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(150)“讃岐で密かに亡くなった悲運の皇子”

重仁親王廟

 院政の始まりは、平安時代後期の応徳3年(1086)、第72代白河天皇が当時8歳の善仁(たるひと)親王(第73代堀河天皇)へ譲位し、太上天皇(上皇)となって幼帝を後見するため白川院と称して引き続き政務に当たったことによるといわれています。嘉承2年(1107)に堀河天皇が没すると、その皇子で白河上皇の孫にあたる宗仁(むねひと)親王が4歳で第74代鳥羽天皇として即位します。しかし、政治の実権は祖父の白河上皇が握り続けます。その後、朝廷には「治天の君(ちてんのきみ)」と呼ばれた「院」(出家後は「法皇」といいます。)と天皇の二つの権力が競合併存し、それにともなって権力争いが複雑かつ熾烈化していくことになります。
 保安4年(1123)、白河法皇はまだ20歳の鳥羽天皇をむりやり退位させ、その皇子で法皇の曾孫にあたる顕仁(あきひと)親王を第75代崇徳天皇とします。当時、顕仁親王はわずか5歳でした。白河法皇は曾孫の顕仁親王を非常にかわいがっていたといわれ、それは、顕仁親王は鳥羽天皇と中宮待賢円院璋子(たまこ、権大納言藤原公実の娘)の間に生まれた第一皇子とされていましたが、その本当の父は曾祖父の白河天皇であったためではないかといわれています。顕仁親王は白河法皇と中宮璋子の密通によりできた子であるという噂が囁かれていたのです。譲位した鳥羽天皇は上皇となりますが、政治の実権は祖父の白河法皇が握ったままでした。このようなこともあり、鳥羽上皇は、崇徳天皇のことを、本当は自分の叔父にあたる人(鳥羽の父である堀河の弟)だということから、「叔父である自分の子」という意味で「叔父子」と呼んで忌み嫌っていたといいます。

 大治4年(1129)、76歳という長寿を全うした白河法皇が崩御し、42年間に及ぶ白河院政がようやく終わります。これを機に鳥羽上皇が院政を執り、政治の実権を握ることとなって情勢は大きく変わっていきます。
 保延5年(1139)に鳥羽上皇と後に美福門院(びふくもんいん)と呼ばれる権中納言藤原長実の娘得子との間に躰仁(なりひと)親王が生まれると、鳥羽上皇は躰仁親王を次代の天皇とするためにむりやりそのとき世継ぎのいなかった崇徳天皇の養子とします。ところがその翌年、崇徳天皇は兵衛佐局(ひょうえのすけのつぼね)との間に重仁(しげひと)親王をもうけます。
 永治元年(1142)、鳥羽上皇は躰仁親王が3歳になると、そのとき23歳だった崇徳天皇を退位させて躰仁親王を第76代近衛天皇として即位させます。崇徳上皇は「新院」と呼ばれ、受戒して法皇となった鳥羽上皇は「一院」と呼ばれました。
 しかし、近衛天皇は生まれつき病弱で、久寿2年(1155)、眼病を患ったことにより17歳で崩御します。そのとき、次の帝位の候補者としては、崇徳上皇の皇子である重仁親王(当時16歳)と、鳥羽法皇の第4皇子である雅仁(まさひと)親王(当時29歳)がいました。雅仁親王は、崇徳上皇の同母弟であり、近衛天皇の異母兄に当たります。皇統の順からすれば次は重仁親王が皇位に就くはずでした。また、重仁親王は英明の誉れが高かったのに対して、雅仁親王は若い時から今様などの芸能ばかりに熱中し、「遊芸の皇子」、「文にも非ず武にも非ず」などと評され、天皇としての資質に欠ける人物と見なされていました。このようなことから、重仁親王が第一候補とみられ、崇徳もそのように考えていました。
 ところが、鳥羽法皇は、崇徳上皇の血統を徹底的に排除し、雅仁親王を第77代後白河天皇として即位させ、しかも、その皇子である守仁親王(のちの二条天皇)を皇太子とします。重仁親王は、天皇の第一皇子として生まれたにもかかわらず、完全にその存在を無視されたわけです。自分の皇子を帝位に就け、院政を布くこと絶たれた崇徳上皇の怒りは心頭に達しました。

 保元元年(1156)7月2日、鳥羽法皇が53歳で崩御します。これを機にそれまでの27年間に及ぶ鳥羽院政に対する不満が公家衆、藤原一族の中から噴出し、鳥羽法皇の後継者である後白河天皇に対抗する勢力は、崇徳上皇を旗頭とし、両者の政治的緊張が一挙に高まります。こうして、鳥羽法皇が崩御した後、崇徳上皇と後白河天皇の兄弟対立に端を発した保元の乱が勃発しました。
 この戦いは後白河天皇一派の勝利に終わり、崇徳上皇は讃岐へ配流となります。しかし、その皇子である重仁親王は、寛暁の弟子として出家することを条件に許されます。
 崇徳院の讃岐における配流所は、最初は国府に勤める当地の庁官であった綾高遠(あやたかとう)の邸宅が仮の御所とされ、、やがてその近くの長命寺(ちょうめいじ)とされ、保元3年(1158年)年に国府のすぐ近くの鼓岡(つづみがおか)に造られた行在所(木の丸殿)とされました。
 その配流生活は、食事を運ぶ者以外の人は出入りを差し止められた軟禁状態で、座敷牢に閉じこめられているようなものでした。崇徳院の発言も守護の兵士から国府庁の役人に逐一報告され、厳重な監視の下にありました。

 重仁親王は、乱の後、仁和寺の華蔵院に入り剃髪して出家し、「空性」と称します。そして寛暁大僧正のもとで仏道に励みますが、足の病により応保2年(1162)に享年23歳で死去したといわれています。ただし、親王がどこで亡くなったかについては定かでないようで、長野県川上村には親王が落ち延びてきて隠棲したという伝承が残り、親王を祀る御霊宮(ごりょうのみや)が残っているそうです。
 讃岐に残る伝承では、重仁親王は、父の崇徳院が配流されてから3年後の平治年間、密かに行脚僧の姿となって父君である崇徳院の讃岐の配所を尋ねてこられたといいます。なお、この伝承は、江戸時代の宝暦6年、竹本出雲らの作による浄瑠璃「崇徳院讃岐伝記」の中で、崇徳院の御子である「千里の宮」が女装に身をやつしてひそかに父の居る讃岐へ潜行したという物語となって、上演されています。
 しかし、父子が一緒に暮らすことは到底かなわぬることであり、重仁親王は、綾高遠により密かに崇徳院の配所から東の方向にある檀紙村(現在の高松市檀紙町)にある薬王寺へ送られます。そして親王はそこで寺僧とともに起居し、応保2年1月に亡くなられたといわれています。崇徳天皇の崩御の2年8ヶ月前のことです。重仁親王はひどい頭痛に悩まされていたことから、その地は、以後頭痛よけの守り神となったといわれています。
 檀紙村の薬王寺は、江戸時代初めの万治年間に高松初代藩主松平頼公によって高松城下(現在の高松市番丁5丁目)に移転され、今もその境内には五輪五塔の重仁親王墓が残されています。また薬王寺があったといわれる高松市檀紙町には、今も「重仁親王廟」が残され、地元の人々によって守られています。その廟は、崇徳上皇が葬られている白峯御陵に向かって建てられています。

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(142)“讃岐も戦場になった藤原純友の乱”

 “藤原純友の乱”は、平安時代中期に、西海で勃発した反乱事件です。これに呼応するかのように、ほぼ同時期に東国では、“平将門の乱”が起き、時の朝廷を震撼させました。この2つの反乱は、当時の年号をとって、“承平・天慶の乱”(じょうへい・てんぎょうのらん)と呼ばれ、武士の実力を世に示し、その時代の到来を告げる先駆けとなりました。

 藤原純友は、寛平5年(893)、伊予国で高橋友久の子として生まれたといわれています。高橋氏は伊予の名族・越智氏の一族で、越智郡高橋に代々居住していました。このような出自の純友が藤原氏を名乗るようになったのは、藤原良範(よしのり)の養子になったためです。

 藤原良範の曽祖父は嵯峨天皇の時代の藤原冬継(ふゆつぐ)で、祖父は長良(ながら)といいます。長良は早世しましたが、その弟の良房(よしふさ)は人臣最初の摂政にまで登りつめます。長良には遠経(とおつね)と基経(もとつね)という息子がおり、兄の遠経が良範の父にあたります。弟の基経は叔父・良房の養子となり、養父の位を継承して人臣最初の関白となります。基経は良範の叔父にあたります。
 このような良範の家系から、純友の父の高橋友久は、息子の立身栄達を願い、当時伊予国守をしていた藤原良範に頼み込み、純友をその養子に入れたのではないかと思われます。もちろん、息子を養子に入れるに当たっては、荘園の寄進等の財産的提供を良範に対して行ったことでしょう。
 良範の帰京にともない、純友も京へ上ります。中央官庁に職を得て官位をもらい、箔をつけてゆくゆくは地元に戻るという当時の土着豪族が一般的に進む出世コースをとったわけです。しかし、良範は辛うじて殿上が許される従五位下の大宰小弐(だざいのしょうに)止まりでした。大宰小弐は九州の大宰府に勤める役人です。

 藤原純友は、承平2年(932)、伊予掾(じょう)に任じられます。「掾」とは、守(かみ)・介(すけ)に次ぐ、国司の三等官で従七位下です。純友が伊予国の掾となったのは、純友の養父良範の従兄弟にあたる藤原元名が承平2年から5年にかけて伊予守であったことから、純友はこの元名の代行として現地に派遣されて京へ租税を運ぶ任にあたっていたといわれています。

 承平4(934)年の7月に伊予国喜多郡の不動倉(非常用の穀倉)に貯蔵された米3000余石が海賊から掠奪されるなど、この頃、瀬戸内海では海賊が出没し、税として都へ運ばれる官物が略奪されるという事件が頻発していました。朝廷は海賊を取り締まろうと何度も試みますが、上手くいかず、かえって海上交通が途絶えてしまうという事態に陥っていました。この海賊は、朝廷の機構改革で人員削減された瀬戸内海一帯の富豪層出身の舎人たちだったといわれており、税収の既得権を主張して京へ運ばれる租税の奪取を図っていたものでした。
 藤原純友は、租税を運ぶ任にあたるうちに海賊勢力と関係を結んでいき、伊予掾の4年の任期が過ぎても京へ帰ろうとはせず伊予に留まります。そして、承平6年(936)3月には、純友は、豊後水道に浮かぶ海上交通の要衝・日振島(ひぶりじま)を根拠に1000艘を組織する海賊の頭目となっていたといわれています。
 東国では、承平5年(935)2月に、野本付近の戦いで平将門が伯父の平国香らを破り、平将門の乱が始まっています。

 承平6年(936)6月、紀淑人(きのよしと)が伊予介に任じられ、追捕海賊使(ついぶかいぞくし)の役職も兼ねて伊予に下向します。このとき、紀淑人は、海賊集団約2,500人を、これまでの罪を問わないということを条件に、朝廷に帰順させます。これは、藤原純友が紀淑人に代わって海賊集団との交渉にあたり、一度は配下の海賊を捕らえたことにして、罪を認めた者には田畑を与えて解き放すという密約があったといわれています。
 しかし、朝廷が純友の功績を認めることはなく、純友は朝廷や淑人に対して怨み持ったといわれています。

 天慶2年(939)のはじめ、東国では、平将門が常陸国の国府を襲撃し、平将門の乱が本格的に始まります。その年の夏には西国で旱魃が発生するなど、日本国内に不穏な情勢が漂っていました。
 この年の秋、備前国では受領(ずりょう)の藤原子高(さねたか)が藤原文元(ふみもと)と対立し、同様に、播磨国では受領の島田惟幹(これもと)が三善文公と対立し、紛争化しました。受領とは、地方長官である守が任官されながら実際には任国に赴かず官職に伴う給付だけを受ける遙任(ようにん)国司である場合、それに代わって現地赴任して行政責任を負う国司の筆頭者をいいますが、事実上国衙行政の最高責任者となっていました。そして、その強大な権限を背景に、官人を私的従者のように使役し、莫大な私的蓄財を行うようになっていました。

 藤原文元と三善文公は、純友と同じように、京の貴族社会から脱落した中級官人で、さきの海賊平定の際、純友に与力してその郎等となり土着した者です。受領との紛争の原因は明らかではありませんが、赴任してきた受領に勲功を横取りされたり、搾取の対象となったりしたことで、その支配に不満を募らせていたものと思われます。

 藤原文元と三善文公から加勢を求められた藤原純友は、武装集団を率いて伊予から遠征に向かいます。それを知った藤原子高は妻子を連れて京へと逃亡を図ります。しかし、藤原文元の武装集団に追いつかれ、12月に摂津国菟原郡須岐駅(すきえき)で襲撃されます。子高は耳を切られ鼻を削がれるなどの暴行を受け、子息は殺害、妻は略奪されます。須岐駅は現在の兵庫県西宮市夙川(しゅくがわ)あたりです。この襲撃事件が、藤原純友の乱の始まりです。
 なお、この年の12月頃には、平将門が、自身の謚號を「新皇」と称しています。

 翌年の天慶3年(940)1月、朝廷は小野好古(よしふる)を山陽道追捕使、源経基(つねもと)を次官に任じます。しかし、襲撃事件を起こしたにもかかわらず、朝廷は純友を従五位下に叙し、藤原文元にも官職を与えます。これは、関東で起こっていた平将門の乱に対して兵力を集中させるため、とりあえずは純友の懐柔を図ったものだったのではないかといわれています。純友は官位を受けますが、引き続き淡路国の兵器庫を襲撃して兵器を奪うなどの海賊行為を続けます。

 翌月の2月、純友は、叙位への礼を名目に、武装集団を引き連れて上洛を試みます。これに対して朝廷は、純友の上洛を阻止するために、追捕山陽道使に加えて追捕南海道使を任命します。これは、朝廷が山陽道に加えて、南海道にも反乱鎮圧のための軍を派遣するという意思の表明でしたが、同時に純友に対する牽制の意味もありました。結局、純友は上洛を断念することになります。

 しかし、純友の郎党の藤原文元は、2月頃までに備前・備中を実効支配下に入れます。また、前山城掾の藤原三辰が讃岐国で純友に呼応し、讃岐介の藤原国風(くにかぜ)に対して叛乱を起こします。これによって国風は戦死者数百名を出す大敗を喫し、叛乱軍は国府に乱入して財物を奪い、国府庁を焼き討ちにしました。国風は警固使坂上敏基とともに阿波に退き、さらに淡路に逃れます。讃岐国司だった菅原道真が讃岐を去った寛平2年(890)から50年後のことです。

 ところが、2月14日、関東では平将門が平貞盛(さだもり)、藤原秀郷(ひでさと)らに討たれ、関東での叛乱が鎮圧に向かったため、朝廷はその軍事力を西国に向けることが可能となります。6月、朝廷は、将門討伐に向かった東征軍が帰京すると、藤原文元を藤原子高の襲撃犯と断定して追討令を出します。これは直接純友を罪人と名指しせず、純友配下の武装集団の分裂を誘おうとしたものでした。
 この作戦の効果があったのか、8月、山陽道を進撃する追捕山陽道使小野好古の軍は、備前・備中・備後の制圧に成功します。このため、この地域を支配していた藤原文元や三善文公は藤原三辰を頼って讃岐に逃れてきますが、朝廷軍の追求が急であったため窮地に陥り、純友に助けを求めます。
 この時点で純友は、遂に朝廷に対して公然と叛旗を翻すことを決断したと考えられています。8月中旬、純友は400余艘の兵船を率いて讃岐国に入り、藤原文元・藤原三辰らと合流して朝廷軍の船を焼き払い、海賊軍の先頭に立って合戦に及びます。こうして藤原純友らの叛乱は本格的な戦乱へと発展し、「賊首純友」の名前は確定してもはや後戻りは出来ないことになりました。純友の兵船は、10月には安芸・周防国方面を、11月上旬には周防国鋳銭司を、12月中旬には土佐国幡多郡を、つぎつぎと襲撃します。そのような神出鬼没な純友の攻勢を朝廷軍側は抑えることができず、年を越します。

 翌年の天慶4年(941)2月、情勢は急展開します。この年の初め、藤原恒利(つねとし)が、藤原純友率いる叛乱軍から寝返り、讃岐国で朝廷軍の先導を行います。これによって朝廷軍は、讃岐の叛乱軍の鎮圧に成功し、藤原三辰は捕縛され、処刑されたのち、京にて曝し首にされます。この戦い以降、情勢は朝廷側に有利に傾き、2月には純友の本拠地である伊予の叛乱鎮圧にも成功し、これにより純友は大打撃を受けます。

 本拠地の伊予を失った純友は、日振島にたてこもり、反撃の機会をうかがいます。そして、その年の5月、純友は意表をついて博多湾に上陸し、西国政治の拠点である大宰府を急襲します。純友軍には、受領層とは対立していた豊後・日向らの九州の有力豪族も参加していました。純友軍は、大宰府に蓄えられていた財物を強奪し、大宰府の政庁施設に火を放ち、政庁は炎上、焼失しました。

 しかし、藤原純友の大宰府襲撃に対する朝廷の反撃は素早く、この年の5月の下旬には海陸両面より追撃を開始し、純友が率いる武装集団の船を焼き払い、純友軍を壊滅に追い込みます。純友とその息子の重太丸は、本拠地である伊予国へと落ちのびますが、6月中旬に伊予警固使の橘遠保(たちばなとおやす)に捕縛され、斬首されました。その首は酒漬けにされて京へ送られたといいます。ここに天慶2年(939)から天慶4年(941)まで続いた藤原純友の乱は終結しました。

 天慶5年(942)3月、論功行賞が行われ、征西軍長官の小野好古は太宰大弐・参議・従三位に、次官の源経基は太宰少弐・右衛門権佐・正四位にそれぞれ叙されました。

 讃岐には、平将門の長子と伝えられている平良門(よしかど)らが落ちのびてきたという伝承が残っています。太郎良門は、家臣の貞廣丑之助、神戸城太郎、下戸城五良、成房三良、成行十郎、成行千代春ら6人とともに、善通寺五岳山の西端の火上山(ひあげやま)の南麓にあたる三豊市高瀬町の音田(おとだ)の毘沙門谷(現在は、おにが谷)という所に落ちのびてきて、そこに住み着き、六名(ろくみょう)を名乗ったといいます。

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(141)“応天門の変に連座した讃岐の恩人”

 10世紀後半から11世紀頃の平安時代、藤原氏が代々摂政や関白となって、天皇の代理者・補佐者として朝廷の実権を独占し続けた政治形態を摂関政治(せっかんせいじ)といいます。この摂関政治のさきがけは、平安時代前期に藤原良房(よしふさ)と基経(もとつね)の親子が摂政・関白になったことによるといわれていますが、良房・基経の親子が朝廷内で実権を握るきっかけになった事件が貞観8年(866年)に起こった応天門の変です。歴史の教科書などには、応天門炎上とそれにおどろく群衆の動きをみごとに描写した伴大納言絵詞という絵巻がよく掲載されています。
 この政変では、紀夏井(きのなつい)という貴族が連座して土佐へ配流となっていますが、夏井は国司として讃岐に赴任して善政を行った讃岐の恩人ともいうべき人です。

 貞観8年(866)閏3月10日、平安宮大内裏の正殿入り口にあたる応天門が炎上し、京中大騒ぎとなります。ほどなく、大納言・伴善男(とものよしお)が、この火災は左大臣・源信(みなもとのまこと)が伴氏を呪って大伴氏が造営した応天門に放火したものだと、右大臣・藤原良相(よしみ/よしあう)に告発しました。なお伴氏は大伴氏の子孫で、大伴皇子のとき、その名を避けて伴氏と姓を改めたものです。その告発を受けた良相は藤原基経に命じて、源信を逮捕させようとします。良相は時の太政大臣・藤原良房の弟で、基経は良房の嫡子(養子)にあたります。
 藤原基経は事の重大さからこれを父・藤原良房に告げると、良房は清和天皇に奏上して源信を弁護します。これにより、源信は無実となり難を逃れます。
 しかし、事件はこれに止まらず、2ヶ月後の8月3日、大宅鷹取(おおやけのたかとり)という下層の官人が、伴善男とその子・伴中庸(ばんのなかつね)が放火犯人であると検非違使に訴え出ます。鷹取は応天門の前から善男と中庸が走り去り、その直後に門が炎上したと申し出たのです。
 9月22日、朝廷は伴善男らを応天門の放火の犯人であると断罪します。事件は、源信の失脚の機会を狙っていた善男が、応天門の炎上を源信の放火のせいにして、源信の左大臣解任を謀ったともいわれています。善男は当然大逆罪として斬刑となるところを、特に死一等を減ぜられて伊豆国に遠流となり、財産いっさいを没収されます。また、伴中庸は隠岐国遠流となります。このとき、伴氏に仕えていた紀豊城(きのとよき)も陰謀に加わったとされ安房国に流されますが、紀夏井は豊城の異母兄だったため、連座制の適用を受け官職を解かれて土佐国へ配流となります。

 紀夏井は、応天門の変が起こる前の天安2年(858)、讃岐守に任じられ赴任しています。空海がなくなった承和2年(835)から25年後のことです。夏井は讃岐では善政を施したので、民は家業に励むことができ、深く夏井の人徳になついていたといわれています。貞観4年(862)に4年の任期が満了して帰京することとなったときには、百姓たちが大挙して役所に出向いて留任を懇望したので、讃岐守を2年延伸されて留まっています。このため、讃岐の百姓の暮らしぶりはさらによくなって納屋には五穀が蓄えられ、凶作に備えるためのもみ米を蓄える大蔵が40棟ほど建てられたといいます。やがて、任期が終わり夏井が帰京するとき、百姓達は餞別を送ろうとしましたが、夏井は決して受け取らなかったといいます。京へ帰った後に讃岐から愛好物や食糧品が送られてきても、紙と筆だけを受け取り、他のものはすべて送り返したといわれています。
 紀夏井は、能書家しても名高く、特に楷書の分野においては聖とまで言われるほどの才能を発揮し、さらに囲碁の分野でも名人として名を馳せるなど、多様な才能を持つ人物として、京においてもその名を知られていたそうです。
 応天門の変に連座して土佐国へ配流される護送中、讃岐を過ぎるとき、讃岐の百姓たちは讃岐国内から土佐国の境まで付き随い、老若男女が別れを悲しんで、その泣く声は数十里も続いたといわれています。その後、配所で没したと言われています。
 紀夏井が讃岐守の任期を終えて20余年後に、菅原道真が国守として讃岐に赴任していますが、讃岐国の百姓は紀夏井の善政を忘れていなかったため、道真は夏井と比較され国政運営で難渋したともいわれています。夏井の人徳がよほど深く讃岐人の心に刻まれていたのでしょう。
 ちなみに、同じ紀氏で、「土佐日記」の著者として知られる紀貫之(きのつらゆき)が、土佐守に遷任されて赴くのは、応天門の変から64年後の延長8年(930)のことです。

 伴善男が応天門放火犯人として捕らえられて間もなく、藤原良房は皇族でない貴族として初めて正式に摂政に命じられます。また、良房の死後、養子の基経は、日本史上初の関白に就任します。これにより、古代からの名族である伴氏(大伴氏)や紀氏の政界における地位は没落します。
 基経の死後、第59代宇多天皇は摂政・関白を置かず、菅原道真(すがわらのみちざね)を登用して藤原氏を押さえようとします。第60代醍醐天皇のときには、基経の子・時平(ときひら)が左大臣に、道真が右大臣になりますが、時平は策謀を用いて昌泰4年(901)に道真を左遷へ陥れます。しかし時平は摂政・関白に就任する前に没します。
 第61代朱雀(すざく)天皇のとき、藤原時平の弟・忠平(ただひら)が摂政・関白の地位につき、藤原氏の地位がほぼ確立しますが、その死後、第62代村上天皇のときには親政が行われ、摂政・関白の座は空位となります。しかし、村上天皇の逝去により、忠平の子・藤原実頼(さねより)が関白に就任し、以後、明治維新までほとんど摂政・関白が置かれるようになり、その地位にはかならず基経の子孫がつくのが慣例となります。なお、醍醐・村上天皇のときの親政を延喜・天暦の治(えんぎ・てんりゃくのち)といいます。
 摂関家の勢力が最も盛んであったのは、11世紀の藤原道長(みちなが)とその子頼通(よりみち)の時代で、道長の子・頼通は関白を50年の長きに渡って務めています。しかし、摂関政治は、応徳3年(1086)に白河天皇が上皇となり、いわゆる院政を開始したことにより終焉します。

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(138)“シルクロードと繋がるという「さぬきうどん」”

 日本の各地には様々なうどんがあります。秋田の稲庭うどん、群馬の水沢うどん、埼玉の加須うどん、山梨のほうとう、名古屋のきしめん、三重の伊勢うどん、大阪のきつねうどん、福岡の丸天うどん、等々です。それらの中でも、香川県特産のものは“さぬきうどん”と呼ばれています。「さぬき」とは香川県の旧国名のことです。
 香川県人は概してうどん好きで、昔から、半夏(はんげ)、虫送り、冬至、祭りなどのハレの日や法事のときには、必ずうどんが振舞われてきました。食事が済んだ後でも、別腹といってさらにうどんを食べる人や、さらにはうどんをおかずにしてご飯を食べる人もいます。多度津では、まだろれつの回らない子供がうどん好きの人を、「たろつのかろのうろんやで うろんろっぱいくうてはらろぐろぐ」(多度津の角のうどん屋で、うどん六杯食うて腹ログログ)といってからかったそうです。また、宇高連絡船が就航していた当時は、多くの香川県人が、連絡船甲板のスタンドで供されるうどんに帰郷を実感したものです。平成18年(2006)8月には、香川県出身の本広克行監督により“さぬきうどん”を題材にした「UDON」という映画も製作されています。
 香川県に住む者にとって、うどんは日常的な食べ物となっており、香川県のうどん屋の数は、800軒から1100軒程度あるのではないかといわれています。香川県の総人口は約100万人程度ですから、人口当たりのうどん屋の数すなわち“うどん屋密度”は、全国一だといわれています。その多くは、セルフサービスの店で、自分の好みに合わせて、“かけ”、“かやく”、“わかめ”、“てんぷら”、“ざる”、“天ざる”、“釜揚げ”(かまあげ)、“釜天”、“湯だめ”、“ぶっかけ”、“しっぽく”、“釜玉”(かまたま)、“生醤油”(きじょうゆ)等々様々なうどんを食べることができます。また、“肉うどん”や“カレーうどん”もあります。

 “さぬきうどん”の特徴といえば、なんといっても麺の“コシ”でしょう。また“ダシ”とそれに上に載せる“具材”にも特徴があります。
 まず、麺の“コシ”ですが、これは、麺の硬さとは異なりコシコシとした歯ごたえ感があって喉越しがいいというような食感です。この“コシ”はうどん屋ごとに全く異なり、香川県人が“さぬきうどん”を評価する場合の最も重要なポイントです。人によれば、麺の食感だけを純粋に味わうために、うどんに醤油を少しかけただけで賞味することもあります。
 この“コシ”ができる秘密は、うどんの原料である小麦粉の中に6~15%含まれているタンパク質にあります。そのタンパク質の約85%は、ほぼ同量のグリアジンとグルテニンという成分からなっていますが、グリアジンは弾力性が低く伸縮性が高いのに対して、グルテニンは弾力性が高く伸縮性が低いというそれぞれ異なった性質を持っています。そして、小麦粉に水を加えて捏ねると、この異なる二つの性質のタンパク質が絡み合って弾力性と粘着性の両方の性質を適度に兼ね備えたグルテンという成分になり、これにデンプンが結びつくことによって麺体が作られます。
 グルテンは小麦に特有なタンパク質であり、パンのふくらみやラーメンの歯ごたえもグルテンの働きによるものです。そば粉や米粉が麺体になりにくいのは、小麦粉のようにグルテンを含まないからです。そして、グルテンは、原料となる小麦の種類や品質、加える水の量や捏ね方によって、粘着力が強かったり、弾力が強かったりするので、この複雑に絡み合うグルテンの違いによって、うどんの“コシ”の食感に差が生じてきます。こね、足踏み、打ちなど古くから伝わった麺の鍛え方により地域や店によって“コシ”に違いが出るというわけです。
 さらに、塩も麺作りにとって重要な要素です。小麦粉に塩が加えられることによって、グルテンが引き締められて粘弾性が増加し、また小麦粉の味と香りが引き立てられます。このため美味いうどん作りには、適度の食塩が不可欠で、小麦粉を溶く塩水の水と塩の割合が重要となります。この割合のことを、讃岐では、昔から、俗に「土三寒六(どさんかんろく)」と呼び、美味いうどん作りの秘訣とされてきました。これは、バケツ一杯の水を使って小麦粉を団子にする場合、暑いときにはまずそのバケツに3分の1の塩を入れ、寒いときにはそのバケツに6分の1の塩でよい、ということです。
 “コシ”があって美味しいのは、打ちたてを茹でて水で締めた直後だとされています。

 次の“ダシ”ですが、“さぬきうどん”では、かけ汁にイリコの出汁を使い、これを“ダシ”と呼んでいます。香川以外のところでは、鰹節と昆布の一番出汁を“うどんつゆ”として用いているところが多いようです。
 イリコは、煮干し(にぼし)イワシのことで、鰹節よりも濃厚な出汁を作ることができます。香川県観音寺市の10Km沖合いに浮かぶ伊吹島は、このイリコの産地として知られており、その品質、味は日本一であるといわれています。島の周囲に広がる燧灘(ひうちなだ)は、イリコの原料であるカタクチイワシの好漁場となっており、水深が浅く、海の流れも緩やかなため、ここでとれるイワシは骨や身がやわらかく、イリコにしたときに水が浸透しやすく、ダシの出がよいといわれています。また、伊吹島では、漁を行う網元が加工までを一貫して行っているので新鮮な状態で加工されており、イリコの品質が良いといわれています。

 三番目の“具材”ですが、香川では、よく麺の上に“具材”を載せて一緒に食べます。“具材”には、ちくわの天ぷら、海老の天ぷら、イカゲソ、タコの天ぷら、かき揚げ、甘辛く煮た油揚げや牛肉、天かす、じゃこ天など魚肉を使った練り物の天ぷら、生卵、半熟卵、コロッケなど様々なものが用いられ、セルフサービスの店では色々な具材を自分の好みに合わせて選ぶことができます。香川県人にとっては、うどんに様々な具材を載せて一緒に食べるということは常識ですが、県外人には珍しく映るようです。

 うどんの原料である小麦の原産地は、現在のカスピ海南岸地域、アフガニスタンからイラン、イラクにかけての地域だと考えられています。それが、西に伝わり「パン文化圏」、東に伝わって「麺文化圏」となりました。
 日本では、紀元前5~3世紀の縄文時代晩期ないし弥生時代の初期にかけて、既に小麦の栽培が始まったものと考えられています。8世紀には「小麦と大麦を植えるように」という詔勅が出ており、「古事記」にも、スサノヲノミコトに関連するエピソードの中に小麦が登場しています。しかし、この頃までは小麦は雑穀の一つに過ぎなかったものと思われます。
 うどんのルーツは、奈良時代に発達した“混沌(こんとん)”という小麦粉を丸めて煮た団子のようなもので、その原型は7~8世紀ごろ、飛鳥時代から奈良時代にかけて中国から伝えられたものと考えられています。それが日本人の口に合ったものにされていき、室町時代には“饂飩(うどん)”になります。その製法は、基本的に現在とほぼ同じだったようで、今日のうどんの元祖だと考えられています。しかし、この頃までのうどん類は、公家や武家が仏事の集会などにおいて、「点心」という今で言うおやつの一つとして食べられていたようです。うどんが現在のように庶民の食べ物として普及したのは江戸時代からのことです。江戸時代前期の元禄の頃には江戸、京、大坂、そして讃岐の琴平にもうどん屋が出現しています。

 ところで、香川には、うどんはお大師さん、すなわち空海が中国から持ち帰ったものだという言い伝えがあり、善通寺市には犬塚伝説という伝承も残っています。この伝承は次のような物語です。
 唐での留学を終えた空海は、日本に帰るとき、小麦の種を持ち帰ろうとしました。しかし、当時、小麦の国外持ち出しは禁止されていて、唐の役人が小麦の臭いを嗅ぎわけることのできる犬を使って、国外持ち出しをチェックしていました。今の麻薬犬のようなものでしょう。そこで空海は、足のふくらはぎのところを切って、その中に小麦の種を隠していました。検査のとき、犬は空海のところで吠えましたが、小麦を隠していることは発覚しませんでした。空海はその犬を不憫に思い日本に連れて帰りました。その犬が死んだときに葬られたところが、現在の善通寺国立病院近くにある犬塚だということです。
 空海は、奈良時代の末期宝亀5年(774)6月15日、現在の善通寺の地で誕生し、平安時代初頭の延暦23年(804)31歳のとき唐の長安(現在の西安)に留学し、大同元年(806)に帰朝しています。前述のように、小麦が日本に伝播したのはそれよりももっと早い時代で、うどんのルーツもすでに奈良時代にはあったようです。しかし、うどんは空海が中国から持ち帰ったという伝承は、全く根拠のない作り話だともいいきれないところがあるように思われます。

 空海が留学した当時、唐は広大な領土を有する世界国家であり、その都である長安には日本や新羅、吐蕃など周辺諸国からの使節・留学生が訪れていました。また、長安はシルクロードの東の窓口であったことから、西域から僧侶や商人たちなども訪れ、仏教のほか、イスラム教・マニ教・景教(ネストリウス派キリスト教)・ゾロアスター教などの寺院が建ち並ぶ国際色豊かな都市でした。ちなみに西遊記の三蔵法師のモデルとなった玄奘三蔵(げんじょうさんぞう)がガンダーラから膨大な経典を長安に持ち帰ったのは、西暦645年といわれており、空海が長安に行く約160年前のことです。
 当然のことながら、西域の様々な文物もシルクロードを通じて盛んに長安に流れ込んできており、品種改良された小麦の種子や小麦を原料とする麺の様々な製法もその中に含まれていたと思われます。現在でも西安の人たちは小麦を主食としており、それを様々な麺にして食していますが、空海が留学していた当時も、長安では色々な麺を食べられており、空海も麺を食べたと想像されます。

 空海をはじめ中国に留学した僧は、仏教以外にも様々なものをわが国に持ち帰りましたが、その中に品種改良された小麦の種子やそれを原料とする麺の製法もあったのではないかと考えられます。僧は肉食を禁じられていたことから、小麦は貴重な植物性タンパク質の補給源として僧侶たちの間で食されていたのではないでしょうか。
 小麦と米のタンパク質含有量を比較すると、日本の玄米が平均6.8パーセントといわれているのに対して、小麦は6~15%含まれています。また、タンパク質は水の吸収を阻害することから、ご飯を炊くときにデンプンの膨潤を抑えてしまう働きがあり、同じ品質の米でもタンパク質の含有の高いものは粘りが弱くなり、その含有が低いものは粘りが強く炊き上がりもふっくらとしたご飯になります。したがって、粘りのある美味しいご飯ほどタンパク質の含有量が低くなります。
 また、小麦にはビタミンB1が含まれており、食べることにより脚気を防止することができます。
 このことからすると、米飯中心の食生活をする場合、小麦は貴重な栄養の補給源となることが僧侶たちの間で経験的に知られていたのではないでしょうか。

 讃岐は古代、仏教の先進地で、白鳳時代にすでに17か寺、奈良時代には31か寺を数えていたといわれます。伊予・阿波が各10数か寺、土佐が5か寺、備前・備中・備後が各20か寺前後といわれており、讃岐の仏教文化の高さがうかがえます。これは、讃岐と吉備(岡山)との間にある備讃瀬戸は、畿内に近い瀬戸内海沿岸の中では最も海が狭くなるところで、讃岐の港には、中国大陸と畿内を往来する船が頻繁に立ち寄り、先進の仏教文化を伝えたことと関係があるように思われます。そして、中国で学んだ僧たちは、讃岐に上陸したとき、讃岐の寺院で起居する僧の集団に、品種改良された小麦の種子やそれを原料とする麺の製法を伝えたのではないでしょうか。それが、後に庶民一般に広まっていったのではないでしょうか。「お大師さんが中国から持ち帰った」というのは、「僧が中国から持ち帰った」ということであり、その意味するところは、“さぬきうどん”は讃岐の古代仏教文化によって産み出されたということではないでしょうか。
 ちなみに、中国西域奥地にあるタクマラカン沙漠で「楼蘭の美女」と呼ばれるミイラが発見されていますが、その棺の中には草編みの籠が入っていて、その中には小麦の種子があったそうです。そのミイラは紀元前1800年ぐらい前の人だということですが、最近の科学的研究によると、その小麦と讃岐の小麦のDNAとは一致するといいます。

 13世紀の鎌倉時代になると、土地利用率の向上によって集約的に多くの生産をあげることを目的として、稲作のあとに裏作として麦をつくる水田二毛作が発達します。裏作の麦は租税対象とされずに農家の収入となったため、零細な農家の経営を支えることになったといわれています。
 讃岐は、温暖な気候であることから水田二毛作が発達し、しかも冬場に雨が少ないことが小麦の栽培に適していたため、“さぬきうどん”の原料となる良質の小麦を産したものと考えられます。興味深いことに、中国の西安(かっての長安)と讃岐は同緯度にあります。この小麦の生産に加え、瀬戸内海沿岸で生産される良質の塩やイリコ、醤油など、うどんの材料となる主要な産物が入手しやすかったことも讃岐でうどんが発達した大きな要素だと考えられます。
 しかし、戦後の高度経済成長以降は、裏作として小麦栽培も行われなくなり、“さぬきうどん”の原料となる小麦粉の多くは、オーストラリア産の「Australian Standard White」(略称ASW)が用いられていました。こうしたことから、讃岐産小麦で作られた本場の“さぬきうどん”作りを目指し、2000年代に入り、讃岐うどん用小麦として新品種の「さぬきの夢2000」が開発されています。

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テーマ : 香川
ジャンル : 地域情報

(131)“讃岐に残る平家落人伝説”

 現在の三豊市高瀬町羽方に鎮座する大水上神社(おおみなかみじんじゃ)は、讃岐二宮と称される古社です。ちなみに讃岐一宮は高松の田村神社です。大水上神社の境内左手には、四社宮という平教盛(のりもり)、平経盛(つねもり)、平資盛(すけもり)、平有盛(ありもり)の四人を祀る小祠があります。教盛と経盛は平清盛の弟、資盛と有盛は清盛の孫にあたり、関門海峡での壇ノ浦の戦いの敗戦の中でともに海中に身を投じて果てたといわれています。
 元暦元年(1184)2月15日の屋島合戦の前、大水上神社は平家から戦勝の祈願を受けましたが、その効なく平家は滅亡してしまい、その後、神社に災いが続いたそうです。これは平家の祟りだろうということで、それを鎮めるために四社宮が営まれたといわれています。おもしろいことに、同年の2月25日、大水上神社は源氏からも戦勝祈願を受けています。
 現在の東かがわ市大内町水主に鎮座する水主神社(みずしじんじゃ)も、屋島合戦の前に、源氏と平氏の両方から戦勝祈願を受けたといわれています。平教経(のりつね)が大雁股を奉納し、また、源義経が大坂越えをして屋島へ向かう途中、鞍を奉納したといわれています。平教経は、平清盛の弟にあたる平教盛の次男で平国盛の別名です。平家随一の猛将として名高く、数々の合戦において武勲を上げたといわれています。

 源氏と平氏の両方から戦勝祈願を受けた神様は、結局、源氏に軍配をあげ、元暦2年(1185)2月19日、平氏一族は屋島の戦いで源氏に敗れ、生き残った者たちは散り散りに逃げて行きました。徳島県の祖谷地方には平氏の落人が逃れてきたという伝承が残っていますが、それによると、平国盛は、屋島の合戦に敗れた後、安徳天皇を奉じ、手勢を率いて陸路東に逃れ、現在の大内町の水主村にしばらく潜伏した後、讃岐山脈の大山を越えて吉野川をさかのぼり、奥深い祖谷山に入ったといいます。讃岐にも平家の落人が隠れ住んでいたという伝説が残っています。

 観音寺市大野原町には五郷ダムがありますが、そのダムの中ほどに架かる「有盛橋」を東に500メートルほど行くと、有木(ありき)という集落があります。ここには、関門海峡での壇ノ浦の戦いで亡くなったとされている平有盛(ありもり)が落ち延びてきたという伝承が残っています。平有盛は清盛の息子・重盛の四男で、小松少将と呼ばれた武将です。有盛はしばらく有木に留まっていましたが、愛用の小烏丸(こがらすまる)という太刀をこの地に残し、もっと奥深い祖谷へ移り住んだといわれています。安土桃山時代の慶長の頃、この太刀を生駒一正が高松へ持ち帰ったところ、いろいろ怪奇があったため有木に返したという話も伝えられています。
 今でも有木には「えかた」という所があるそうですが、これは有盛が住んでいたという「やかた」が訛ってそのように呼ばれるようになったといいます。また、宝屋敷、上屋敷、中屋敷、下屋敷、烏帽子屋敷、神子谷(巫女谷)、王塚、鞍掛松、高旗など平家にまつわる地名や、平岡、平口、平野という平家にちなむ姓があるといいます。
 また、有木の里では、戦後しばらくまで、源氏の旗が白旗だから、鶏やウサギなど白い家畜は飼わず、衣類や祭りの幟も白いものは避けて色物を使っていたとか、有盛が小黍(こきび)の畑で討死したといわれることから里人は決して小黍を作らなかったなど独特な風習や伝統が残っていたそうです。

 まんのう町琴南美合の土器川をさかのぼった竜王山の標高650m前後の山腹には、横畑という集落があります。ここには、源平屋島合戦で敗れた平国盛ら数十騎が、阿波の祖谷へ落ち延びる途中、平寿盛の一族数人が住み着いたという伝承が残っています。平寿盛は清盛の息子・知盛(とももり)の三男だといわれています。
 横畑という地名は、平家の軍旗を横に倒して農民になったから「横旗」すなわち横畑になったといわれています。横畑集落の下方の入口には木戸、尾根越えの寒風峠には物見櫓があり、見張りの人が住んでいた「キビジリ屋敷」という屋敷跡が残っているそうです。また、今でも十数基の墓が現存し、墓碑に平寿盛の孫であると刻されている墓も残っているそうです。

 三木町西鹿庭の竹尾にも平家の落人が隠れ住んだという伝承があります。屋島合戦のとき、筒井日向守孫兵衛という武将が、平宗盛の命を受けて、源義経の軍が阿波から讃岐山脈の清水峠を越えて進撃してくるのに備えていました。ところが義経は北方の海岸沿いに丹生・石田・白山・高田を越えて屋島を背後から攻撃してきました。逃げ遅れた日向守は家来を連れて山中に分け入り、途中で一人の狩人に匿われて竹尾の山里に逃れたということです。今も竹尾には、日向守の屋敷跡や、日向守を祀るという日向大明神が残っているといいます。

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(127)“神戸と讃岐を結ぶ平清盛にまつわる伝承”

 瀬戸内海沿岸には人口100万人を超える政令指定都市が3つありますが、その一つ神戸は、港とともに近代以降に発展した都市といえます。幕末の慶応3年(1868)に兵庫港が開港した当時、神戸の人口は2万人程度だったようですが、約70数年後の昭和16年(1941)には100万人の人口を擁する都市へと発展しています。しかし、その歴史は古く、現在の神戸港は、瀬戸内海航路の物資集散地や大陸との交易の拠点として栄えた大輪田泊(おおわだのとまり)と呼ばれた古代の港に始まります。
 神戸市兵庫区に島上町というところがあります。ここに地元では築島寺(つきじまでら)の名称で親しまれている来迎寺(らいごうじ)という寺があります。本堂正面の上には平家清盛流の蝶の家紋が飾られている平家ゆかりの寺です。この寺の境内には、松王小児(まつおうこんでい)と祇王(ぎおう)・祇女(ぎにょ)姉妹のものといわれる供養塔があります。これらには平清盛にまつわる物語があり、讃岐にもこれらにつながる物語が残されています。

 平安時代末期の二条天皇の御代、平清盛は、宋(中国)との貿易を拡大するため、その拠点となる大輪田泊の大修築を企てます。大輪田泊は旧湊川河口とその西側にある和田岬に挟まれた入江にあり、和田岬が西風を防いでいましたが、旧湊川の氾濫や風波で東北側の堤防がたびたび決壊していました。そこで、清盛は東南の沖合いに強固な人工島を築造して東南の風からの防波堤にしようとしました。なお大輪田泊は現在のJR兵庫駅の東、新川運河の辺りだと考えられています。
 清盛が築造を企てた人工島の大きさは、甲子園球場が7~9つ入るほどの規模だったといわれており、民役5万人を動員して塩打山(塩槌山)を切り崩し、約3キロにわたって海中に突き出す工事を行わせたといいます。しかし、潮流が早いため非常な難工事となり、完成目前に押し流されることが二度に及びました。
 このため、さすがの清盛も逡巡し、今後の方策を当時の陰陽博士、安部秦氏に占わせます。すると、これは竜神の怒りであるから、30人の人柱と一切経を写書した経石を沈めて築くとよい、との言上でした。そこで清盛は生田の森に隠れ関所を構えて往来する旅人から30人を捕らえさせますが、さすがに罪の深さを知り、決行に踏み切ることを躊躇していました。
 このとき、清盛の侍童(じどう)をしていた松王小児という当時17歳の少年がすすみ出て、「30人の身代わりにわたし一人を沈めて下さい」と申し出ました。松王小児は、讃岐の香川郡円座村(現在の高松市円座町)の出身で、その父は中井城主・中井左馬允といい、その祖父は香川郡辺河村(かわなべむら)(現在の高松市川部町)にあった中田井城の城主・中田井民部です。中田井民部のときに居城を辺河から隣接の円座に移し、中井姓を名乗っていました。中井氏は代々、平清盛に仕えてきた家柄で、松王小児も清盛に見出され、14歳のときからその側近として仕えていました。
 なお、現在の高松市仏生山町の法然寺の南側には平池(平家池)というため池があり、この池は高倉天皇の御代の治承2年(1178)、平清盛の命令を受けた阿波民部田口良成(たぐちよしなり)によって築造されたといわれています。当時、この高松の辺りは平氏の支配下にあったのかもしれません。ちなみに、この池には、人柱になった少女の「いわざらこざら」の伝承が残っています。
 松王小児の言葉に大いに感心した清盛は、その意志を入れ、応保元年(1161)7月13日、一切経を写書した経石と松王小児を入れた石櫃が沈められました。こうして、承安4年(1174年)、難工事であった埋立も竣工しました。その埋立地は経文を記した石を沈めて基礎としたので経が島(きょうがしま)と呼ばれ、その上にできた町は経が島の上にできた町という意味から「島上町」といわれるようになりました。ただし、一説には、平清盛は何とか人柱を捧げずに埋め立てようと考え、石の一つ一つに一切経を書いて埋め立てに使い、その後、無事に工事が終わったためにお経を広げたような扇の形をしたこの島を「経が島」と呼ぶようになったともいわれています。経が島は、おおよそ神戸市兵庫区の阪神高速道路3号神戸線以南・JR西日本和田岬線以東の地であるとみられています。
 二条天皇は自ら人身御供(ひとみごくう)になった松王小児に感動され、その菩提を永く弔うため寺を建立しました。その寺が、今の来迎寺だということです。讃岐にも現在の高松市円座町に松王小児の墓が残っています。

 次は祇王と祇女の物語です。
 平安時代末期には、白拍子(しらびょうし)という歌舞が流行していました。これは、水干(すいかん)・立烏帽子(たてえぼし)・緋の長袴を身につけ、蝙蝠(かわほり)と呼ばれる扇子の一種を持って舞う芸能です。この言葉が転じてこれを舞う遊女も白拍子と呼ばれ、その中には身分の高い貴族や武士の屋敷に出入りし、その愛人になった者もいました。その代表的な女性が源義経の愛人だった静御前です。
 平清盛が権勢を振るっていた頃、祇王と祇女という白拍子の姉妹がいました。姉の祇王は清盛の寵愛を受け、その母や妹も面倒をみてもらい何不自由の無い生活をしていました。そこへ、仏という名の白拍子が清盛に目通りを請いに来ました。清盛は最初は全く取り合いませんでしたが、祇王のとりなしでしぶしぶその舞を見ます。ところが、その舞を見て、たちまち仏に心を奪われ、邪魔になった祇王を屋敷から追い出してしまいます。
 涙ながら屋敷を出てもとの貧乏暮らしをしていた祇王らのところに、ある日、清盛から仏御前が寂しそうなので参上してなぐさめよという使いが来ました。祇王は行く気もありませんでしたが、母に諭されてやむなく参上しました。ところが、その扱いは非常に冷淡なものでした。それでも涙を抑えつつ歌い舞い、公卿から侍にいたるまで、見た者はみな感涙に耐えませんでした。しかし清盛の言葉は、冷淡なものでした。
 祇王は、悔しさと悲しさのあまり、妹とともに自害しようとします。しかし、母に諭され思いとどまります。そして、母と2人の娘は、共に剃髪して嵯峨の山里にあった小さな庵に籠もり、そこで念仏三昧の静かな暮しに入りました。
 その後、ある日、その庵に、剃髪して尼になった仏御前が訪れてきました。4人は一緒に庵に籠もり念仏三昧の日々を過ごし、それぞれ往生を遂げました。その庵は今の京都の奥嵯峨にある祇王寺だということです。
 神戸の来迎寺に伝わる話では、祇王と祇女は、奥嵯峨で庵を結んだ後、平家が滅んだため、平家ゆかりの兵庫の寺に住持して一門の菩薩を弔ったということです。
 一方、讃岐に伝わる話では、祇王と祇女は、奥嵯峨に身を隠した後、清盛からもう一度よりを戻したいという誘いを受けましたが、それを振り切り、海を渡って讃岐の安原郷下谷の里に一時落ち着いたとされています。そこは現在の高松市香川町東谷地区の祇園山(標高275メートル)西麓にある専光寺という寺の門前付近だといわれています。そして平家が滅んだ後、姉妹は奥嵯峨に戻ったとされています。
 祇園山はかって「祇王山」と呼ばれ、この寺の山号も祇王山頓乗院といい、姉妹の念仏だったという石仏が本堂に祀られ、寺の記録にも姉妹のことが記されているそうです。また、この寺の近くには姉妹の後を追ってきた仏御前にちなむ「仏坂」という地名も残っているそうです。
 ちなみに、高松市香川町東谷には、祇園座という農村歌舞伎が残されており、この地区が祇園山を仰ぐことから祇園座というようになったといいます。祇園座は、安政年間(1854~1860)には既に行われていたといい、芸能をよしとした祇王・祇女姉妹の隠棲の地にふさわしく、今もその伝統を守り活動が続けられています。

 松王小児や祇王・祇女姉妹の物語が史実かどうかは分かりませんが、神戸と讃岐に平清盛にまつわる同一人物の物語が残っているのは興味深いことです。また、神戸市の西部に位置する須磨海岸には、平安時代初期の仁和2年(886)、在原行平(ありわらのゆきひら)が須磨に流され蟄居していたとき、松風、村雨(むらさめ)という潮汲みの姉妹を愛したという伝承が残っており、この姉妹の出身地は塩飽の本島だといわれています。
 これらの物語は、神戸と讃岐は瀬戸内海で結ばれ、古くから船での往来が頻繁にあったことを示しているのではないでしょうか。

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(123)“後白河法皇が建て、源頼朝が奉納したといわれる寺”

 四国八十八カ寺八十一番札所白峯寺は、五色台の白峯山にあります。平安時代初期の弘仁6年(815)、弘法大師が白峯山中に如意宝珠を埋めて井戸を掘り、衆生済度を祈願したところ水が湧き出したのが始まりで、その後、貞観2年(860)年弘法大師の甥にあたる智証大師円珍が海に浮かぶ霊光を放つ流木を引き上げて白峯に運び、千手観音を彫って安置したのが現在の本尊だといわれています。
 2基の「十三重石塔」を右手に見ながら参道を進み、境内入り口の七唐門という山門をくぐると、左側に茶堂、右側の土塀の向こうに本坊、正面に護摩堂があります。さらに進むと参道は左に折れ、その正面に勅額門という門があり、その門の中に堂宇(どうう、格式を備えた寺の建物)があります。またその門の手前右上から石段を登ると、その途上と登り切ったところにも数棟の堂宇が建ち並んでいます。
 参拝者の中には、勅額門の中にある堂宇を白峯寺の本堂と思っている人が多いようです。しかし、この堂宇は、本来白峯寺とは全く別の頓証寺(とんしょうじ)という寺で、平安時代末期の建久2年(1191)、後白河法皇の命により建立されたものです。本来の白峯寺は、勅額門手前の石段を登る途上にある薬師堂・鐘楼堂・行者堂・廻向堂・阿弥陀堂などと、登ったところにある観音堂(本堂)・大師堂などです。

 後白河法皇は鳥羽天皇の皇子で、久寿2年(1155)、近衛天皇の後を受けて第77代天皇に即位しました。保元元年(1156)に起きた乱(保元の乱)で兄の崇徳上皇と争い勝利し、保元3年(1158)には、二条天皇に譲位して院政を開始しました。その後、建久3年(1192)3月、66歳で亡くなるまで、二条天皇、六条天皇、高倉天皇、安徳天皇、後鳥羽天皇の5代34年にわたって院政を続けました。この間、嘉応元年(1169)に出家し、法皇となっています。
 保元の乱から建久3年(1192)7月に源頼朝が鎌倉幕府を開くまでの36年間は、古代から中世への時代の変わり目における我が国の動乱期でした。この間、保元の乱に始まり、平治の乱(平治元年(1159))、平清盛の太政大臣就任(仁安2年(1167))、鹿ヶ谷の陰謀(治承元年(1177))、いわゆる源平の戦いと呼ばれる治承・寿永の乱(じしょう・じゅえいのらん、治承4年(1180)~元暦2年(1185))、源義経の死(文治3年(1187))と目まぐるしく時勢は移り変わり、多くの皇族、公家、武士などが華々しく歴史の舞台に登場しては消え去っていきました。その中において、後白河法皇は、動乱のこの時代にあって常に主人公の一人として登場しながら、最後までしぶとく生き抜いた人物です。
 後白河上皇は、「今様狂い」と称されるほど今様好きで、敵対関係にあった兄の崇徳上皇からは「文にあらず、武にもあらず、能もなく、芸もなし」と評されています。しかし権力抗争には長けた人で、その時々の平氏や源氏の武士勢力を利用しては、その存在が邪魔になると討伐という形で使い捨て、自己の権力基盤の維持を図りました。源頼朝は、法皇が征夷大将軍宣下を認めてくれなかったため、その死まで征夷大将軍就任を待たざるを得ず、法皇を「日本国第一の大天狗」と評したといわれています。

 後白河法皇白峯寺の境内地に頓証寺を建立した経緯は、保元の乱に始まります。この乱は、朝廷内における崇徳上皇と白河天皇との権力抗争に端を発し、これに摂関家藤原氏や源氏・平氏の武家の内部抗争がからみ、それぞれが上皇側と天皇側に別れて戦ったもので、「武者ノ世」が始まる歴史の転換点でした。この乱では上皇側の勢力が敗北し、上皇自身も讃岐に配流となります。讃岐に配流となった上皇は、最初、今の坂出市林田町の中川付近にあったといわれる綾高遠(あやたかとう)の館を仮の御所とし、その後近くの長命寺(ちょうめいじ)を経て、保元3年(1158)、国府のすぐ近くの鼓岡(つづみがおか)を行在所とします。その宮は木丸(きのまる)殿と呼ばれました。
 幽閉の身の崇徳上皇は、父の鳥羽上皇を弔うため全190巻ものお経を書き写して都へ送りますが、この写経には呪いが込められているという理由で受け取りを拒否されます。激怒した上皇は、「われ魔王となり天下に騒乱を起こさん」と言って舌の先を食い切り、その血で誓状を書きつけたお経を海に沈め、以来、爪も髪も切らず、髭も剃らず、柿色の褪せた衣もほころびに任せたまま、日々凄まじい形相となって、後白河上皇らに深い怨みを抱きながら長寛2年(1164)8月に亡くなったといわれています。上皇の遺体は朝廷の指示により白峯山上で荼毘にふされ、その地に御陵が営まれました。都から遠く離れた所に御陵が造られているのは、白峯陵と下関の安徳天皇陵、淡路島の淳仁天皇陵だけです。
 上皇が亡くなったときから3年後、西行が上皇を偲び白峯御陵に参っていますが、このとき、御陵は草に覆われ荒れ放題だったといわれています。

 崇徳上皇の死後、平氏一族があだ花のように栄華を極めますが、その後、源平の戦いが続いて政治の中心は公家から武士に移っていきます。また、飢饉や洪水なども起こり、不安定な世情となっていき、人々はこれを上皇の怨霊のなせる業だと恐れました。このため後白河法皇は、元暦元年(1184)、保元の乱の戦場であった白河殿の跡に粟田宮を営み崇徳上皇を祀りますが、自身も病気にかかり上皇の怨霊に悩まされました。
 崇徳上皇の怨霊に脅えた後白河法皇は、建久2年(1191)、白峯御陵の前に仏堂を建立し上皇の御霊を慰めることによって、自分の病の治癒を願おうとしました。それは上皇が亡くなってから27年後のことです。この任に当たったのは、遠江阿闇梨章実(あじゃりしょうじつ)という僧で、章実は上皇が行宮としていた府中鼓岡(つづみおか)の丸木殿の材木を使用して仏堂を建立したといわれています。後白河法皇が亡くなったのは、その直後の建久3年(1192)3月のことで、その年の7月に鎌倉幕府が開かれました。「頓証寺」という名は、速やかに迷いを断ち悟りを開く供養を行うところから付けられたといいます。

 その後、頓証寺は、多くの公家や武士から尊崇を受け、多く什器・宝物などの奉納を受けています。「十三重石塔」や頓証寺境内にある石燈籠、白峯陵の石塔も源頼朝が奉納したという言い伝えが残っています。室町時代の応永21年(1414)には、将軍足利義持の執奏によって、後小松天皇から頓證寺の勅額を賜ったことにちなんで「頓証寺殿」(とんしょうじでん)と呼ばれ、その勅額を揚げた山門が勅額門と呼ばれるようになりました。この門の左右の随神は、保元の乱で崇徳上皇に仕えた源為義、為朝の武者像です。頓証寺殿宇の構造は紫宸殿に擬して庭前に左近の桜、右近の橘が植えられ、中央に上皇尊霊、左に天狗の白峰大権現、右に御念持仏十一面観世音菩薩が祀られています。
 現在の建物は、頓証寺、勅額門とも江戸時代初期の延宝年間(1673~1681年)に高松藩初代藩主・松平頼重が再建したものといわれており、その後も歴代高松藩主により手厚く保護されてきました。

 讃岐では、源平合戦の一つとして屋島の戦いが行われていますが、それは崇徳上皇が亡くなってから22年後の出来事です。そして、頓証寺が建立されたのは、それから6年後のことです。讃岐は、保元の乱から源頼朝が鎌倉幕府を開くまでの動乱期において、歴史の大きな舞台の一つになったところだといえるでしょう。

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(104)“讃岐に残る清少納言の哀れな物語”

 金刀比羅宮大門の左手前、鼓楼の傍らに、清塚(きよづか)と呼ばれる石碑があります。これには清少納言(せいしょうなごん)が夢に出て自らの墓を示したという伝承が残っています。

 「春は、あけぼの。やうやう白くなりゆく山ぎは 少し明りて紫だちたる雲の細くたなびきたる。」で始まる「枕草子」は、平安時代の女性作家、清少納言(せいしょうなごん)によって書かれたものとしてよく知られています。
 清少納言は、康保3年(966)頃に生まれたと推定されており、父は清原元輔(908年-990年)、曽祖父(祖父とする説もある)は清原深養父(ふかやぶ、生没年未詳)といわれています。元輔は三十六歌仙、深養父は中古三十六歌仙に入る歌人で、清少納言は幼いときから和歌や漢学になじんだ環境の下に育ちました。「清少納言」というのは女房名で、「清」は清原の姓から、「少納言」は親族の役職名からつけられたとされています。実名は不明です。16歳の頃に橘則光と結婚し、男子をもうけていますが、結婚生活は永祚2年(990)頃に解消したと考えられています。

 その後、正暦4年(993)の冬頃から、一条天皇に入内していた中宮定子の後宮に出仕します。この時、清少納言は28歳、定子は17歳だったといわれています。
 定子は、内大臣・藤原道隆の娘として生まれ、正暦元年(990)1月、数え14歳の春に、3歳年下の一条天皇の女御として入内し、その年の10月に皇后となり「中宮」を号していました。同じ年の5月には、父・道隆が関白、次いで摂政となっており、一族は栄華の極みにありました。
 定子は、美貌はもとより、高い教養を身につけ、しかも明るく華やかで思いやりのある性格だったようで、一条天皇との仲も睦まじいものだったといわれています。この当時の定子の後宮には30~40名の女房が仕え、文芸サロンのような存在でもありました。その中で、清少納言は博学な知識と持ち前の才能から頭角を現し、定子の恩寵も受けて、その名は宮中に知れわたりました。宮中での出来事などを綴ったのが枕草子です。
 しかし、長徳元年(995)4月、道隆が病死すると、後盾を失った定子の立場は危ういものとなります。叔父の道兼が関白に就任し、ついで道兼が急死するとその弟の道長に政治の実権が移っていきます。さらに、翌年4月、定子の兄の内大臣・伊周(これまさ)と弟の中納言・隆家が誤って花山院の輿に矢を射かけるという事件によって失脚し、定子は身重のまま内裏を出、剃髪して仏門に入ります。
 その後、長徳3年(997年)4月に兄らが赦され、定子は6月に一条天皇の意向により誕生した皇女・脩子内親王とともに再び宮中に迎え入れられます。しかし、自己の宮中での立場を確固としたい道長は、娘の彰子を一条天皇の女御として入内させようと謀ります。そして、長保元年(999年)11月、定子が一条天皇の第一皇子・敦康親王を出産した日に彰子を女御として入内させます。さらに親王の誕生に焦った道長は、彰子を定子と同格の中宮とすることを謀ります。これにより、長保2年(1000)2月、彰子は女御から新たに皇后となり「中宮」を号し、先に中宮を号していた皇后定子は「皇后宮」に号されることになりました。史上はじめての「一帝二后」といわれています。
 翌年、定子は第二皇女・び子内親王(び=女偏に美)を出産します。しかし、産後の肥立ちが悪く亡くなってしまいます。享年24歳でした。こうして主人のいなくなった清少納言も、失意のうちに宮中を去ります。35歳でした。
 定子の死後、道隆の家系は没落の一途を辿り、定子がもうけた敦康親王も、皇后の生んだ第一皇子でありながら天皇になることはできませんでした。これに反するように、その後、宮中の中心は道長の娘彰子となります。そして彰子をとりまく文芸サロンに現れたのが紫式部でした。
宮中を去った清少納言は、宮中で作った短編集をまとめあげた後、京都東山の月の輪(現在の泉涌寺)で定子の菩提を弔って一人侘び住まいをしていたとの伝承が残っており、万寿2年(1025)頃に亡くなったと考えられていますが、詳しいことはわかっていません。このため全国各地に清女伝説(清少納言伝説)があり、彼女のものといわれる墓所が各地に伝承されています。讃岐にも、清少納言のものといわれる塚や物語が残っています。

 金刀毘羅宮に残る物語は次のようなものです。
 江戸時代の宝永7年(1710)、金刀毘羅宮の大門脇に太鼓楼(たいころう)を造営しようという時のこと、そばにあった塚石をあやまって壊したところ、その夜、付近に住んでいた大野孝信という人の夢に緋(ひ)の袴(はかま)をつけた宮女が現われ、悲しげな声で訴えました。それは、自分は、かつて宮中に仕えていたが、父の信仰する金刀毘羅宮に参るため、老いてからこの地にやってきた。しかし旅の疲れからとうとうみまかりこの小さな塚の下に埋められ、訪れてくれる人もなく、淋しい日々を過ごしている。ところが今度は、鼓楼造営(ころうぞうえい)のため、この塚まで他へ移されようとしている。あまりに悲しいことだ、というものでした。そして、「うつつなき 跡のしるしを 誰にかは 問われしなれど ありてしもがな」と、かすかな声で一首の和歌を詠じました。
 はっとして夢から醒めたさめた孝信は、これは清少納言の霊が来て、塚をこわされた恨みごとをいっているのであろうと、一部始終を別当職に申し出たので、金刀毘羅宮ではねんごろに塚を修めたということです。
 また、東かがわ市白鳥町の与治山(よじやま)のにも清少納言を祀った祠があります。口承によると、清少納言は讃岐白鳥の海岸に漂着し、里人が厚く看護したが亡くなり、これを哀れんで都の見える海に面した与治山の峰に葬った、というものです。

 平安時代の10世紀後半から約1世紀の間の時代を摂関政治といい、最終的に藤原氏の中でも道長の家系がその中心となります。しかし、その過程において、藤原氏一門の内部で、氏長者(うじちょうじゃ)の地位をめぐり、兄弟、叔父、甥の間で争いがありました。清少納言の哀れな末路の話は、藤原一門の争いに翻弄された中宮定子の悲しい物語とともに各地に広がっていったのかもしれません。

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テーマ : 香川
ジャンル : 地域情報

(81)“二つある源平ダンノウラの戦い”

  源平合戦ダンノウラの戦いというと、中学校や高校の歴史では、平家が滅亡した関門海峡での「壇ノ浦」の戦いだと教えられています。ところが、香川県の高松市辺りでは、ダンノウラの戦いというと、高松市の東にある屋島での源平の戦いのことだと思っている人が多くいます。
 現在屋島は四国と地続きになっていますが、これは江戸時代からのことです。当時は文字通りの島で、その東側は南に大きく切り込んだ入江になっていました。この屋島東麓の海岸あたりを「檀ノ浦」といい、今から約820年前、下関の「壇ノ浦」の戦いの一ヵ月前にここでも「檀ノ浦」の戦いがありました。
 屋島の方は「きへん」の「檀」、関門海峡の方は「つちへん」の「壇」と偏が違うだけです。「檀」は紙の素材である「まゆみ」という意味で、高松には「檀紙(だんし)」という地名のところもあり、かつて「檀(まゆみ)」が多く採れたところかもしれません。

 寿永3年(1184)2月、今の神戸にある一ノ谷の合戦で敗れた平家は、安徳天皇を奉じて再び讃岐の屋島に拠りました。しかし、瀬戸内海の制海権を平氏に握られていることから源氏は直ぐに平氏を追撃することができませんでした。そこで源氏は、橘次公業(きちじきんなり)を先陣として讃岐に潜入させ、新居・羽床・大野など地元の有力諸氏を味方に誘い、平氏を追撃する準備を着々と進めます。一方で、4月末に梶原景時らを鎌倉から出立させ、7月に入ると義経屋島征伐の命を下すよう上皇に奉請し、また範頼を九州に向かわせます。
 寿永4年(1185)2月上旬、義経は京都を発ち、今の大阪から、わずか150余騎を率い、強風の中を出帆します。このときの義経と軍監梶原景時との間の「逆櫓(さかろ)論争」はよく知られているところです。
 2月17日早朝、悪天候を強行した義経軍は阿波勝浦(小松島市)に上陸し、そこから阿波と讃岐の国境である峻険な大坂峠を乗り越え引田に入ります。そして白鳥神社、水主神社に武運長久を祈願した後、本隊を分けて海岸沿いの志度街道と山間の長尾街道とを別々に進み屋島の背後に迫ります。

 当時、屋島は、その西側は全くの海でした。その南側と四国との間は、潮の満干によって潟が見えたり海になったりする浅瀬の海峡になっており、簡単に人馬が渡ることができませんでした。またその東側と対岸との間は入江になっていました。平氏は、このような地形を利用して屋島の東の海側からの侵攻に備えた防衛体制を構築していました。
 屋島檀ノ浦の高台に内裏(だいり)を造営し、そこで幼い安徳天皇と三種神器を守り、周りに天皇の母の徳子(後の建礼門院)、祖母の二位の尼(清盛の未亡人)と女官たちや、多くの公家衆達が侍っていました。そして屋島対岸の庵治半島の付け根の入江に軍船を隠し、また東南対岸に総門を構えて本陣を置き、海辺の防御に備えていました。平氏の軍勢は3000騎近くあったといいます。

 19日午前8時過ぎ、義経の軍は平氏の総門を北に望む瓜生が丘に陣を構え、海岸沿いの志度街道を走ってきた隊と合流します。義経のもとには、事前に橘次公業が手を回していたこともあって、平氏を寝返って源氏についた讃岐の武将たちも馳せ参じていました。義経軍の勢力は500騎余りだったといわれています。そして、ここで二手に分かれて攻撃が開始されました。一隊は総門の本陣に向かい、もう一隊は屋島南対岸の赤牛崎(あかばざき)あたりを渡って安徳天皇が鎮座する屋島檀ノ浦の内裏に向かいました。
 奇襲を得意とする義経軍は、牟礼、高松の里の民家に次々と火を放ち、大軍が押し寄せているように見せかけます。平氏は南の四国側からの攻撃を予想していなかったため、この攻撃は不意をつかれたものとなり、猛火と猛煙を見て慌てふためき、入り江に浮かべていた船に我先と乗り込んで沖合いに逃げ、内裏や本陣はもぬけの殻になってしまいました。その後を義経軍は次々と火を放ち、平氏が帰るべき本拠を壊滅しました。海に逃れた平氏の総大将平宗盛は、義経軍が思いのほかわずかな軍勢であったことを知り、地団駄を踏んで悔しがったといいます。
 しばらくして、平氏も船を返して反撃に出、海浜での戦いとなりました。そのような中、都第一の強弓・精兵といわれた平能登守教経(たいらののとおかみのりつね)が、義経に狙いを定めて矢を放ちました。とっさに佐藤継信が義経の前に出て、その身代わりとなって射抜かれ落馬します。これを見ていた能登守の従者菊王丸が嗣信の首をとろうとしますが、逆に継信の弟に忠信に討ち取られます。

 次の20日も激しい戦いが行われましたが、その合間に平氏は一艘の船に美人を乗せ、扇の的を立てて源氏を挑発しました。これを見た義経はその扇の的を射る大役に、那須与一宗高を選びます。与一は見事に扇の的を射落とし、味方、敵方からも大喝采が起こりました。
 ところが、扇の的を見事射抜いたことに感激して船中で舞っていた平氏方の武者を、与一が射殺したことに端を発して、平氏の怒りが燃え、再び乱戦となりました。悪七兵衛景清が美尾屋十郎の甲の錣(しころ)を素手で引きちぎったのもこの時の出来事です。また、義経の弓流しのエピソードもこのときの出来事だといわれています。
 この日の夜半、平氏は、反撃の態勢を整えるため、庵治半島を海上から迂回します。21日の朝志度湾に上陸し、志度寺の境内に立てこもろうとします。これに対して義経は、瓜生ヶ丘から急襲し、志度の浜辺でたたみかけるように攻撃を加えました。
 志度で戦が行われている間、義経軍への加勢が増えているという知らせに、平氏はついに屋島の陣地を捨て、長門の壇ノ浦へと落ち延びていきます。

 屋島檀ノ浦の戦いのとき、兵力の点でははるかに平氏が源氏に勝っていました。ところが平氏は惨敗してしまいました。これは、平氏が海からの攻撃に備えたのに対して源氏はその裏をかいて陸から攻撃したこと、また、平氏の権力の象徴である三種神器を持つ安徳天皇の鎮座する内裏を直接攻撃したことにあると考えられます。つまり、隙間を突いて心臓部に対して容赦のない一撃を加えたためです。これができたのは、戦いの前に源氏が地元の情報を十分に掌握していたということでしょう。
 平氏が滅んだのは屋島檀ノ浦の戦いから約1ヵ月後の3月24日のことです。

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(80)“建礼門院と安徳天皇が滞在した牟礼・屋島”

  平家物語は「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり」で始まりますが、建礼門院徳子はこの物語のヒロインとして知られています。京都大原の里にある寂光院(じゃっこういん)は、彼女が隠棲したゆかりの地として今でも多くの人々が訪れています。寿永4年(1185)、源平合戦最後の決戦地長門国壇ノ浦で平家一族の滅亡とともに安徳天皇は亡くなりますが、その母である徳子は生き残り、尼となり寂光院で余生を送りました。
 徳子は幼帝安徳天皇とともに、寿永2年(1183)10月から、一ノ谷の合戦を挟んで寿永4年(1185)2月までの通算約1年6カ月間、讃岐の牟礼・屋島に滞在していました。この間、三種神器も讃岐にあり、朝廷の儀式もとり行われ、讃岐に皇居があったといえます。

 平安時代末期、保元の乱(1156年)と平治の乱(1159年)の二つの乱を通じて、武家の棟梁としての平清盛の地位と権勢は急速に高まり、平氏一門は「平氏にあらずんば人にあらず」と栄華を誇りました。そして、清盛はその娘である徳子を6歳年下であった高倉天皇の中宮に入れます。二人の間に親王が生まれると、清盛は後白河上皇を幽閉するとともにその側近を追放し、治承4年(1180)、自分の孫に当たるわずか1歳3ヶ月の親王を皇位につけ安徳天皇としました。
 しかし、貴族や大寺社、地方武士たちの平氏への不満は強く、安徳天皇が践祚(せんそ)した年に、後白河天皇の第二皇子である以仁王(もちひとおう)が平氏打倒の令旨(りょうじ)を出し、これに呼応して伊豆で源頼朝、木曾で源義仲(木曾義仲)らが挙兵しました。このような中、養和元年(1181)閏2月、清盛が病没するとともに平氏自体も急速に没落していきます。寿永2年(1183)5月、越中の倶利伽羅(くりから)峠で義仲に惨敗しその軍が京都に迫ると、徳子と安徳天皇は、7月に平氏一族とともに九州へと落ち延びていきました。このとき三種神器も持ち出されました。

 徳子と安徳天皇は、平氏一族と大宰府、大分の宇佐などを転々とした後、東へ戻り、寿永2年(1183)10月、海路屋島に到着します。このとき屋島には天皇の入るような建物がなかったので、対岸にある牟礼の六萬寺を行在所(あんざいしょ)としました。そして平氏はこの年の閏10月、屋島の平氏を追撃しようとした義仲を、備中水島で打ち破り、勢力を盛り返して瀬戸内海の制海権を握ります。
 義仲は水島から京都へ逃げ帰りますが、源範頼・義経が鎌倉から攻め上がります。この戦いに乗じて、平氏は、寿永3年(1184)正月、再び兵庫の福原に入り、一ノ谷に城を構えます。徳子と安徳天皇も福原に移ります。しかし、2月7日、範頼・義経らの源氏軍に敗れてしまいます。有名な義経の鵯(ひよどり)越えの逆落としはこのときの戦いです。
 一ノ谷の合戦での敗北で平氏は屋島に逃げ帰り、屋島東山麓の海が見える高台に行宮(あんぐう)を造営しました。その1年後の寿永4年(1185)2月19日に平氏は義経の追撃を受け、長門壇ノ浦へと落ち延びていきます。徳子にとって、この1年間の屋島での生活は、京を逃れて以来久しぶりにおとずれた安らぎの日々でなかったかと思われます。壇ノ浦へと向かう途中、安徳天皇一行は塩飽諸島の本島に立ち寄ったといわれています。

 屋島の戦いから約1ヶ月後の寿永4年(1185)3月24日、平氏は長門国壇ノ浦の合戦で最後を迎えます。この日の昼過ぎ、平知盛が敗戦を告げると、二位の尼は天皇家の三種の神器である草薙の剣を腰に帯び、八尺勾玉を脇にはさみ、孫である安徳天皇を抱いてそのまま海に飛び込みました。二位の尼に続いて徳子が飛び込み、続いて大納言佐局(平重衡の妻)が三種の神器のうちのもうひとつ八咫鏡を持って海に飛び込みました。しかし徳子は引き上げられ一命を得ます。安徳天皇は享年8歳(今の数え方でいえば6歳4ヶ月)でした。なお三種神器のうち、剣は結局回収できなかったといわれています。
 壇ノ浦で救われた徳子は京都に護送され、髪をおろして出家し、建礼門院と称して大原の地に庵を結びました。時に29歳。そして彼女はここで亡くなるまで28年もの年月を静かに念仏三昧で過ごして、平家の人々の霊を弔ったといいます。山里の京都大原で、建礼門院は讃岐での安徳天皇との生活の思い出にふけり幾度も涙したことでしょう。

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