スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

(132)“ため池密度日本一の讃岐平野”

 香川県議会の3階フロア壁には、人工衛星から撮影された香川県の大きな写真が掲示されています。その形は南の讃岐山脈を底辺にして北の瀬戸内海に向かって扇を開いたような半円形をしており、南から北に讃岐平野が広がっています。さらにそれを見ると、平野部には虫食いの穴のようなものが大小無数見られます。じつはこの虫食い穴のように見えるものはため池なのです。
 香川県には、満濃太郎と呼ばれる日本最大のため池である満濃池以下、神内次郎の神内池、三谷三郎の三谷池、奈良須四郎の奈良須池を始め大小様々なため池が約14,600箇所あります。その数は全国の中で第1位の兵庫県(約44,200箇所)、第2位の広島県(約21,000箇所)に次いで第3位です。しかし、ため池の数を県土面積で割った「ため池密度」からみると、香川県が全国の中で第1位、大阪府が第2位、兵庫県が第3位、広島県が第4位となっています。

 讃岐は気候が温暖で、山間部に比べて平野部の占める割合が高いことから、日本列島の中でも早い時期から開墾が進められ、古代には我が国の重要な穀倉地帯になっていたものと思われます。古事記によると、讃岐は飯依比古命(いいよりひこのみこと)の国で、飯(米)が美味しい国とされています。平安時代に書かれた「和名抄」によると、10世紀初期頃すでに讃岐の耕地面積は18,646町(約18,493ヘクタール)とあり、これは南海道では最も広く、現在の香川県の水田面積約29,500ヘクタールの約63%にも及んでいました。現在でも県土総面積に占める農地面積の割合は、全国平均が12.7%、中四国平均が8.4%であるのに対して、香川県が18.2%と飛びぬけて高くなっています。
 しかし、かなり早い時代から開墾が進んだ讃岐平野では、農地の増加にともない農業用水の確保が問題となっていきました。通常、水田に安定的な水量を供給していくためには、川の上流部に耕地面積の10倍ほどの森林面積が必要だといわれています。ところが、讃岐は森林面積が総面積の半分程度しかなく、しかも年間降雨量が日本平均の6割程度という日本でも有数の少雨地域に属しています。このため讃岐では、土地の開墾と並行して、灌漑事業が古くから行われ、大小多くのため池が築かれてきました。飛鳥時代の大宝年間(701~704年)に讃岐の国司である道守朝臣(みちもりあそん)によって満濃池が築かれ、その後、空海が改築したというのはよく知られた話です。

 江戸時代に入ると、新田の開発や二毛作の普及により、新たな農業用水を確保する必要が生じてきました。一毛作の場合には冬期も田に水を残すため田自体が貯水池のような役割を果たしますが、二毛作の場合には冬期に水が貯められないため翌年の田植期に必要な水が増えました。
 17世紀前半頃の江戸時代前期、生駒藩の西嶋八兵衛は、満濃池の改修を手がけたほか、90以上のため池を築きます。また、生駒藩の領地を引き継いだ初代高松藩主・松平頼重も400以上のため池を築きます。この工事に携わったのは矢延平六(やのべへいろく)だといわれています。それ以後も江戸時代、讃岐ではため池造りが積極的に行われました。ちなみに、現在の香川県のため池の大半は江戸時代以降に造られたものです。こうして、幕末の讃岐には、少なくとも6,500以上のため池があったとされています。

 また、江戸時代、「水ブニ」、「香の水(こうみず)」などといった水の配分をめぐる讃岐独特の水利慣行が次第に形成されていきました。
  「ブニ」とは歩合、割合を表す讃岐の方言で、「水ブニ」とは一枚の水田ごとに用水を使用できる固有の持ち分という意味です。これは、同一のため池から複数の水田が水を引いている場合、各水田はそれぞれ水量が割り当てられ、「水台帳」、「水割帳」といった水ブニの台帳を持っていました。
 この決められた取水の分量の時間配分によるものが、「香の水」、「線香水」、「香箱」などと呼ばれる取り決めです。香の水・線香水は、引水する時間を線香が燃える長さで計るという取り決めで、台帳には線香の本数や長さを記していました。また、香箱は、箱に入れた灰に溝を刻み、その中に抹香を入れて抹香が燃えている間のみ水田に水を引くという取り決めでした。
 しかし、多くのため池が造られても、讃岐平野全体でみれば、使える水に余裕ができたわけではなく、常に旱魃の不安がついて回りました。このため、讃岐では江戸時代の中期以降、旱魃に強く、しかもより商品価値の高いサトウキビや綿といった作物の栽培が奨励され、盛んに栽培されるようになっていきます。また、温暖で少雨の気候条件を活かし、塩の生産も盛んになり、これらは、次第に“讃岐三白”と呼ばれる特産品となり、米とならぶ讃岐の財政基盤となっていきました。

 ところが明治に入ると、外国の砂糖や綿が大量に安く輸入されるようになり、讃岐の砂糖と綿は一気に衰退していきます。このため、サトウキビ畑、綿畑を水田へ切り替えることが急務となり、新たな水を確保するため、ため池の築造が行われます。以後、大正、昭和と時代が進んでも、数年に一度は起こる大規模な旱魃をきっかけにため池の築造や改修が進められました。大正13年の大旱魃を契機に造られた豊稔池(昭和5年竣工)、昭和9年の旱魃後に造られた門入池と小川下池、昭和14年の大旱魃後に計画され戦後の食料増産政策によって造られた長柄ダムと内場ダム(昭和28年竣工)などです。
 中でも、観音寺市大野原町田野々の高尾山の麓にある豊稔池は、マルチプル・アーチ式(多供扶壁式(たきょうふへきしき))という当時の最新理論を適用したわが国の農用ため池では前例のない近代的なものでした。当時、鉄筋コンクリートは普及し始めたばかりで土堰堤がまだ主流でしたが、このため池は、6つの扶壁(ふへき)(補助壁)を持つ粗石モルタル積堰堤で川の上流の谷間を堰き止めるというダム形式が採られました。木々の間から見える高さ300メートル余の石堰堤は、まるで風雪にさらされヨーロッパの古城を思わせる偉容です。

 このような努力にもかかわらず、県内で利用できる水の絶対量は限界に達しようとしていました。こうして、昭和49年、全く水系の異なる吉野川から導水した香川用水、全長108kmというわが国屈指の大用水が誕生することになりました。
 しかし、香川用水の完成によりため池が不要になったわけではなく、現在でも、香川県では農業用水に占めるため池の依存率は50パーセントを超え、これは全国平均の10パーセント弱を大きく上回っています。また、ため池は、洪水の調節や地下水の涵養の機能も果たしており、魚、昆虫、鳥などの生息地ともなっています。さらに、讃岐の田園風景に欠くことのできないものとなっており、ため池にまつわる伝承・祭りなども多く残されています。ため池は讃岐の人間が、古代からその叡知と労力をかけて築きあげた貴重な社会資本といえるでしょう。

【関連記事】
今昔物語にも出ている日本最大のため池
○“讃岐のために尽くした藤堂高虎の家臣
○“江戸の玉川上水より早く整備された高松城下の上水道
○“紀伊水道から瀬戸内海へ吉野川の水の流れを変えた用水

続きを読む

スポンサーサイト

テーマ : 香川
ジャンル : 地域情報

(129)“金毘羅さんと白峯さんとの知られざる因縁”

 金刀比羅宮の本殿から奥社へ行く途中に白峯神社という社があります。この神社では崇徳上皇が祀られており、「白峯」という名称も五色台白峯山にある白峯寺からきています。なぜ金刀比羅宮の境内に白峯神社が鎮座しているのか、今ではこの理由を知っている人は地元でも少なくなっているようです。じつは、これは明治維新にあった神仏分離による廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)に起因するものです。

 6世紀中頃に仏教が伝来して以来、わが国では、それまでにあった神々への信仰と仏教とが融合していきます。これを神仏習合(しんぶつしゅうごう)又は神仏混淆(しんぶつこんこう)といいます。
 8世紀初めの奈良時代初頭から鹿島神宮、賀茂神社、伊勢神宮などの大社において神宮寺を建立する動きが出始め、8世紀後半になると、地方においてもその寺院に関係のある神を寺院の守護神、鎮守とするようになり、数多くの神社に神宮寺が建てられ、寺院の元に神社が建てられていきました。こうして、従来の神祇信仰と仏教信仰とが互いに補い合うわが国独特の宗教風習が作られていきます。
 神仏習合の基になった思想は本地垂迹(ほんちすいじゃく)という考えで、日本の八百万の神々は、実は様々な仏が化身として日本の地に現れた「権現(ごんげん)」であるとするものです。「垂迹」とは神仏が現れることをいい、「権現」とは仏が「仮に」神の形を取って「現れた」ことを意味します。
 ところが、明治維新を迎えると、一千年以上にわたって行われてきた神仏習合の風習に対して大きな逆風が吹きます。新政府は、封建的な割拠体制を打破して天皇を中心とする中央集権体制を樹立するため、王政復古の大号令のもと祭政一致を目指し、神社神道を国家統合の精神的よりどころとします。そして、明治元年(1868)、仏法は外来の宗教であるとして神仏習合の慣習を廃止し、神道と仏教、神と仏、神社と寺院とをはっきり区別するように神仏分離を命じます。
 これをきっかけに全国各地で寺院の廃合、祭神の決定、僧侶の神職への転向、仏像・仏具の取り壊し、仏事の禁止、民間への神道強制などの廃仏毀釈運動がおこり、大混乱となります。それまで僧侶の下に置かれていた神官には混乱にまぎれて寺院を破壊してその土地を接収する者も現れ、また僧侶の中には神官や兵士に転職したり、寺院の土地や宝物を売り逃げする者もいたといいます。現在国宝に指定されている興福寺の五重塔は、わずか25円(2006年現在の価値で約20万円)で売りに出され、蒔にされそうになったといいます。讃岐でも滝宮の法然上人ゆかりの竜燈院ほか61寺が廃寺になっています。

 現在の金刀比羅宮も明治以前は、金光院松尾寺とその守護神である金毘羅大権現との神仏混淆の地で、現在の旭社は薬師堂(金堂)、若比売社は阿弥陀堂、大年社は観音堂というように多くの寺院堂塔からなる一大伽藍地でした。金光院主の差配の下、普門院、尊勝院、神護院、萬福院、真光院という5つの寺の僧侶がお山の事務をとり行っていました。もっとも、こんぴらさんの最初の由来は、初め大物主神を祀り、次いで平安末期に崇徳上皇を合祀した琴平社という純粋の神社であり、琴平の名称は象頭山のたたずまいが琴を連想させることからとか、祭神の大物主神が琴と関係があったからだといわれています。
 明治維新の神仏分離令により、金光院主の宥常(ゆうじょう)は僧侶から神官となり、姓を琴陵に改め社務職を拝命します。そして、仏教名の建物等については神社式に名を改め、多宝堂・鐘楼などは取り壊し、経巻・仏像・仏具などは売却ないし焼却処分して仏教色を一掃したうえ、名も琴平神社と改めます。祭礼・行事・儀式作法もすべて神道式に改めます。要するに、このとき、こんぴらさんは神社としてリニュルアルしたというわけです。その後、琴平神社は事比羅神社と名を変え、さらに明治22年に金刀比羅宮と改称し現在に至ります。

 一方、四国88カ寺81番札所白峯寺の境内には、後白河法皇が崇徳上皇の霊を祀るため平安末期の建久2年(1191)に建立した頓証寺という仏堂があり、白峯寺により守られてきました。ここには、古くから皇室や武家が崇徳上皇の霊を慰めるため夥しい数の什器・宝物類を寄進してきたことから、永徳2年(1382)火災に罹り大半は焼亡したものの、多くの宝物が残っていました。
 ところが、明治元年(1868)、新政府の方針に基づき、それまで頓証寺に祀られていた崇徳上皇の御霊が、京都の今出川に新たに造営された白峯神宮に遷されることになりました。京都から下向してきた勅使が、上皇の御霊代(みたましろ)である御真影と愛用の笙(しょう)を頓証寺から持ち出し、坂出港から京に向かって出航したのは、明治元年8月28日のことです。ちなみに、聖通寺山東中腹にある塩竃神社はかつて西大浜にあったものが現在地に移転されたものですが、その境内にある灯篭は崇徳上皇の霊を京都に奉還した際、沖湛甫に建立されたものです。
 さらに、明治3年、白峯寺は境内を除く土地一切を官に取り上げられます。このため白峯寺の住職は還俗して崇徳上皇陵の番人となり、寺は一時廃寺となってしまいます。廃仏毀釈の嵐は明治4年(1871)頃には収まりますが、仏教や寺が受けた打撃は深刻なものでした。信徒らが県に願い出て白峯寺に再び住職が置かれたのは明治8年(1875)のことです。頓証寺には、崇徳上皇宸筆の「南無阿弥陀仏」の六字名号を御霊代として安置されました。

 ところが、白峯寺復興が緒につきはじめた明治11年、当時の事比羅神社より、政府に対して、頓証寺を神社とし事比羅神社の摂社(末社のこと)にすべきだとの願いが出されます。おそらく、当時の事比羅神社の言い分は、崇徳上皇は讃岐の地に移られてから親しく琴平の宮に参籠されおり、ここには「古籠所」・「御所の屋」という上皇ゆかりの旧跡も残っている。そのようないきさつから、琴平の宮では古くから上皇の御霊をひそかにお祀りしてきた。頓証寺に祀られていた上皇の御霊が京都に還った以上、頓証寺は抜け殻になってしまったのだから琴平の宮が上皇を祀る讃岐の中心でなければならない、というようなものだったのではないでしょうか。
 廃仏毀釈の風潮は依然として強かったものと思われます。政府は十分な調査もせず事比羅神社の願いを承認し、頓証寺は白峯神社と改称されて事比羅神社の摂社となります。これに伴い、頓証寺が長年にわたって皇室や武家から寄進を受けてきた什器・宝物類が事比羅神社に移されました。

 しかし、廃仏毀釈の風潮が沈静化してくると、白峯寺住職と地元信徒らは、頓証寺の復興運動を始めます。その言い分は、白峯寺と頓証寺は、金刀比羅宮と歴史的に何の関係もない。にもかかわらず、金刀比羅宮が頓証寺を自社の末社として古くから頓証寺に伝わる宝物まで管理しているのはおかしい、というものです。それが認められ、県の命令で、白峯神社とされていた頓証寺が、金刀比羅宮から境内・建物の返還を受け、元の仏堂に復することができたのは、明治31年(1897)9月のことです。おそらく、現在金刀比羅宮境内地にある白峯神社の社は、このとき頓証寺が白峯神社で無くなったため、造営されたものではないでしょうか。
 しかし、20年ぶりに金刀比羅宮から独立したものの、頓証寺から金刀比羅宮に移されていた宝物の取扱いについては、当時、相当に紛糾したようです。白峯寺の言い分は、歴史的経緯からいってすべて頓証寺に返還するのが当然だということです。一方の金刀比羅宮の言い分は、明治11年から20年間頓証寺が白峯神社として金刀比羅宮の末社であったことは政府の命令に基づき行われたことであって、すべての宝物を返還する理由は無いということのようです。
 結局、この問題は最終決着がつかず、頓証寺から金刀比羅宮に移された宝物のすべてが返還されなかったようです。元々頓証寺にあった宝物で今も金刀比羅宮で保管されているものの代表例としては、重要文化財の絵巻物「なよ竹物語」があります。
 昭和40年にもこの問題がぶり返し、坂出市の松山青年団から金刀比羅宮に対して、宝物返還の嘆願が出されています。どちらの言い分が正しいかどうかは別として、歴史的な経緯は後世に正しく伝えていく必要があるでしょう。

 なお、この記事を読まれる場合には、次の記事も参考にしてください。
(21)“こんぴらさんはガンジス川のワニ”
(47)“崇徳上皇を偲び来讃した西行法師”
(40)“保元の乱に敗れて怨霊となった崇徳上皇”
(123)“後白河法皇が建て、源頼朝が奉納したといわれる寺”

続きを読む

テーマ : 香川
ジャンル : 地域情報

(125)“その先祖が平賀源内を教えたという菊池寛”

 平成14年、「真珠夫人」というテレビドラマが一躍人気番組となり、またその原作者が文豪の菊池寛だということで話題になりました。菊池寛といえば、「父帰る」、「恩讐の彼方に」など硬い純文学のイメージがあり、このような大衆小説も書いていたことに多くの人が「ヘェー」という意外感を抱きました。菊池寛は大衆小説の執筆だけでなく、文芸春秋社の創設、大映の初代社長になるなど実業家としても活躍しています。また、ジャーナリズムと映画という新しいメディアの創出にも大きく関わり、さらに、昭和10年(1935)には、芥川賞・直木賞を創設し、また小説家協会や劇作家協会を設立するなど、作家の地位向上や新人の育成にも尽力して文壇の大御所と呼ばれました。

 菊池寛は、明治21年12月26日、当時の香川県香川郡高松七番丁(現高松市天神前)に父武脩(たけなが)、母カツの四男として生まれました。本名は「ひろし」と読みます。寛が生まれた明治21年12月は、讃岐が明治9年8月に愛媛県に編入されて以来12年ぶりに第三次香川県として愛媛県から分離独立した年でした。
 寛の実家である菊池家は、江戸時代、高松藩の儒学者だった家柄で、今日でいえば学者の家系でした。しかし、明治維新後に家禄を失い、父の武脩は小学校の庶務係りのような仕事をしていたようで、当時の菊池家は貧しい暮らしを余儀なくされていました。
 寛の祖父は武章(たけあき、号は所(てきしょ))といい、江戸の林家の塾に学んだ後、高松藩の儒者となっています。幕末の禁門の変(元治元年(1864))や第二次長州征伐(慶応2年(1866))にも従軍し、明治3年(1870)に51歳で亡くなります。3代前の曽祖父は武幹(たけもと、号は藻州)、4代前は縄武(つなたけ、号は守拙)、5代前は武保(たけやす、号は室山)といい、同じく林家の塾に学んだ後、高松藩の儒者となっています。縄武の弟には、江戸で活躍した菊池五山がおり、五山は同じく高松藩出身の後藤芝山、柴野栗山に学んだ後、江戸本郷の五山堂に住み、寛政の四大詩人とまでいわれました。
 6代前は武賢(たけまさ、号は黄山)といい、宝暦初年、高松5代藩主の頼恭(よりたか)に才覚を見出されて藩学講堂の儒者となった人物です。黄山は文武両面にわたって優れた人物だったようで、後藤柴山など多くの高弟を育てています。おもしろいことに、日本のレオナルドダビンチといわれる平賀源内も、若い頃、黄山の下で学んでいます。源内も頼恭に見出された人物であり、頼恭は人物の才能を見抜くことのできる名君だったといわれています。

 菊池寛は、高松藩の儒者の家柄に育った所以かもしれませんが、少年時代から作文が得意で、懸賞作文などに入選して文才の片鱗を見せたといわれています。また、高松に初めて図書館が建設されると、月5銭の図書券の第1号を購入し、学校の帰りに毎日通って蔵書2万冊余のほとんどを読破したともいわれています。しかし、神経質な秀才タイプではなく、物事にはあまりこだわらない性格だったようです。少年時代、好きな釣りをしているとき、昼食のおむすびを入れたポケットに釣った魚をそのまま無造作に突っ込み、ミミズの這っているおむすびを気にもせず食べていたというエピソードが残っています。また「もず博士」と呼ばれるほどもず狩りを得意としていたといわれています。
 明治41年(1908)20歳のとき、高松中学校を首席で卒業しますが、家が貧乏なため、学費免除の東京高等師範学校に進みます。しかし、授業料免除という理由だけで入学したこともあり、授業に出ず、放縦不羈を理由に除籍されます。その後、地元の素封家の経済支援を受け、明治大学法科に入学しますがそこも約3か月で退学します。
 その後、徴兵を逃れるため一時早稲田大学に籍のみを置いていましたが、22歳の時、第一高等学校第一部乙類に入学します。そこで出会ったのが、芥川龍之介、久米正雄、松岡譲、成瀬正一、山本有三、土屋文明、倉田百三(ひゃくぞう)などの友人です。
 しかし、卒業を3か月前にして、友人佐野文夫(後年の日本共産党幹部)の窃盗の罪を着て退学となります。俗にいうマント事件です。友人の働きかけで、後に疑いが晴れるものの、前言を翻すのは卑怯だと態度を変えることはなかったといいます。そのときの一高校長は新渡戸部稲造(にとべいなぞう)です。

 大正2年25歳のとき、友人の成瀬正一の実家の援助を受けて、京都帝国大学文学部英文科に入学します。友人たちと同じく東京帝国大学への進学を希望していましたが、入学を拒まれたようです。しかも、旧制高校卒業の資格がなかったため本科に学ぶことができず、選科に学ぶことを余儀なくされました。京都時代は、大学の講義や学生生活にも失望し、東京の友人たちに対するコンプレックスに苛まれた暗い生活だったようです。
 そんなとき、一高時代の友人らに誘われ、第3次「新思潮」の同人となります。さらに、第4次 「新思潮」を芥川・久米・松岡・成瀬・菊池の5人で発行し、後の代表作となる「屋上の狂人」、「父帰る」を発表します。しかし、「鼻」を夏目漱石に激賞され、一躍脚光を浴びた芥川龍之介とは対照的に、寛の作品は注目されることはありませんでした。

 大正5年、28歳のとき、大学を卒業します。しかし、そのまま作家活動に専念するのではなく、東京で時事新報の社会部記者となり、サラリーマンと作家の二束の草鞋を履きます。翌年には同郷の奥村包子(かねこ)と結婚しています。
 そして、大正7年30歳のとき、「無名作家の日記」、「忠直卿行状記」などを発表して文壇に躍り出、続いて翌年に「恩讐の彼方に」を発表して作家としての地位を確立していきます。時事新報社を退職して文筆活動に専念するのは、この年からです。
 その後、「真珠夫人」の連載と「父帰る」の上演の成功により、一躍人気作家となっていきます。「真珠夫人」は、大正9年に大阪毎日新聞、東京日日新聞に連載された小説で、この連載が評判を呼び、両紙の発行部数は大正10年には100万部を突破したといいます。

 菊池寛は、いつも服のポケットに紙幣をクシャクシャにしたまま突っ込み、貧乏な文士を見ると無造作に取り出して与えていたといい、面倒見の良い親分肌の人だったようです。また、東京市会議員を務めたり、落選しましたが衆議院議員にも立候補するなど政治にも関心があり、現実主義的生活観の持主だったようです。後に、菊池寛は、「半自叙伝」の中で、自分は「生活第一、芸術第二」を信条とし、「小説を書くことは生活のためであつた。」「清貧に甘んじて立派な創作を書かうといふ気は、どの時代にも、少しもなかつた」と、述べています。昭和23年3月6日、狭心症の発作で突如息を引き取りました。

 明治中期頃生まれの旧高松藩士の子弟で、その後中央で活躍した代表的な人物といえば、党人政治家として政界で活躍した三木武吉(明治17年生)と文学界で活躍した菊池寛(明治21年生)でしょう。二人とも新政府の官僚とか軍人のような立身出世は目指しておらず、最初、三木武吉は弁護士、菊池寛は新聞記者となっています。
 高松藩は幕末の鳥羽伏見の戦いで朝敵となったため薩長から睨まれ、旧高松藩士やその子弟は新政府の官僚や軍人にはなかなか登用されなかったといわれています。明治期には旧高松藩士の子弟は陸軍士官学校に入学できず、籍をわざわざ大阪に移して受験した者もいたというような話もあったそうです。実際、明治から大正にかけて旧高松藩士出身者で中央の軍、官界で名を成した者はきわめて稀で、陸海軍とも大将はついに出ず大将無しの県といわれたそうです。
 このことと、三木武吉と菊池寛というどちらかといえば在野的な人物が明治期の高松から輩出しているということと何らかの関係があるのかもしれません。ちなみに、二人とも高松藩藩儒の家柄の出です。

続きを読む

テーマ : 香川
ジャンル : 地域情報

(117)“草鞋を履いて阿讃の峠を越えた牛”

 「東男に京女」という言葉があるように、四国には「讃岐男に阿波女」という言葉があります。この言葉は、一般的には働き者の讃岐男に美人の阿波女という意味にとられているようですが、嫁をもらうなら働き者の阿波の女性からという説もあります。なお、おもしろいことに、古事記でも阿波の国は女性の大宜都比売(おおげつひめ)の国、讃岐の国は男性の飯依比古(いいよりひこ)の国と記されています。また、古代、讃岐の国の開拓は、讃岐忌部氏が阿波忌部氏の力を借りて行われたといわれています。
 このように、讃岐と阿波は、東西に横たわる標高500~700mの讃岐山脈(阿讃山脈)を越えて、古くから交流がありました。その一つが借耕牛(かりこうし)という独特の風習です。

 平地に恵まれない阿波の山村では、広い水田を作ることができないため稲作が不振で、米が不足がちでした。しかし、草生地が多いことから畑地に飼料が作られ、水田の面積に比べて耕牛が多く飼育されていました。
 一方の讃岐は、平地が広く稲作が盛んでしたが、飼料の問題などから牛が不足していました。そこで夏の田植えの6月と秋の11月の麦蒔きの年2回の耕作時には耕牛が不足しました。このような事情から双方の利害が一致し、農繁期の間、阿波から讃岐に牛を借入れるという風習が生まれました。これが借耕牛(かりこうし)です。讃岐の農家は、この借耕牛を飼って田の代掻きや田畑を耕したり、処では砂糖締めの臼を廻す動力に利用しました。砂糖締めに使われる牛は、砂糖締め牛(しめうし)と呼ばれたそうです。
 このような風習が始まったのは、江戸時代の中期の文化年間(1804~1818)の頃からといわれており、徳島県の美馬郡、三好郡を中心に供給された牛たちは、阿讃の国境の峠を越えて讃岐へと向かいました。東から五名口、清水口、岩部口、塩入口、猪ノ鼻口、野呂内口、曼陀口です。その総数は、昭和5~10年頃の最盛期には夏、秋合わせて年8,000頭以上にも及んだといわれています。中でも、財田、仲南方面へは主に、猪ノ鼻越えや東山からのルートが使われ、猪ノ鼻越えをしたものだけでも約1,600頭にも及んだといわれています。
 まだ夜も明けきらぬうち、飼主に曳かれて阿波を発った牛たちは、暗く細い山道を上り下りし、午前中には讃岐に着いたといいます。牛の足には、険しい山道で蹄が傷まないように草鞋(わらじ)が履かされ、背には替えの草鞋が乗せられていたそうです。
 借耕牛の到着した現在の三豊市財田町戸川やまんのう町仲南の山脇、塩入などには取引所が設けられ、賑わいました。対価は約1月働いて米1石が相場で、牛を貸してかわりに米1石をもらって行くことから米取り牛(こめとりうし)ともいわれたそうです。牛の背に米を乗せて返したといいます。

 このように牛も草鞋を履いて越えた讃岐と阿波の間の様相が一変したのは、四国新道の開通でした。四国の道路革命とも呼べるこの新道のルートは、多度津・丸亀を起点に琴平から猪ノ鼻を越えて阿波池田に入り、高知を経て佐川・須崎に達し、佐川から松山・三津浜に至るという四国を全長約280kmのV字型で貫く壮大なものでした。その道幅も計画では最大12.6m、最小でも6.3mと、現在と比べて遜色のないものでした。
 この新道のプランは、明治17年(1884)に大久保之丞(じんのじょう)が提唱したものです。之丞は嘉永2年(1849)、多度津藩領の三野郡財田上ノ村(現在の三豊市財田町)に生まれ、阿讃にまたがる山道の不便さを熟知しており、地域の経済を発展させるためには道路を建設する必要があるという持論を持っていました。之丞は四国新道の実現のほか、讃岐鉄道の完成、瀬戸大橋、香川用水の構想を提言し、産業の振興、無医村解消、北海道移民、多度津港の改修など郷土発展に力を尽くしています。
 明治19年(1886)4月14日、琴平・阿波池田・高知で四国新道の起工式が同時に行われました。しかし、山間部での工事は難渋を極め、なかでも猪ノ鼻峠は最大の難関で、鍬や鶴嘴を使って50mにも及ぶ断崖を掘削しました。また、道路用地にかかった地元住民などの猛烈な反対や資金不足もあり、工事は度々中断したといいます。このとき、県会議員をしていた之丞は反対住民の説得に奔走し、さらに工事のために私財まで提供して大久保家の財産は土塀と井戸を残すのみになったといわれています。
 明治23年(1890)3月に多度津から琴平を経て猪ノ鼻峠間、38.382kmと、丸亀・金蔵寺間6.08kmの香川県分の工事が竣工し、さらに明治27年(1894)5月に8年の歳月をかけて、全面開通となりました。しかし、之丞自身はそれを見届けることなく明治24年12月14日香川県議会中に倒れ、42歳の若さで亡くなりました。

 この新道により人や物資の流れは大きく変わり、阿波側には塩や米、麦が、讃岐側には葉タバコなどが大量に運ばれました。中継点にあたる猪ノ鼻峠では、馬車曳きも必ず休憩し、飲食店を兼ねた旅館や運送屋が十数軒建ち並び、また、香川県側の登り口にあたる財田の戸川では、宿屋や料理屋から絶えず三味線の音が聞こえてくるほどの賑わいであったといいます。さらに、大正8年(1919)には、琴平~池田間で自動車による旅客運送も始まりました。
 しかし、その後、昭和4年(1929)に鉄道が猪ノ鼻トンネルを貫いて阿波池田まで延伸されると、猪ノ鼻峠の賑わいは徐々に失われ、宿屋や茶店も減っていきました。
 四国新道香川・高知間は、昭和27年(1952)、国道32号に制定され、名実とも讃岐と阿波・土佐を結ぶ幹線となります。そのような中、借耕牛もトラックに乗せて運ばれるようになり、耕耘機の普及に伴い、昭和30年代後半から姿を消していきました。
 四国新道は、昭和34年から41年にかけて大改修工事がなされ、猪ノ鼻隧道(827m)をはじめとしたトンネルが開通し、香川・池田・高知を結ぶ四国内の大輸送路となります。しかし、平成4年(1992)1月30日の四国横断自動車道(川之江JCT~大豊IC開通)開通により、四国新道香川・高知間は約100年にわたる主役の地位を譲りました。

続きを読む

テーマ : 香川
ジャンル : 地域情報

(101)“墓から現在アートにまで使われている花崗岩のダイヤモンド”

 源平合戦で知られる屋島の東側対岸には、峰が剣の尖のようにそびえ立つ五剣山という山があります。この山から西方向に延びる高松市の牟礼と庵治の境の尾根には大規模な採石場を見ることできます。ここで採掘される石は「庵治石」と呼ばれ、牟礼と庵治は、愛知県の岡崎市、茨城県の真壁町と並ぶ日本における三大石材産地の一つといわれています。ちなみに庵治石という名前の由来は、石の積出港が庵治にあったことよるといいま
す。

 今から6500万年前から1億年前の白亜紀後期、ユーラシア大陸の東の端で火山活動を中心とした激しい地殻変動が起きました。そのときマグマが地下の深いところで冷え固まってできた石が花崗岩です。中でも特にきめ細かい石が庵治石で、2000万年ほど前の地殻変動による隆起により地表に現れました。
 庵治石は、学問的には「細粒黒雲母花崗岩」といい、石英・長石を主成分とし、少量の黒雲母と角閃石を含んでいます。この構成鉱物の結晶が極めて小さく結合が緻密なため、他の地域の花崗岩と比べてより硬いのが特徴で、その硬度は水晶と同じ程度です。このため細かい細工が可能である一方、水を吸い込みにくくて風化や変質に強く、200年は彫られた字が崩れたり、変色したりしないといわれています。
 花崗岩は、石材という観点からみると、荒目(あらめ)、中目(ちゅうめ)、細目(こまめ)と分類されますが、庵治石は細目と中目に分類されます。さらにその中間として中細目(ちゅうこまめ)が設けられることもあります。細目は小さな黒雲母の数が多く、磨くほどに濃淡が浮き出て、石の表面が奥行きを感じさせる二重のかすり模様が表れます。これを「斑(ふ)が浮く」といいます。その模様は、高い山々にかすみたなびく雲、また屋島から舞い落ちる桜の花びらにもたとえられ、縁起物としても珍重されてきました。中目は黒雲母の数が少ないので、細目に比較して白く見えます。
 このように、庵治石は、キメの細かさ、優美な光沢、独特の色合い、重量感を有するとともに、頑丈で強くいつまでも美しいという特徴から、墓石や、石灯籠、庭石、建築用材などのほか、現代アートの素材としても利用されています。そして、その質の良さと希少価値から石材の単価としては世界一とされ、「銀座虎屋の羊羹(ようかん)より高い石」とか「花崗岩のダイヤモンド」といわれてきました。

 庵治石の歴史は古く、平安時代後期から石材として使われ始め、およそ千年の歴史を持っているといわれています。暦応2年(1339)、京都男山の石清水八幡宮の再建に讃岐の石が使われたという記録があり、その石は庵治石だと考えられています。
 本格的に採石され始めたのは、16世紀末の天正時代(1573年~)に入ってからだといわれており、江戸時代初期には高松城築城や大阪城大改築にも庵治石が使われていま
す。
 その真価が全国的にも認められるようになったのは、明治時代以降で、皇居、武庫離宮(現在の須磨離宮公園)の造営や、大正2年から3年にかけて造営された明治天皇の墓所である伏見桃山陵(ふしみももやまのみさざき)にも多量の庵治石が使われました。さらに、大正以降は、牟礼や庵治で住む石匠の優れた石材加工技術も全国に知られるようになっていきました。

 このような中で、庵治石と石匠の技術に新しい風が吹いてきます。昭和30年頃、彫刻家の流政之が石材工場内においてアトリエを構え、また、イサム・ノグチが牟礼・庵治を訪れてきたのです。流氏は昭和40年頃より、庵治半島東海岸に面した小高い山中に「石と煉瓦の砦」ともいわれる建物を造り、また、ノグチ氏は昭和44年から牟礼でアトリエを構え、これらを拠点に制作活動をします。ノグチ氏は、平成10年に亡くなるまで、20年余りこの地を拠点として活動しました。このような活動は牟礼・庵治の石匠達にも大きな影響を与え、墓石だけでなく、現代アート風の彫り物や置物などの作品が彼らの手で生み出されてきています。

 関連記事
(55)“松平定信のブレーンだった讃岐出身の儒学者
(80)“建礼門院と安徳天皇が滞在した牟礼・屋島
(81)“二つある源平ダンノウラの戦い

続きを読む

テーマ : 香川
ジャンル : 地域情報

(98)“香川からも出撃していた神風特攻隊”

 “トッコウ”という言葉に対する日本人の反応は、世代によって大きく異なるように思われます。年配の世代の人は涙し、若年世代の中にはカッコイイという反応を示す人もいます。いずれにしても、戦後60年以上を経過し、この言葉は急速に風化しているように思われます。
 「特攻」は、大東亜戦争(太平洋大戦)末期、爆弾を搭載した軍用機等に搭乗員が乗り込み直接操縦・誘導を行い、敵艦船等に体当たりして撃滅を狙うという日本軍独特の攻撃方法です。海軍・陸軍とも航空機や船舶など多くの特攻隊を編成しましたが、中でもよく知られているのが海軍の「神風特別攻撃隊」です。一般的には「かみかぜ」と読まれていますが、本来は「しんぷう」と読むそうです。
 神風特別攻撃隊という呼称が初めて用いられたのは、昭和19年10月に行われたレイテ沖海戦のときです。この戦いは、フィリピンを奪還しようとするアメリカ軍と、それを阻止しようとする日本軍の間で行われたものです。すでに航空戦力不足に陥っていた日本海軍は、零戦13機からなる特攻隊を組織し、アメリカ艦船に対して体当たり攻撃を加えました。この特攻隊は4隊で構成され、各隊の呼称は本居宣長が大和魂について詠じた「敷島の 大和心を人間はば 朝日に匂ふ 山桜花」の歌から、敷島隊、大和隊、朝日隊、山桜隊と名づけられました。神風特攻隊による特攻は終戦の日、鹿児島の鹿屋基地から最後の戦闘機が出撃するまで続けられ、17歳から20歳代前半の4000人近い若者が命を落としました。

 大東亜戦争の末期、香川にも神風特攻隊の基地が設けられていました。その基地は、荘内半島の東側付け根部、現在の三豊詫間町香田(こうだ)地区にあった詫間海軍航空隊です。
 詫間海軍航空隊は、水上機の実用教育を行う部隊として、昭和18年6月1日に開隊しました。航空隊が建設された場所は白砂青松の、のどかな漁村地帯だったところで、その建設は地元の勤労奉仕隊員も動員され1年半の突貫工事で行われました。また、東側1kmの新浜には海軍軍需部詫間補給所も建設されました。このとき、地元では合計、130戸、約37ヘクタールが立ち退きを余儀なくされました。
 この地に水上航空隊が設けられたのは、飛行艇が離発着できる波が穏やかで十分な広さの海域があること、詫間港が善通寺第11師団の外港であることなどによるといわれています。主要な配備機は九四式水上偵察機と二式大艇でした。二式大艇は、昭和15年に初飛行した当時世界一の高性能を誇った大型飛行艇で、大型レーダーを装備して、偵察、哨戒、輸送など多用途に供することができました。
 日本で最初の飛行艇訓練基地は昭和11年10月1日に開設された横浜海軍航空隊ですが、この隊は、開戦とともに、直ちに第一線に出動し、ハワイ・インド洋・アリューシャン・オーストラリア・ソロモンと、全海域にわたって遠距離の哨戒・攻撃・輸送・救出等の作戦に従事していました。しかし、戦局の悪化を受け、海軍は、昭和19年9月、沖縄戦に備えて兵力を集中するため、全ての飛行艇隊を横浜海軍航空隊に集結し、その作戦基地を詫間とします。これにより、詫間は3,000名を超える兵員を擁する水上機部隊の一大基地となります。横浜航空隊の作戦上の部隊名は八〇一空といいます。昭和20年2月には、沖縄戦に当たるため、鹿児島県鹿屋を司令部とする第五航空艦隊が新たに編成され、詫間の八〇一空がその偵察任務に当たることとなります。

 昭和20年2月、本土防衛のため、西カロリン諸島のウルシー環礁に集結する米空母機動部隊を攻撃しようという「丹作戦」が発令されます。この二次作戦は、陸上爆撃機の銀河24機と誘導機の二式大艇3機が、日本から1,500 海里 (約 2,900km) 以上離れたウルシーまで一挙に太平洋を飛び越え、敵艦に体当たりして撃沈しようというものでした。帰還することはもはや物理的に不可能な決死の攻撃です。そして、この作戦の実行部隊として、詫間を基地とする二式大艇とその乗組員36名も編入した「神風特別攻撃隊菊水部隊梓隊」が編成されます。
 3月11日、「銀河」24 機が鹿児島・鹿屋から飛び立ちました。これが、鹿屋から出撃した最初の神風特別攻撃隊です。そして、詫間から鹿児島・鴨池基地を経由して出撃した二式大艇3機と佐多岬上空で合流し、ウルシーへ向かいました。しかし、最終的に到達した銀河は24機のうち16 機だけで、また、敵艦影の判別が困難な日没後の突入となったため、その戦果は1 機が空母「ランドルフ」の飛行甲板後部に激突し火災を発生させるにとどまりました。突入を断念した 4 機がヤップ島に不時着したほかは、12 機もの銀河が未帰還となりました。詫間から出撃した二式大艇3機も未帰還となり乗組員全員が戦死しました。戦果に対して、あまりにも大きな犠牲でした。

 4月に入ると、日本軍は、連合軍の沖縄への進攻を阻止する目的で特攻作戦を本格的に進めます。この作戦は、楠木正成の旗印「菊水」をもじって「菊水作戦(きくすいさくせん)」と呼ばれました。作戦は第1号(4月6日~11日)から第10号(6月21日~22日)まで実施されます。
 詫間でも小型水上機による特攻部隊が編成され、詫間海軍航空隊の“琴平水心隊”と、詫間に移動してきた茨城県北浦海軍航空隊による“琴平魁隊”からなる神風特別攻撃隊が編成されます。詫間の特攻隊は、4月28日以降、鹿児島・指宿基地を前進基地として、4次にわたって菊水作戦に加わり、25機が米軍艦船に突入し、57名の若者が沖縄の空に散りました。4月28日の「菊水4号作戦」で5名、5月4日の「菊水5号作戦」で40名、5月11日の「菊水6号作戦」で5名、5月27日の「菊水8号作戦」で7名がそれぞれ戦死しています。
 青年兵たちは、荘内半島や粟島など瀬戸内の美しい風景を機上から目に焼き付けながら、親兄弟、恋しい人との別れを偲び南に向かって二度と帰れない出撃をしていったのでしょう。この辺りは、浦島太郎伝説にふさわしいのどかな風景を今も残しており、かつて悲しい出来事があったとはとても信じられないところです。



 詫間については、次の記事もお読みください。
・“紫の雲が出る山があり浦島太郎伝説が残る半島”(68話)
・“讃岐にもある後醍醐天皇の息子の足跡と新田義貞一族の物語”(61話)
 詫間の隣の仁尾については、次の記事をお読みください。
・“三月三日に雛祭りをしない町”(12話)

続きを読む

テーマ : 香川
ジャンル : 地域情報

(96)“高松にとって忘れられない日”

 大東亜戦争(太平洋戦争)における日本本土に対する最初の空襲は、昭和17年4月18日、米空母「ホーネット」から発進したジミー・ドーリットル中佐率いるB25中型爆撃機の編隊16機によるものです。このとき空襲の対象になったのは、東京のほか5市で、日本側には50人の死者、家屋262戸の被害が出ました。
 昭和19年になると、アメリカ軍はサイパン島を占領し、そこを基地として日本本土に対する組織的な空襲攻撃の体制を整えていきます。2回目の空襲は昭和19年11月24日に東京の武蔵野市に対して行われています。
 昭和20年になると、アメリカ軍に日本本土周囲の制空権と制海権を完全に握られ、本土全体が事実上、戦場と化していきました。日本の都市に対して空襲攻撃のあった日は、3月と4月がそれぞれ2日間、5月が3日間ですが、6月に入ると急増します。6月は10日間と3日に一度、7月は16日間と2日に一度、8月は降伏日の15日までの間に10日間とほぼ毎日です。
 爆撃の対象は軍需施設や工場ばかりでなく、住宅地にまで及び、全国の66都市が攻撃の対象となりました。特に、昭和20年3月の東京大空襲では、一夜で8万人以上の市民が犠牲となり、100万人が焼け出されるという大きな被害が出ました。
 このアメリカ軍による本土空襲により、全国の住宅密集地のほぼ40%が破壊され、都市住民全体の約30%が家屋などの財産を失いました。その人的被害は、死亡が29万9,485名、重傷が14万6,204名、軽傷が16万7,318名、負傷が3万1,298名、行方不明が2万4,010名、被害総数が66万8,315名という現在の岡山市の人口にも匹敵するほど大きなものでした。

 昭和20年2月7日、観音寺の沖合いにアメリカ軍機から爆弾が投下されました。これが香川県下における初めての空襲です。
 そして、高松市街は、終戦42日前の昭和20年7月4日、午前2時56分頃から1時間46分間にわたって、米軍のB29爆撃機116機による焼夷弾(しょういだん)と高性能爆弾による絨緞攻撃を受けました。第一波は栗林公園裏の稲荷山あたり、第二波は天神前・塩上あたり、第三波以下は順次、市の中心部へと波状的に爆弾が投下されました。
 被災地域は市街地の78%にも及び市街地の多くが焼け野原となりました。被害建築物は1万8,913戸、罹災者は当時の人口の約60%に当たる8万6,400人、死者は1,240人(ほかに不明119人)という大きな被害でした。一夜明ければ、東の空から血の固まりのような太陽が、ゆらゆらと昇り、昨日までそこに在った高松の町並みは見るも無残な廃墟と化し、道端には屍が累々と横たわっていたといいます。

 明治以降の日清、日露、第一次の各戦争において日本本土に住む民衆が直接戦火に晒されるということはありませんでした。それより前でも、周囲が海で囲まれているということもあり、鎌倉時代の元寇を除いて、日本本土の民衆が直接外国の戦禍に晒されるということはありませんでした。また、日本人同士の戦いの場合でも、ほとんど武士同士の戦いであって、比叡山焼き討ちや、島原の乱のような例外はあるものの、一般民衆が直接攻撃の対象になるような大規模な戦争はありませんでした。
 しかし、大東亜戦争に突入してからは様相が一変し、アメリカ軍の無差別空襲により、日本本土に住む一般民衆が自己には全く責任が無いにもかかわらず、自分や肉親の身体を傷つけられ、生命を奪われ、財産を焼却されるという、筆舌に尽くしがたい悲惨な状況に追い込まれました。これは日本列島において日本民族が形成されていった長い歴史の中でも、全く経験したことのない極めて特異な出来事だったといえるでしょう。

 高松は、もともと城下町として発展してきた街で、空襲を受けるまではその風情が色濃く残っていました。しかし、戦後、被災地において戦災復興の土地区画整理事業が積極的に実施され、現在の街は戦前のそれと比べて大きく様変わりしました。

続きを読む

テーマ : 香川
ジャンル : 地域情報

(94)“日本の中にあるオリーブに囲まれたエーゲ海の風景”

 瀬戸内海の中に浮かぶ小豆島では、5月末から6月上旬にかけて、清楚な純白のオリーブの花が開きます。やがて青い実を結び、たわわな実はグリーンとなって秋が深まる頃には濃いワインレッドに染まります。また、オリーブの実の“新漬け”は小豆島の秋の味覚の一つとなっています。オリーブは昭和41年に香川県の県花・県木に指定され、小豆島オリーブの島ともいわれています。
 オリーブは、モクセイ科の常緑樹で、その原産地は中東シリア周辺の小アジアとされています。これが今から5千年から6千年前に栽培されるようになり、地中海沿岸からアフリカ北岸一帯に広がっていきました。オリーブの栽培を地中海沿岸に広めていったのは、通商や航海術に長けていたフェニキア人、ついで高い文化を誇ったギリシャ人、さらに大帝国を築き上げたローマ人達だったといわれています。

 日本にはじめてオリーブオイルを持ち込んだのは、約400年頃前の安土・桃山時代、キリスト教伝道のため来日したポルトガル人神父だといわれています。当時はオリーブオイルのことをポルトガルの油、訛ってホルトの油を呼んでいたようです。しかし、オリーブの木が伝来したのは、それよりももっと後、幕末の文久年間(1861~64)の頃で、幕府の医師林洞海が横須賀に植えたといわれています。
 この間、日本人はオリーブの存在は知っていたようですが、それがどのような木であるかは知らなかったようです。宝暦10年(1760)頃、当時高松藩に仕えていた平賀源内がモガシをオリーブの木と間違えて、ホルトの木と名付け、栗林荘(現在の栗林公園)に植えたというエピソードが残っています。 その後、明治に入り、様々な人によって栽培が試みられましたが、いずれも根付くまでには至りませんでした。

 明治41年(1908)、農商務省がイワシやマグロの缶詰に使うためのオリーブ油を国内自給するために、三重、香川、鹿児島の3県を指定してアメリカから輸入した苗木で試作を始めました。香川では、小豆島の内海湾を望む西村の地に試験地が創設され、119アールの畑に519本の苗木が植栽されました。そしてこの3県の中で、香川の小豆島だけが栽培に成功しました。
 これは、年平均気温15.0℃、年間降水量1200mm程度という小豆島の温暖寡雨な瀬戸内式気候が地中海沿岸とよく似ていること、台風被害が少ないこと、それに栽培者、加工業者のたゆまぬ努力があったからだといわれています。
 試験研究の継続と農家への普及により、小豆島はわが国最大のオリーブ生産地となりました。その後、昭和34年の輸入自由化による安価な外国産加工品の増加などから、その栽培面積は昭和39年の130haをピークに昭和60年代には34haまで減少しました。しかし、平成元年以降、イタリア料理や健康食品ブームの中で再び国産オリーブが見直され始め、平成13年度には42haまでに回復し、最近では庭園樹や街路樹等の緑化木としても植えられています。また、“オリーブ茶”など新たな商品開発も取り組まれています。

 明るく温暖な小豆島の気候風土は、オリーブのふるさと地中海によく似ているといわれています。小豆島町西村地区の内海湾を見下ろす丘にはオリーブの農園が広がり、眼下の瀬戸内海と一体となったその景観は日本のエーゲ海を思わせるスポットとなっています。このオリーブの丘には、小磯良平、猪熊弦一郎、中西利雄などの著名な画家も来て、絵筆を取っています。
 また、平成元年(1989)には、オリーブ発祥の地であることから、小豆島とほぼ同じ面積であるギリシャのエーゲ海に浮かぶミロス島と、オリーブの原産地との交流を深めるため、姉妹島としての調印が行われました。小豆島には、青と白の鮮やかなコントラストが印象的なミロス島そのままの風景を見ることができます。
 平成20年(2008)は、小豆島でオリーブ栽培が始まってから100年目の年に当たります。

続きを読む

(93)“欧米人が賛美したわが国初の国立公園”

  瀬戸内海国立公園(せとないかいこくりつこうえん)は、昭和9年(1934)3月16日に、日本で初めて指定された瀬戸内海を中心とする国立公園です。
 当初の指定区域は、小豆島の寒霞渓、香川県の屋島、岡山県の鷲羽山、広島県の鞆の浦など備讃瀬戸を中心とした一帯のみでしたが、その後、数回にわたって区域が拡張され、現在は、総面積62,781ha 、兵庫県、和歌山県、岡山県、広島県、山口県、徳島県、香川県、愛媛県、福岡県、大分県の10県にまで及ぶ広大な公園となっています。

 西田正憲著「瀬戸内海の発見」(中公新書、平成11年刊)によると、景観に対する人の認識の仕方は時代とともに変化し、また見る人によっても異なるそうです。西田氏は、この著書において、瀬戸内海を素材に、日本人の景観に対する認識の仕方、すなわち風景観がどのように変化してきたかを紀行文、日記、地誌などによって辿っています。
 それによると、近世以前の日本人は、風景を「意味の風景」として見ていたということです。「意味の風景」とは、万葉集などで詠まれた名どころ、つまり歌枕や、文学、故事、神話、伝説など名所旧跡の地であるという景観の外側にある意味を認識し、その意味を内的に投影して見た風景という意味です。具体的には、瀬戸内海でも須磨、舞子、明石、屋島、厳島など歌枕名所的な限定された地が優れた風景地だとされていたということです。そこには、内海、多島海の概念やイメージは存在していなかったそうです。
 ところが、幕末以降、シーボルトなど多くの欧米人が船で瀬戸内海を往来するようになり、瀬戸内海の内海、多島海などの風景を絶賛し、それが紀行文などによって欧米に知られていったそうです。欧米人が瀬戸内海を評価したところは、従来日本人が風景地と見ていた伝統的な歌枕名所的な場所ではなく、海、海岸、島々などの無名の自然景や、段々畑、漁村集落、漁船などの無名の人文景だったそうです。西田氏によれば、欧米人は、瀬戸内海を「意味の風景」としてではなく、「視覚の風景」として評価したということです。「視覚の風景」とは、特色ある地形・地質や植物、光の輝きや色彩、様々な人文景や生活景などを、観察・科学・観光のまなざしで見た風景という意味です。

 このようにして明治時代には、瀬戸内海は、日光、富士山などとともに日本を代表する観光地としての評価が欧米人の中で定着するとともに、日本人の間でも新しい瀬戸内海の見方が普及し、日本人は瀬戸内海を世界の公園だと誇るようになります。
 小西和(かなう)は、その著書である「瀬戸内海論」(明治44年刊)で、「無比の風光を抽出して、西洋人から世界の公園、現世の極楽と云ふ、賛美的呼称を得て居る。瀬戸内海の風景が欧米の人士に惚れ込まれて居る。」と述べています。小西は、明治6年(1873)香川県の旧長尾町に生まれ、札幌農学校に学び、従軍記者として日露戦争に赴き、衆議院議員も務めた人物です。小西が農学校に学んでいた時、新渡戸稲造がその教官をしており、瀬戸内海論にも稲造が序文を寄せています。

 小西和の活動もあり、昭和6年(1931)、自然の大風景地を保護するとともに、国民の利用に供する目的で、国立公園制度が発足します。その背景には、内外の観光客誘致による地域振興、外貨獲得への期待のほか、ナショナリズムや郷土意識の高揚があったといわれています。
 こうして昭和9年3月、わが国最初の国立公園として瀬戸内海、雲仙、霧島の3ヶ所が指定され、12月には阿蘇、大雪山、日光、中部山岳、阿蘇の5ヶ所、翌々年の昭和11年2月に富士箱根、十和田、吉野熊野、大山の4ヶ所が指定されました。

続きを読む

(92)“かつて塩田王国といわれた香川”

 島国である日本は、四方を海に囲まれていることから、製塩はもっぱら海水を原料として行われてきました。中でも瀬戸内地域は古くから製塩が盛んで、弥生時代中期から奈良時代(長岡京期)にかけて土器製塩(どきせいえん)が行われていました。土器製塩は瀬戸内海でも備讃瀬戸で盛んに行われ、香川県の海浜、島嶼には、土器製塩遺跡が120か所以上も発見されています。
 当時の製塩法は海水を土器に汲み入れて加熱し、ニガリ(苦汁)を含んだ粗製の塩の結晶を得ていたと考えられています。万葉集には「藻塩焼く」という言葉が登場しますが、これは、海水を付着させた海藻を焼き、その灰を濃い塩水の鹹水(かんすい)に漬けることで、より濃縮された鹹水を得ようとする工程とする見方が有力です。
 しかし、やがて自然海浜の砂面を利用して鹹水を採取し、それを煮つめる方法に移行していきます。鎌倉時代末期になると、自然海浜に溝や畦を設けた初歩的な塩田の形態が次第に整ってきます。この塩田は揚浜式と呼ばれるもので、人力でくみ上げた海水を砂に散布して太陽熱や風で水分を蒸発させるという作業を何度も繰り返し、次に、塩分の付着した砂をかき集め、それを海水でろ過して鹹水を作り、さらにこれを煮つめて塩の結晶を取り出すという方法です。煮つめ用の釜には、あじろ釜、土釜、石釜などが使用されました。

 江戸時代に入ると、瀬戸内海沿岸を中心に「入浜(いりはま)式塩田」が開発され、普及発達していきます。この方式は、砂海と塩田の境に開閉可能な海水取り入れ口を備えた堤防を築き、潮の千満の差を利用して海水を自動的に塩田に引き入れ、毛細管現象によって砂層部に海水を供給させ、それを天日により水分を蒸発させます。そして塩分の付着した砂を沼井に集めて海水をかけ、鹹水を採るというものです。ことにより、揚浜式で必要だった海水を人力で散布する過酷な作業が不要となり大幅な労力の省略ができるようになりました。
 本格的な入浜式塩田の起源については明確でなく、はじめは、自然の干潟がそのまま採鹹地(さいかんち)として利用され、干満差の大きな内海や、干潟の発達した場所を入浜式塩田としていたようです。しかし、しだいに堤防や海水溝などがつくられるようになり、塩田としての形が整っていきました。
 そして、入浜式塩田は、阿波・讃岐・伊予・長門・周防・安芸・備後・備中、備前・播磨(現在の徳島、香川、愛媛、山口、広島、岡山、兵庫)の瀬戸内海沿岸10か国を中心に築造され、「十州塩田」として、以後約400年間にわたって、日本独特の製塩法として盛んに行われました。

 讃岐は、海岸線が長く広い干潟があるという地理的条件に加えて、雨が少ないという気象条件に恵まれていることから、塩田開発に適しており、江戸時代の初期には、すでに東讃の引田・松原・志度・牟礼、坂出、丸亀の塩屋、小豆島、塩飽の島などで塩田が開かれています。これらの地域の中には、天正15年(1587)に、生駒氏が播州赤穂から讃岐に封ぜられてきたこともあり、播州赤穂から塩づくりに従事する人が讃岐に移住してきたといわれています。
 讃岐で最初に築造された本格的な入浜塩田は、江戸中期の宝暦5年(1755)、屋島西海岸の潟元(かたもと)に開かれた「亥の浜(いのはま)」です。この塩田は、高松五代藩主松平頼恭(よりたか)の命により、藩の殖産興業の一環として実施されました。頼恭は平賀源内を見出した高松藩中興の祖といわれる人物です。
 頼恭は潟元の海辺に塩田を開こうとして時の執政・木村亘(黙老)に命じ、亘は梶原景山(かじわらけいざん)にその工事を担当させます。宝歴3年(1753)春から着工し、何度も堤防が決壊するという難工事の末、宝歴5年に30余町歩の塩田が完成しました。その年が亥(いのしし)であったので、その塩田は「亥の浜」と呼ばれました。景山はこの経験を生かして、翌6年には16町歩の「子の浜(ねのはま)」も築造しました。
 それから70数年後の文政12年(1829)、高松藩は第九代藩主・松平頼恕(よりひろ)のとき、坂出の海浜に東大浜・西大浜の塩田を築きます。この塩田は、財政難に陥っていた高松藩の難局を打開するため、久米通賢(栄左衛門)の建白と普請により、3年6ヶ月をかけて築かれたもので、排水溜の整備、海水取入口などの構造に久米式といわれる独特の工夫がなされた当時わが国有数の大塩田でした。

 こうして塩は、砂糖・綿と並んで“讃岐三白”の一つに数えられるようになりました。しかし、綿と砂糖は、明治20年代に入って急速に衰えていきます。これに反して、明治期に入ると、香川県の製塩業は隆盛期を迎えていきます。宇多津で大規模な入浜式塩田が築造されるなど西讃を中心に塩田の拡大が急速に進み、塩の生産量は明治9年に全国第3位、明治22年に全国第2位となり、さらに明治27年には全国第1位となります。以後、昭和47年に塩田が廃止される直前頃まで香川県は全国最大の生産地として「塩田王国」といわれていました。
 第二次世界大戦後の昭和27年頃からは、長年続いた入浜式塩田に替わり「流下式枝条架塩田」が登場します。この方法は、海岸に堤防を作り、堤の内側に流下盤坂と呼ばれるゆるやかな傾斜をつけて、その上に海水をポンプでくみ上げたものを流して天日で塩分を濃縮し、さらに枝条架(しじょうか)という粗朶(そだ)竹を束ねて吊るした装置に塩水をたらして、自然の風によって乾燥させるというものです。この方式では塩田上の砂を攪拌する作業が必要無くなり、労力は今までの10分の1になりました。また風による水分蒸発を主とするため、比較的日照時間の短い場所や季節でも塩の生産が可能になりました。そして生産高では2~3倍もの成果が上げられるようになりました。                             
 しかし、画期的といわれたこの方式もわずかな期間しか使用されず、昭和47年4月以降、「イオン交換膜法」が導入され、全面的にこの方式に切り換えられます。この方法は天候や自然現象・季節によらない製塩ができ、また、ニガリの無いほとんど純粋な食塩(NaCl)が供給されるようになりました。こうして江戸の初期に始まった讃岐の広大な塩田は不要となり、埋め立てられて工業用地や住宅地あるいは新しい街として転用されていきました。
 なお、この記事については、(58話)“伊能忠敬より進んだ測量技術を持った江戸時代の先端科学技術者で塩田の父”も参考にしてください。

続きを読む

四国のブログ

FC2Blog Ranking

全記事(数)表示
全タイトルを表示
讃岐
リンク
カウンター
琴平電気鉄道
栗林公園・一宮・金毘羅に便利 !
映画DVDファッション雑誌無料ブログパーツ
カテゴリー
歴史・旅行リンク
にほんブログ村 旅行ブログへ にほんブログ村 歴史ブログへ
にほんブログ村 トラコミュ 讃岐の伝説へ
讃岐の伝説
にほんブログ村 トラコミュ 高松松平藩へ
高松松平藩
にほんブログ村 トラコミュ 日本の文化へ
日本の文化
最近の記事
天気予報
高松の天気予報
-天気- -FC2-
最近のコメント
時計
出来屋の電光掲示板
QRコード
QRコード
国盗りカウンター
プロフィール

讃岐の出来屋

Author:讃岐の出来屋
おいでま~せ、出来屋のページヘ""

カレンダー(月別)
06 ≪│2017/07│≫ 08
- - - - - - 1
2 3 4 5 6 7 8
9 10 11 12 13 14 15
16 17 18 19 20 21 22
23 24 25 26 27 28 29
30 31 - - - - -
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。