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(116)“石松も犬も代参した金毘羅参詣”

  「江戸っ子だってね」、「神田の生まれよ」、「食いねえ、食いねえ、すし食いねえ」のやりとりは芝居などでよく知られていますが、これは森の石松金毘羅代参での旅をうたった浪曲、「石松代参三十石船」の中でのセリフです。場面は、清水次郎長の代わりに金毘羅参りを無事に済ませた森の石松が、30石船に乗って大阪から京都へ向かう途上での話です。30石船は、淀川を大阪天満橋付近から京都の伏見までを往復していた船です。
 清水次郎長には長兵衛という恩人がいましたが、長兵衛は八尾ケ獄宗七(久六)の密告により捕われ牢死します。そこで次郎長は、日頃信仰する讃岐の金毘羅さんに祈願した後、首尾よく仇討ちを果たし、長兵衛の怨を晴らします。そのお礼参りの代参に森の石松を讃岐に差し向けました。万延元年(1860年)のことだといわれています。このとき、本宮へ向かう途中で旭社を見た石松は、その荘厳さのあまり本宮と勘違いして代参を終えてしまったというエピソードが残っています。金刀比羅宮宝物館には、次郎長が石松に奉納させたといわれる備前国忠良の一刀が今も残っているそうです。
 しかし、石松は、清水への帰路、近江草津の御幸山鎌太郎親分から先年病死した次郎長の妻への香典として預かった25両を狙われ、遠州浜松の都鳥吉兵衛三兄弟に閻魔堂で殺害されてしまいます。

 江戸時代後期になると、金毘羅信仰が庶民の間にも広がり、金毘羅様に参拝しようという人は全国からやって来ました。しかし、中には旅の途中で疲労や病気で倒れ、旅の継続を断念して地元に帰るような人たちも大勢いました。そこで、当人に代わり参拝する仕組みができていきました。一般に行われたやり方は、同じ目的地に行く別の人に旅費と初穂料を渡し、自分の代わりにお参りして欲しいと依頼することでした。これが代参で、代わりに参拝する人を代参人といいました。その頼まれた人が倒れるとまた別の人に託して、次々とリレーされていきました。
 この代参の方法は、森の石松のように人間による代参が普通でしたが、犬の代参、流し樽の代参、流し木の代参というような変わった方法もありました。

 犬の代参は、人の代わりに犬の首に旅費と初穂料をくくりつけて、自分の代理として参拝させるという方法です。犬が主人の代わりに首に往復の費用とお供えのお金などと住所氏名をかけて行くと、人がリレーで運んでくれるというものです。この犬が「代参犬」で、「こんぴら狗(いぬ)」と呼ばれていました。
 流し樽は、瀬戸内を航行する船が金毘羅様にお参りしたいけれども上陸できないときに行われた代参の方法です。船が讃岐の沖を通過するときに、樽に「奉納金比羅大権現」という幟(ノボリ)を立て、船の名前と航海安全を祈る祈祷文、そして初穂料を入れた樽を海に流します。すると、海でそれを発見した船は「福がある」として代わりに金毘羅さんまで必ず届けてくれ、また、岸に流れ着いた樽は地元の人が拾って神社に届けてくれました。
 流し木は、自分の名前を記した材木を流してリレーで金毘羅さんまで届けてもらうという方法です。

 このような”金毘羅代参”は、見知らぬ人に対する信頼がなければとても成り立たない仕組みであり、現在では到底考えられないことです。金毘羅信仰が漁民や航海関係者の間に深く浸透していたということの証左でしょう
 現在、犬の代参と流し木は全く無くなったようですが、流し樽は年数件が金毘羅宮に届けられるようです。

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(111)“与謝蕪村、小林一茶も訪れた讃岐路”

 江戸時代後期の18世紀半ばから19世紀半ばまでの約100年間は、「化政文化」が花開いた時代といわれています。「化政」というのは、この期間の中心であった文化年間(1804-18)と文政年間(1818-30)から1字ずつとって名づけられたものです。化政文化の特色は、江戸の町の経済的発展にともない町人文化が最盛期を迎え、都市の繁栄、交通の整備、寺社参詣の流行、教育・出版の普及、商品流通の発達などにより、中央と地方との文化交流が進み、中央文化が地方に波及して、文化の内容も多種多様化したことといわれています。
 讃岐にも化政文化を代表する江戸、京、大坂などの文人や画家が多く訪れ作品を残しています。また、讃岐に来ていなくても、讃岐を舞台とする作品を残しています。主なその人物を列挙すると、次のとおりです。(括弧内は生没年)
 与謝蕪村     (享保元年(1716)-天明3年(1784))
 円山応挙     (享保18年(1733)-寛政7年(1795))
 上田秋成     (享保19年(1734)-文化6年(1809))
 小林一茶     (宝暦13年(1763)-文政10年(1828))
 十返舎一九    (明和2年(1765)-天保2年(1831))
 滝沢馬琴(曲亭馬琴) (明和4年(1767)-嘉永元年(1848))
 歌川広重(安藤広重) (寛政9年(1797)-安政5年(1858))
 このうち、与謝蕪村小林一茶十返舎一九、歌川(安藤)広重は実際に讃岐に来ており、円山応挙については讃岐に来たかどうかについて諸説があるようです。上田秋成と滝沢(曲亭)馬琴は讃岐に来ていませんが、讃岐を舞台にした物語を書いています。
 讃岐の中でも彼らが題材として採り上げた地で多いのはやはり金毘羅さんです。その他では白峯の崇徳上皇と観音寺の琴弾八幡宮が題材とされています。

 与謝蕪村は、江戸俳諧の巨匠の一人で、写実的で絵画的な発句を得意とし、また俳画の創始者で、池大雅とともに日本南画の先覚者といわれています。
 京都に住んでいた与謝蕪村が初めて讃岐を訪れたのは、宝暦12、13年(1762~3)頃だといわれていますが、明和3年(1766)の春頃、51歳のときにもやって来て、夏の6月にいったん京に帰り、この年の冬、再び讃岐に戻っています。
 その経路は、阿波から讃岐に入り、引田・白鳥・三本松・長尾を通って、高松城下に入ってきたと考えられています。高松城下では、豪商の三倉屋方でしばらく旅宿りをしています。しかし、他国者の長逗留は御法度に触れるため、遠慮して城下はずれの別荘に移ったといい、ここで、「 水鳥や 礫にかはる 居り所 」の句を残しています。そして、「 炬燵(こたつ)出て 早あしもとの 野河(のがは)かな 」の句を残して香東川の渡し場を渡り、丸亀に向かっています。
 一泊二日の旅をして丸亀城下に入ったときは、乞食のような姿で、妙法寺(みょうほうじ)の門前に立っていたと伝えられています。丸亀城下から目的地の金毘羅に向かい、土地の俳人らに歓迎されます。そこでは、造酒屋(つくりさかや)主人の金川屋左平太の宅を寓居とし、その世話を受けて金毘羅で年越しをしています。金川屋左平太は俳人でもあり、その号を菅暮牛(かんぼぎゅう)と称していました。蕪村はこのとき「 象の眼に 笑ひかけたり 山桜 」の句を残しています。
 明和4年(1767)の春3月、再び京に帰りますが、蕪村はよほど讃岐での生活が気に入ったのか、その年の秋、また讃岐に戻っています。このときも暮牛の家に滞在して金毘羅で年越しをし、翌年の4月23日、丸亀湊から京に帰っています。
 このような明和3年の春から明和5年の春までの2年間は蕪村の讃岐時代といわれており、絵筆の旅の仕上げのときであったといわれています。丸亀の妙法寺は蕪村寺ともいわれており、今も蕪村が描いた「蘇鉄図(そてつず)」などが残っています。

 円山応挙は、京都に住み、遠近法を取り入れた立体感のある作品を描き、近代日本画の基礎を築いた画家といわれています。金毘羅宮の表書院の襖(ふすま)に虎の図や鶴の図・山水の図・滝の図・七賢之図などを描いています。しかし、実際に讃岐に来たかどうかについては説が分かれているようです。

 上田秋成は、歴史や伝説を素材とした伝奇読本を現しました。讃岐には来ていませんが、その著書の一つ「雨月物語」の中で、讃岐の白峯を舞台にした崇徳上皇と西行の物語を書いています。

 小林一茶は信濃柏原の人で、農村の生活感情を詠んだ句を残したことでよく知られています。一茶は、寛政4年(1792)3月、郷里の信濃を出発して諸国を遊歴しながら、その年の夏過ぎに讃岐に来ています。讃岐では豊田郡下市浦(現在の観音寺市)にある専念寺の性誉和尚(せいよおしょう)を訪ね、ここでしばらく滞在します。性誉和尚は俳号を五梅(ごばい)といい、その師は一茶と同じく竹阿門でした。観音寺は室町時代に山崎宗鑑ゆかりの一夜庵があり、俳句が盛んな地でした。一茶は観音寺から伊予に入り、さらに九州に渡っています。
 寛政6年(1794)、一茶は再び讃岐を訪れ、翌年の3月まで専念寺に滞在しています。そのときは、金毘羅や高松、小豆島まで足をのばしています。
 寛政6年(1794)4月11日、金毘羅参詣をしたとき、その出立に際して、「 御ひらひら 蝶も金毘羅 詣りかな 」の句を詠んでいます。また、寛政7年(1795)正月、専念寺で、「 元旦や さらに旅宿と おもほへず 」の句を詠んでいます。

 東海道中膝栗毛でよく知られている十返舎一九も、いつの頃か定かでありませんが、若い頃讃岐に来て、金毘羅参詣をしています。一九はこの体験をもとにして、文化年間に「金毘羅参詣膝膝栗毛」と「方言修業(むだしゅぎょう) 金草鞋(かねのわらじ)」を著しています。金毘羅参詣続膝栗毛の初編序の冒頭にも「予、若年の頃、摂陽浪速にありし時、一とせ高知に所用ありて下りし船の序(ついで)に、象頭山に参詣し、善通寺、弥谷(いやだに)を遊歴したりしが、秀異勝景の地多くして、その感情、今に想像するに堪えず。」と記しています。
 金毘羅参詣続膝栗毛は、好評を博した「東海道中膝栗毛」の弥次郎兵衛・喜多八(この本では北八)のコンビによる金毘羅詣の話で、相変わらずすべてのことを笑いとばすこの二人の滑稽譚がエネルギッシュに語られています。方言修業金草鞋は、狂歌師鼻毛の延高、千久良(ちくら)坊の二人が主人公で、日本全国を巡り歩く形となっており、その中に讃州金毘羅が描かれています。

 「南総里見八犬伝」で有名な戯作者滝沢馬琴(曲亭馬琴)も、讃岐には来ていませんが、讃岐を舞台にした読本(よみほん)を何点か残しています。
 一つは「椿説弓張月(ちんせつゆみはりづき)」です。この物語は、崇徳上皇とともに保元の乱(ほうげんのらん)に敗れ、伊豆大島に流罪になった源為朝が琉球に渡り、危機に立つ王女を助けて賊軍を平定し、琉球王国を再建するという勧善懲悪の伝奇ものです。この中で、馬琴は源為朝が讃岐の白峯に赴き、かつての臣として崇徳院と対面する場面を描いています。また、観音寺の琴弾の宮で、為朝の妻白縫が夫の仇討ちをする場面を描いています。
 馬琴は「西遊記」をアレンジした「金毘羅船利生纜」(こんぴらぶねりしょうのともずな)という物語も書いています。金毘羅に向かう船中、旅人が同乗客に金毘羅の本地を語り始めるという設定で、火の神・軻偶突智(かぐつち)が、生まれた時にその火で母を死なせたため、父の伊弉冊(いざなぎ)に斬られ、その血が固まって二つの石となったのを父が遠くへ投げ打ったところ、一つが讃岐の国象頭山となり、もう一つが辺无量国(へんむりょうこく)の方便山に落ち、その山の石が、数万年後おのずから裂けて石折神(いわさきしん)となり、これが天狗を従えて乱暴狼籍の限りを尽くすので釈迦如来が大磐石を載せて懲らしめる、という奇想天外なストーリーです。
 また、歌舞伎や浄瑠璃でも有名な田宮坊太郎の仇討ちの話「金毘羅利生記」を、舞台を足利幕府の頃に置き換え、幼い坊太郎が剣術を磨きに瀬戸の海を渡るのを、象頭山の天狗が助けるという筋立てで書いています。
 馬琴は高松藩江戸家老の木村黙老(もくろう)と懇意だったことから、黙老を通じて讃岐の歴史や文化についてよく知っていたのかもしれません。

 浮世絵の「東海道五十三次」でよく知られている安藤広重(歌川広重)も、時期は不明ですが、讃岐に来て金毘羅参詣をしています。「六十余州名所図会」というシリーズ物の一枚として、象頭山を金毘羅街道より遠望した風景を描いています。なお、二代安藤広重は鼠島という小さい島を描いています。この島は子供の神様で知られる津島神社のある島です。

 江戸後期、化政文化を牽引した文化人にとって、金毘羅さんは興味のある題材だったのでしょう。なお、このほかにも、金毘羅参詣のため讃岐には多くの著名人も訪れています。
 例えば、雷電為右衛門は、寛政6年(1794)に多度津湊に上陸したらしく、元金毘羅多度津街道の鶴橋付近にあり現在は桃陵公園の登り口に移されている大鳥居の奉納者の中にその名前が見られるといいます。また、農政家として知られる二宮金次郎は文化7年に、「日本外史」を著した頼山陽は文化12年に、適塾を開いた医学者・緒方洪庵は文久2年(1862)にそれぞれ金毘羅を訪れています。

 また、化政文化の裾野は、文人や画家などの文化人だけでなく、町人など一般庶民にも広がり、今日の観光ガイドブックともいえるいわゆる名所図会が多く出版されています。金毘羅についても、弘化4年(1847)に、浪花の代表的な人気作家である暁鐘成(あかつきのかねなり・寛政5年(1793)~万延元年(1860))が、「金毘羅参詣名所図絵」を名所図会シリーズ第二作目として著しています。これは地誌としての色合いの濃いもので、地名、名所旧跡の説明も細かく、絵も精緻に描かれています。
 金毘羅には、森の石松が清水次郎長の名代で金毘羅参りをして刀を納めたという浪曲があります。江戸後期、金毘羅さんは町人や農民など一般庶民向けの芸能の題材にもなっていたということでしょう。ちなみに、「江戸っ子だってねぇ」「神田の生まれよ」と石松が江戸の商人と交わした会話のくだりは、金毘羅参りの帰り、大阪・八軒屋から伏見へ渡す船の中での場面です。
 「金毘羅船々 追手に帆かけて シュラ シュシュシュ 回れば四国は 讃州那珂之  郡 象頭山 金毘羅大権現 一度回れ・・・・・」という民謡は、江戸後期より大繁盛をみせた金毘羅船による参詣のにぎわいぶりをよく示しています。

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(99)“今も歌舞伎が公演されているわが国最古の芝居小屋”

 金毘羅さんで有名な琴平町には、金丸座と通称されている国指定重要文化財の芝居小屋「旧金毘羅大芝居」があります。現存する芝居小屋としては日本最古のものです。ここでは、昭和60年から「四国こんぴら歌舞伎大芝居」が復活し、四国路の春を告げる代表的な風物詩の一つになっています。

 江戸時代より、金毘羅参りは、お伊勢参りと並ぶ庶民信仰として全国に普及していきます。それに伴い、金毘羅さんの麓は参拝客をあてこんだ旅籠(旅館)、土産店や茶屋が建ちならび、門前町として発展していきます。とくに茶屋は文政9年(1826)には96軒もあり、酌取(しゃくとり)女と呼ばれていた芸者や遊女が大勢働いていました。また、旅先での開放感に浸る参拝客に娯楽を提供する商売も行われ、市の開催や芝居、相撲、操り人形などの興行が行われました。
 娯楽の最たるものが芝居見物でした。初めの頃は、仮小屋をその都度建てて興行が行われていたようですが、費用もかかるので、富くじ(宝くじ)の開札場(抽選会場)を兼ねた常小屋が金山寺(きんざん)町に建てられることになりました。これが金毘羅大芝居で、当時、大阪道頓堀の大西座(浪花座)をモデルに、千両をかけて建てられたといわれています。その規模は江戸、大阪、京都の大都市の芝居小屋に匹敵するものでした。この建築費用千両は、門前町の酌取女の花代をピンはねして積み立てた約2万両のうちから出費されたものだそうです。
 天保6年(1835)、金毘羅大芝居は完成し、こけら落としが行われました。この小屋には、尾上菊五郎、中村歌六、市川鰕(えび)十郎らの千両役者といわれる名優たちがこぞって桧舞台を踏んだといいます。

 明治以降、金毘羅大芝居は金丸座という名で政談演説会場や映画館として使用されました。戦後は映画もテレビの普及に押され、やがて廃館となり、長い間荒廃していました。建物の傷みは厳しく、瓦は落ち、壁は崩れ、落下寸前のところまで朽廃していました。
 そうした中、昭和30年頃より、日本最古の芝居小屋として後世に残すべきだという運動が始まり、昭和45年に国の重要文化財に指定されます。それは芝居小屋としては初めてのものでした。これを契機として、昭和47年から2億数千万円の費用をかけて移築復元工事が行われ、昭和51年4月27日、現在の地に天保時代そのままの姿を現しました。
 昭和59年7月、歌舞伎俳優の中村吉右衛門、澤村藤十郎、中村勘九郎が琴平町を訪れ、旧金毘羅大芝居を見学します。これが歌舞伎興行復活の動きとなっていき、昭和60年6月、「第1回四国こんぴら歌舞伎大芝居」として琴平の町での歌舞伎興行が復活しました。
 旧金毘羅大芝居は、江戸時代そのままの芝居小屋なので、ここでの公演は電気も機械も使わず、回り舞台、せり、すっぽんは全て人力で操作し、照明も自然光のみで明かり窓の開閉によって行います。ここでは、小屋の木戸をくぐり、“お茶子さん”の案内で桝席(ますせき)に座り、千両役者の舞台を見るという江戸時代さながらの風景が見られます。


 参考記事
(10)“江戸町民塩原太助らが寄進した丸亀湊の灯籠
(21)“こんぴらさんはガンジス川のワニ
(34)“高杉晋作をかくまった侠客の勤皇志士
(35)“やじさんも、きたさんも参詣した金毘羅”・“金毘羅参詣続膝栗毛
(65)“地場産業となった武士の内職
(88)“歌舞伎や映画にもなった讃岐を舞台にした仇討ち物語
(89)“日本最初の「洋画家」のコレクションがある金刀比羅宮

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(52)“最初は88ヶ所以上あった四国霊場”

大窪寺
 
 四国霊場八十八ヶ所巡りは、お寺を一つ一つ詣ることで、巡礼者は自分の迷いを解き、身も心も清らかにして八十八の煩悩を取り除き、悟りを開いていくことができるといわれており、四国が誇る偉大な文化です。わが国では、昔から島めぐり・国めぐりという習俗があって、各地で巡礼が行われていました。とくに四国は、弘法大師空海が青年時代に山や海辺に修行を求め霊場を開いた遺蹟が多く、その伝説とあいまって、平安末期頃から真言宗の僧侶たちによって空海修行の足跡を聖地として巡礼する遍路が生まれました。平安時代末期に編まれた歌謡集「梁塵秘抄(りょうじんひしょう)」にも修行僧たちが四国の辺地を巡り歩いていたさまが記されています。鎌倉時代になると弘法大師信仰が急速に広まり、その徳を慕い、修行地を巡る僧が多くなっていきました。

 弘法大師信仰の普及に大きな役割を果たしたものの一つが、高野(こうや)聖(ひじり)の活動です。彼らは空海が開いた高野山を拠点に全国を廻り、庶民に“お大師さん”信仰を広めて回りました。高野聖は、高野山における僧侶の中でも最下層に位置付けられた者で、自分の寺や弟子を持たず、托鉢や行商などで生活をしていたといわれています。四国は、空海が誕生し修行を行った地で大師信仰を受け入れる要素が強く、また高野山から適度の距離にあり、さらに比較的気候温暖で人情も厚いことから、彼らが”生活の場”として生きていける素地があったと思われます。

 戦乱の世も終わり、江戸時代になると庶民の間にも霊場巡りが広まっていきました。しかし、江戸時代の初めごろまではどこから回るか決まっておらず、札所数も90カ所、あるいは100カ所以上もあったといいます。それを現在のように八十八カ所の形を整えたのは、17世紀後半の江戸時代に活躍した真念という僧の献身的な働きがあったからだといわれています。

 真念は大坂西浜町寺島に住む高野聖だったらしく、土佐の出身らしいというだけで生まれた年は不詳です。自ら四国を20回以上回り、遍路そのものを人生とし、その生涯のほとんどを山野での修行に費やしたようです。その間、遍路道に200基以上もの道標石を立て、また遍路宿を開いています。これらは現在のように車もなく道も整っていない時代、お遍路さんの大きな助けとなりました。

 その最も大きな業績は、「四国(しこく)遍路(へんろ)道(みち)指南(しるべ)」(1687年)、「四国(しこく)遍路(へんろ)霊場記(れいじょうき)」(1689年)、「四国(しこく)遍路(へんろ)功徳記(くどくき)」(1690年)という3部作を著し、初めてにして完璧なまでのガイドブックを作ったことです。自らの足で巡る中で、札所数や順番さえ定まっていなかったものを八十八カ所に整理し、順番を決めていきました。四国遍路道は阿波鳴門の霊山寺が一番札所で、そこから右回りに四国を一周し、88番目の結願寺が讃岐の大窪寺となっていますが、これは、上方から船で四国へ行くとすれば阿波の鳴門が最も近い所になるという交通の便のうえから決められたものと思われます。

 札所までの道順や寺の説明など、当時としては決定版といえるこれらの本は爆発的な売れゆきをみせ、四国遍路を一般大衆にまで広めるとともに、版を重ねて明治時代にまで続く超ロングセラーになりました。真念の書を越えるものが現れなかったのは、真念以上に四国遍路に情熱を注いだ者がいなかったからでしょう。そういう意味で、真念は四国遍路の父ともいえる人物です。本が売れて有名になっても、真念の生き方は変わらず、本の売上金はお寺の修繕などに充てたそうです。1693年(元禄6年)6月23日、志度寺近くの地で亡くなりました。四国遍路に一生をささげた人生でした。 




 

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(35)“やじさんも、きたさんも参詣した金毘羅”

 十返舎一九は“やじ・きた道中”の物語で知られている「東海道中膝栗毛」の作者です。彼は、駿河国の同心の子として、今から約240年前の明和2年(1765年)年に生まれ、本名を重田貞一といいます。父のあとを継いで奉行所に勤めますが、以前から作家を志望しており、転勤で大阪に赴任したときには、役人を続けながら、近松門左衛門の門下に入り近松与七の名で浄瑠璃本を書きあげたりしています。しかし、作家と武士の両立はできないと考え、武士を辞めて作家業に専念します。

 その後江戸に出て、度々の東海道の往復で資料を蓄積して書きあげた「東海道中膝栗毛」が大ヒットして滑稽本作家の地位を確立します。滑稽本というのは宝暦年間(1751~1763年)以後江戸で生まれた新しい小説で、滑稽の中に風刺や教化を盛り込んだ本として書かれたものです。一九が執筆した「膝栗毛」は、人物の会話を中心として描いていて当時としては新趣向といえる代物でした。

 一九は、大坂にいた頃、金毘羅にも参詣しており、善通寺弥谷にも遊歴しています。そのときの印象を、「秀異勝景の地多くして、その感情今に想像するに堪えず。」と後に記しています。「東海道中膝栗毛」を書き上げた後、彼は版元から金毘羅参詣の体験をネタに東海道中の続編を書くよう勧められます。彼は讃岐の方言や風俗に疎いということでいったんは固辞しますが、再三の勧めに抗しきれず、ついに東海道やじ・きた道中の続編を「金毘羅参詣続膝栗毛(こんぴらさんけいぞくひざくりげ)」として執筆します。

 弥次郎兵衛と喜多八(金毘羅参詣続膝栗毛では「北八」と書かれています。)は、大坂で東海道中の旅を終え江戸へ帰るはずでしたが、ひょんなことから金毘羅を目指すことになります。大坂から金毘羅船に乗り込み、海路丸亀湊に渡ります。この湊は遠浅のため満ち潮になるまで沖に船を留めておかねければならないという「難渋」(なんじゅう)があったと書かれています。

 丸亀の「町屋は浜辺に沿いて建て続き、旅籠屋なども多く、いずれも家居きらびやかなり」で、弥次郎と北八は「大物屋(だいもつや)」という旅籠屋に泊まります。ここでは、軽快な両人の江戸弁と、船頭や女中の間延びした讃岐弁との掛け合いがユーモラスに描かれています。また、素焼き瓶の風呂や土地の料理が興味深く書かれています。

 二人は丸亀から街道を南に行き、「餘木田」(今の与北)の郷を経て、榎井村の茶屋で一服します。ここでは大坂からの参詣客と出会い、江戸弁と大阪弁との掛け合いが描かれています。榎井村は「旅籠屋茶屋など多き所」と書かれています。そこから金毘羅の町に行き、鞘橋が「上を覆う屋形の鞘におさまれる御代の刀のような反橋」と書かれています。

 それから本宮に登ります。「その荘厳いと尊く、拝殿は檜皮葺(ひはだぶき)にしていかめしく、花麗殊にいわんかたなし。」「この御山より海上の島々浦々郷々一望の中に見わたされて風景いうも更なり。」と記しています。

 本宮から下る途中、弥次郎と北八は若衆髷をした若い色白の女と60頃の親父の連れに出会います。二人は大坂からの参詣客で、四人の間で交わされる江戸弁と大阪弁の応酬やその仕草がコミカルに描かれています。

 金毘羅からの帰路、四人は善通寺に立ち寄ります。「本堂は薬師如来四国遍路の札所なり。」と記されています。ここでも茶屋で一服した後、曼陀羅寺に参ってから弥谷寺に参るため弥谷山の麓まで行きます。しかし、「曼陀羅寺より殊に険難の山坂を歴(へ)て来たるなれば各々足も疲れ、そのうえ小雨の降り出したるに、多度津の方へはまだ程遠きよし」ため、この麓の茶屋で止宿します。

 この茶屋での止宿の場面がこの物語のクライマックスでしょう。弥次郎と北八が金毘羅から同道している若衆髷をした若い色白の女に夜這いをかけるのですが、女だとばっかり思っていたところ、じつは男で、誤解が誤解を招き四人が絡み合ったドタバタの大騒ぎになります。

 次の日、弥次郎と北八の二人は、「弥谷寺の仁王門より石段を登り、本堂に参り、奥の院求聞持(ぐもんじ)の岩屋というに、一人前十二文づつ出して、開帳を拝み、この峠うち越えて、屏風ヶ浦というに降り立つ。」「それより弘法大師の誕生し給うという垂迹(すいじゃく)の御堂を過ぎて十四津橋(とよつばし)を渡り、行き行きて多度津の御城下に至る。」 多度津では、北八が虫歯の痛みで苦しみ、怪しげな薬屋に入ってとんだ目に遭います。
 そして、ほうほうのていで丸亀の大物屋に辿りつきます。

 なお、十返舎一九は天保2年(1831年)67歳で亡くなります。



 詳しくは「金毘羅参詣続膝栗毛」をお読みください。

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(34)“高杉晋作をかくまった侠客の勤皇志士”


 幕末の風雲児高杉晋作(たかすぎ しんさく)は、長州藩の人間で、奇兵隊をつくったこと有名です。晋作は琴平の街に一時潜伏していたことがあります。
 この物語は、司馬遼太郎が小説の素材としてとりあげており、「世に棲む日日」の中に讃岐の勤王家として日柳燕石(くさなぎえんせき)が登場しています。

 日柳燕石は、文化14年(1817年)、金毘羅の隣の榎井村で生まれました。当時榎井は幕府直轄地の天領で、豪商・豪農が軒を並べ、その財力は金毘羅をしのぎ、文化程度も高かったといいます。燕石の実家も加島家という豪農でした。このような環境の下で育った燕石は、幼いときから儒学の勉強に励み、14歳頃までには「四書・五経(ししょごきょうを)」を読破していたといいます。また詩文に天賦の才を持っていたといいます。
 しかし、豪農の跡取り息子にもかかわらず、持ち前の正義感と侠気(きょうき)から、燕石は、19歳の頃、一揆に巻き込まれて投獄されます。この頃から彼は詩作に没頭する一方で、遊郭で酒と博奕に耽る自由奔放な生活を始めます。持って生まれた度胸と金ばなれの良さ、人間的魅力もあっていつしか親分と立てられるようになります。彼が生涯に囲った妻妾(さいしょう)は十数人に及び、詩の中でも「妻妾は新詩の如し いよいよ新なれば いよいよ奇なり 朋友は古画の如くいよいよ旧(ふる)ければいよいよ宜(よろ)し」と詠じ、「畳と女房は新しいものほどよい」というようなことを言っております。
 燕石が勤皇を志したのは35歳の頃だといわれています。金毘羅の街には、江戸、上方をはじめ全国各地から参詣客が訪れてくるため、当時最先端の情報が集まっていたものと思われます。また彼は長崎を訪ねて海外事情にも触れて時代の動向に目覚めていきます。こうした中、彼は勤皇の志士とも交友し、久坂玄瑞(くさかげんずい)や吉田松陰(よしだしょういん)など長州藩の志士にも名が知られるようになっていきました。
 燕石が自分の居宅に付けた「呑象楼(どんぞうろう)」という名は、盃に映った象頭山を飲み干すという意味で、豪快な彼の意気を感じることができます。長州の桂小五郎(後の木戸孝允)もここを訪れ、燕石は桂の勤皇思想に共鳴して援助を惜しまなかったといわれています。

 元治元年(1864)7月の蛤御門の変により、攘夷派の長州藩は、京都を追われます。さらに幕府は長州藩を朝敵として、第一次長州征伐を行います。また、アメリカなどの四国艦隊が長州藩の下関砲台を占拠します。このような情勢下、長州藩内では幕府に恭順する俗論派が台頭し、正義派三家老が自刃します。しかし、高杉晋作らが奇兵隊を組織して下関の功山寺で挙兵し、俗論派を排斥して翌年の慶応元年(1865)2月に尊王倒幕派が藩政を再び握ります。
 この年の3月、晋作は、イギリスへの密航を企て、伊藤俊輔(のちの博文)と長崎へ行き、イギリス商人グラバーにその計画を相談します。27歳のときです。ところが、グラバーより説得されて洋行を中止し、4月には下関に戻り、開港を推し進めようとします。しかし、下関が支藩である長府藩の領内であることから、この計画は下関を長州藩の管轄にすることになるため、晋作は長府藩士および攘夷主義者から命を狙われます。この難を避けるため、晋作は琴平の日柳燕石(くさなぎえんせき)を頼って瀬戸内海を渡ります。
 晋作が燕石を頼って讃岐に来たのは、この年の5月のことです。下関の芸妓で愛人の「おうの」を連れだって来て、金毘羅の金山寺町(きんさんじ)にかくまわれます。このとき晋作は丸亀の村岡家に一時逗留し、長州藩士の井上善心、高松の勤王家太田次郎らと語り合ったといいます。
 晋作は、燕石のことを、「当所にて日柳燕石と申す奇人に出会い、議論符合し、益得ること少なからず候(そうろう)・・・、何(いず)れにしても、日柳氏一身を抛(なげ)うち潜伏させると申す位(くらい)につき、決して御懸念無用に存じ奉(たてまつり)り候」、「日柳氏は博徒の頭、子分千人ばかりもこれ有り、学問詩賦(しふ)も腐儒迂生(ふじゅううせい)の及ぶ所にこれ無く、実に関西の一大侠客に御座候」と記しています。
 閏5月3日、高松藩が晋作の捕縛にかかったさい、燕石は自分が代わりに縛に就き、晋作を逃します。虎口を脱した晋作は、象頭山を迂回して財田上の村より伊予川之江に出て、そこから舟で備後へ逃れ、6月には桂小五郎の斡旋により長州へ帰っています。

 慶応2年(1866)2月、長州藩は、桂小五郎らと共に土佐藩の坂本龍馬を仲介とした薩摩藩との軍事同盟を積年の宿敵である薩摩藩と結びます。いわゆる薩長同盟です。6月には幕府の第二次長州征伐が始まりますが、幕府は長州軍に敗退します。
 慶応3年(1867)4月14日午前2時、高杉晋作は29歳で亡くなります。大政が奉還されたのはその年の10月です。
 一方、燕石は晋作を匿った罪で高松城下鶴屋町の獄に丸3年つながれます。明治元年(1868)、明治維新政府の成立により出獄すると、長州で尼となった「おうの」に会い、病で倒れた晋作をしのんで、「故人は鬼となり、美人は尼となる、浮世は変遷、真に悲しむべし」という詩を残しています。
 その後、維新政府軍に属し、奥羽越列藩同盟軍との戦いに日誌方(記録係)として従軍します。しかし、途中病気となり、越後(新潟県)の柏崎の陣中で、8月25日に亡くなりました。享年52歳でした。

 金毘羅の草莽の志士としては、日柳燕石のほか、長谷川佐太郎(さたろう)、美馬君田(みまくんでん)らが活躍しています。
 長谷川佐太郎は榎井村の醸造家で、燕石の勤王活動を側面から経済的に支援しました。家号は新吉田屋、略して新吉と呼び、同士間では梧陽堂ともいったそうです。桂小五郎は梧陽堂の離れ座敷で潜伏していたことがあり、3畳の秘密部屋へ備前倉敷の役人が臨検したとき、据え並んでいる酒樽の中に身を潜め、辛うじて捕吏の眼から脱することができたといわれています。
 美馬君田は、元阿波美馬郡の僧侶で、還俗して勤王活動に身を挺しました。燕石とは、「燕石ある処には必ず君田あり、君田の影には常に燕石あり」と言われ、燕石とともに高杉晋作を匿い、一緒に鶴屋町の獄に繋がれました。



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(24)“西郷隆盛と入水自殺した幕末の勤皇僧”

 幕末期の尊皇攘夷派の僧侶で、薩摩の西郷隆盛と供に入水したことで知られる月照は、讃岐出身の人です。月照(げっしょう)は、文化10年(1813年)、今の善通寺市吉原町下所で生まれました。当時、叔父の蔵海が真言宗牛額寺牛額寺)の住職をしていたことからその弟子となり出家得度しました。この寺は、吉原大池の北、雨霧山の西麓にあり、讃岐一国札所五十一番とされています。

 1835年、月照は、京都の清水寺成就院の住職になります。一祈祷僧の彼が幕末の動乱に巻き込まれていったのは、成就院が島津氏と近衛家とのパイプ役を果たしており、そこで島津斉彬の下で外交的雑事に奔走していた西郷隆盛との親交が始まったようです。月照島津斉彬が急死したとき、殉死しようとする隆盛を諭しています。

 1858年8月から井伊大老による安政の大獄が始まり、京都では勤皇運動に関わったものが次々と捕縛され始め、月照も尊皇攘夷派の危険人物の一人と見なされ追われる身となりました。月照の身に危険が及ぶのを危惧した近衛忠熙は西郷にその護衛を託し、西郷は月照を薩摩に連れて行きます。

 しかし、島津斉彬の急死により、薩摩藩の方針は大きく変わっており、西郷は月照を受け入れるよう試みますが、藩内の空気は幕府から睨まれることを恐れ、月照を日向口から追放することに決まってしまいます。当時、薩摩は、“薩摩飛脚”という言葉があるように強力な鎖国政策をとっており、関を出ようとすると、近郷の郷士たちが集まってきて斬り捨てるという習慣があったと伝えられています。したがって、月照の日向口追放とは、つまり“死”を意味していました。

 死を覚悟した西郷は月照を引き連れ、一路日向に向けて鹿児島錦江湾の海に船を漕ぎ出しますが、船が湾の沖合いを過ぎた時、突然、西郷と月照は共に寒中の海に身を投げました。それが自分を信頼してくれた月照に対する西郷ができる、せめてもの義であったのでしょう。しかし、月照だけが死して、西郷は奇跡的に一命を取り留め蘇生します。月照享年46歳。西郷は30歳でした。安政5年11月16日(1858年12月20日)のことです。辞世の句は次のようなものです。
   「大君のためには何かをしからん 薩摩の追門(セト)に身は
   沈むとも」

 その後、西郷は藩の命令で奄美島へ流されます。西郷が藩へ呼び戻されたのは4年余り後のことです。

 鹿児島市の中心部から島津氏の別邸「仙厳園(磯庭園)」を過ぎて、国道10号線を国分方面に5分くらい運転すると、左手に月照を弔う史跡があります。

 京都市東山の清水寺には、月照、信海両上人の遺蹟が建っており、月照上人にまつわる忠僕茶屋と舌切茶屋があります。また鹿児島市には、南林寺に月照上人の銅像が建っており、金生町の宿泊地跡にも碑が建っております。

 月照の弟である信海も牛額寺で出家後、兄の後を受け継ぎ成就院の住職となり、勤皇に尽くしましたが、青蓮院宮のために攘夷祈願をして捕えられて江戸で獄死しました。

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(21)“こんぴらさんはガンジス川のワニ”

 大きな灯籠に守られた金刀比羅宮本宮の雰囲気は神社というよりお寺のようにも見えます。それは、もともとここが神仏混合の聖地だったことによるものです。

 今は金刀比羅宮といいますが、江戸時代は金毘羅大権現(こんぴらだいごんげん)といいました。その創始は明かでありませんが、最古の記録では、織田信長が足利義昭を追放して室町幕府が崩壊した元亀4年(1573年)に、象頭山松尾寺金毘羅堂が建てられ本尊が安置されたとされています。松尾寺は釈迦如来を御本尊とする真言宗の寺で、守護神として金毘羅が祀られました。そして松尾寺の裏山は釈迦の修行の地に名を借りて象頭山と呼ばれていました。

 金毘羅は、本来は薬師如来の十二神将の筆頭である宮比羅大将(くびらたいしょう)を指します。また般若守護十六善神の一に数えられる守護神であり、お釈迦様が修行したというヒフラ山の守護神でもあります。宮比羅大将は、サンスクリット語(梵語)でクンピーラといい、元々は、インドのガンジス川に棲む鰐(わに)が神格化されてヒンドゥー教の神となり、それが仏教に取り入れられたものだといいます。またヒフラ山はその形が象の頭に似ていることから象頭山(ぞうずさん)といわれたということです。

 松尾寺の守護神である金毘羅は、やがて、神仏混合によって金毘羅自体に神名が与えられて象頭山金毘羅大権現となったという訳です。

 クンビーラ神は元々鰐の神とされていたことから、日本神話でも鰐は海神や龍神、水神と深く関係しているように、日本に入ってくると海神や龍神に見立てられ、金毘羅は海難や雨乞いの守護神として信仰されるようになりました。また、讃岐の象頭山が瀬戸内海を航行する船の目印になったことからいつしか船の守り神とされるようになりました。

 金毘羅領は、生駒親正など歴代藩主の寄進に加え、初代高松藩主松平頼重の働きかけによって徳川家光の朱印状が出され、幕府の朱印地となります。また、東廻り西廻りの海上交通路が開かれると、塩飽船により金毘羅大権現の名が全国の津々浦々に知られるようになりました。そして、江戸中期以降になると、船乗りの守護神から広く民間信仰へと広がっていきました。

 ところが明治の初期、国家神道を成立させるべく政府が出した神仏分離令により、仏像を壊したり捨てたりするという事件が相次ぎました。廃仏毀釈と呼ばれる運動です。この時、寺の破壊を恐れた、松尾寺の別当・松尾宥暁(ゆうぎょう)は、僧職と神職を兼任できなくなったので、寺自体は廃絶させた上で祭神を仏教とは無関係の大物主神(おおものぬしのかみ)と崇徳天皇(すとくてんのう)に変更していち早く純粋な神社に模様変えしてしまいました。この奇策によりここは暴徒たちの矛先を逃れ、社号も琴平、事比羅を経て現在の金刀比羅宮となりました。

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