅ビルとしてより水際に近い位置に建設されました。

 宇高連絡線が就航していた78年間、高松駅は陸上交通と海上交通の接点であり、鉄道と四国と本州の鉄道を結ぶ“四国の玄関口”でした。鉄道で四国内から本州へ渡る人、逆に本州から四国へ渡る人は必ず高松駅を通過しました。

 現在の高松駅は、頭端駅の特徴を生かしたコンコース・改札・ホームに段差・階段のない構造でバリアフリーのモデル駅となっており、また、駅前広場には花時計や海水池など気軽に集える場所が整備されています。

 待ち合わせ場所として有名だった三代目高松駅の花時計も、新駅舎と共に新しくなりました。姿を消した旧花時計は、徳島県池田町の徳島県立三好高等学校で第二の人生を送っています。

 海水池は北側に海、残り三方の堀に海水を引き入れた水城「玉藻城」にならい整備されたものです。この池では実際の潮位にあわせた潮の干満が現れ、砂浜に打ち寄せる波も見られます。また海と繋がっているため黒鯛やフグなどの海水魚が泳いでいます。

 また、駅の北側には地上30階建てのシンボルタワーを持つサンポート高松、東側には21階建ての全日空クレメントホテル高松が並びたち、未来的な景観となっています。

 高松駅前には、かわいい顔をした鬼の石造が鎮座して、お客さんを出迎えています。この辺りには桃太郎の鬼退治の伝説が残っており、駅のすぐ北側の海には俗称鬼が島と呼ばれる女木島があり、高松駅の次の次の駅には鬼無(きなし)という名の駅があります。

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テーマ : 香川
ジャンル : 地域情報

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