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(144)“大坂石山本願寺に兵糧を送った讃岐の寺”

 現在の大阪城は昭和6年に復元されたものですが、この城は周知のとおり、天正11年(1583)に豊臣秀吉によって築造が開始されたものです。その前、この地には、かつて石山本願寺という浄土真宗の寺とその寺内町がありました。浄土真宗は、鎌倉時代初期、法然の弟子の親鸞がその教え(浄土宗)を継承発展させて開いた宗派で、人はすべて阿弥陀仏の本願にすがれば極楽往生ができると説き、念仏を唱えるだけでよいという気安さから百姓たちを中心に普及していきました。
 室町時代の後期には、8世・蓮如(れんにょ)が現れ、人々が平等に教えを聴き団結できる「講」と呼ばれる組織を築き、親鸞の教えを平易に説いたことから、急速に発展・拡大して一向宗と呼ばれるようになります。さらに、この講のよる信者の団結力は、国人・土豪が加わることによって政治権力化し、一向一揆という武装蜂起につながっていきます。長享2年(1488)から約100年間続いた加賀の一向一揆はよく知られているところです。
 讃岐における最初の浄土真宗寺院は、暦応4年(1341)に創建された法蔵院で、浄土真宗の讃岐への伝搬は禅宗や法華宗に比べて遅かったといわれています。これは、讃岐は空海の生誕地ということもあり、早くから真言宗が盛んだったためのようです。戦国時代の永正年間(1504~1520)以降、讃岐では一向寺院が増えはじめ、特に天文年間(1531~55)に目立って増加します。宇多津の西光寺も、天文年間に、向専(こうせん)が本願寺10世の証如(しょうにょ)に帰依して浄土宗から浄土真宗に改めています。

 石山本願寺の起源は、明応5年(1496)、蓮如が山科本願寺の別院として大坂御坊を建立し、自らの隠居房としたことに始まります。「石山」というのは、寺のあった小高い丘の名称です。また、今は「大阪」と表記しますが、もともとは、台地にそった坂という意味から「小坂」、後に「大坂」と呼ばれました。
 天文元年(1532)、山科本願寺が戦国の争乱に巻き込まれて焼き討ちに遭ったため、10世・証如は、大坂御坊に逃れてそこを本願寺とします。この地は、淀川と旧大和川が合流するところで、その付近に渡辺津(わたなべのつ)が形成され、淀川水系や瀬戸内海の水運の拠点でした。また、住吉や堺、紀州に向かう陸上交通の起点でもありました。本願寺が置かれると次第に商工民などが集まり、寺内町を形成して自治を行い、また寺の周囲に堀・塀・土塁などを設けて武装を固め、戦国時代末期には城郭に匹敵する要塞と化していました。
 永禄11年(1568)9月、足利義昭を奉じて上洛した信長は、三好長慶亡き後京を支配していた三好三人衆らを駆逐すると、石山本願寺に対して、矢銭5000貫を請求し、さらに石山からの立ち退きを要求します。矢銭とは軍事後援金のことで、5000貫は米1万石に相当しました。これに対して、このとき本願寺11世の顕如(けんにょ)は矢銭の請求のみを受け入れ、他については拒否します。
 この頃の讃岐は、永禄元年(1558)に阿波の三好義賢(よしかた、のちに実休と号した。)が天霧城の香川之景を攻略して以来、阿波三好家の支配下にあり、讃岐の十河存保(まさやす)が東、阿波の篠原長房が西にそれぞれ勢力を張っていました。十河存保は三好義賢の実子で、永禄4年(1561)、叔父の十河一存(かずまさ)の死去により、十河氏を継いでいました。十河氏は、現在の高松市十川東町にあった十河城を拠点とする讃岐武士ですが、義賢の実弟の一存(かずまさ)が阿波三好家から養子に入り、阿波三好勢力の讃岐における橋頭堡となっていました。十河一存は鬼十河とその勇猛さを称えられた武将です。篠原長房は阿波三好家の重臣で、永禄5年(1562)の三好義賢の死去によりその後を継いだ長治(ながはる)の補佐をしていました。

 元亀元年(1570)6月、織田信長は、姉川の戦いで浅井・朝倉氏を破り、北近江を支配するとともに、岐阜から京都への通路を完全に確保します。しかし、7月、京から阿波へ追われていた三好三人衆が、信長に反撃するため摂津に上陸して陣を敷きます。このとき十河存保は三好勢として堺に布陣し、香川・安富・奈良・香西・寒川らの讃岐武士も阿波の篠原長房に率いられて出陣しています。こうした中、9月、顕如は三好勢を攻略するために摂津福島に陣を敷いていた織田軍を突如攻撃します。これが、天正8年(1580)までの11年間に及ぶ石山戦争の始まりでした。そして、顕如は「信長は本願寺を取り潰す仏敵である」として各地の本願寺門徒に檄を飛ばし、讃岐にも「讃岐坊主衆・門徒中」宛てに「門下の輩寸志励むにおいては仏法興隆たるべく候」と奮起を促しています。
 元亀3年(1572)3月、織田信長と石山本願寺との間で一応の和議が結ばれますが、翌年の天正元年(1573)4月、本願寺は再び蜂起します。これに呼応して讃岐の一向宗寺院も活発な動きをみせ、宇多津の西光寺は、石山本願寺へ、青銅700貫・米50石・大麦小麦10石2斗の軍資金と兵糧を送っています。この頃、西光寺は織田信長に対抗する一向宗門徒勢力の讃岐における中心で、住職・向専とその子の専念は石山本願寺に味方していました。西光寺は城郭造りで、土塀には今も“狭間”(さま)という弓、鉄砲を射掛ける三角形の銃口が見られます。
 天正元年(1573)11月には、三好長慶のあとの三好宗家を継いだ義継が織田軍に攻められて滅びます。また、その翌年には、上洛途上の武田信玄が没し、信長が15代将軍足利義昭を京から追放して室町幕府が事実上崩壊します。
 この年の7月、阿波で、篠原長房が讒言を受けて主家の三好長治に誅殺されると、香西・香川・寒川らの讃岐国人は阿波三好氏から離反し、独自の道を歩み始めます。これに対して、長治は、香西、香川、寒川氏を討とうとさかんに讃岐出兵を行います。しかし、天正3年(1575)に土佐の長宗我部元親の阿波侵攻が始まり、讃岐における三好の勢力も衰退していきます。ちなみに、この年の5月には、織田信長が長篠の戦いで武田勝頼を破っています。

 天正4年(1576)5月、四天王寺で戦いに敗れた石山本願寺は、織田軍による経済封鎖によって兵糧の調達が困難を極め、安芸の毛利輝元に援助を要請します。これを受けた輝元は兵糧搬入のため700~800艘からなる水軍を大坂へ送り込み、7月13日、毛利水軍・村上水軍を中心とする瀬戸内の水軍戦力と、これを阻止しようとする織田方の水軍戦力が大阪湾の木津川の河口で激突します。これを第一次木津川口の戦いといいます。この戦闘では毛利水軍・村上水軍の使用する焙烙玉(ほうろくだま)、雑賀集の使用する焙烙火矢(ほうろくひや)の前に織田方の水軍は壊滅的な打撃を受け、毛利方は石山本願寺に兵糧を運び入れることに成功します。
 讃岐でも、この年の8月、石山本願寺から、宇多津の西光寺や香川郡安原村安養寺などに対して救援の依頼が届きます。しかし、この頃、すでに讃岐の有力国人・香川之景と香西佳清は織田信長に臣従し、之景は名を信景と改め、三好存保も信長に降伏していました。また、翌年の天正5年(1577)3月、信長は、塩飽船に朱印状を出して堺の港を出入りする航行の自由を保証することにより、塩飽をその支配下に組み込み、東瀬戸内海の制海権を掌握しました。このため、讃岐国内寺院から石山本願寺への輸送路が絶たれました。
 なお、この年の7月には、安芸の毛利氏が讃岐の元吉城に入り、讃岐惣国衆の長尾・羽床衆らと合戦に及んでいます。これを元吉合戦といいますが、一説では、本願寺支援のための制海権奪回のための侵攻だったと考えられています。その場所についは、琴平町と善通寺市にまたがる櫛梨山であるとするものなど諸説があります。

 第一次木津川口の戦いに敗れた織田信長は、毛利水軍・村上水軍の使用する焙烙玉や雑賀集の使用する焙烙火矢に対抗するため、九鬼嘉隆(くきよしたか)に命じて大筒・大鉄砲を装備し焙烙が効かない鉄甲船6隻を造らせます。天正6年(1578)6月、九鬼嘉隆が指揮する織田水軍は、石山本願寺支援のため大阪湾に入った毛利水軍・村上水軍と木津川口で海戦となります。これが第二次木津川口の戦いです。この海戦では、織田軍の鉄甲船が毛利水軍・村上水軍を撃破して大阪湾の制海権を握り、本願寺を孤立させます。
 讃岐では、この年の夏、土佐の長宗我部元親の侵攻が始まり、藤目城・財田城が落ちています。翌年の天正7年(1579)には、天霧城の香川信景が長宗我部元親に下ります。
 第二次木津川口の戦いにより、石山本願寺に対する勝利を確信した織田信長は、朝廷に働きかけて石山本願寺との講和を策します。顕如も食料の欠乏に加え、反信長包囲網が事実上壊滅したこともあって、朝廷の斡旋により和議を受け入れます。こうして天正8年(1580)4月9日、ついに顕如は石山本願寺を退去して紀州の雑賀に落ちていき、石山合戦はここに終結します。
 しかし、顕如の長男である教如(きょうにょ)は石山本願寺から退去せず、父の顕如が説得しても効果がありませんでした。このため、顕如は教如を勘当して教如の弟の准如(じゅんにょ)を嫡子と定めます。これが後の東と西の両本願寺分立のきっかけとなります。

 石山合戦に勝利したものの、織田信長は、天正10年(1582)6月2日、本能寺の変により自害に追い込まれます。その後、羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)が天下を掌握する間に、長宗我部元親は四国制圧を進め、天正13年(1585)春に四国統一を果たします。しかし、その年の6月、秀吉は四国侵攻を開始し、元親は秀吉に下り土佐一国に押し込められます。

 天正19年(1591)、顕如は、秀吉から京都七条堀川に土地を与えられ、本願寺を再興します。しかし、慶長7年(1602)、顕如の長男である教如が、家康から本願寺のすぐ東の七条烏丸に土地を与えられ東本願寺を構えます。これは、石山退去時の見解の相違等をめぐる教団内部の対立に、徳川家康が乗じたものだといわれています。
 以後、本願寺は、顕如の三男准如を12世宗主とする西(現在の浄土真宗本願寺派、真宗興正派など)と、長男教如を12世宗主とする東(現在の真宗大谷派など)とに分裂し、現在に至っています。

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テーマ : 香川
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(134)“江戸時代初めに流行したパンクヘアのルーツは鬼十河”

 江戸時代、三代将軍徳川家光の頃、旗本小普請組の二男・三男の若者たちに、「十河額」という髪型が流行しました。それは前額から頭の中央にかけて月代(さかやき)を四角に大きく剃り込むもので、戦国時代の武将である十河一存(そごうかずまさ)がそのようなヘアスタイルしていました。十河一存は、「鬼十河」といわれた讃岐の猛将で、当時の若者たちがその武勇にあやかろうと真似をし始めたといわれています。
 徳川幕府も、三代将軍徳川家光の時代になると、戦乱も収束して安定期に入り、封建体制の確立により身分秩序も固定化されます。そして、武士の仕事も戦から幕府や藩を運営する行政的な事務に移っていき、武勇は無用の長物となっていきます。そうなると、下層武士の中でも特に家督を継げない次男以下の者たちは、いくら能力があっても、またいくら努力しても将来出世できるという見込みは全く無く、不平不満を蓄積させていきました。
 こうした封建社会から閉め出された下層武士や百姓の次男・三男、流民などの中から、派手で異様な身なりをして常軌を逸する目立った行動をする者が現れてきました。自分たちの不平不満を、武力により権力にぶつけるというほどの勇気は無いけれども、世間の耳目を自分たちに向けさせることにより発散しようということでしょう。当時、彼らは「傾者(かぶきもの)」と呼ばれました。
 こうした傾者は、徳川家直属の家臣である旗本の中にも現れます。下層の小普請組に属する不平分子には、幕府の直参であることを笠に着て、徒党を組んで町衆に乱暴・狼藉を働く者がいました。彼らは「旗本奴」と呼ばれ、上っ面だけの男伊達を競い、喧嘩と博打に明け暮れ、江戸市中を我が物顔で横行しました。その首領が悪名高い水野十郎左衛門(みずのじゅうろうざえもん)です。彼ら「旗本奴」が好んだヘアスタイルが「十河額」だったといわれています。十河額は、今風でいえば、パンクヘアのようなものでしょう。
 そして「旗本奴」に対抗して争ったもう一方のアウトロー集団が「町奴(まちやっこ)」です。その親分である幡随院長兵衛(ばんずいいんちょうべえ)と水野十郎左衛門との争いは芝居の題材にも使われ、よく知られた物語です。

 十河氏は神櫛王(かんぐしおう)の末裔といわれる植田氏の支族で、南北朝時代の初め頃から現在の高松市南部の山田辺りで勢力を伸ばし始めました。そのきっかけは、貞治元年(1362)、南朝方についた細川清氏が、勢力挽回のため讃岐の三木郡白山の麓に陣を構えて兵を募ったときの出来事だといわれています。清氏の呼びかけに、讃岐の諸豪族のうち、植田三郎景保の当時18歳であった末子・十河十郎吉保がまず応じ、次いで長兄の神内次郎景辰と次兄の三谷八郎景之が加わりました。このとき、清氏が、「十河は庶子であるが、惣領の挙動だ」といって、十河氏を植田一族の惣領に定めたということです。十河氏の家紋である檜扇は、このときに清氏から授けられた檜扇によるということです。清氏が細川頼之に敗れた後、十河氏は細川京兆家の被官となります。
 十河一存(そごうかずまさ)は、天文元年(1532)に、阿波の三好元長の四男として生まれます。通称を又四郎といい、讃岐の国人・十河景滋に子供が無かったのでその養子となり、後に一存と名を改め讃岐守と称しました。織田信長が生まれたのが天文3年(1534)ですから、信長と同世代といえるでしょう。
 阿波の三好氏は、甲斐源氏・小笠原長清を始祖とし、鎌倉時代に承久の乱での功績により阿波守護となり、その後、美馬・三好郡を与えられ三好姓を名乗るようになったといわれています。室町幕府が開かれると、阿波は讃岐とともに細川氏の領国となり、三好氏は南北朝時代には宮方に組みしていましたが、やがて細川氏に下りその重臣となった家柄です。

 細川阿波守護家に仕えていた三好氏が頭角を現し始めたのは、細川京兆家の家督をめぐる永正の錯乱(永正4年(1507))が勃発したとき、一存の曽祖父に当たる三好之長(ゆきなが)が、管領細川政元の養子となった阿波守護家出身の細川澄元(すみもと)を支え、各地を転戦して活躍したときからです。之長の後は、その孫の三好元長が、澄元の子で幼君の細川晴元を支えて、ついには管領に擁立します。
 十河氏と三好氏との関係は、十河景滋が寒川元政と数年にわたる争いをしていたとき、大永6年(1526)に、三好元長が十河氏の求めで清水越えをして援軍に出向いたことに始まります。このとき、三好元長の軍勢は、阿讃国境の津柳(現在の三木町)で待ち伏せをしていた昼寝城主寒川元政にさんざん蹴散らされたといわれています。
 三好元長は、細川家中において随一の勢力となりますが、その台頭に脅威を感じた細川晴元が、三好一族で元長の台頭を妬んだ三好政長らの讒言を入れたため、元長は天文元年(1532)に自害に追い込まれます。
 一時は衰退した三好氏ですが、元長の後を継いだ三好長慶(ながよし、大永2年(1522)生)は、弟の三好義賢(よしかた、のちに実休と号した。大永7年(1527)生)、安宅冬康(享禄元年(1528)生)、十河一存の3人の弟と協力して、細川家中において父以上の勢力を築き上げていきます。ちなみに、長慶は、武田信玄(大永元年(1521)11月生)とほぼ同じ頃の生まれです。すぐ下の弟の義賢は阿波を治め、二番目の弟の冬康は淡路の安宅氏を継いで安宅水軍を率います。この三好四兄弟は、それぞれの本拠である阿波・淡路・讃岐を固め、三好長慶の京畿における活躍を支えます。

 十河一存は讃岐で国人の寒川氏と度々戦っていますが、あるとき、寒川氏の領内に攻め入ったときに、長尾の辺りで合戦となり、寒川軍の神内左衛門に槍で左腕を突き刺されます。一存は、太刀で槍を撃ち折り、左衛門を切り倒した後、負傷した傷口に塩を塗りこんで消毒し、その上から藤の蔓(かずら)をぐるぐる巻きにして血を止め、その治療が終ると、また何食わぬ顔して戦闘を続け、やがて勝利を得て、平然と帰陣していったといわれています。この時から一存は、「鬼十河」または「夜叉十河」と、その猛勇を世にうたわれることになりました。以後その瘢(あと)を見たものは無いといいます。一存は前髪をぜんぶ引き抜き、さらに月代を大きく広げて剃り上げた髪型をしており、多くの武士が真似たということです。これが「十河額」の起源です。しかし、実際には、一存は肌が弱かったらしく、長時間兜をかぶっていると、汗で蒸れて湿疹になってしまうので、それを防ぐための実用的な髪型だったようです。

 天文18年(1549)6月、一存の長兄・長慶は、細川晴元、三好政長(宗三)らに対する父・元長の復讐に立ち上がり、政長を摂津国江口において破ります。これを江口の戦いといい、一存は三人の兄たちを差置いて勲功第一の活躍をします。この一戦で三好氏は、畿内を制圧して入京を果たし、主家細川家を完全に凌ぐ勢力となります。細川晴元の政権は崩壊し、三好一族が名実ともに畿内の支配者となります。ちなみに、織田信長が父信秀の家督を継いだのが天文20年(1551)3月のことです。
 天文21年(1552)、長慶は、将軍足利義輝(よしてる)を京に迎え、将軍足利義輝-管領細川氏綱-三好長慶という体制に移行しますが、実権は長慶が握り、義輝も氏綱も傀儡に過ぎませんでした。また、この年、阿波にいた長慶の弟・義賢(実休)が主君細川持隆を討ち、実質的に阿波の国主の地位に就きます。
 一方、讃岐では、天文22年(1553)、三好義賢(実休)が、弟の十河一存に命じて東讃の安富盛方・寒川政国と、香川・阿野郡を領有する香西元政を服従させ、続いて、多度・三野・豊田郡を領する香川之景を服従させようとします。しかし、之景が応じないため、義賢(実休)は、永禄元年(1558)8月、阿波・淡路の兵と寒川・安富・植田・香西氏の兵を率いて、9月25日善通寺に18,000の兵で布陣しました。香川氏は6,000の兵で天霧城に籠城し、城はなかなか落ちませんでした。しかし、結局、香川氏は降伏を余儀なくされ、讃岐は阿波三好氏の支配下に組み入れられます。なお、三好軍が善通寺から撤収するとき、火が出、堂塔のほとんどが灰燼に帰しました。
 こうして阿波、淡路、讃岐の三国が三好氏の領国となり、細川氏の旧家臣も大半が三好氏に従い、三好氏は絶頂期迎えます。永禄3年(1560)には、一存は畠山高政を追って岸和田城主となっています。ちなみに、この年は桶狭間の戦いがあった年です。
 長慶は河内の飯盛城を本拠とし、長慶を中心とする三好四兄弟の勢力は、畿内(摂津、河内、大和、丹波、山城、和泉)や四国(阿波、讃岐、淡路)の9カ国(今の大阪府と、徳島、香川、奈良三県、さらに兵庫県南東部、京都府南部)と播磨、伊予、土佐の一部まで及びました。

 ところが三好四兄弟の布陣は早い時期に崩れていきます。一存は疱瘡を患って、療養のため有馬温泉へ向かいます。途中、松永久秀の見舞いを受けますが、このとき、一存が葦毛の馬に乗っているのを見て、久秀は「有馬権現様は葦毛の馬を嫌うから、別の馬に乗りかえられい」と忠告しました。一存は虫が好かない久秀の言うことなど聞かずに出かけ、落馬し、その傷がもとで永禄4年(1561)3月、若くして亡くなります。なお、松永久秀に暗殺されたという説もあります。ちなみに、この年の9月、山本勘助が討死した川中島の戦いが行われています。
 また、翌年の永禄5年(1562)には、次兄の三好義賢(実休)が戦死し、すぐ上の兄安宅冬康は松永久秀の讒言を信じた長慶によって誅殺されます
 永禄7年(1564)、三好家当主の長慶も亡くなります。長慶は安宅冬康の無実を後で知り、悔い悩みながら没したといいます。

 三好長慶が没すると、十河一存の実子で養子の義継が三好宗家を継ぎますが、若年のため家臣の三好三人衆(三好長逸・三好政康・石成友通)と三好家執事の松永久秀が後見しますが、三好三人衆と松永久秀と対立するようになり、一進一退の争いを繰り広げます。このような状況のときの永禄11年(1568)、織田信長が怒濤の入洛をし、三好の勢力は畿内から追われていきます。
 長慶は、織田信長が永禄11年(1568)に上洛する前の天文18年(1549)から永禄7年(1564)の約15年間にわたって、都にあって天下に号令したことから、戦国時代初の天下人といわれます。

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(133)“細川京兆家のお膝元だった讃岐”

 平成5年(1993)、初めて非自民党連立政権が成立しましたが、そのときの内閣総理大臣は、熊本県知事を務めた後、国政に出た細川護熙(もりひろ)氏で、その先祖が肥後熊本藩の藩主だということはよく知られた話です。肥後熊本藩主の直接の先祖は、戦国時代に活躍した細川藤孝(幽斎)という武将です。幽斎は、はじめ室町幕府最後の第15代将軍足利義昭に仕えましたが、のちに、長男の忠興とともに織田信長を経て豊臣秀吉配下の部将として活躍しました。関ヶ原の合戦では徳川方につき、そのとき、明智光秀の娘で忠興の妻であるガラシャが西軍の人質になることを拒んで自害したという話は、よくテレビや映画の中で採り上げられています。戦後、忠興は、功により豊前小倉藩39万9千石を経て肥後熊本藩54万石を領し、明治維新に至りました。
 しかし、その祖はもっとさかのぼり、鎌倉時代に足利氏の庶流が三河国額田郡細川郷に住んだことから、地名にちなんで細川を称したことに始まります。そして、細川氏が日本史上主役を演じたのは、室町幕府において、斯波氏・畠山氏とともに三管領の一家として権勢を振るったときです。細川一族は、南北朝の早期に、畿内及び東瀬戸内海沿岸を中心に8ケ国(摂津・和泉・丹波・讃岐・土佐・阿波・淡路・備中)におよぶ世襲分国を獲得し、室町幕府において確固たる地位を占めました。このとき、讃岐は京兆家(けいちょうけ)と呼ばれる細川氏嫡流家のお膝元だったところで、その重要な勢力基盤の地でした。今もその名残が讃岐には残されています。

 細川氏が室町幕府内で確固たる地位を築いたのは、細川頼之(よりゆき)の功労が大であったといわれています。頼之は、南朝方に走った従兄弟の細川清氏を讃岐の白峯合戦で破り、細川一門で随一の実力者となって幕府内で頭角を現していきます。そして、阿波・讃岐・土佐・伊予の守護職を兼任して四国管領と呼ばれ、讃岐の宇多津に本拠地を構えました。その後、京に上り、管領となって幼少の第2代将軍足利義満を補佐します。いったんは康暦の政変(天授5年/康暦元年(1379))で失脚しますが、復帰して管領となった弟で養子の頼元(よりもと)を幕府宿老として補佐し、明徳の乱では山名氏を破り丹波国を分国に加えます。
 頼之から細川氏惣領家の家督を継いだ頼元は、讃岐・丹波・土佐の守護職を継承するとともに、新たに摂津の守護職を得て、讃岐・摂津・丹波・土佐の4カ国の守護職を兼帯し、従四位下右京大夫に任ぜられます。以後、頼之・頼元系の細川氏は、代々右京大夫の官途を踏襲し、右京大夫の唐名を京兆と呼ぶことから、京兆家と呼ばれました。京兆家当主は、讃岐・摂津・丹波・土佐の4カ国守護職を世襲し、幕府管領に任ぜられる家格でした。頼元のあと、京兆家の家督は、満元(みつもと)→持元(もちもと)→持之(もちゆき)→勝元→政元と受け継がれていきます。この中で最も有名な人物が、応仁の乱(1467―77年)のときの東軍の将であった細川勝元です。
 また、頼之の弟らを祖とする細川氏傍系は、阿波・淡路・和泉・備中4カ国の守護職を占め、それぞれ阿波守護家、淡路守護家、和泉上守護家、和泉下守護家、備中守護家として京兆家を支えます。中でも、阿波守護家は、頼之からその弟の頼有を経て、さらにその弟の詮春の子・義之に伝えられ、その系統に継がれていきます。京兆家を上屋形と呼ぶのに対し、阿波守護家は下屋形あるいは阿波屋形と呼ばれ、庶流家の中では京兆家に次ぐ高い家格を有していました。なお、頼之が持っていた伊予守護職は、康暦の政変以後、河野氏に復帰しています。
 こうして細川一族は、畿内及び東瀬戸内海沿岸8ケ国(摂津・和泉・丹波・讃岐・土佐・阿波・淡路・備中)において、京兆家を中心とした同族連合体とも言うべき集団を形成し、頼之から政元に至るまでの約150年間、室町幕府内で最大の勢力を持つ守護大名としての地位を保ち続け、その権勢は勝元と政元の代になって絶頂期を迎えます。この間、讃岐は、頼之以来の京兆家直轄地だったところで、京兆家の勢力を支えたるための戦略上の要衝でした。これは讃岐を押さえれば瀬戸内海の海上交通権を掌握できたことによると考えられます。そして、京兆家の讃岐経営の中心都市だったところが宇多津でした。宇多津の港には、京と讃岐を往来する多くの船が出入りしていたと思われます。

 京兆家は幕府の管領となる家柄であったため、その当主である讃岐守護本人は常に在京しており、讃岐には被官からなる守護代が置かれました。応永年間(1394~1428)初頭から讃岐では、安富氏、香川氏がそれぞれ東と西を半ばずつ担当するという両守護代制がとられ、安富氏は本城を雨滝城に置き、香川氏は多度津本台山に居館を構え、天霧城を詰城としました。しかし、安富氏・香川氏も京兆家の重臣であったため在京することが多く、讃岐には一族の中から又守護代が置かれました。この2氏のほか、安富氏の所領には香西氏、十河氏、寒川氏という有力な国人がいました。
 これらの讃岐武士は、直参として京兆家家臣団の中核を構成し、京へ上がり、京兆家に近侍して内衆や奉行人としてその家政に参加して活躍しました。特に香西氏は応永21年(1414)から永享3年(1431)まで、京兆家の被官として丹波守護代を務めています。応仁の乱のときの勝元側東軍の主力戦力も讃岐武士で、安富・香西・奈良・香川氏は細川四天王と呼ばれました。当時、讃岐武士は、京兆家の権威を背景に、京において大きな勢力を張っていました。

 しかし、隆盛を誇った京兆家も、勝元のあとを継いで京兆家の当主となった政元の代から家督をめぐって内紛が始まり、急速にその勢力を低下させていきます。明応2年(1493)4月、政元は対立していた将軍・足利義稙(よしたね)を追放して新たに足利義澄(よしずみ)を将軍とします。そして将軍職を傀儡化し、幕府の実権を掌握して「半将軍」とまで呼ばれる専制体制を確立します。ところが、修験道に凝り、生涯女性を傍に寄せなかったため実子がなく、関白九条家から澄之(すみゆき)、阿波守護家から澄元(すみもと)、京兆家庶流から高国の3人の養子を迎えます。その後、この3人がそれぞれの被官や諸勢力と結びつき、京兆家の家督をめぐって争いを起こし、細川一族とその家臣団を内紛の渦に巻き込んでいきました。
 最初に、澄之派と澄元派の対立が表面化します。澄之には香西元長ら讃岐武士が、澄元には三好之長(ゆきなが)ら阿波武士がそれぞれ後ろ盾となります。永正3年(1506)、澄元が之長に擁されて阿波から上洛すると、政元は京兆家の分国であった丹波を澄之に、摂津を澄元にそれぞれ分割継承させますが、これに反発した澄之派の香西元長と摂津守護代薬師寺長忠は、永正4(1507)年6月、政元が湯殿で行水をしているところに刺客を差し向けて殺害し、澄之を京兆家の家督に擁立します。政元の死によって、頼之・頼元系統の京兆家はここに断絶します。これに反撃した澄元派は、細川高国らの支援をえて澄之と香西元長、安富元治、香川満景ら在京の讃岐武士を倒し、澄元を京兆家の家督に据えます。
 これにより京においては、澄之派に属した讃岐武士の勢力が一掃され、澄元派に属した阿波の三好之長が澄元の後見人として勢力を伸ばします。一方、讃岐が京兆家の本拠地だったという時代も政元の死によって終焉を迎え、その支配を脱した讃岐各地の国人・土豪たちによる群雄割拠の様相となっていきました。そして、この讃岐国内の混乱に乗じて阿波の三好の勢力が讃岐に及んでくることになります。

 その後も京兆家の家督争いは続き、永正5年(1508)、周防の大内義興が前将軍足利義稙を擁して上洛すると、高国は澄元派から離反して大内義興と結び、将軍足利義澄並びに管領細川澄元とその家臣三好之長を京から追い落とします。将軍に復帰した義稙のもと、高国は京兆家の家督を継承して管領に任じられ、大内義興らと連合政権を立ち上げます。しかし、京兆家の家督争いはこれに止まらず、高国と阿波に雌伏した澄元との争いは、将軍家の家督争いも巻き込んでその後も続きます。これを永正の錯乱、両細川の乱といい、政元が暗殺されて25年目の天文元年(1532)に、澄元と之長の遺志を継いだ細川晴元(澄元の子)と三好元長(之長の孫)が、摂津天王寺の戦いで高国を打ち破り、切腹させることによってようやく収束します。この合戦を大物(だいもつ)崩れといい、その後、阿波細川家から出た細川晴元が京兆家の家督を継ぎます。
 しかし、今度は、晴元とその家臣の三好元長との対立が始まります。両細川の乱の間、阿波から出た細川氏を支えたのは三好氏の軍事力であり、三好氏の勢力が細川氏を凌ぐようになっていたからです。天文元年(1532)、晴元は、元長の台頭を妬んだ三好一族の三好政長らの讒言を入れ、一向一揆と結んで元長を自害に追い込みます。そして、義晴を傀儡将軍とし管領となって幕政を執ります。その間、元長の子・三好長慶は父を晴元に討たれたものの、失地を回復してその家臣として頭角を現していきます。
 天文11年(1543年)、高国の養子・細川氏綱が挙兵したことにより、細川家の内紛が再燃します。初めは晴元側にたっていた長慶ですが、父が晴元によって自殺に追い込まれたことを知り、氏綱側に寝返ります。天文18年(1549年)、晴元と三好政長は摂津江口の戦いでに長慶に敗れ、政長は討ち死し、晴元は前将軍義晴と将軍義輝父子と共に近江に逃亡します。
 以後、細川氏綱を擁立した三好長慶が京都に入り、事実上畿内は長慶の制圧下に入ります。天文21年(1552)、長慶は将軍義輝(よしてる)を京都に迎え入れ、氏綱に京兆家の家督を継がせ、管領職に補任され、ここにおいて、永正4年(1507)の細川政元の暗殺に端を発した約45年間にわたる争いはようやく収束します。しかし、この争いにより、将軍家と京兆家は全くその権威を失墜し、傀儡化されます。以後、幕政の実権は長慶が掌握し、実体は三好政権というものでした。晴元はその後も復権を策して長慶との争いを続けますが、ついに政権に返り咲くことはなく、永禄6年(1563)に病死します。
 永禄11年(1568)、織田信長が足利義昭を擁立して怒濤の入洛を果たし、畿内から三好氏の勢力を一掃すると、晴元の嫡子・細川昭元は信長に属しその妹婿となり名を信良と改めます。しかし、もはや政治的に何ら影響を及ぼす存在ではなく、家運が回復することはありませんでした。その後、昭元の嫡子・細川元勝(頼範)は豊臣秀頼の近臣として大坂城に在り、大坂の陣の後、讃岐に隠棲したとも、常陸宍戸藩の秋田氏に仕えたともいわれています。
 一方、細川氏傍流の和泉上守護家出身の細川藤孝(幽斎)は、初めは足利義昭の側近としてその将軍職就任に奔走していましたが、後には息子の忠興とともに織田信長を経て豊臣秀吉に仕え、関ヶ原の戦いで徳川側につき、江戸時代を迎えることになります。

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(119)“讃岐に残る甲斐武田氏にまつわる物語”

 「風林火山」の旗印で知られる武田氏は、甲斐源氏の一族であり、その祖は八幡太郎義家の弟新羅三郎義光といわれています。義光は、平安時代後期に奥州(東北地方)で起きた後三年の役(永保3年(1083年)~寛治元年(1087年))で、兄義家を援けるために奥羽に下向し、常陸国に進出して、その子の義清を那珂郡武田郷に配します。それが武田氏の発祥で、その後、義清とその息子の清光は甲斐国に配流され、そこで土着したと伝えられています。
 武田氏は、戦国時代の晴信(信玄)の代になって、近隣諸国への侵攻を企て、信濃国をはじめとして、上野・飛騨そして、今川義元戦死後の駿河・遠江へとその勢力を広げていきます。この間、多くの戦をしていますが、なかでも、越後の上杉謙信との川中島の戦いはよく知られています。
 元亀3年(1572)10月、信玄は天下に号令するため京都を目指し、大軍を率いて甲府を後にします。そして、浜松城から出陣してきた徳川家康の軍を、遠江の三方ヶ原の戦いで撃破します。このとき、家康は馬で逃走する際に、恐怖のあまり馬上で脱糞したというエピソードはよく知られているところです。しかし、その進撃の途中の翌年4月初旬、信玄は持病が悪化したため、遂に上洛を断念し、帰国の途上、信濃国駒場で病死しました。
 信玄の跡を継いで家督を相続したのが四男の勝頼です。その母は信玄によって討たれた諏訪頼重の娘・由布姫です。諏訪氏は、信濃国上原城城主であるとともに諏訪大社大祝(おおほうり)務めてきた一族で、武士と神官双方の性格を合わせ持っていました。勝頼も諏訪家の名跡を継ぎ、武田家の通字である「信」でなく諏訪氏の当主が襲名してきた「頼」の通字を命名され、諏訪四郎勝頼と名乗っていました。
 信玄が亡くなってから約2年後の天正3年(1575)5月、勝頼の率いる騎馬軍団は、大量の鉄砲と馬防柵(ばぼうさく)を用いた織田信長の画期的な戦法に敗れます。これが長篠の戦いです。
 この戦いの後、甲斐武田氏の勢力は急速に衰えていき、約7年後の天正10年(1582)3月11日、勝頼とその嗣子信勝は、天目山の戦いで、織田信長配下の信忠、家康、氏政連合軍に敗れて親子ともども自害し、ここに武田氏は滅亡しました。

 讃岐には、長篠の戦いや天目山の戦いで破れた武田の一族が逃れてきたという伝承が残っています。
 一つは、高松市東山崎町にある諏訪神社の由緒として残る話です。
天目山の戦いに敗れた後、武田信勝の弟である桃千代丸は、家臣18人、女中7人に伴われ、讃岐の屋島の地に逃れてきて、山田郡元山村領主の大隈備前守方に暫く留まり、再起をはかろうとその地に諏訪明神を勧請したというものです。
 この後、桃千代丸らは、香東郡坂田の室山城主で細川家々臣の坂田権守を頼りそこへ移り住んでいましたが、天正13年、豊臣秀吉の四国征伐により室山城が落城したため、そこを逃れ、再び元山村の地に戻り、掃部屋敷というところに住み、祠職をしていました。ところが、江戸時代の延宝(えんぽう)年間(1673年~1681年)に発覚され、その職を逐放されたといわれています。なお、延宝年間における高松松平藩は、二代目の頼常(よりつね)の時代です。

 もう一つは、高松市御厩(みまや)町の小比賀家に伝わる話です。
小比賀家は、甲斐源氏・武田氏の末裔で、天目山の戦に敗れて秩父山中に逃れ、のち伊予の河野氏を頼って四国に渡り、さらに、讃岐の坂田郷に移り住んで宝山城の城主を務め、戦国時代末期を過ごしたといわれています。
 その後、小比賀姓を称えるようになり、江戸時代初期の慶長年間(1596年~1615年)に今の御厩に居を構え、江戸時代を通じて、この地の大庄屋などを代々務めてきたとされています。

 さらにもう一つは、「全讃史」という江戸時代の中山城山という学者の書いた本に載っている話です。
 武田軍が長篠の戦いで敗れたとき、朝比奈五郎という武田家の家臣が、次男の伊豆八郎信能を伴って讃岐に逃れてきました。そして、内場城主の藤澤新大夫重弘に保護され、安原の奥に住み着きました。さらに、重弘は信能に自分の娘を信能に嫁がせ、所領を与えて厚遇しました。信能はその所領に城を築き、父祖の墓を祀りました。そこで世人はその土地を甲斐股(かいまた)と呼んだということです。現在、高松市塩江町には、「貝股」という地名があります。
 のち、重弘の息子の次郎吉が幼少で藤澤家の家督を継いだので、信能はその補佐をするため内場城に移り、藤澤家の家事を執りました。このため、信能は藤澤八郎と称されました。次郎吉が長じると、信能は藤澤家の家事から退き、別子山に移ります。しかし、このとき、豊臣秀吉の四国征伐があり、屋島に上陸した征討軍が南征し、讃岐の諸子は皆その領地を失い、信能は別子八郎と称して、田猟をもって業としたということです。
 これは「全讃史」に記されていますが、同書は武田勝頼が長篠合戦で討死したと記しており、信憑性には疑問が残るとされています。

 このように、讃岐には甲斐武田氏にまつわる物語が残されていますが、これらの物語がどこまで信憑性を有しているのかについてはまだよく分かっていません。しかし、これらの物語がすべて事実とはいえないまでも、讃岐と甲斐武田氏の間に何らかの関係があったことから、このような物語が残っているのではないでしょうか。
 戦に敗れ逃れる者が頼る先といえば、一般的に考えれば、親類など血の結びつきのある一族でしょう。では、讃岐に甲斐武田氏と血の結びつきのある一族がいたのでしょうか。
 一つ考えられるのは、戦国時代後期、現在の高松市南部を中心に讃岐で勢力を張った十河氏の存在です。
 十河氏は、もともと、景行天皇の皇子・神櫛王を祖とし、讃岐の山田郡の十河城を根拠とする生え抜きの武士です。室町時代の始めに細川氏が讃岐に入国してきたのに伴いその家臣となりますが、応仁の乱後の細川政元暗殺による細川京兆家の没落に伴い次第に自立していきます。一方、阿波では三好氏が主家の阿波細川家を凌駕し、さらに讃岐にも勢力を伸ばし始めてきます。
 三好氏は、阿波からさらに畿内に勢力を及ぼし、三好長慶(大永2年(1522年)~永禄7年(1564年))の時代に絶頂期を迎えます。長慶は天文18年(1549年)から約15年間にわたって室町幕府の実権を握り、その勢力は、山城、摂津、河内、大和、和泉、丹波、阿波、淡路、讃岐の9カ国に及びました。
 讃岐の十河氏も三好氏の勢力化に属するようになり、三好長慶の弟が養子に迎えられて十河氏を継ぎ、一存(かずまさ、天文元年(1532年)~永禄4年(1561年))と名乗ります。これにより十河氏は三好氏と血のつながった関係になります。一存は兄長慶を助けて畿内で奮戦し、その勇猛な戦いぶりから「鬼十河」の異名をとり、また「十河額」と呼ばれる独特の髪型で知られた武将です。
 ところで、阿波の三好氏のルーツは、鎌倉時代の承久の乱のとき幕府方で活躍した信濃の小笠原氏が、阿波守護職に補任されて阿波に入部したことよるといわれています。小笠原氏はその後、阿波三好郡を領地としていたことから三好姓を名乗るようになったものです。
 この小笠原氏は、源頼朝の推挙で信濃守に補任されたことにより信濃で勢力を張りましたが、その発祥は、平安時代、甲斐源氏の加賀見遠光の次子長清が甲斐国中巨摩郡小笠原村に拠り小笠原を称したことによるといわれています。したがって、阿波の三好氏と甲斐武田氏は、同じ甲斐源氏をルーツにするということです。讃岐の十河氏も、一存以降、甲斐源氏の血が入っています。
 阿波にも、甲斐武田氏にゆかりのある者が戦国時代に入っています。武田晴信に甲斐を追放された父の信虎は、その後、京に出て、男子をもうけたといわれていますが、その子は後に武田信顕と名乗って阿波へ行き、三好氏に取り立てられて脇城主になったということです。しかし、信顕はその後長宗我部の侵攻に遭い、讃岐に逃れ果てたといわれています。その供養の墓碑が現在の東かがわ市の東照寺にあるといいます。
 また、長篠の戦いや天目山の戦いの敗戦により、武田信玄の弟の信綱が讃岐を経由して阿波貞光に入り、その後を追って、信玄の孫の信豊、信玄の弟の信基らも讃岐を経由して阿波に入り住んだといわれています。
 このように、甲斐武田氏にゆかりのある者が阿波に入っていったのは、ルーツを同じくする三好氏がいたからだと思われます。ひらたくいえば、血のつながった親戚を頼っていったということです。
 讃岐の十河氏も三好氏を通じて甲斐源氏の血が入っていますから、甲斐武田氏にゆかりのある者が頼って来るということは十分考えられます。このようなわけで、讃岐に残る甲斐武田氏にまつわる物語も全くの出鱈目とはいえないように思われます。

 では、天正3年(1575年)の長篠の戦い以降の讃岐の情勢はどのようだったのでしょうか。
 永禄11年(1568年)織田信長が足利義昭を奉じて入洛した後、畿内の三好勢力は信長に駆逐されていきます。讃岐でも、長篠の戦いの頃、十河一存を継いだ存保(まさやす)は信長に降り、讃岐の諸氏も信長の勢力下に入ります。後に兄である三好長治が討たれると、存保は実質上の三好宗家の当主となり、讃岐と阿波で勢力を及ぼします。
 天正10年(1582年)3月11日に天目山の戦いがあった後、その年の6月2日に本能寺の変が起こり、6月13日に山崎の戦いで秀吉軍が光秀軍を撃破します。この頃讃岐では、土佐の長宗我部元親の軍による侵攻を受け、8月には香西氏がその旗下に下り、また、山田郡の十河城が包囲されます。さらに、阿波でも、十河存保が中富川の戦いと勝瑞城の戦いで長宗我部に敗れ、存保は讃岐の虎丸城に追い詰められます。こうした中、9月に、豊臣秀吉の命を受けた仙石秀久が小豆島より渡海し、存保を救うため長宗我部軍と戦いますが、攻めきれず退きます。
 天正11年(1583年)4月、仙石秀久は再度讃岐に上陸しようと引田で長宗我部軍と戦いますが、これも失敗します。そして、翌年の6月、ついに十河城は長宗我部軍の攻略により落城し、十河存保は秀吉を頼って讃岐から大坂に逃亡します。これにより讃岐は長宗我部の支配下となります。
 しかし、天正13年(1585年)4月、豊臣秀吉は四国を平定するため、弟の秀長を大将に阿波、讃岐、伊予の三方面から大軍を送り込み、讃岐には宇喜多秀家を総大将とする蜂須賀正勝、黒田孝高、仙石秀久らの軍が屋島に上陸します。最初に攻撃の目標となったのが喜岡城(旧高松城)で、全員が討死にしました。
 戦局不利とみた長宗我部は秀吉と和議を結び、長宗我部は元の土佐一国の領主とされ、天正13年(1585年)7月、仙石秀久が豊臣秀吉から讃岐国を与えられて入部します。また、十河存保は四国征伐に協力したことにより旧領を復され、2万石の大名として再び十河城に入ります。
 しかし、翌年の天正14年、豊臣秀吉の九州攻めが始まると、十河存保は、秀吉から九州攻略の軍監とされた仙石秀久の指揮の下に四国勢の一軍として島津軍との戦いに従軍し、このとき、功を焦った仙石秀久の無謀な作戦に巻き込まれて戸次川の戦いにおいて戦死します。
 この敗戦により、仙石秀久は秀吉から讃岐を没収され、その跡には生駒親正が入部してきます。十河存保には千松丸という男子が残され、生駒親正によって養育されていましたが、天正17年(1589年)7月、15歳のとき何者かによって毒殺されます。ここに神櫛王を祖とする十河氏直系の血は絶え事実上その系譜を閉じます。
 讃岐には、甲斐武田氏の残党が逃れてきたという物語が残っていますが、詳しいことはほとんど分かっていません。これは、その庇護者であった十河氏が中世から近世への変革期に滅んでしまったことによるのかもしれません。

 さらに、興味深いことには、武田信玄の軍師であった山本勘助(勘介)は讃岐生まれではないかという説もあります。この説は、勘介研究家の渡辺勝正氏が「歴史街道」2月号で、唱えられているものです。
 山口県には次のような伝承が残されているそうです。山本勘介は讃岐の六カ村(ろっかそん)の庄屋に生まれ、少年時代から猪狩が得意であったが、猪と格闘して独眼になり、足も不自由になった。勘介は長じて山口に来て、大内義隆(よしたか)に仕えた。
 渡辺氏は、毛利文書「閥閲録(ばつえつろく)」を基に、この伝承について次のような推理を展開されています。
 勘介が若い頃、讃岐は山口の大内氏と同盟関係にあった。讃岐に生まれた勘介は山口の大内氏に仕え、安芸武田攻めなど幾多の合戦を経験し、軍師としての勘と能力を身につけた。しかし、その後、家族を山口に残して出奔(しゅつぽん)し、浪人者となった。紆余曲折の後、勘介は51歳のとき、甲斐武田に仕官した。
 勘介は自分の前歴を語らなかったため、その前半生は不明であるが、それは、大内領を脱して他国の主君に仕えていることが分かれば、山口に残してきた家族が国外に追放されてしまう恐れがあったからだ。また、勘介が並みいる武田武将たちの中で頭角を現すことができたのは、大内氏の下で、多くの実戦経験を積んでいたからだ。
 勘介は「三州牢人(浪人)」と言われ、「三河(三州)」出身とされているが、「サン州」とは「讃州」のことではないかと、いうことです。
 讃岐の六カ村がどこなのか、分かりませんが、山本勘助が讃岐生まれであるという説があるのは事実です。

 江戸時代に入ると、人は幕藩体制の下、土地に縛り付けられ、ほとんど移動することは無かったようですが、戦国時代には、かなり遠方の間でも、ダイナミックな人の移動があったのではないでしょうか。

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(83)“織田信長に滅ぼされた武将の子孫が住むイリコの島”

 観音寺市より10Km西沖の瀬戸内海燧灘に伊吹島という周囲5.4Kmほどの小さな島が浮かんでいます。この島は、近海がカタクチイワシの好漁場となっており、イリコ(煮干イワシ)の産地として知られています。イリコは讃岐うどんのだしを作るために欠かせない原料で、伊吹島のイリコはその品質、味とも日本一といわれています。しかし、この島には昭和30年頃4千人もの人が住んでいましたが、現在は約千人弱となっており、過疎化と高齢化が進んでいます。
 島の住人の約半分は三好姓ですが、彼らは、戦国時代末期に織田信長に滅ぼされた三好義継(みよしよしつぐ)という武将の末裔だといわれています。義継は三好長慶(みよしながよし)の後を継いで三好家当主となった人で、長慶は織田信長が永禄11年(1568)に上洛する前の約15年間にわたって、畿内で覇を唱えた阿波出身の戦国大名です。

 三好氏は甲斐源氏小笠原長清を始祖とし、鎌倉時代に承久の乱での功績により阿波守護となり、その後、美馬・三好郡を与えられ三好姓を名乗るようになったといわれています。室町幕府が開かれると、阿波は讃岐とともに細川氏の領国となりますが、三好氏は南北朝時代には宮方に組みしていました。しかし、やがて細川氏に下りその重臣となっていきました。
 このような三好氏は、長慶のとき、その勢力が絶頂期を迎えます。長慶は、四国から渡海して芥川山城(今の高槻市)や河内飯盛山城(今の四条畷市)を本拠として京畿で活躍します。長慶には三人の弟がおり、すぐ下の弟の之康(義賢、のちに実休と号した。)が阿波を治め、次ぎの弟の冬康が安宅氏を継いで安宅水軍を率い、末弟の一存(かずまさ)が讃岐の名族十河氏を継ぎます。十河一存は鬼十河として勇名を馳せた武将です。
 この三人の弟が、それぞれの本拠である阿波・淡路・讃岐を固め、三好長慶の京畿における活躍を支え、三好氏の勢力は山城、摂津、河内、大和、和泉、丹波、阿波、淡路、讃岐の九カ国(今の大阪府と、徳島、香川、奈良三県、さらに兵庫県南東部、京都府南部)にまで及びました。
 しかし、その後、義賢、一存、嫡子義興と相次いで有力人物を失い、さらに松永秀久の讒言によって長慶が安宅冬康を謀殺するという内訌が生じ、長慶の死後、三好氏の勢力は急速に衰退しました。
 永禄11年(1568)、織田信長の怒涛の入洛により三好政権は瓦解し、十河一存の実子で長慶の家督を継いだ義継(長慶の甥)は、信長に服して河内若江城(現在の東大阪市)を安堵されます。しかし、天正元年(1573)、室町将軍足利義昭と信長が対立した時、妻(寧姫)の兄だった義昭を若江城に匿いました。これにより信長の逆鱗にふれた義継は、信長配下の佐久間信盛らの攻撃を受け、ついに自害して果てました。その時、義継には、寧姫との間にできた嫡子の義兼と、その異母弟に当たる庶子の義茂という二人の息子がいました。

 父の義継が滅ぼされた後、弟の義茂は大川市太郎と改名し、十河一存の後を継いだ存保(まさやす、三次実休の第二子)の世話により、讃岐獅子ヶ鼻城(今の観音寺市豊浜町)の大平伊賀守国祐を頼って、従者二人とともに伊吹島に逃れました。故大平総理大臣は豊浜の出身ですからその子孫かもしれません。
 兄の義兼は若江城の落城前に阿波に逃れ、そこで成人しましたが、長曽我部の阿波侵入後、三好長冶(三好実休の嫡子)の妻の実家のある今の観音寺市財田町に一族郎党と共に身を寄せていました。しかし、頼りの存保が天正14年(1586)に九州の戸次川(べつぎかわ)の戦いで戦死して十河氏が断絶したため、翌年、家来50騎~80騎の一族郎党をともなって弟の居る伊吹島に避難しました。
 二人の兄弟は政情が落ち着くまで、瀬戸内海水運の要所である伊吹島で身を隠そうとしたと考えられます。しかし、彼らにとって島での生活は平穏でなかったようです。伊吹島には先に合田一族が住んでおり、狭い島の中で両氏が共存することは困難だったのでしょうか。三好一族と合田一族との間で争いが生じ、天正16年(1588)、合戦になりました。
 合戦において義兼は鉄砲で狙撃されて深手を負い、島の最も高い鉄砲石で自刃して果てます。そして、合戦後、合田一族は東部の中低地、三好一族は西部の高地にそれぞれ住み分け、両者は互いに婚姻をしないという静かな対立を続けながら暮らしました。島の守護神の八幡神社の祭礼には、東部の合田氏、西部の三好氏、南部の中立の「ちょうさ」が担ぎ出され、互いに威勢を競い合ったといいます。
 外部との交流があまりなかったためでしょうか、この島は、日本でただ1ケ所、平安、鎌倉時代の京言葉のアクセントを今だに遺している所としても知られています。

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(68)“紫の雲が出る山があり浦島太郎伝説が残る半島”

荘内半島(三豊市詫間町)


 香川県の西部に備讃瀬戸と燧灘(ひうちなだ)を画するように半島が北西に向かって突き出ています。この半島を荘内半島といいます。荘内半島の先の部分はかつて「浦島」という島だったところで、陸繋島が発達して現在のような半島となったものです。半島の中ほどにある船越と大浜を結ぶ辺りはかつて海だったところで、船越という地名は島であったときの運河状態の海に船が通っていた名残だといわれています。
 「浦島」は、大浜・積(つむ)・生里(なまり)・箱(はこ)・香田(こうだ)の5つの浦と、粟島(あわしま)・志々島(ししじま)の2つの島をいいます。この中でも半島の先端にあたる箱の三崎は、昔から瀬戸内海航行上の重要な地点でした。このためここには、三崎大明神と呼ばれる神社が祀られ、航路の安全や管理を司る陣屋が置かれていました。そして、ここの関の浦という入り江は、鎌倉・室町時代、沖を航行する船舶から通行税を徴収していたところで、山口の上関、中関、下関と並んで、四大関所と呼ばれていたそうです。
 室町時代の初めの康応元年(1389年)3月、三代将軍足利義満は、山陽道の武将らに将軍の威厳を示すとともに九州の南朝勢力を牽制し、また讃岐の宇多津にいた細川頼之に対面するため、宮島厳島神社へ参詣します。その途上、三崎神社に参拝し、次の歌を詠っています。
       へだてゆく 八重の汐路の浦島や 箱の三崎の名こそしるけれ

 このように、今の荘内半島とその近くの島からなる浦島は古い歴史を持っています。また、ここには浦島太郎伝説が残っています。そのストリーは次のようなものです。
 昔、浦島の三崎というところに住む漁師の与作とその女房の“おしも”との間に男の子が生まれ、太郎と名づけられました(あるいは大兵衛ともいわれています。)。その地は、太郎が生まれた地であることから、その後、生里(なまり)と呼ばれました。与作は仁尾の家ノ浦という所の出で、浦島の三崎に来て住んだ家を新屋(しんや)といいました。“おしも”は小浜(今の仁老浜)の出で、界隈きっての美人といわれた人でした。太郎はその母に似て美しい上に気立てもやさしい男でした。
 17、8歳の頃、太郎は猟師となって、浦島の各浦々岬々で釣をしていました。ある日、父の生家、家ノ浦へ行った帰り道、鴨ノ越(かものこし)という浜辺で、亀が子供らからいじめられている場面に出会いました。亀をかわいそうに思った太郎は、子供らから亀を買い受け、キビで造った酒を飲ませてやって海に放してやりました。鴨ノ越の海岸の向こう岸に丸山島という小さな島がありますが、そこには今も浦島神社が祀られています。
 5月の朗らかなある日、太郎はいつものように浦崎のどん亀石という岩の上で釣をしていました。夕方の薄暮れになり、帰り支度をしていると、静かにかすむ海の彼方から大亀が突然現れました。そして、亀は忽然として美女に姿を変え、過去の恩を感謝しそのお礼に竜宮へ案内することを告げました。どん亀石は、今も箱浦にあります。

 太郎は亀に連れられて海に出ました。そして、自分の歳を忘れて島々を渡り暮らしました。しかし、やがて遊び疲れた太郎は、古里に帰ることにしました。七つの宝物を亀に積んだ太郎は、乙姫に送られ、浦島のある浜に帰り着きました。その時、姫の腕の金輪がそこに落ちてしまいました。乙姫は太郎を送りとどけた後、潮の変わり目を待つため一時粟島に立ち寄り、その後竜宮へ帰ったそうです。太郎が帰り着いた浜は、宝物を積んで着いたことから積浦と呼ばれ、金輪が落ちた地は金輪の鼻と呼ばれました。また、姫が立ち寄った粟島の地は姫路と呼ばれました。
 古里に帰った太郎ですが、両親はすでに亡くなっており、村の様子も人々もみんな変わってしまっていて、知る人は誰一人いませんでした。まだ若い身のままの太郎は、毎日元気に釣りをして一人で暮らしていました。箱から、太郎が釣糸を持って毎日通っていたところは糸之越(いとのこし)と呼ばれ、若さを失わず毎日釣りをしていたところは不老の浜(ぶろま)と呼ばれました。糸之越には太郎が休んだという腰掛石があります。不老の浜は今の室浜というところです。
 太郎が帰ってから3年目のある日、粟島の海岸に亀の死骸がうち寄せられたと聞き、行ってみると、自分を乗せた亀でした。悲嘆にくれた太郎は、その死骸を粟島に葬りました。そこが今の亀戎社(かめえびす)です。そして分骨を自分が住んでいたところに祀りました。
 乙姫との再開の絆も切れたので、太郎は玉手箱を開けました。すると、箱の中から白煙が立ち上がり、太郎は白髪の老翁となってしまいました。そして白煙は、紫の雲となって山にたなびいて行きました。それから玉手箱を開けた地を箱浦、白煙がたなびいていった山を紫雲出山と呼ぶようになりました。この山は荘内半島で最も高い山で、標高352.3メートルです。

 その後、太郎は、母の里で老を養い、幾年かの後、父母の墓前に来て永眠してその霊は紫雲出山の中腹から昇天しました。太郎が余生を送った地は、仁義深い老人の浜という意味から仁老浜(にろはま)と呼ばれ、太郎が昇天した地は上天(じょうてん)(昇天)と呼ばれています。
 箱には、太郎親子の墓といわれる五輪の塔3基があり、その近くには弘化4年に建てられたという「諸大龍王」と刻まれた墓碑があります。また、亀の霊を祀る竜王社があります。竜王社では毎年、亀の命日とされる旧6月13日に、箱の各戸から薪木を持ち寄り、焚火を囲んで竜宮踊りをして亀の霊を慰めていたそうです。この踊りは箱の盆踊りとなり、8月14日の晩、その年に亡くなった人の盆灯籠を持ち寄ってその霊を慰める新霊踊り(あられ踊り)となって今に残っています。


 なお、この物語の細川頼之についは、37話「室町将軍足利義満の宰相となった讃岐守護」を参考にしてください。

 なお、この物語の細川頼之についは、37話「室町将軍足利義満の宰相となった讃岐守護」を参考にしてください。




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(62)“建武の動乱と秀吉の四国進攻で二度も落ちた城”

 鎌倉幕府が滅亡して建武の新政が成ってから約2年後の建武2年(1335年)7月、旧幕府勢力が北条高時の遺児時行を擁して信濃で挙兵しました。これを中先代の乱といいます。北条軍は一時鎌倉を占拠しますが、京から向かった足利尊氏に撃破されます。しかし、鎌倉を奪回した尊氏はそのまま動こうとせず、後醍醐天皇の上洛命令を拒絶して建武政権に対して反旗をかかげます。このため、尊良親王を大将とした新田義貞の軍が尊氏追討のため京から鎌倉に向かい、尊氏軍と新田軍は箱根の竹下で衝突しました。そして尊氏はこの戦いに勝利し、京に攻め上がります。

 この頃、讃岐では、細川定禅(じょうぜん)が尊氏に呼応して反宮方として鷺田荘(現在の高松市鶴尾地区)で挙兵をしています。定禅は鶴岡八幡宮の別当をしていた人物で、鎌倉幕府の残党を押さえるために讃岐に派遣されていましたが、詫間・香西氏らの讃岐武士とともに屋島近くの高松城に在った宮方の讃岐守護・高松三郎頼重(舟木頼重)を攻撃します。頼重は屋島の麓に打ち出て兵を集めようとしましたが、定禅らが機先を制して夜討ちをかけたため、高松氏一族の多くは討死し、落城しました。そして、定禅はさらに反宮方の四国勢を結集し、宇多津で兵船を整えて児島に上陸し、京に攻め上がります。

 定禅に率いられた四国勢は中国勢と合流して播磨の赤松範資と共に新田軍を破って入京し、ちょうど関東から攻め上がった尊氏軍と共に三井寺、賀茂河原、糺河原などで奮戦しました。しかし、尊氏ら反宮方勢は北畠顕家の軍に大敗し、海路九州へ逃れます。定禅も讃岐へ戻り、再挙を図ります。

 九州で巻き返しを図った尊氏は、建武政権に不満を持つ武士を糾合して、大軍を率いて京に海路向かいます。讃岐にいた定禅も500余りの軍船と500騎の兵を率いて再び尊氏軍と合流します。5月25日、ついに尊氏軍は摂津の和田岬に上陸し、新田義貞楠木正成の軍と衝突しました。これが湊川の戦です。楠木正成はこの戦いに敗れ、弟正季とともに自刃しています。定禅率いる讃岐武士はこのときも尊氏軍として活躍しています。

 その後、117日、尊氏は京・室町に幕府を開き、1221後醍醐天皇は吉野に逃れ、ここに南北朝時代が始まります。

 高松城が落城してから250年後の天正13年(1585年)4月、この城は再び歴史の上に登場します。前年の6月から、讃岐は土佐から進出した長宗我部元親の支配下となっていました。豊臣秀吉は四国を平定するため、弟の秀長を大将に阿波、讃岐、伊予の三方面から大軍を送り込みます。讃岐へは宇喜多秀家を総大将として、蜂須賀正勝、黒田孝高、仙石秀久らの軍が屋島に上陸します。最初に攻撃の目標となったのが高松城でした。

 このとき、城主の高松左馬助(頼邑)をはじめ、香西より援軍にきていた唐渡弾正(からとだんじょう)、片山志摩(かたやましま)以下200人余の兵は防戦に努めましたが、全員城を枕に討死にしました。これにより讃岐の戦国時代は終わりを告げ、近世の幕が開きます。また、この戦いは讃岐国内での最後の戦でした。天正15年(1587年)生駒親正の讃岐入封によって、翌年、篦原(のはら)(今の高松市街地)に城が築かれ、東の高松の地名をとって高松城とし、城下町高松が誕生しました。これによりそれまでの高松は古高松といわれるようになりました。

 屋島とその近くには、古墳時代に築かれた神櫛王の墓といわれる王墓、飛鳥時代に築かれた朝鮮式山城の屋島城、奈良時代に開かれた鑑真和上ゆかりの屋島寺、古代から中世への過渡期にあった源平合戦の古戦場、そして、建武の動乱と中世から近世への過渡期に戦のあった高松城と、それぞれの時代において歴史の舞台となっています。

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(61)“讃岐にもある後醍醐天皇の息子の足跡と新田義貞一族の物語

  正中元年(1324年)、皇位継承についての鎌倉幕府の裁断に不満をもっていた後醍醐天皇は、幕府を打倒しようと画策します。しかしこの計画は露見して天皇の側近らが処分されます。これを正中の変といい、後醍醐による最初の討幕活動でしたが、この変では、幕府は天皇に対して何の処分もしませんでした。

 天皇はその後も密かに倒幕を画策し、比叡山の僧兵を味方につけるために、天台座主に第一皇子・護良(もりなが)親王を任じ、その後任に第三皇子・宗良(むねなが)親王を任じます。なお出家後に親王位を得た皇子のことを法親王(ほっしんのう)といい、護良親王は尊雲(そんうん)法親王宗良親王は尊澄(そんちょう)法親王ともいいます。

 元弘元年(1331年)、再度の倒幕計画が発覚し、天皇は身辺に危険が迫ったため御所を脱出して笠置山(現・京都府相楽郡笠置町内)に篭城します。護良、宗良親王はともにこの計に参画し、比叡山の僧兵を指揮して幕府軍と戦い大いに活躍します。しかし、幕府軍の圧倒的な兵力の前に笠置城は陥落し、天皇主従は捕らえられ、天皇は隠岐へ、尊良親王は土佐、そして宗良親王は讃岐へと配流になりました。これを元弘の乱といいます。

 宗良親王は讃岐守護長井高広の警護で京を発ち、元弘2年(1332年)3月11日の夕刻兵庫に到達しました。土佐へ流される兄の尊良親王もちょうど兵庫に着いたので、宗良親王が「今までは同じ宿りを尋ね来て 跡無き波と聞くぞ悲しき」と別れの歌を詠ったところ、尊良親王から「明日よりは迹(あと)無き波に迷うとも 通う心よしるべともなれ」の返歌があったといいます。

 宗良親王は兵庫から陸路山陽道を西下し、加古川の東岸の野口に到着します。ここで父の後醍醐天皇も隠岐へ流される途上にあり加古川の宿に滞留していました。しかし会うことは許されず、親王は「むなしく返り給う御心の中 耐え難く乱れまさるべし」とそのときの心境を詠っています。

 備前国を経て、宗良親王は児島吹上(現在の下津井)から舟で讃岐詫間に上陸したといわれています。(ただし、松山の津(現在の坂出市林田)に上陸したともいわれています。)

 親王は荘司の詫間三郎という者に預けられ、しばらく海辺に近い地に滞在したと伝えられています。ここは王屋敷の地名として残り、石碑が建てられています。その後、自ら勝間郷加茂村松林(現在の三豊市高瀬町)の丘上を好まれてそこで過ごし、まもなく国府や守護所に近い阿野郡松山に移されたといいます。ここで親王は、「おもひやるこころづくしもかひなきに 人まつ山とよしやきかれじ」という歌を詠っています。

 その後、後醍醐天皇は元弘3年(正慶2年)(1333年)、密かに隠岐島から脱出し、伯耆国船上山で挙兵します。これにより各地の軍勢が、続々と天皇方に味方するようになり、足利高氏までが幕府に反旗をひるがえし、ついに六波羅探題が焼け落ちます。そして新田義貞らにより鎌倉が陥落し、ここに鎌倉幕府は終焉を迎え「建武の新政」が始められます。宗良親王も讃岐に留まること1年3ヵ月の後、京へ戻り、再び天台座主に就きました。

 しかし、建武の新政は長続きせず、足利尊氏の反乱により、延元元年(建武3年)(1336年)12月、後醍醐天皇は吉野に逃れ、その後約60年間続く南北朝の動乱が始まります。宗良親王は、征東将軍となって駿河、信濃、甲斐、美濃、越中などを転戦し、その間「新葉和歌集」の選をなし、歌集「李花集」を残しましたが、信濃で亡くなったと云われています。

 また、讃岐には南朝方の武将である新田義貞にゆかりのある人の伝承も残っています。興国3年(1342年)、新田義貞の弟の脇屋義助が南朝から四国方面の大将に任じられて伊予国へ下向します。しかし、義助は四国へ渡ってきたものの、わずか1ヵ月で病死しました。このとき、義助の息子の義治や家臣は讃岐にもやってきたのではないかと云われています。

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(51)“小豆島に残る南北朝時代の恋物語”

小豆島_寒霞渓
 
 小豆島の東部にそびえる星ヶ城山(817メートル)は、瀬戸内海にある島々の最高峰で、北は岡山、東は淡路・鳴門、南は四国の山々まで一望することができます。

 鎌倉幕府滅亡後の1333年(元弘3年/正慶2年)6月、後醍醐天皇は親政を開始しました。これを建武の新政といい、天皇は朝廷による政治を復権しようとしました。しかし、武士層を中心とする勢力の不満を招き、源氏の嫡流を汲む足利尊氏が離反して政権は瓦解しました。尊氏は新しい天皇を立てて京都に幕府を開き、一方、後醍醐天皇は吉野(奈良県)に逃れ、ここに二つの朝廷が並び立つ状態が生まれました。吉野方を南朝、京都方を北朝といい、この両朝はそれぞれ各地の武士によびかけ、以後約60年間も全国にわたる争乱の時代が続きました。これを南北朝の時代といいます。

 1335年(建武2年)11月、足利尊氏が建武政権に対して反旗を翻した時、備前国(現在の岡山県)児島には佐々木信胤(のぶたね)がおりました。佐々木氏は近江源氏の流れで、先祖の佐々木盛綱が源平合戦における藤戸の先渡の功によって備前国児島を賜り、そこに住む子孫が地名から飽浦(あくら)と名乗っていました。尊氏が反旗を翻した時、信胤は尊氏側につき、讃岐の細川定禅と共に京都攻めにも加わっています。

 ところが、その後、信胤は尊氏の重臣である高師秋(こうのもろあき)と菊亭殿女房お妻(又は、お才)の局をめぐって対立し、師秋が都を離れた折りに彼女を奪って児島に連れ帰りました。お妻の局は当時京都で三人のひとりにかぞえられるほどの美女だったそうです。師秋の恨みを受けて武家方にとどまることができなくなった信胤は南朝に転じました。

 1340年(暦応3年)、信胤は、児島から兵を挙げ、お妻の局を連れて小豆島に渡り、星ヶ城山の山頂に城を築き全島を支配しました。小豆島へ拠ったのは、東は熊野水軍や淡路の沼島水軍と手をにぎり、西は忽那島に迎えられていた征西将軍懐良親王らと提携しながら、北朝方の海上交通を断つことにありました。信胤は全島を支配するとともに、強力な水軍を背景として大いに北朝方を苦しめました。

 しかし、8年後の1347年(貞和3年)、淡路・阿波・讃岐・備前4か国の大軍を率いた北朝側の淡路守護細川師氏により攻撃を受け、まる1ヶ月間の合戦の末、その軍門に下りました。家臣の多くは討死したといわれており、島内にはいくつもの「城崩れ」の神社があるといいます。信胤は討死したともいわれ、許されて小豆島「肥土庄」の領家職を与えられたともいわれています。あるいは落ちのびて1362年(貞治元年)の白峰合戦に南朝方として加わったともいわれています。

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(49)“長宗我部元親が四国制覇の野望をいだいた山”


 1573年(天正元年)、織田信長は第十五代将軍・足利義昭を追放し、これにより室町幕府は消滅しました。この2年後、四国では、長宗我部元親が土佐一国を統一しています。そして、その翌年、元親は大歩危・小歩危を越えて阿波池田の白地城(はくちじょう)を攻略し、四国制覇の第一歩を踏み出します。

 白地城は四国の辻といわれ、馬路川に沿って境目峠から伊予へ、猪の鼻峠や曼陀峠を越えて讃岐へ、吉野川沿いに阿波の中心部へそれぞれ進出することができる位置にあります。四国制覇の野望を抱いていた元親は、ある日、白地城の北にそびえる雲辺寺山頂に近従を従えて登ったといいます。この山頂からは眼下に西讃岐の平野と瀬戸内の海が大きく開け、東には阿波の吉野川平野と剣山、西には東伊予から石鎚山まで見渡すことができます。

 山頂には弘法大師が開いたという雲辺寺が建ち、ここで元親は、住職の俊崇坊(しゅんすうぼう)に「伊予、讃岐を平定しようと思うが如何」と四国平定の野望を告げたといいます。これに対して、崇坊は「おぬしは四国を治める器ではない、土佐一国が精一杯じゃ。それは茶釜の蓋をもって水桶の蓋をするようなもの」と元親をいさめたそうです。

 1578年(天正6年)夏、元親は讃岐侵攻を開始します。この頃の讃岐は十河存保(そごうまさやす)を通じて阿波の三好氏の勢力下にありました。元親はまず豊田郡に入り藤目城主・斉藤下総守を計略により降伏させその支配下におきます。しかし、存保の命により讃岐勢に奪回されたため、激戦のすえ再び奪い返します。また三野郡の本篠城主・財田和泉守常久を攻略します。

 翌年(天正7年)春、九十九城の細川氏政、仁保城の細川頼弘など西讃の各城を次々と攻略していきます。そして西讃において最も大きな勢力を持つ天霧城の香川信景と和議を結び、次男の親和を女婿として香川氏に入らさせ、西讃をその勢力下に治めます。香川氏が元親と戦わずその勢力下に入ったのは、十河氏に対する反目があったからともいわれています。次いで、中讃へ兵を進め、羽床城の羽床伊豆守資載を下し、西庄城の香川民部少輔を敗走させます。次いで、翌8年春には、鵜足郡長尾に進出して長尾大隅守を降ろして西長尾山に新城を築きます。

 このような中で、1582年(天正10年)、織田信長が元親の動きを抑えようとします。しかし、同年6月に本能寺の変が起きると、元親はすかさず讃岐進攻を再開します。7月には鵜足郡宇多津の聖通寺山城主・奈良太郎左右衛門を敗走させ、さらに本陣を国分寺に進め、翌月、佐料城・藤尾城の香西佳清を攻め降し、和議を結びます。ここに鎌倉時代以来360年続いた香西氏も元親の配下となりました。

 次いで、この年の8月、元親は十河存保の名代・三好隼人佐が守る十河城を包囲します。同じ頃、阿波の中富川の戦いで十河存保を破り、さらに勝端城を攻め落とし、9月に存保を大内郡の虎丸城へ走らせます。翌年も虎丸城を攻撃し、羽柴秀吉の命により存保救援の命を受けた仙石秀久と引田で戦います。1584年(天正12年)6月、虎丸城はついに落ち、ここに讃岐は親元の手中に帰しました。

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