(98)“香川からも出撃していた神風特攻隊”
“トッコウ”という言葉に対する日本人の反応は、世代によって大きく異なるように思われます。年配の世代の人は涙し、若年世代の中にはカッコイイという反応を示す人もいます。いずれにしても、戦後60年以上を経過し、この言葉は急速に風化しているように思われます。
「特攻」は、大東亜戦争(太平洋大戦)末期、爆弾を搭載した軍用機等に搭乗員が乗り込み直接操縦・誘導を行い、敵艦船等に体当たりして撃滅を狙うという日本軍独特の攻撃方法です。海軍・陸軍とも航空機や船舶など多くの特攻隊を編成しましたが、中でもよく知られているのが海軍の「神風特別攻撃隊」です。一般的には「かみかぜ」と読まれていますが、本来は「しんぷう」と読むそうです。
神風特別攻撃隊という呼称が初めて用いられたのは、昭和19年10月に行われたレイテ沖海戦のときです。この戦いは、フィリピンを奪還しようとするアメリカ軍と、それを阻止しようとする日本軍の間で行われたものです。すでに航空戦力不足に陥っていた日本海軍は、零戦13機からなる特攻隊を組織し、アメリカ艦船に対して体当たり攻撃を加えました。この特攻隊は4隊で構成され、各隊の呼称は本居宣長が大和魂について詠じた「敷島の 大和心を人間はば 朝日に匂ふ 山桜花」の歌から、敷島隊、大和隊、朝日隊、山桜隊と名づけられました。神風特攻隊による特攻は終戦の日、鹿児島の鹿屋基地から最後の戦闘機が出撃するまで続けられ、17歳から20歳代前半の4000人近い若者が命を落としました。
大東亜戦争の末期、香川にも神風特攻隊の基地が設けられていました。その基地は、荘内半島の東側付け根部、現在の三豊市詫間町香田(こうだ)地区にあった詫間海軍航空隊です。
詫間海軍航空隊は、水上機の実用教育を行う部隊として、昭和18年6月1日に開隊しました。航空隊が建設された場所は白砂青松の、のどかな漁村地帯だったところで、その建設は地元の勤労奉仕隊員も動員され1年半の突貫工事で行われました。また、東側1kmの新浜には海軍軍需部詫間補給所も建設されました。このとき、地元では合計、130戸、約37ヘクタールが立ち退きを余儀なくされました。
この地に水上航空隊が設けられたのは、飛行艇が離発着できる波が穏やかで十分な広さの海域があること、詫間港が善通寺第11師団の外港であることなどによるといわれています。主要な配備機は九四式水上偵察機と二式大艇でした。二式大艇は、昭和15年に初飛行した当時世界一の高性能を誇った大型飛行艇で、大型レーダーを装備して、偵察、哨戒、輸送など多用途に供することができました。
日本で最初の飛行艇訓練基地は昭和11年10月1日に開設された横浜海軍航空隊ですが、この隊は、開戦とともに、直ちに第一線に出動し、ハワイ・インド洋・アリューシャン・オーストラリア・ソロモンと、全海域にわたって遠距離の哨戒・攻撃・輸送・救出等の作戦に従事していました。しかし、戦局の悪化を受け、海軍は、昭和19年9月、沖縄戦に備えて兵力を集中するため、全ての飛行艇隊を横浜海軍航空隊に集結し、その作戦基地を詫間とします。これにより、詫間は3,000名を超える兵員を擁する水上機部隊の一大基地となります。横浜航空隊の作戦上の部隊名は八〇一空といいます。昭和20年2月には、沖縄戦に当たるため、鹿児島県鹿屋を司令部とする第五航空艦隊が新たに編成され、詫間の八〇一空がその偵察任務に当たることとなります。
昭和20年2月、本土防衛のため、西カロリン諸島のウルシー環礁に集結する米空母機動部隊を攻撃しようという「丹作戦」が発令されます。この二次作戦は、陸上爆撃機の銀河24機と誘導機の二式大艇3機が、日本から1,500 海里 (約 2,900km) 以上離れたウルシーまで一挙に太平洋を飛び越え、敵艦に体当たりして撃沈しようというものでした。帰還することはもはや物理的に不可能な決死の攻撃です。そして、この作戦の実行部隊として、詫間を基地とする二式大艇とその乗組員36名も編入した「神風特別攻撃隊菊水部隊梓隊」が編成されます。
3月11日、「銀河」24 機が鹿児島・鹿屋から飛び立ちました。これが、鹿屋から出撃した最初の神風特別攻撃隊です。そして、詫間から鹿児島・鴨池基地を経由して出撃した二式大艇3機と佐多岬上空で合流し、ウルシーへ向かいました。しかし、最終的に到達した銀河は24機のうち16 機だけで、また、敵艦影の判別が困難な日没後の突入となったため、その戦果は1 機が空母「ランドルフ」の飛行甲板後部に激突し火災を発生させるにとどまりました。突入を断念した 4 機がヤップ島に不時着したほかは、12 機もの銀河が未帰還となりました。詫間から出撃した二式大艇3機も未帰還となり乗組員全員が戦死しました。戦果に対して、あまりにも大きな犠牲でした。
4月に入ると、日本軍は、連合軍の沖縄への進攻を阻止する目的で特攻作戦を本格的に進めます。この作戦は、楠木正成の旗印「菊水」をもじって「菊水作戦(きくすいさくせん)」と呼ばれました。作戦は第1号(4月6日~11日)から第10号(6月21日~22日)まで実施されます。
詫間でも小型水上機による特攻部隊が編成され、詫間海軍航空隊の“琴平水心隊”と、詫間に移動してきた茨城県北浦海軍航空隊による“琴平魁隊”からなる神風特別攻撃隊が編成されます。詫間の特攻隊は、4月28日以降、鹿児島・指宿基地を前進基地として、4次にわたって菊水作戦に加わり、25機が米軍艦船に突入し、57名の若者が沖縄の空に散りました。4月28日の「菊水4号作戦」で5名、5月4日の「菊水5号作戦」で40名、5月11日の「菊水6号作戦」で5名、5月27日の「菊水8号作戦」で7名がそれぞれ戦死しています。
青年兵たちは、荘内半島や粟島など瀬戸内の美しい風景を機上から目に焼き付けながら、親兄弟、恋しい人との別れを偲び南に向かって二度と帰れない出撃をしていったのでしょう。この辺りは、浦島太郎伝説にふさわしいのどかな風景を今も残しており、かつて悲しい出来事があったとはとても信じられないところです。
詫間については、次の記事もお読みください。
・“紫の雲が出る山があり浦島太郎伝説が残る半島”(68話)
・“讃岐にもある後醍醐天皇の息子の足跡と新田義貞一族の物語”(61話)
詫間の隣の仁尾については、次の記事をお読みください。
・“三月三日に雛祭りをしない町”(12話)
「特攻」は、大東亜戦争(太平洋大戦)末期、爆弾を搭載した軍用機等に搭乗員が乗り込み直接操縦・誘導を行い、敵艦船等に体当たりして撃滅を狙うという日本軍独特の攻撃方法です。海軍・陸軍とも航空機や船舶など多くの特攻隊を編成しましたが、中でもよく知られているのが海軍の「神風特別攻撃隊」です。一般的には「かみかぜ」と読まれていますが、本来は「しんぷう」と読むそうです。
神風特別攻撃隊という呼称が初めて用いられたのは、昭和19年10月に行われたレイテ沖海戦のときです。この戦いは、フィリピンを奪還しようとするアメリカ軍と、それを阻止しようとする日本軍の間で行われたものです。すでに航空戦力不足に陥っていた日本海軍は、零戦13機からなる特攻隊を組織し、アメリカ艦船に対して体当たり攻撃を加えました。この特攻隊は4隊で構成され、各隊の呼称は本居宣長が大和魂について詠じた「敷島の 大和心を人間はば 朝日に匂ふ 山桜花」の歌から、敷島隊、大和隊、朝日隊、山桜隊と名づけられました。神風特攻隊による特攻は終戦の日、鹿児島の鹿屋基地から最後の戦闘機が出撃するまで続けられ、17歳から20歳代前半の4000人近い若者が命を落としました。
大東亜戦争の末期、香川にも神風特攻隊の基地が設けられていました。その基地は、荘内半島の東側付け根部、現在の三豊市詫間町香田(こうだ)地区にあった詫間海軍航空隊です。
詫間海軍航空隊は、水上機の実用教育を行う部隊として、昭和18年6月1日に開隊しました。航空隊が建設された場所は白砂青松の、のどかな漁村地帯だったところで、その建設は地元の勤労奉仕隊員も動員され1年半の突貫工事で行われました。また、東側1kmの新浜には海軍軍需部詫間補給所も建設されました。このとき、地元では合計、130戸、約37ヘクタールが立ち退きを余儀なくされました。
この地に水上航空隊が設けられたのは、飛行艇が離発着できる波が穏やかで十分な広さの海域があること、詫間港が善通寺第11師団の外港であることなどによるといわれています。主要な配備機は九四式水上偵察機と二式大艇でした。二式大艇は、昭和15年に初飛行した当時世界一の高性能を誇った大型飛行艇で、大型レーダーを装備して、偵察、哨戒、輸送など多用途に供することができました。
日本で最初の飛行艇訓練基地は昭和11年10月1日に開設された横浜海軍航空隊ですが、この隊は、開戦とともに、直ちに第一線に出動し、ハワイ・インド洋・アリューシャン・オーストラリア・ソロモンと、全海域にわたって遠距離の哨戒・攻撃・輸送・救出等の作戦に従事していました。しかし、戦局の悪化を受け、海軍は、昭和19年9月、沖縄戦に備えて兵力を集中するため、全ての飛行艇隊を横浜海軍航空隊に集結し、その作戦基地を詫間とします。これにより、詫間は3,000名を超える兵員を擁する水上機部隊の一大基地となります。横浜航空隊の作戦上の部隊名は八〇一空といいます。昭和20年2月には、沖縄戦に当たるため、鹿児島県鹿屋を司令部とする第五航空艦隊が新たに編成され、詫間の八〇一空がその偵察任務に当たることとなります。
昭和20年2月、本土防衛のため、西カロリン諸島のウルシー環礁に集結する米空母機動部隊を攻撃しようという「丹作戦」が発令されます。この二次作戦は、陸上爆撃機の銀河24機と誘導機の二式大艇3機が、日本から1,500 海里 (約 2,900km) 以上離れたウルシーまで一挙に太平洋を飛び越え、敵艦に体当たりして撃沈しようというものでした。帰還することはもはや物理的に不可能な決死の攻撃です。そして、この作戦の実行部隊として、詫間を基地とする二式大艇とその乗組員36名も編入した「神風特別攻撃隊菊水部隊梓隊」が編成されます。
3月11日、「銀河」24 機が鹿児島・鹿屋から飛び立ちました。これが、鹿屋から出撃した最初の神風特別攻撃隊です。そして、詫間から鹿児島・鴨池基地を経由して出撃した二式大艇3機と佐多岬上空で合流し、ウルシーへ向かいました。しかし、最終的に到達した銀河は24機のうち16 機だけで、また、敵艦影の判別が困難な日没後の突入となったため、その戦果は1 機が空母「ランドルフ」の飛行甲板後部に激突し火災を発生させるにとどまりました。突入を断念した 4 機がヤップ島に不時着したほかは、12 機もの銀河が未帰還となりました。詫間から出撃した二式大艇3機も未帰還となり乗組員全員が戦死しました。戦果に対して、あまりにも大きな犠牲でした。
4月に入ると、日本軍は、連合軍の沖縄への進攻を阻止する目的で特攻作戦を本格的に進めます。この作戦は、楠木正成の旗印「菊水」をもじって「菊水作戦(きくすいさくせん)」と呼ばれました。作戦は第1号(4月6日~11日)から第10号(6月21日~22日)まで実施されます。
詫間でも小型水上機による特攻部隊が編成され、詫間海軍航空隊の“琴平水心隊”と、詫間に移動してきた茨城県北浦海軍航空隊による“琴平魁隊”からなる神風特別攻撃隊が編成されます。詫間の特攻隊は、4月28日以降、鹿児島・指宿基地を前進基地として、4次にわたって菊水作戦に加わり、25機が米軍艦船に突入し、57名の若者が沖縄の空に散りました。4月28日の「菊水4号作戦」で5名、5月4日の「菊水5号作戦」で40名、5月11日の「菊水6号作戦」で5名、5月27日の「菊水8号作戦」で7名がそれぞれ戦死しています。
青年兵たちは、荘内半島や粟島など瀬戸内の美しい風景を機上から目に焼き付けながら、親兄弟、恋しい人との別れを偲び南に向かって二度と帰れない出撃をしていったのでしょう。この辺りは、浦島太郎伝説にふさわしいのどかな風景を今も残しており、かつて悲しい出来事があったとはとても信じられないところです。
詫間については、次の記事もお読みください。
・“紫の雲が出る山があり浦島太郎伝説が残る半島”(68話)
・“讃岐にもある後醍醐天皇の息子の足跡と新田義貞一族の物語”(61話)
詫間の隣の仁尾については、次の記事をお読みください。
・“三月三日に雛祭りをしない町”(12話)