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<title>讃岐の風土記     by 出来屋</title>
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<description>あなたの知らない讃岐の魅力をご紹介します。歴史文化の宝庫－讃岐。あなたは、どれだけご存知ですか？           香川の文化は《うどんＵＤＯＮ》だけではありません。</description>
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<title>草創シリーズ　讃岐の島の歴史と物語</title>
<description> 草創シリーズ　Ｎｕｍｂｅｒ　３讃岐の島の歴史と物語History and Story of Sanuki&#039;s Island　　　特別寄稿◎咸臨丸と塩飽諸島@ ￥ 1,600《平成22年12月　発行》お問い合わせ：草創の会　会長　村田勇　〒769-0105香川県高松市国分寺町柏原249－1&amp;#9990; (087)874-4446Fax(087)874-2855目次はじめに　讃岐の伝承・昔ばなし第1章　小豆島・・今も応神天皇と佐々木信胤が生きる島第2章　直島・・・アートの島に歴史あり第3章　その他
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<![CDATA[ <span style="color:#ff6600">草創シリーズ　Ｎｕｍｂｅｒ　３</span><br /><br /><strong><span style="font-size:large;">讃岐の島の歴史と物語</span></strong><br /><br /><span style="color:#ff6600">History and Story of Sanuki's Island　　　</span><br /><br /><strong><span style="color:#333399">特別寄稿</span>◎<br /><span style="color:#333399"><a href="http://blog.fc2.com/tag/%E5%92%B8%E8%87%A8%E4%B8%B8" class="tagword">咸臨丸</a>と塩飽諸島</span></strong><br /><br /><strong>@ ￥ 1,600</strong><br /><br />《平成22年12月　発行》<br /><br /><strong>お問い合わせ：<br />草創の会　会長　村田勇　<br /><span style="color:#666666">〒769-0105<br />香川県高松市国分寺町柏原249－1</span><br />&#9990; (087)874-4446<br />Fax(087)874-2855</strong><br /><br /><br /><strong>目次</strong><br /><strong>はじめに　讃岐の伝承・昔ばなし</strong><br /><strong>第1章　<a href="http://blog.fc2.com/tag/%E5%B0%8F%E8%B1%86%E5%B3%B6" class="tagword">小豆島</a>・・今も応神天皇と佐々木信胤が生きる島</strong><br /><strong>第2章　<a href="http://blog.fc2.com/tag/%E7%9B%B4%E5%B3%B6" class="tagword">直島</a>・・・アートの島に歴史あり</strong><br /><strong>第3章　その他の島の歴史と物語</strong>  <br />               <a href="http://blog.fc2.com/tag/%E8%B1%8A%E5%B3%B6" class="tagword">豊島</a>・<a href="http://blog.fc2.com/tag/%E5%A5%B3%E6%9C%A8%E5%B3%B6" class="tagword">女木島</a>・<a href="http://blog.fc2.com/tag/%E7%94%B7%E6%9C%A8%E5%B3%B6" class="tagword">男木島</a>・沙弥島・瀬居島・櫃石島・<a href="http://blog.fc2.com/tag/%E6%9C%AC%E5%B3%B6" class="tagword">本島</a>・広島・<a href="http://blog.fc2.com/tag/%E5%BF%97%E3%80%85%E5%B3%B6" class="tagword">志々島</a>・<a href="http://blog.fc2.com/tag/%E4%BD%90%E6%9F%B3%E5%B3%B6" class="tagword">佐柳島</a>・<a href="http://blog.fc2.com/tag/%E7%B2%9F%E5%B3%B6" class="tagword">粟島</a>・伊吹島     <br /><strong>第4章　讃岐に残る海の伝説</strong><br /><strong>瀬戸内民族写真館</strong><br /><strong>特別寄稿　<a href="http://blog.fc2.com/tag/%E5%92%B8%E8%87%A8%E4%B8%B8" class="tagword">咸臨丸</a>と塩飽諸島</strong><br /><strong>あとがき</strong><br /><br /><a href="http://blog-imgs-47.fc2.com/t/e/t/tetsutanaka/NEC_0229aa-.jpg" target="_blank"><img src="http://blog-imgs-47.fc2.com/t/e/t/tetsutanaka/NEC_0229aa-.jpg" alt="讃岐の島の歴史と物語" border="0" width="225" height="400" /></a><br /><br /><hr size="1" /><br /><strong><span style="color:#ff6600">cf.</span><br />草創シリーズ　1  『 金毘羅 参詣道 』<br />草創シリーズ　2  『 讃岐の古城跡 と 豪族たち 』</strong> ]]>
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<dc:subject>【雑記帳】</dc:subject>
<dc:date>2011-01-22T08:37:20+09:00</dc:date>
<dc:creator>讃岐の出来屋</dc:creator>
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<title>いらっしゃいま～せ（全体目次）</title>
<description> 　このブログは、讃岐（さぬき）に残る歴史物語をショートストーリーとして記事にしたものです。「さぬき」という言葉は「さぬきうどん」で全国的に知られていますが、それは現在の香川県の旧国名のことです。　  日本各地で、観光のレベルアップ、活性化を図るために、観光検定を実施して郷土の歴史・文化などを普及させる取り組みが行われています。　こうしたことから、このブログは、香川県の埋もれた観光資源を掘り起こし記事
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<![CDATA[ 　<strong>このブログは、<a href="http://blog.fc2.com/tag/%E8%AE%83%E5%B2%90" class="tagword">讃岐</a>（さぬき）に残る歴史物語をショートストーリーとして記事にしたものです。「さぬき」という言葉は「<a href="http://blog.fc2.com/tag/%E3%81%95%E3%81%AC%E3%81%8D%E3%81%86%E3%81%A9%E3%82%93" class="tagword">さぬきうどん</a>」で全国的に知られていますが、それは現在の<a href="http://blog.fc2.com/tag/%E9%A6%99%E5%B7%9D%E7%9C%8C" class="tagword">香川県</a>の旧国名のことです。</strong>　<br />  <strong>日本各地で、観光のレベルアップ、活性化を図るために、観光検定を実施して郷土の歴史・文化などを普及させる取り組みが行われています。</strong><br />　<strong>こうしたことから、このブログは、<a href="http://blog.fc2.com/tag/%E9%A6%99%E5%B7%9D%E7%9C%8C" class="tagword">香川県</a>の埋もれた観光資源を掘り起こし記事にすることによって、<a href="http://blog.fc2.com/tag/%E9%A6%99%E5%B7%9D%E7%9C%8C" class="tagword">香川県</a>に新しい観光コースがつくられていく契機になることを願って書き綴っています。そういう意味で、「香川歴史・文化観光ガイド」として活用されることを目指しています。</strong><br />　<strong>読者の方が、「ヘェ～、香川にそんな所、話があったのか。行ってみたいな。」と思っていただければ、筆者の狙いは当たったことになります。名付けて、「さぬき香川ヘェ～塾」です。</strong><span style="color:#ff0000">　お読みになって、もし「ヘェ～」と思われたら、画面左のＦＣ２ブログランキングをクリックしてください。</span>　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　ヘェ～塾々長　　<a href="http://blog.fc2.com/tag/%E5%87%BA%E6%9D%A5%E5%B1%8B" class="tagword">出来屋</a>二郎<br /><br />■　<strong>【<a href="http://dekiya.blog57.fc2.com/blog-entry-206.html" target="_blank" title="物語編目次">物語編目次</a>】　　</strong>現在の記事数は１５０話。最新記事は、“<a href="http://dekiya.blog57.fc2.com/blog-entry-231.html" target="_blank" title="讃岐で密かに亡くなった悲運の皇子">讃岐で密かに亡くなった悲運の皇子</a>”（１０月１３日掲載）。<br />■　<strong>【<a href="http://dekiya.blog57.fc2.com/blog-entry-213.html" target="_blank" title="地域編目次">地域編目次</a></strong>】　　各記事に関連する社寺、史跡などの観光ポイントなどを、地域別に紹介。（残念ながら写真の掲載はできていません。）年代順目次は時間軸で歴史的にみるのに対して、地域別目次は平面で地理的にみます。<br />■　<strong>【<a href="http://dekiya.blog57.fc2.com/blog-entry-204.html" target="_blank" title="祭礼・行事のカレンダー">祭礼・行事のカレンダー</a>】　　</strong>各記事に関連のある主な祭礼・行事を紹介。なお、日時については変更等もありますので、地元の市町ないし観光協会にご確認してください。<br />■　<strong>【特集】</strong>　　<span style="color:#660099">ショートストーリーとは別に書いたものです。</span><br />●<a href="http://dekiya.blog57.fc2.com/blog-entry-60.html" target="_blank" title="細川頼之と讃岐"><strong>細川頼之と<a href="http://blog.fc2.com/tag/%E8%AE%83%E5%B2%90" class="tagword">讃岐</a></strong></a>　　室町幕府三代将軍足利義満の管領として南北朝合一を果たした武将の物語。<br />●<a href="http://dekiya.blog57.fc2.com/blog-entry-108.html" target="_blank" title="金毘羅参詣続膝栗毛"><strong>金毘羅参詣続膝栗毛</strong></a>　　十辺舎一九が書いた東海道中膝栗毛の続編。原作を現代表記にしたもの。<br />●<a href="http://dekiya.blog57.fc2.com/blog-entry-128.html" target="_blank" title="讃岐の方言（１）">讃岐の方言（１）</a>　<a href="http://dekiya.blog57.fc2.com/blog-entry-132.html" target="_blank" title="讃岐の方言（2）　">讃岐の方言（2）　</a>　　未完。<br />●<a href="http://dekiya.blog57.fc2.com/blog-entry-189.html" target="_blank" title="多度津物語―香川近代産業発祥の地の栄枯盛衰―"><strong>多度津物語</strong>―香川近代産業発祥の地の栄枯盛衰―</a>　　瀬戸内海の代表的な港町の物語。<br />■　【<a href="http://dekiya.blog57.fc2.com/blog-entry-207.html" target="_blank" title="雑記帳">雑記帳</a>】<br /> ]]>
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<dc:subject>★目次★</dc:subject>
<dc:date>2008-10-24T22:27:39+09:00</dc:date>
<dc:creator>讃岐の出来屋</dc:creator>
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<title>７５番善通寺とその周辺</title>
<description> 善通寺市善通寺町・仙遊町・南町・文京町・生野町の区域【善通寺市善通寺町】●総本山善通寺　　ＭＡＰ　四国霊場七十五番札所。正式には屏風浦五岳山善通寺誕生院といい、空海生誕の地といわれています。唐から帰朝した空海が自ら学んだ長安の青竜寺を模して弘安４年（813年）に建立し、父佐伯直田公善通（さえきあたいのたきみよしみち）の名を冠したといわれています。和歌山の高野山、京都の東寺とともに、大師三大霊場の一つで
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<![CDATA[ <br />善通寺市善通寺町・仙遊町・南町・文京町・生野町の区域<br /><br />【善通寺市善通寺町】<br /><br />●総本山善通寺　　<a href="http://map.goo.ne.jp/map.php?MAP=E133.46.35.332N34.13.17.878&amp;ZM=8" target="_blank" title="ＭＡＰ">ＭＡＰ</a><br />　四国霊場七十五番札所。正式には屏風浦五岳山善通寺誕生院といい、空海生誕の地といわれています。唐から帰朝した空海が自ら学んだ長安の青竜寺を模して弘安４年（813年）に建立し、父佐伯直田公善通（さえきあたいのたきみよしみち）の名を冠したといわれています。和歌山の高野山、京都の東寺とともに、大師三大霊場の一つです。境内は約10万平方メートルという広大なもので東院（伽藍）と西院（誕生院）の二つに分かれています。<br />（関連記事）“<a href="http://dekiya.blog57.fc2.com/blog-entry-105.html" target="_blank">高野山、東寺と並ぶ弘法大師三大霊場の一つ善通寺</a>”<br />○東院（伽藍）　　旧境内と考えられており、金堂、五重塔、南大門、大楠、常行堂（釈迦堂）、佐伯祖廟、五社明神、三帝御廟、法然上人逆修堂、赤門などがあります。<br />　・金堂　　南大門正面に位置し、江戸時代の貞享２年（１６８５）に再建されたものですが、基壇の石積みには創建当初の礎石が用いられています。堂内には本尊の薬師如来像が安置されています。<br />　・大楠　　幹が10mを越す老木で空海誕生時にはすでに繁茂していたと伝えられます。<br />　・法然上人逆修堂（ぎゃくしゅとう）　　五重塔の東南に尊氏利生塔と並んでその西側に安置されている高さ145センチの五輪の石塔です。鎌倉時代の初期の建永２年（1207）、讃岐に流された法然上人が善通寺に詣でた際、参詣者の後世の往生を祈って建立したと伝えられます。逆修供養は生前に自ら後世の菩提を祈るために営む法要で、法然上人は深く善通寺を崇敬せられ「一度この地に詣でなんともがらは一佛浄土の友たるべし」と申されて、善通寺に参詣した折、生前に自らの菩提を祈らんがため、また、多くの人の法縁を結ばんがため、逆修供養の宝塔を建立されたと伝えられています。<br />（関連記事）“<a href="http://dekiya.blog57.fc2.com/blog-entry-45.html" target="_blank">讃岐に逗留した法然上人</a>”<br />○西院（誕生院）　　御影堂、産湯井、御影池、宝物館、護摩堂、聖霊殿、親鸞堂、聖天堂、仁王門、勅使門、済世橋、遍照閣などがあります。<br />　・御影堂　　山を背にした来迎図のような構図で描かれた大使自筆の自画像「瞬目大師（めひきたいし）」が安置されています。この自画像には次の話が残っています。<br />弘法大師が唐へ留学するときに、母君のために自画像を描いて残そうと池に姿を写しましたが、夕暮れ時で見えませんでした。ところが裏山から光が差してきたので、その光に照らされて描くことができました。振り返ると、香色山の上に釈迦如来が姿を現していました。それで大師は、自画像の肩に釈迦如来の姿を書き加えたそうです。<br />　・ほやけ地蔵堂　　この地蔵には口から左頬にかけて灰色の大きなあざがあります。これは昔、頬に大きなあざのある娘が毎日ここに祈願したところ、娘のあざはきれいにとれて、そのかわりに地蔵尊の顔にあざができたという伝説があります。以来、あざや病気の平癒を願う人々の参拝でにぎわう場所となりました。<br />　・御影（おもかげ）池　　御影堂の正面にある小さな池。弘法大師が唐に留学するため京より帰宅した時、母の玉依御前が非常に名残り惜しんだので、この池の面に姿を写して自画像を描いて母君に贈ったといいます。また、この池を覆っていた松はすでに枯れてしまいましたが、池の前に枯木として保存し、「御影の松」と呼ばれています。ここでは参詣者が経木に水をかけて先祖の菩提を弔っています。<br />　・宝物館　　弘法大師が書を、母の玉依御前が仏像を描いたという「一字一仏法華経序品（じょぼん）」、留学中に恵果和尚から真言宗第八祖の証として授けられた「三国伝来金銅錫杖」の国宝のほか、「木造吉祥天立像」、「木造地蔵菩薩立蔵」など国の重要文化財などが収蔵されています。<br /><br />●玉泉院　　<a href="http://map.goo.ne.jp/map.php?MAP=E133.46.43.959N34.13.15.998&amp;ZM=9" target="_blank" title="ＭＡＰ">ＭＡＰ</a><br />　現在、善通寺の南大門から西に行き南に少し入ったところにある玉泉院の場所に西行は滞在したと伝えられています。同院は別名西行庵と呼ばれ、かつては善通寺の敷地の中にありました。今は枯れてしまいましたが、西行法師は「久の松」の木の下に仮の庵を結び、７日７夜の間お籠もりをして弘法大師を祈ったといわれています。西行はここで次の歌を詠っており、歌に詠まれた松は「西行が松」と呼ばれました。<br />　　　　　久に経て我が後の世を問へよ松　跡しのぶべき人も無き身ぞ<br />　　　　　ここをまた我住みうくて浮かれなば　松はひとりにならむとすらむ<br />　なお、玉の井という泉があって、西行はその泉の水を汲んで大師の霊前に供えたといいます。<br />（関連記事）“<a href="http://dekiya.blog57.fc2.com/blog-entry-47.html" target="_blank">崇徳上皇を偲び来讃した西行法師</a>”<br /><br />●観智院（子安観音）　　<a href="http://map.goo.ne.jp/map.php?MAP=E133.46.41.146N34.13.20.235&amp;ZM=10" target="_blank" title="ＭＡＰ">ＭＡＰ</a><br />　讃岐三十三観音霊場。大同２年弘法大師が創建。善通寺が最盛期だった弘安年間には、４９の塔頭がありましたが、観智院（かんちいん）はその時、十善坊と称し、寺内塔頭の筆頭として、一山の寺務を掌握していました。中世に入って、現在の院号に改められました。本尊の観音は、子安観音と呼ばれ、高松藩主松平公の側女が尼となって住んでいた庵のご本尊を移したものと言われています。<br /><br />【善通寺市仙遊町】<br /><br />●仙遊ヶ原地蔵堂（仙遊寺）　　<a href="http://map.goo.ne.jp/map.php?MAP=E133.46.31.650N34.13.40.932&amp;ZM=8" target="_blank" title="ＭＡＰ">ＭＡＰ</a><br />　空海は、幼少の頃、近くの仙遊ヶ原で土の仏像や草の小堂をつくったりして遊んだといわれています。今はここに地蔵堂があり、多くの拝み絵が奉納されています。<br /><br />●犬塚　　ＭＡＰ<br />　空海が飼っていたという犬を埋めたといいます。<br />（関連記事）“<a href="http://dekiya.blog57.fc2.com/blog-entry-198.html" target="_blank">シルクロードと繋がるという「さぬきうどん」</a>”<br /><br />【善通寺市南町】<br /><br />●陸上自衛隊善通寺駐屯地　　<a href="http://map.goo.ne.jp/map.php?MAP=E133.46.48.555N34.13.3.364&amp;ZM=7" target="_blank" title="ＭＡＰ">ＭＡＰ</a><br />　現在の陸上自衛隊善通寺駐屯地の敷地内には、明治時代に建てられた旧陸軍第11師団関係の施設が多く残っています。現在も陸上自衛隊の現役施設として用いられているため一般公開はされていませんが、敷地の外からも赤煉瓦造りの建物外観などを見ることができ、明治時代の景観を偲ぶことができます。<br />（関連記事）“<a href="http://dekiya.blog57.fc2.com/blog-entry-43.html" target="_blank">善通寺の師団長を務めた乃木希典</a>”<br /><br />●香色山（こうしきざん）・香色山公園　　<a href="http://map.goo.ne.jp/map.php?MAP=E133.46.23.861N34.13.11.408&amp;ZM=8" target="_blank" title="ＭＡＰ">ＭＡＰ</a><br />　総本山善通寺の裏にあり、標高157ｍと五岳山の中では一番低い山です。四国霊場88ヶ所をなぞるミニ遍路があります。山頂には、不動明王、愛染（あいぜん）明王と、弘法大師の遠祖を祀った佐伯直遠祖出神があります。<br /><br />●筆ノ山（ふでのやま）　　<a href="http://map.goo.ne.jp/map.php?MAP=E133.45.57.390N34.13.8.532&amp;ZM=8" target="_blank" title="ＭＡＰ">ＭＡＰ</a><br />　筆の穂先に似ていることや、弘法大師が書道に優れていたことから筆ノ山と名づけられたといわれています。標高296ｍです。桃陵公園のある多度津山は、多度津小学校の校歌に詠われているように「硯ヶ岡（すずりがおか）」と呼ばれています。筆ノ山は徳川末期に実弾射撃の訓練したことから「どんど山」とも呼ばれています。この山の麓には厳島関右衛門（いつくしませきえもん）という江戸時代の終わり頃、幕内力士となった相撲取りの墓があります。<br /><br />【善通寺市文京町】<br /><br />●乃木神社　　<a href="http://map.goo.ne.jp/map.php?MAP=E133.46.57.122N34.13.19.411&amp;ZM=9" target="_blank" title="ＭＡＰ">ＭＡＰ</a><br />　明治31年初代第１１師団長として善通寺に着任した乃木将軍を顕彰する目的で、昭和12年に歩兵第４３連隊跡地に建設されました。鳥居の奥に手水舎・社務所・拝殿・本殿が並んでいます。<br />（関連記事）“<a href="http://dekiya.blog57.fc2.com/blog-entry-43.html" target="_blank">善通寺の師団長を務めた乃木希典</a>”<br /><br />●香川県護国神社（讃岐の宮）　　<a href="http://map.goo.ne.jp/map.php?MAP=E133.46.57.635N34.13.15.928&amp;ZM=9" target="_blank" title="ＭＡＰ">ＭＡＰ</a><br />　明治10年、丸亀駐屯歩兵１２連隊附属地に丸亀招魂社を創設し、維新以来の国事殉難者を祀りましたが、明治31年旧陸軍第１１師団が当地に新編されたとき、偕行社内に戦没将兵の霊を祀ることとなりました。昭和13年内務大臣の指定により護国神社となり造営に着手し、県民の手で土を運び木を植え昭和16年４月25日に竣工しました。３５，７００余人が祀られており、その中には幕末の勤皇志士である小橋友之輔、日柳燕石もいます。<br />（関連記事）“<a href="http://dekiya.blog57.fc2.com/blog-entry-165.html" target="_blank">蛤御門の変で戦死した若き讃岐の勤王志士</a>”　　“<a href="http://dekiya.blog57.fc2.com/blog-entry-34.html" target="_blank">高杉晋作をかくまった侠客の勤皇志士</a>”<br /><br />●四国学院大学　　<a href="http://map.goo.ne.jp/map.php?MAP=E133.47.7.273N34.13.22.624&amp;ZM=8" target="_blank" title="ＭＡＰ">ＭＡＰ</a><br />　旧陸軍第11師団騎兵第11連隊の敷地の大半は現在四国学院大学の構内となっています。大学の２号館は、明治30年竣工の木造２階建で、戦前は旧第11連隊の第２号兵舎として用いられていました。戦後四国学院大学の所有となり、校舎として使用されています。国登録有形文化財。<br />（関連記事）“<a href="http://dekiya.blog57.fc2.com/blog-entry-43.html" target="_blank">善通寺の師団長を務めた乃木希典</a>”<br /><br />●善通寺偕行社（かいこうしゃ）　　ＭＡＰ<br />　明治36年に竣工した陸軍将校の社交施設で、簡素なルネサンス様式です。大正11年の陸軍特別大演習では摂政宮（後の昭和天皇）の宿泊所とされました。戦後は、善通寺に進駐してきた豪州兵の社交場として使用され、その後、善通寺区検察局・香川県食料事務所仲多度支所・自衛隊クラブ・善通寺市役所・善通寺公民館として使用され、昭和55年から平成16年まで善通寺郷土館として使用されてきました。国重文に指定されています。<br />（関連記事）“<a href="http://dekiya.blog57.fc2.com/blog-entry-43.html" target="_blank">善通寺の師団長を務めた乃木希典</a>”<br /><br />●善通寺市立郷土館　　<a href="http://map.goo.ne.jp/map.php?MAP=E133.46.48.743N34.13.26.362&amp;ZM=8" target="_blank" title="ＭＡＰ">ＭＡＰ</a><br />　善通寺市内出土の考古資料を主に、国の重要指定割竹形石棺等、歴史・民俗資料が収集展示されています。<br /><br />【善通寺市生野町】<br /><br />●二頭（ふたがしら）出水<br />　満水面積800平方メートル、貯水量1600立方メートル。２箇所から豊富な水が涌き出ていることからこの名があります。かつては善通寺市の重要な水道水源でした。<br /> ]]>
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<dc:subject>訪れてみたいところ</dc:subject>
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<title>７２番曼荼羅寺・７３番出釋迦寺・７４番甲山寺とその周辺</title>
<description> 善通寺市吉原町・碑殿町・弘田町の区域【善通寺市吉原町】●曼茶羅寺（まんだらじ）　　ＭＡＰ　四国霊場七十二番札所。幼年時代の空海が修業したといわれる我拝師山の北麓にあり、号は延命院です。その由来は古く、推古４年（596）に建立され、はじめは世坂寺（よさかじ）といい、空海の生家佐伯氏の氏寺でした。その後、唐からの留学を終えて帰朝した空海が、亡き母の菩薩を弔うために唐の青竜寺に模して伽藍を造営し、大日如来を
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<![CDATA[ 善通寺市吉原町・碑殿町・弘田町の区域<br /><br />【善通寺市吉原町】<br /><br />●曼茶羅寺（まんだらじ）　　<a href="http://map.goo.ne.jp/map.php?MAP=E133.45.9.935N34.13.12.446&amp;ZM=9" target="_blank" title="ＭＡＰ">ＭＡＰ</a><br />　四国霊場七十二番札所。幼年時代の空海が修業したといわれる我拝師山の北麓にあり、号は延命院です。その由来は古く、推古４年（596）に建立され、はじめは世坂寺（よさかじ）といい、空海の生家佐伯氏の氏寺でした。その後、唐からの留学を終えて帰朝した空海が、亡き母の菩薩を弔うために唐の青竜寺に模して伽藍を造営し、大日如来を刻んで本尊としました。このとき、唐から持ち帰った金剛界と胎蔵界（たいぞうかい）の両界曼荼羅を安置し、寺号を曼荼羅寺と改めました。当時の曼荼羅寺は善通寺にも劣らぬ程の名刹伽藍だったといいます。<br />　その後数百年を経るうちに衰退し、殊に永禄元年の兵火にかかって堂宇を焼失してから益々荒廃しましたが、文祿年中生駒家の旧臣三野氏が諸堂を再建し若干の寄附をしました。その後貞享９年に沙門宥盛、本堂が再興されました。現在の本堂は明治29年の改築です。<br />　境内には多くの松の大樹があり、前庭には弘法大師のお手植えといわれる「不老松（ふろうのまつ）」があります。中心の高さ４メートル、枝張り18メートル程のほぼ正円形をしており、大きく傘をひろげた姿から「笠松」とも云われています。<br />　　　　（御詠歌）　わずかにも曼陀羅おがむ人はただ　ふたたびみたびかえらざらまし<br />　また、境内には西行法師にゆかりがある「曲水式枯山水の庭園」、「笠掛桜」、「昼寝石」が残されています。西行法師は庭園を築庭したと伝えられ、寺に来たときには境内の石でしばしば昼寝をしたといいます。あるとき同行した旅人が桜の枝に笠をかけ忘れたのを見て、<br />　　　　　　　　　　　笠はありその身はいかになりぬらん　あはれはかなき天が下かな<br />と詠んだという。<br />（関連記事）“<a href="http://dekiya.blog57.fc2.com/blog-entry-47.html" target="_blank">崇徳上皇を偲び来讃した西行法師</a>”　“<a href="http://dekiya.blog57.fc2.com/blog-entry-52.html" target="_blank">最初は８８ヶ所以上あった四国霊場</a>”　“<a href="http://dekiya.blog57.fc2.com/blog-entry-35.html" target="_blank">やじさんも、きたさんも参詣した金毘羅</a>”<br /><br />●出釋迦寺（しゅっしゃかじ）　　<a href="http://map.goo.ne.jp/map.php?MAP=E133.45.10.191N34.12.58.238&amp;ZM=8" target="_blank" title="ＭＡＰ">ＭＡＰ</a><br />　四国霊場七十三番札所。空海が7才の時、衆生救済の誓願をたて、現在奥の院がある我拝師山の頂上から身を投げた時、釈迦如来が現れたことから、如来像を刻んで寺を創建したと伝えられています。本堂、大師堂、虚空蔵菩薩堂が建っており、山の頂上近くにある奥の院の裏には、石の護摩壇と稚児大師像が祀られています。<br />　　　　　　　（御詠歌）　迷いぬる六道衆生救わんと　尊き山に出ずる釈迦寺<br />（関連記事）“<a href="http://dekiya.blog57.fc2.com/blog-entry-107.html" target="_blank">少年空海が身を投げた山</a>”　“<a href="http://dekiya.blog57.fc2.com/blog-entry-52.html" target="_blank">最初は８８ヶ所以上あった四国霊場</a>”<br /><br />●我拝師山（がはいしさん）　　<a href="http://map.goo.ne.jp/map.php?MAP=E133.45.25.350N34.12.41.625&amp;ZM=7" target="_blank" title="ＭＡＰ">ＭＡＰ</a><br />　標高481.2ｍで、地元の人から「ぜんちょう」と呼ばれ、昔は倭斯濃山（わしのざん）と呼ばれていました。我拝師山の麓には73番札所出釈迦寺や曼荼羅寺などの札所があります。我拝師山の８合目あたり、出釈迦寺より徒歩で30～４0分程のところに出釈迦寺の奥の院である「捨身ヶ嶽禅定」があります。ここの断崖絶壁の岩場が「捨身ヶ岳」です。<br />　捨身ヶ岳とは、空海が幼少の頃、身を投げたところで、そのときお釈迦様が現れて空海を救ったので、「我（われ）師を拝む」ということからこの山は「我拝師山」と呼ばれるようになりました。また、麓の寺は、釈迦が出現したところという意味から「出釋迦寺」と呼ばれます。<br />　我拝師山・火上山は、弘法大師空海に関わりが深く、善通寺界隈の景観と一体化した、文化的景観を有しています。<br />（関連記事）“<a href="http://dekiya.blog57.fc2.com/blog-entry-107.html" target="_blank">少年空海が身を投げた山</a>”<br /><br />●萬福寺　　<a href="http://map.goo.ne.jp/map.php?MAP=E133.44.58.095N34.13.57.853&amp;ZM=8" target="_blank" title="ＭＡＰ">ＭＡＰ</a><br />　讃岐三十三観音霊場第２４番。天霧山南東麓に位置し、開創は不詳ですが、行基菩薩が聖観音と馬頭観音を刻んで本尊として安置されたといいます。<br />（関連記事）“<a href="http://dekiya.blog57.fc2.com/blog-entry-46.html" target="_blank">讃岐にも残る行基にまつわる伝承</a>”<br /><br />●東西神社　　<a href="http://map.goo.ne.jp/map.php?MAP=E133.45.0.691N34.13.58.622&amp;ZM=10" target="_blank" title="ＭＡＰ">ＭＡＰ</a><br />　天霧山南東麓にあります。古くは「塔立明神」と称され、雲気、加富良津の諸神とともに大社だったといいます。中世、戦乱の災禍にかかり衰退し、天正年間に天霧城主香川之景（後信景と称す）によって再興されました。寛延の百姓一揆の指導者である七義士の一人森甚右衛門を顕彰した石碑が建っています。<br />（関連記事）“<a href="http://dekiya.blog57.fc2.com/blog-entry-210.html" target="_blank" title="神様になった一揆のリーダー">神様になった一揆のリーダー</a>”<br /><br />●青龍古墳・鷺井神社　　<a href="http://map.goo.ne.jp/map.php?MAP=E133.45.9.390N34.13.28.950&amp;ZM=8" target="_blank" title="ＭＡＰ">ＭＡＰ</a><br />　前方後円墳である青龍（せいりゅう）古墳は、二重の濠をめぐらし、幅の広い周庭帯と周濠の一部を残しています。古墳の前方部には、僧空海の創建と伝える鷺井（さぎい）神社（青龍大権現）が祀られています。後円部では石室も確認され小刀手が出土しています。この神社の秋祭りは、神輿の行列に張子馬にまたがった子供が参加するという珍しい行事です。<br />　神社の東100ｍの地に「青鷺の井戸（あおさぎのいど）」と呼ばれる湧水地があり、この井水が眼病の治療の効くといわれていました。しかし、今では鳥居と井戸枠を残すのみです。<br /><br />●西行庵（水茎の岡）　　<a href="http://map.goo.ne.jp/map.php?MAP=E133.44.53.660N34.13.2.283&amp;ZM=10" target="_blank" title="ＭＡＰ">ＭＡＰ</a><br /> 曼陀羅寺の西方約400ｍのところを「水茎の岡」といい、西行法師は数年間ここに滞在したと伝えられています。現在、地元の手により庵が再建されています。<br />          　　　　　　　山里に浮世いとはん友もがな  悔しく過し昔し語らん<br />          　　　　　　　山里を人来る世とは思はねど  問るヽ事を疎くなりゆく<br />          　　　　　　　山里の秋の末にと思ひしが    苦しかりける木枯の風<br />（関連記事）“<a href="http://dekiya.blog57.fc2.com/blog-entry-47.html" target="_blank">崇徳上皇を偲び来讃した西行法師</a>”<br /><br />●西行法師芋畑の歌碑　　ＭＡＰ<br />　七仏寺から西へ約200m行くと「三井之江の芋畑」というところがあり、西行法師の歌碑が立っています。西行法師が八月の十五夜に月があまりにも美しいので芋畑へ出てながめていると、農夫がこれはてっきり芋泥棒にちがいないと思ってとがめると、西行は今夜は昔から芋明月（いもめいげつ）というのだからどうぞ芋をひとつくだされと言いました。すると農夫は歌を一首詠んでくれるならさしあげましょうと答えました。そこで西行は、<br />　　    　　　　月見よと芋の子どもの寝入りしを　起しに来たが何か苦しき<br />と歌を詠みました。喜んだ農夫は西行に芋を与え、それからこのあたりの小字を芋畑と呼ぶようになったということです。<br />（関連記事）“<a href="http://dekiya.blog57.fc2.com/blog-entry-47.html" target="_blank">崇徳上皇を偲び来讃した西行法師</a>”<br /><br />●中山（なかやま）   <a href="http://map.goo.ne.jp/map.php?MAP=E133.45.9.037N34.12.30.715&amp;ZM=8" target="_blank" title="ＭＡＰ">ＭＡＰ</a><br />　標高438mで、我拝師山と火上山の中央に位置することから中山といったそうです。北麓の丘陵は水茎（みずくき）の丘と呼ばれ、西行法師の山里庵跡があります。<br /><br />●火上山（ひあげやま）　　<a href="http://map.goo.ne.jp/map.php?MAP=E133.44.31.448N34.12.34.453&amp;ZM=8" target="_blank" title="ＭＡＰ">ＭＡＰ</a><br />　善通寺市と三豊市の高瀬町・三野町にまたがる海抜406メートルの山です。大化改新の頃、西讃において白方軍団が設置され、その要城雨霧山を中心とし、その燈火台を火上山に配したとの説があります。中山と火上山の間のくぼ地には平安時代に建てられた山岳寺院である大窪寺の跡地があります。また、前方後円墳の古墳もあります。<br /><br />●七仏薬師（しちぶつやくし）　　ＭＡＰ<br />　鳥坂峠から少し降りたところ大池の南側のほとりにあります。ここは昔、弘法大師がここにお堂を建て、自ら薬師七体の石像を刻んで祀っていました。また、「乳薬師」とも呼ばれ、お参りすると乳の出がよくなるということで、かつては乳の出ない女性が訪れていました。乳のほとばし出る絵を描いた板絵がお堂の正面にたくさん掛けられていたといいます。<br /><br />【善通寺市碑殿町】<br /><br />●牛額寺（ぎゅうがくじ）　<a href="http://map.goo.ne.jp/map.php?MAP=E133.44.18.735N34.13.30.346&amp;ZM=9" target="_blank" title="　ＭＡＰ">　ＭＡＰ</a><br />　京都清水寺成就院（じょうじゅいん）の住職となった勤皇僧月照（げっしょう）と信海（しんかい）の出身地です。昭和5年に月照・信海上人の銅像がこの寺に建立されました。しかし、その後、戦時中の金属の応召で銅像を供出し台座だけとなりましたが、昭和53年４月に石像として再建されています。<br />牛額寺の境内近くには「牛穴」という洞穴があります。この牛穴からは身が一つで頭が二つあるという不思議な牛がでてくるという言い伝えが残っており、この穴は山の向こうの奥白方というところまで続いているといわれています。<br />（関連記事）“<a href="http://dekiya.blog57.fc2.com/blog-entry-24.html" target="_blank">西郷隆盛と入水自殺した幕末の勤皇僧</a>”<br /><br />●法然上人蛇身石　　ＭＡＰ<br />　西碑殿から弥谷寺への参道の途中、蛇谷池のほとりからそれて山を少し登ったところに法然上人蛇身石があり、蛇の頭の形をした石の口の中に法然上人の歌碑が祀られています。<br />　法然上人がこの地に来たとき、弟子の淨賀に向かって「汝の父は蛇となりて此の岩中に苦しめり、其の泣聲汝の耳に入らすや」と云ったので、淨賀が石工を雇ってその石を割らせたところ、一尾の小蛇が這い出てきたといいます。淨賀の父は信州の人で角割親政といいますが、かつて郷里で寺領を横領し、その後故あって讃岐にやって来て出釈迦寺に居住していましたが亡くなった後、生前に犯した罪により蛇となって苦しみを受けていたといいます。<br />（関連記事）“<a href="http://dekiya.blog57.fc2.com/blog-entry-45.html" target="_blank">讃岐に逗留した法然上人</a>”<br /><br />【善通寺市弘田町】<br /><br />●甲山寺（こうやまじ）　　<a href="http://map.goo.ne.jp/map.php?MAP=E133.46.6.920N34.13.48.938&amp;ZM=8" target="_blank" title="ＭＡＰ">ＭＡＰ</a><br />　四国霊場第七十四番札所。甲山（こうやま、標高87．2ｍ）の北東麓にあります。空海が満濃池を修築した際、岩窟に毘沙門天を祀り、工事の成功を祈りました。改修後は、朝廷から賜った功労金で堂塔を建立し、自作の薬師如来像を本尊として創建したと伝えられています。本堂、庫裏、大師堂、鐘楼が建っており、大師堂の近くに毘沙門天の岩窟があります。<br />　　　　　　（御詠歌）　十二神味方に持てるいくさには　おのれと心かぶと山かな<br />（関連記事）“<a href="http://dekiya.blog57.fc2.com/blog-entry-52.html" target="_blank">最初は８８ヶ所以上あった四国霊場</a>”<br /><br />●甲山城跡　　<a href="http://map.goo.ne.jp/map.php?MAP=E133.46.5.286N34.13.42.083&amp;ZM=10" target="_blank" title="ＭＡＰ">ＭＡＰ</a><br />　戦国時代、天霧城主香川氏麾下の武将として活躍した朝比奈弥太郎（あさひなやたろう）が、甲山に居城を築いていました。山頂部に残る五角形の削平地が主郭跡だと考えられており、甲山城の碑があります。<br /><br />●朝比奈神社　　<a href="http://map.goo.ne.jp/map.php?MAP=E133.46.2.612N34.13.29.655&amp;ZM=11" target="_blank" title="ＭＡＰ">ＭＡＰ</a><br />　朝比奈弥太郎を祀ります。朝比奈弥太郎は、永禄元年（1558）阿波三好軍の天霧城攻略に際して奮戦し、甲山南麓に討死しました。（ただし、土佐の長宗我部軍と戦い討ち死にしたという説もあります。）その墓標は甲山の付近の池の中州に祀られ、その池は朝比奈池と呼ばれました。のち朝比奈池が埋め立てられたことにより、墓標も筆の山北麓に移されたといいます。<br /><br />●雲気（くもけ）神社　　<a href="http://map.goo.ne.jp/map.php?MAP=E133.45.23.660N34.13.57.171&amp;ZM=10" target="_blank" title="ＭＡＰ">ＭＡＰ</a><br />　延喜式内社讃岐二十四社の一つです。祭神は、豐宇気大神、大龍神、大雷神の三座とされています。社号の由来は、天霧山より出でし雲により良く雨が降るとのことから雲気神社と呼ばれたと全讃誌に記されていますが、真偽のほどは定かでありません。<br />　この神社は天正年間、長宗我部軍の天霧城侵攻の折、兵火にかかり殿宇は総て焼失したので雲気と言う地名だけが残っていたといいます。<br />　その後、丸亀藩４代藩主・京極高矩（たかのり）の時代、将軍家において騎射（馬弓）の催しがあり、高矩が選ばれますが、将軍もご覧になる催しなので、高矩はひどく悩んでいました。騎射の前夜、白ひげの老人が現れ、「明日の騎射は、重藤の弓に白羽の矢を用いなさい」と告げましたが、高矩はその話を疑わしく思いそのまま寝てしまいます。すると老人が再び現れて、「我は、汝の領地を守護する雲気神なり」と正体を告げます。これは神の教示に違いないと、高矩は翌日その指図どおりにしました。すると、見事に的（まと）を的中させることができました。この出来事があってから、高矩は領内の庄屋に命じて雲気の所在を探索させ、弘田村にその古址がある事を突き止め、宝暦４年（1754）に社殿を再興しました。以来、春秋の大祭には、藩主が公式に参拝するようになったといいます。<br /> ]]>
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<dc:date>2008-10-22T21:33:03+09:00</dc:date>
<dc:creator>讃岐の出来屋</dc:creator>
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<title>７１番弥谷寺と本門寺を中心とする地域</title>
<description> 　三豊市三野町（大見・下高瀬・吉津）の区域です。【三豊市三野町大見】●弥谷寺（いやだにじ）　　ＭＡＰ　四国霊場七十一番札所。聖武天皇の勅願で、行基が本尊の阿弥陀如来を刻んで安置したことにより開創されたといわれています。空海が少年時代にこの岩窟で修行し、さらに唐から帰国した後、再度この山で修業中、空から五柄の剣が降る霊を感じたので剣五山と改め、本尊を刻んで安置し、弥谷寺と改号して第71番の霊場に定めた
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<![CDATA[ 　三豊市三野町（大見・下高瀬・吉津）の区域です。<br /><br />【三豊市三野町大見】<br /><br />●弥谷寺（いやだにじ）　　<a href="http://map.goo.ne.jp/map.php?MAP=E133.43.37.023N34.13.34.873&amp;ZM=9" target="_blank" title="ＭＡＰ">ＭＡＰ</a><br />　四国霊場七十一番札所。聖武天皇の勅願で、行基が本尊の阿弥陀如来を刻んで安置したことにより開創されたといわれています。空海が少年時代にこの岩窟で修行し、さらに唐から帰国した後、再度この山で修業中、空から五柄の剣が降る霊を感じたので剣五山と改め、本尊を刻んで安置し、弥谷寺と改号して第71番の霊場に定めたといいます。標高３８２ｍの弥谷中腹に本堂、大師堂、多宝塔と多くの堂宇が立ち並び、山嶽仏教の場となっています。山門前には名物の俳句茶屋があり、参拝者の休憩所になっています。<br />　また、ここには、弘法大師が中国から持ち帰ったという「金銅五鈷鈴（ごこれい）」が伝わっています。これは密教修法のとき振りならす金剛鈴のひとつ。柄が五鈷の形をしている鈴で、鋳銅製で鍍金をしています。<br />  　　　　　　(御詠歌）　悪人と行連なんも弥谷寺　ただかりそめもよき友ぞよき<br />（関連記事）“<a href="http://dekiya.blog57.fc2.com/blog-entry-46.html" target="_blank">讃岐にも残る行基にまつわる伝承</a>” “<a href="http://dekiya.blog57.fc2.com/blog-entry-52.html" target="_blank">最初は８８ヶ所以上あった四国霊場</a>”　 “<a href="http://dekiya.blog57.fc2.com/blog-entry-35.html" target="_blank">やじさんも、きたさんも参詣した金毘羅</a>”<br /><br />●花立（はなだて）碑　　<a href="http://map.goo.ne.jp/map.php?MAP=E133.43.51.924N34.12.52.505&amp;ZM=10" target="_blank" title="ＭＡＰ">ＭＡＰ</a><br />　鳥坂の正八幡神社飛地境内にあり、安永5年(1776)に里長の大井助左衛門惟義によって建立された高さ約２ｍ石碑です。ここから真正面に弥谷寺の本堂が見え、その昔、鳥坂街道を往来する旅人は、この碑の前で花を供え、弥谷寺の方に向かって合掌遥拝したといわれています。<br /><br />●戸峯山城　　<a href="http://map.goo.ne.jp/map.php?MAP=E133.42.48.130N34.13.18.227&amp;ZM=9" target="_blank" title="ＭＡＰ">ＭＡＰ</a>　<br />　貴峰山（とみねやま）は、おむすび型をした標高222.8メートルの山で、「戸峰山」とも「大見富士」ともよばれています。天正2年（1574）、雨霧城四代城主香川信景の家臣である藤田四郎入道宗遍は、この山に天霧城の牙城として戸峯山城（大見城）を築いたといわれています。居館は山の西麓にありました。<br />　一説によると、藤原純友の乱のとき、近江国出身の藤田四郎入道宗遍は、純友討伐に功績があったので、封を大見松崎に受けたといいます。<br />　宗遍の墓は山の西麓御墓谷という所にあり、地元の人によってねんごろに弔われています。なお南麓には総官宮という小祠が祀られています。<br />　貴峰山の東麓には、日枝神社という大見村の氏神とされる神社があります。この神社は近江の出身であった宗遍が、近江の山王大社から分祀し、山王社を建立して山王権現として祀ったのが始まりとされています。その近くにある多聞寺宝城院は、日枝神社の神宮寺だった寺です。<br />　日枝神社　　<a href="http://map.goo.ne.jp/map.php?MAP=E133.42.45.829N34.12.59.800&amp;ZM=10" target="_blank" title="ＭＡＰ">ＭＡＰ</a><br />　多聞寺宝城院　　<a href="http://map.goo.ne.jp/map.php?MAP=E133.42.47.095N34.12.58.616&amp;ZM=10" target="_blank" title="ＭＡＰ">ＭＡＰ</a><br /><br />●津島神社　　<a href="http://map.goo.ne.jp/map.php?MAP=E133.42.19.719N34.14.17.835&amp;ZM=9" target="_blank" title="ＭＡＰ">ＭＡＰ</a><br />　この神社は鼠島という小さい島に鎮座し、江戸時代、浮世絵師の二代目安藤広重にも描かれた風景地です。祭神は「素戔鳴命（すさのおのみこと）」で、例祭日は旧暦の６日24日、25日です。この神社の由緒は次のようなものです。<br />　元禄３年６月の頃より８月まで、久保谷部落の浦に女の謡う声が聞こえてきました。人々が怪しんで浜に出てみましたが、人影はありません。しかし、歌う声が毎日聞こえ、人々は恐れて戸外に出なくなりました。その後大見村の一巫女に、「我は津島の明神というて、年久しくここを守っている。この頃毎日謡っているのは我なり、我を信ずるなれば、この島に樹木を植えよ」と神託ありました。村人がこれに従い島に樹木を植えると、霊験著しく、牛馬の疫病が周辺の村々に流行しても、久保谷部落だけは1匹も斃（たお）れませんでした。この事から津島明神は牛馬の神として尊崇され、６月25日には四周の村人が牛を引いて参拝するようになりました。現在は子供の神として県内外から尊崇され、約10万の氏子がいるといわれています。<br /><br />【三豊市三野町下高瀬】<br /><br />●高永山本門寺(こうえいざんほんもんじ)　　<a href="http://map.goo.ne.jp/map.php?MAP=E133.42.37.446N34.12.5.654&amp;ZM=9" target="_blank" title="ＭＡＰ">ＭＡＰ</a><br />　日蓮正宗の本山格寺院。正中２年(1325)、日仙上人により建立されました。法華宗系各派では本門寺という寺院名が多数あり、それぞれ区別するために頭に所在地の讃岐をつけた、讃岐本門寺(さぬきほんもんじ)とも呼ばれています。また、地元の人には、高瀬大坊の名で知られています。<br />　広々とした境内には、天明元年（1781年）造営の本堂や明暦2年（1656年）に建てられた開山堂、元禄10年（1697年）造立の精霊殿などが建ち並び、堂々とした佇まいです。時代の相違による塔中数を外観すれば、南北朝期にはおよそ６箇坊、文安年中にはおよそ１０箇坊、文明年中にはおよそ１２箇坊、天正年中にはおよそ１１箇坊が数えられるようです。<br />　また、この寺では、新暦の11月22日から25日まで、市が開かれます。日蓮上人の法会に合わせて開かれる市で、「大坊市」、「たかせ市」、「くいもん市」とも呼ばれ初冬の風物詩となっています。<br />　寺では毎年旧10月12・13両日御会式を行い一週間の市立が行われました。当時の民衆は秋の農作業の疲れを、この昼夜の市立に行きいやすのが唯一の楽しみでした。市立は寺から高瀬川堤防に至る３町余りの馬場の両側に、ぎっしりと小屋が立ち並び、農具、竹細工、雑貨、玩具類、陶器、おでん、うどん、果物、菓子饅頭、その他あらゆる飲食物の店が張られ、境内には掛け小屋芝居、サーカス、のぞき、最近では植木市等も出て、昔ながらの市を形成します。<br />（関連記事）“<a href="http://dekiya.blog57.fc2.com/blog-entry-168.html" target="_blank">元寇の頃、甲斐国から讃岐に来た武士が建てた寺</a>”<br /><br />【三豊市三野町吉津】<br /><br />●旧吉津小学校校庭西行上人歌碑　　<a href="http://map.goo.ne.jp/map.php?MAP=E133.41.27.613N34.11.43.302&amp;ZM=10" target="_blank" title="ＭＡＰ">ＭＡＰ</a><br />　西行は讃岐の三野津に立ち寄ったと伝えられています。三野津は現在の三豊市三野町吉津とされ、昭和31年（1956）旧吉津小学校校庭に、「志きわたす月乃氷をうたかひて　ひびのてまはる味のむら鳥」と刻まれた歌碑が建立されました。その後、吉津小学校は移転され、歌碑のある場所は、現在町の老人福祉センターの前庭になっています。<br />　　「山家集」に、「さぬきの国にまかりてみのつと申す津につきて、月の明かくて、ひびの手も通はぬほどに遠く見えわたりけるに、水鳥のひびの手につきて跳び渡りけるを敷き渡す月の氷を疑ひてひびの手まはる味鴨の群鳥」と載せられています。<br />　この中で「みのつ」とは三野津のことで、当時三野津は広い入江の良港でした。西行が崇徳上皇の白峰参拝と空海の善通寺詣でをかねて讃岐に渡ってきた時の上陸地はこの三野津であったともいわれています。<br />　　「ひび」とは、魚をとるため、または海苔の養殖のため海中に立てる粗（えだ）のことです。川田順はこの歌を、「海上の月光を氷が敷いたのかと疑い恐れて、その方までは飛びゆかず、海（えだ）のあたりを翔け廻っている水禽らよ」と解釈しています。また、富士正晴は、「すうっと敷きつめている月の光を氷と錯覚してひびの手（ひびわれの手という意味も匂わせている）をよけて通る味鴨の群れよ」と解釈しています。<br />（関連記事）“<a href="http://dekiya.blog57.fc2.com/blog-entry-47.html" target="_blank">崇徳上皇を偲び来讃した西行法師</a>”<br /><br />●吉祥寺　　<a href="http://map.goo.ne.jp/map.php?MAP=E133.41.11.655N34.11.49.405&amp;ZM=10" target="_blank" title="ＭＡＰ">ＭＡＰ</a><br />　弘法大師が四国霊場開創のとき開基され、慶長８年に再建されました。文政年間には村内各家の神仏護符を集め、その灰と土をまぜて釈迦涅槃像５２部類を作り、釈迦堂に安置されたといわれています。仏生山法然寺の涅槃像に勝るとも劣らない寝釈迦像であろうと言われています<br /><br />●宗吉瓦窯　　<a href="http://map.goo.ne.jp/map.php?MAP=E133.42.5.424N34.11.22.778&amp;ZM=10" target="_blank" title="ＭＡＰ">ＭＡＰ</a><br />　宗吉（むねよし）瓦窯で焼いた瓦は、持統天皇が作った藤原宮に運ばれ、平城京にも転用されました。宗吉瓦窯は現在２３基が確認されています。三つのグループ（Ａ、Ｂ、Ｃ群）に大別され、確認順に１号―２３号窯と呼ばれています。<br />　発掘調査の結果、Ｃ群の窯２基は藤原京への瓦供給以前に成立した最も古いもので、残るＡ、Ｂ群の２１基の窯は後の時代の同時期に築かれたものです。Ｃ群の窯は三野郡の「妙音寺」（豊中町）用に、Ａ、Ｂ群の窯は那珂郡の「法幢寺」（ほうどうじ、丸亀市）用に瓦を焼いたもので、その後、藤原京用の瓦も焼くようになったと考えられています。<br />（関連記事）“<a href="http://dekiya.blog57.fc2.com/blog-entry-190.html" target="_blank" title="藤原京の瓦を焼いた日本最大級の瓦窯">藤原京の瓦を焼いた日本最大級の瓦窯</a>”<br /> ]]>
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<dc:date>2008-10-18T17:52:27+09:00</dc:date>
<dc:creator>讃岐の出来屋</dc:creator>
<dc:publisher>FC2-BLOG</dc:publisher>
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