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草創シリーズ 讃岐の島の歴史と物語

草創シリーズ Number 3

讃岐の島の歴史と物語

History and Story of Sanuki's Island   

特別寄稿
咸臨丸と塩飽諸島


@ ¥ 1,600

《平成22年12月 発行》

お問い合わせ:
草創の会 会長 村田勇 
〒769-0105
香川県高松市国分寺町柏原249-1

✆ (087)874-4446
Fax(087)874-2855



目次
はじめに 讃岐の伝承・昔ばなし
第1章 小豆島・・今も応神天皇と佐々木信胤が生きる島
第2章 直島・・・アートの島に歴史あり
第3章 その他の島の歴史と物語
豊島女木島男木島・沙弥島・瀬居島・櫃石島・本島・広島・志々島佐柳島粟島・伊吹島
第4章 讃岐に残る海の伝説
瀬戸内民族写真館
特別寄稿 咸臨丸と塩飽諸島
あとがき

讃岐の島の歴史と物語



cf.
草創シリーズ 1 『 金毘羅 参詣道 』
草創シリーズ 2 『 讃岐の古城跡 と 豪族たち 』
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テーマ : 香川
ジャンル : 地域情報

いらっしゃいま~せ(全体目次)

 このブログは、讃岐(さぬき)に残る歴史物語をショートストーリーとして記事にしたものです。「さぬき」という言葉は「さぬきうどん」で全国的に知られていますが、それは現在の香川県の旧国名のことです。 
日本各地で、観光のレベルアップ、活性化を図るために、観光検定を実施して郷土の歴史・文化などを普及させる取り組みが行われています。
 こうしたことから、このブログは、香川県の埋もれた観光資源を掘り起こし記事にすることによって、香川県に新しい観光コースがつくられていく契機になることを願って書き綴っています。そういう意味で、「香川歴史・文化観光ガイド」として活用されることを目指しています。
 読者の方が、「ヘェ~、香川にそんな所、話があったのか。行ってみたいな。」と思っていただければ、筆者の狙いは当たったことになります。名付けて、「さぬき香川ヘェ~塾」です。 お読みになって、もし「ヘェ~」と思われたら、画面左のFC2ブログランキングをクリックしてください。                      ヘェ~塾々長  出来屋二郎

■ 物語編目次】  現在の記事数は150話。最新記事は、“讃岐で密かに亡くなった悲運の皇子”(10月13日掲載)。
■ 地域編目次】  各記事に関連する社寺、史跡などの観光ポイントなどを、地域別に紹介。(残念ながら写真の掲載はできていません。)年代順目次は時間軸で歴史的にみるのに対して、地域別目次は平面で地理的にみます。
■ 祭礼・行事のカレンダー】  各記事に関連のある主な祭礼・行事を紹介。なお、日時については変更等もありますので、地元の市町ないし観光協会にご確認してください。
■ 【特集】  ショートストーリーとは別に書いたものです。
細川頼之と讃岐  室町幕府三代将軍足利義満の管領として南北朝合一を果たした武将の物語。
金毘羅参詣続膝栗毛  十辺舎一九が書いた東海道中膝栗毛の続編。原作を現代表記にしたもの。
讃岐の方言(1) 讃岐の方言(2)   未完。
多度津物語―香川近代産業発祥の地の栄枯盛衰―  瀬戸内海の代表的な港町の物語。
■ 【雑記帳

75番善通寺とその周辺


善通寺市善通寺町・仙遊町・南町・文京町・生野町の区域

【善通寺市善通寺町】

●総本山善通寺  MAP
 四国霊場七十五番札所。正式には屏風浦五岳山善通寺誕生院といい、空海生誕の地といわれています。唐から帰朝した空海が自ら学んだ長安の青竜寺を模して弘安4年(813年)に建立し、父佐伯直田公善通(さえきあたいのたきみよしみち)の名を冠したといわれています。和歌山の高野山、京都の東寺とともに、大師三大霊場の一つです。境内は約10万平方メートルという広大なもので東院(伽藍)と西院(誕生院)の二つに分かれています。
(関連記事)“高野山、東寺と並ぶ弘法大師三大霊場の一つ善通寺
○東院(伽藍)  旧境内と考えられており、金堂、五重塔、南大門、大楠、常行堂(釈迦堂)、佐伯祖廟、五社明神、三帝御廟、法然上人逆修堂、赤門などがあります。
 ・金堂  南大門正面に位置し、江戸時代の貞享2年(1685)に再建されたものですが、基壇の石積みには創建当初の礎石が用いられています。堂内には本尊の薬師如来像が安置されています。
 ・大楠  幹が10mを越す老木で空海誕生時にはすでに繁茂していたと伝えられます。
 ・法然上人逆修堂(ぎゃくしゅとう)  五重塔の東南に尊氏利生塔と並んでその西側に安置されている高さ145センチの五輪の石塔です。鎌倉時代の初期の建永2年(1207)、讃岐に流された法然上人が善通寺に詣でた際、参詣者の後世の往生を祈って建立したと伝えられます。逆修供養は生前に自ら後世の菩提を祈るために営む法要で、法然上人は深く善通寺を崇敬せられ「一度この地に詣でなんともがらは一佛浄土の友たるべし」と申されて、善通寺に参詣した折、生前に自らの菩提を祈らんがため、また、多くの人の法縁を結ばんがため、逆修供養の宝塔を建立されたと伝えられています。
(関連記事)“讃岐に逗留した法然上人
○西院(誕生院)  御影堂、産湯井、御影池、宝物館、護摩堂、聖霊殿、親鸞堂、聖天堂、仁王門、勅使門、済世橋、遍照閣などがあります。
 ・御影堂  山を背にした来迎図のような構図で描かれた大使自筆の自画像「瞬目大師(めひきたいし)」が安置されています。この自画像には次の話が残っています。
弘法大師が唐へ留学するときに、母君のために自画像を描いて残そうと池に姿を写しましたが、夕暮れ時で見えませんでした。ところが裏山から光が差してきたので、その光に照らされて描くことができました。振り返ると、香色山の上に釈迦如来が姿を現していました。それで大師は、自画像の肩に釈迦如来の姿を書き加えたそうです。
 ・ほやけ地蔵堂  この地蔵には口から左頬にかけて灰色の大きなあざがあります。これは昔、頬に大きなあざのある娘が毎日ここに祈願したところ、娘のあざはきれいにとれて、そのかわりに地蔵尊の顔にあざができたという伝説があります。以来、あざや病気の平癒を願う人々の参拝でにぎわう場所となりました。
 ・御影(おもかげ)池  御影堂の正面にある小さな池。弘法大師が唐に留学するため京より帰宅した時、母の玉依御前が非常に名残り惜しんだので、この池の面に姿を写して自画像を描いて母君に贈ったといいます。また、この池を覆っていた松はすでに枯れてしまいましたが、池の前に枯木として保存し、「御影の松」と呼ばれています。ここでは参詣者が経木に水をかけて先祖の菩提を弔っています。
 ・宝物館  弘法大師が書を、母の玉依御前が仏像を描いたという「一字一仏法華経序品(じょぼん)」、留学中に恵果和尚から真言宗第八祖の証として授けられた「三国伝来金銅錫杖」の国宝のほか、「木造吉祥天立像」、「木造地蔵菩薩立蔵」など国の重要文化財などが収蔵されています。

●玉泉院  MAP
 現在、善通寺の南大門から西に行き南に少し入ったところにある玉泉院の場所に西行は滞在したと伝えられています。同院は別名西行庵と呼ばれ、かつては善通寺の敷地の中にありました。今は枯れてしまいましたが、西行法師は「久の松」の木の下に仮の庵を結び、7日7夜の間お籠もりをして弘法大師を祈ったといわれています。西行はここで次の歌を詠っており、歌に詠まれた松は「西行が松」と呼ばれました。
     久に経て我が後の世を問へよ松 跡しのぶべき人も無き身ぞ
     ここをまた我住みうくて浮かれなば 松はひとりにならむとすらむ
 なお、玉の井という泉があって、西行はその泉の水を汲んで大師の霊前に供えたといいます。
(関連記事)“崇徳上皇を偲び来讃した西行法師

●観智院(子安観音)  MAP
 讃岐三十三観音霊場。大同2年弘法大師が創建。善通寺が最盛期だった弘安年間には、49の塔頭がありましたが、観智院(かんちいん)はその時、十善坊と称し、寺内塔頭の筆頭として、一山の寺務を掌握していました。中世に入って、現在の院号に改められました。本尊の観音は、子安観音と呼ばれ、高松藩主松平公の側女が尼となって住んでいた庵のご本尊を移したものと言われています。

【善通寺市仙遊町】

●仙遊ヶ原地蔵堂(仙遊寺)  MAP
 空海は、幼少の頃、近くの仙遊ヶ原で土の仏像や草の小堂をつくったりして遊んだといわれています。今はここに地蔵堂があり、多くの拝み絵が奉納されています。

●犬塚  MAP
 空海が飼っていたという犬を埋めたといいます。
(関連記事)“シルクロードと繋がるという「さぬきうどん」

【善通寺市南町】

●陸上自衛隊善通寺駐屯地  MAP
 現在の陸上自衛隊善通寺駐屯地の敷地内には、明治時代に建てられた旧陸軍第11師団関係の施設が多く残っています。現在も陸上自衛隊の現役施設として用いられているため一般公開はされていませんが、敷地の外からも赤煉瓦造りの建物外観などを見ることができ、明治時代の景観を偲ぶことができます。
(関連記事)“善通寺の師団長を務めた乃木希典

●香色山(こうしきざん)・香色山公園  MAP
 総本山善通寺の裏にあり、標高157mと五岳山の中では一番低い山です。四国霊場88ヶ所をなぞるミニ遍路があります。山頂には、不動明王、愛染(あいぜん)明王と、弘法大師の遠祖を祀った佐伯直遠祖出神があります。

●筆ノ山(ふでのやま)  MAP
 筆の穂先に似ていることや、弘法大師が書道に優れていたことから筆ノ山と名づけられたといわれています。標高296mです。桃陵公園のある多度津山は、多度津小学校の校歌に詠われているように「硯ヶ岡(すずりがおか)」と呼ばれています。筆ノ山は徳川末期に実弾射撃の訓練したことから「どんど山」とも呼ばれています。この山の麓には厳島関右衛門(いつくしませきえもん)という江戸時代の終わり頃、幕内力士となった相撲取りの墓があります。

【善通寺市文京町】

●乃木神社  MAP
 明治31年初代第11師団長として善通寺に着任した乃木将軍を顕彰する目的で、昭和12年に歩兵第43連隊跡地に建設されました。鳥居の奥に手水舎・社務所・拝殿・本殿が並んでいます。
(関連記事)“善通寺の師団長を務めた乃木希典

●香川県護国神社(讃岐の宮)  MAP
 明治10年、丸亀駐屯歩兵12連隊附属地に丸亀招魂社を創設し、維新以来の国事殉難者を祀りましたが、明治31年旧陸軍第11師団が当地に新編されたとき、偕行社内に戦没将兵の霊を祀ることとなりました。昭和13年内務大臣の指定により護国神社となり造営に着手し、県民の手で土を運び木を植え昭和16年4月25日に竣工しました。35,700余人が祀られており、その中には幕末の勤皇志士である小橋友之輔、日柳燕石もいます。
(関連記事)“蛤御門の変で戦死した若き讃岐の勤王志士”  “高杉晋作をかくまった侠客の勤皇志士

●四国学院大学  MAP
 旧陸軍第11師団騎兵第11連隊の敷地の大半は現在四国学院大学の構内となっています。大学の2号館は、明治30年竣工の木造2階建で、戦前は旧第11連隊の第2号兵舎として用いられていました。戦後四国学院大学の所有となり、校舎として使用されています。国登録有形文化財。
(関連記事)“善通寺の師団長を務めた乃木希典

●善通寺偕行社(かいこうしゃ)  MAP
 明治36年に竣工した陸軍将校の社交施設で、簡素なルネサンス様式です。大正11年の陸軍特別大演習では摂政宮(後の昭和天皇)の宿泊所とされました。戦後は、善通寺に進駐してきた豪州兵の社交場として使用され、その後、善通寺区検察局・香川県食料事務所仲多度支所・自衛隊クラブ・善通寺市役所・善通寺公民館として使用され、昭和55年から平成16年まで善通寺郷土館として使用されてきました。国重文に指定されています。
(関連記事)“善通寺の師団長を務めた乃木希典

●善通寺市立郷土館  MAP
 善通寺市内出土の考古資料を主に、国の重要指定割竹形石棺等、歴史・民俗資料が収集展示されています。

【善通寺市生野町】

●二頭(ふたがしら)出水
 満水面積800平方メートル、貯水量1600立方メートル。2箇所から豊富な水が涌き出ていることからこの名があります。かつては善通寺市の重要な水道水源でした。

72番曼荼羅寺・73番出釋迦寺・74番甲山寺とその周辺

善通寺市吉原町・碑殿町・弘田町の区域

【善通寺市吉原町】

●曼茶羅寺(まんだらじ)  MAP
 四国霊場七十二番札所。幼年時代の空海が修業したといわれる我拝師山の北麓にあり、号は延命院です。その由来は古く、推古4年(596)に建立され、はじめは世坂寺(よさかじ)といい、空海の生家佐伯氏の氏寺でした。その後、唐からの留学を終えて帰朝した空海が、亡き母の菩薩を弔うために唐の青竜寺に模して伽藍を造営し、大日如来を刻んで本尊としました。このとき、唐から持ち帰った金剛界と胎蔵界(たいぞうかい)の両界曼荼羅を安置し、寺号を曼荼羅寺と改めました。当時の曼荼羅寺は善通寺にも劣らぬ程の名刹伽藍だったといいます。
 その後数百年を経るうちに衰退し、殊に永禄元年の兵火にかかって堂宇を焼失してから益々荒廃しましたが、文祿年中生駒家の旧臣三野氏が諸堂を再建し若干の寄附をしました。その後貞享9年に沙門宥盛、本堂が再興されました。現在の本堂は明治29年の改築です。
 境内には多くの松の大樹があり、前庭には弘法大師のお手植えといわれる「不老松(ふろうのまつ)」があります。中心の高さ4メートル、枝張り18メートル程のほぼ正円形をしており、大きく傘をひろげた姿から「笠松」とも云われています。
    (御詠歌) わずかにも曼陀羅おがむ人はただ ふたたびみたびかえらざらまし
 また、境内には西行法師にゆかりがある「曲水式枯山水の庭園」、「笠掛桜」、「昼寝石」が残されています。西行法師は庭園を築庭したと伝えられ、寺に来たときには境内の石でしばしば昼寝をしたといいます。あるとき同行した旅人が桜の枝に笠をかけ忘れたのを見て、
           笠はありその身はいかになりぬらん あはれはかなき天が下かな
と詠んだという。
(関連記事)“崇徳上皇を偲び来讃した西行法師” “最初は88ヶ所以上あった四国霊場” “やじさんも、きたさんも参詣した金毘羅

●出釋迦寺(しゅっしゃかじ)  MAP
 四国霊場七十三番札所。空海が7才の時、衆生救済の誓願をたて、現在奥の院がある我拝師山の頂上から身を投げた時、釈迦如来が現れたことから、如来像を刻んで寺を創建したと伝えられています。本堂、大師堂、虚空蔵菩薩堂が建っており、山の頂上近くにある奥の院の裏には、石の護摩壇と稚児大師像が祀られています。
       (御詠歌) 迷いぬる六道衆生救わんと 尊き山に出ずる釈迦寺
(関連記事)“少年空海が身を投げた山” “最初は88ヶ所以上あった四国霊場

●我拝師山(がはいしさん)  MAP
 標高481.2mで、地元の人から「ぜんちょう」と呼ばれ、昔は倭斯濃山(わしのざん)と呼ばれていました。我拝師山の麓には73番札所出釈迦寺や曼荼羅寺などの札所があります。我拝師山の8合目あたり、出釈迦寺より徒歩で30~40分程のところに出釈迦寺の奥の院である「捨身ヶ嶽禅定」があります。ここの断崖絶壁の岩場が「捨身ヶ岳」です。
 捨身ヶ岳とは、空海が幼少の頃、身を投げたところで、そのときお釈迦様が現れて空海を救ったので、「我(われ)師を拝む」ということからこの山は「我拝師山」と呼ばれるようになりました。また、麓の寺は、釈迦が出現したところという意味から「出釋迦寺」と呼ばれます。
 我拝師山・火上山は、弘法大師空海に関わりが深く、善通寺界隈の景観と一体化した、文化的景観を有しています。
(関連記事)“少年空海が身を投げた山

●萬福寺  MAP
 讃岐三十三観音霊場第24番。天霧山南東麓に位置し、開創は不詳ですが、行基菩薩が聖観音と馬頭観音を刻んで本尊として安置されたといいます。
(関連記事)“讃岐にも残る行基にまつわる伝承

●東西神社  MAP
 天霧山南東麓にあります。古くは「塔立明神」と称され、雲気、加富良津の諸神とともに大社だったといいます。中世、戦乱の災禍にかかり衰退し、天正年間に天霧城主香川之景(後信景と称す)によって再興されました。寛延の百姓一揆の指導者である七義士の一人森甚右衛門を顕彰した石碑が建っています。
(関連記事)“神様になった一揆のリーダー

●青龍古墳・鷺井神社  MAP
 前方後円墳である青龍(せいりゅう)古墳は、二重の濠をめぐらし、幅の広い周庭帯と周濠の一部を残しています。古墳の前方部には、僧空海の創建と伝える鷺井(さぎい)神社(青龍大権現)が祀られています。後円部では石室も確認され小刀手が出土しています。この神社の秋祭りは、神輿の行列に張子馬にまたがった子供が参加するという珍しい行事です。
 神社の東100mの地に「青鷺の井戸(あおさぎのいど)」と呼ばれる湧水地があり、この井水が眼病の治療の効くといわれていました。しかし、今では鳥居と井戸枠を残すのみです。

●西行庵(水茎の岡)  MAP
曼陀羅寺の西方約400mのところを「水茎の岡」といい、西行法師は数年間ここに滞在したと伝えられています。現在、地元の手により庵が再建されています。
       山里に浮世いとはん友もがな 悔しく過し昔し語らん
       山里を人来る世とは思はねど 問るヽ事を疎くなりゆく
       山里の秋の末にと思ひしが 苦しかりける木枯の風
(関連記事)“崇徳上皇を偲び来讃した西行法師

●西行法師芋畑の歌碑  MAP
 七仏寺から西へ約200m行くと「三井之江の芋畑」というところがあり、西行法師の歌碑が立っています。西行法師が八月の十五夜に月があまりにも美しいので芋畑へ出てながめていると、農夫がこれはてっきり芋泥棒にちがいないと思ってとがめると、西行は今夜は昔から芋明月(いもめいげつ)というのだからどうぞ芋をひとつくだされと言いました。すると農夫は歌を一首詠んでくれるならさしあげましょうと答えました。そこで西行は、
       月見よと芋の子どもの寝入りしを 起しに来たが何か苦しき
と歌を詠みました。喜んだ農夫は西行に芋を与え、それからこのあたりの小字を芋畑と呼ぶようになったということです。
(関連記事)“崇徳上皇を偲び来讃した西行法師

●中山(なかやま) MAP
 標高438mで、我拝師山と火上山の中央に位置することから中山といったそうです。北麓の丘陵は水茎(みずくき)の丘と呼ばれ、西行法師の山里庵跡があります。

●火上山(ひあげやま)  MAP
 善通寺市と三豊市の高瀬町・三野町にまたがる海抜406メートルの山です。大化改新の頃、西讃において白方軍団が設置され、その要城雨霧山を中心とし、その燈火台を火上山に配したとの説があります。中山と火上山の間のくぼ地には平安時代に建てられた山岳寺院である大窪寺の跡地があります。また、前方後円墳の古墳もあります。

●七仏薬師(しちぶつやくし)  MAP
 鳥坂峠から少し降りたところ大池の南側のほとりにあります。ここは昔、弘法大師がここにお堂を建て、自ら薬師七体の石像を刻んで祀っていました。また、「乳薬師」とも呼ばれ、お参りすると乳の出がよくなるということで、かつては乳の出ない女性が訪れていました。乳のほとばし出る絵を描いた板絵がお堂の正面にたくさん掛けられていたといいます。

【善通寺市碑殿町】

●牛額寺(ぎゅうがくじ)  MAP
 京都清水寺成就院(じょうじゅいん)の住職となった勤皇僧月照(げっしょう)と信海(しんかい)の出身地です。昭和5年に月照・信海上人の銅像がこの寺に建立されました。しかし、その後、戦時中の金属の応召で銅像を供出し台座だけとなりましたが、昭和53年4月に石像として再建されています。
牛額寺の境内近くには「牛穴」という洞穴があります。この牛穴からは身が一つで頭が二つあるという不思議な牛がでてくるという言い伝えが残っており、この穴は山の向こうの奥白方というところまで続いているといわれています。
(関連記事)“西郷隆盛と入水自殺した幕末の勤皇僧

●法然上人蛇身石  MAP
 西碑殿から弥谷寺への参道の途中、蛇谷池のほとりからそれて山を少し登ったところに法然上人蛇身石があり、蛇の頭の形をした石の口の中に法然上人の歌碑が祀られています。
 法然上人がこの地に来たとき、弟子の淨賀に向かって「汝の父は蛇となりて此の岩中に苦しめり、其の泣聲汝の耳に入らすや」と云ったので、淨賀が石工を雇ってその石を割らせたところ、一尾の小蛇が這い出てきたといいます。淨賀の父は信州の人で角割親政といいますが、かつて郷里で寺領を横領し、その後故あって讃岐にやって来て出釈迦寺に居住していましたが亡くなった後、生前に犯した罪により蛇となって苦しみを受けていたといいます。
(関連記事)“讃岐に逗留した法然上人

【善通寺市弘田町】

●甲山寺(こうやまじ)  MAP
 四国霊場第七十四番札所。甲山(こうやま、標高87.2m)の北東麓にあります。空海が満濃池を修築した際、岩窟に毘沙門天を祀り、工事の成功を祈りました。改修後は、朝廷から賜った功労金で堂塔を建立し、自作の薬師如来像を本尊として創建したと伝えられています。本堂、庫裏、大師堂、鐘楼が建っており、大師堂の近くに毘沙門天の岩窟があります。
      (御詠歌) 十二神味方に持てるいくさには おのれと心かぶと山かな
(関連記事)“最初は88ヶ所以上あった四国霊場

●甲山城跡  MAP
 戦国時代、天霧城主香川氏麾下の武将として活躍した朝比奈弥太郎(あさひなやたろう)が、甲山に居城を築いていました。山頂部に残る五角形の削平地が主郭跡だと考えられており、甲山城の碑があります。

●朝比奈神社  MAP
 朝比奈弥太郎を祀ります。朝比奈弥太郎は、永禄元年(1558)阿波三好軍の天霧城攻略に際して奮戦し、甲山南麓に討死しました。(ただし、土佐の長宗我部軍と戦い討ち死にしたという説もあります。)その墓標は甲山の付近の池の中州に祀られ、その池は朝比奈池と呼ばれました。のち朝比奈池が埋め立てられたことにより、墓標も筆の山北麓に移されたといいます。

●雲気(くもけ)神社  MAP
 延喜式内社讃岐二十四社の一つです。祭神は、豐宇気大神、大龍神、大雷神の三座とされています。社号の由来は、天霧山より出でし雲により良く雨が降るとのことから雲気神社と呼ばれたと全讃誌に記されていますが、真偽のほどは定かでありません。
 この神社は天正年間、長宗我部軍の天霧城侵攻の折、兵火にかかり殿宇は総て焼失したので雲気と言う地名だけが残っていたといいます。
 その後、丸亀藩4代藩主・京極高矩(たかのり)の時代、将軍家において騎射(馬弓)の催しがあり、高矩が選ばれますが、将軍もご覧になる催しなので、高矩はひどく悩んでいました。騎射の前夜、白ひげの老人が現れ、「明日の騎射は、重藤の弓に白羽の矢を用いなさい」と告げましたが、高矩はその話を疑わしく思いそのまま寝てしまいます。すると老人が再び現れて、「我は、汝の領地を守護する雲気神なり」と正体を告げます。これは神の教示に違いないと、高矩は翌日その指図どおりにしました。すると、見事に的(まと)を的中させることができました。この出来事があってから、高矩は領内の庄屋に命じて雲気の所在を探索させ、弘田村にその古址がある事を突き止め、宝暦4年(1754)に社殿を再興しました。以来、春秋の大祭には、藩主が公式に参拝するようになったといいます。

71番弥谷寺と本門寺を中心とする地域

 三豊市三野町(大見・下高瀬・吉津)の区域です。

【三豊市三野町大見】

●弥谷寺(いやだにじ)  MAP
 四国霊場七十一番札所。聖武天皇の勅願で、行基が本尊の阿弥陀如来を刻んで安置したことにより開創されたといわれています。空海が少年時代にこの岩窟で修行し、さらに唐から帰国した後、再度この山で修業中、空から五柄の剣が降る霊を感じたので剣五山と改め、本尊を刻んで安置し、弥谷寺と改号して第71番の霊場に定めたといいます。標高382mの弥谷中腹に本堂、大師堂、多宝塔と多くの堂宇が立ち並び、山嶽仏教の場となっています。山門前には名物の俳句茶屋があり、参拝者の休憩所になっています。
 また、ここには、弘法大師が中国から持ち帰ったという「金銅五鈷鈴(ごこれい)」が伝わっています。これは密教修法のとき振りならす金剛鈴のひとつ。柄が五鈷の形をしている鈴で、鋳銅製で鍍金をしています。
      (御詠歌) 悪人と行連なんも弥谷寺 ただかりそめもよき友ぞよき
(関連記事)“讃岐にも残る行基にまつわる伝承” “最初は88ヶ所以上あった四国霊場”  “やじさんも、きたさんも参詣した金毘羅

●花立(はなだて)碑  MAP
 鳥坂の正八幡神社飛地境内にあり、安永5年(1776)に里長の大井助左衛門惟義によって建立された高さ約2m石碑です。ここから真正面に弥谷寺の本堂が見え、その昔、鳥坂街道を往来する旅人は、この碑の前で花を供え、弥谷寺の方に向かって合掌遥拝したといわれています。

●戸峯山城  MAP 
 貴峰山(とみねやま)は、おむすび型をした標高222.8メートルの山で、「戸峰山」とも「大見富士」ともよばれています。天正2年(1574)、雨霧城四代城主香川信景の家臣である藤田四郎入道宗遍は、この山に天霧城の牙城として戸峯山城(大見城)を築いたといわれています。居館は山の西麓にありました。
 一説によると、藤原純友の乱のとき、近江国出身の藤田四郎入道宗遍は、純友討伐に功績があったので、封を大見松崎に受けたといいます。
 宗遍の墓は山の西麓御墓谷という所にあり、地元の人によってねんごろに弔われています。なお南麓には総官宮という小祠が祀られています。
 貴峰山の東麓には、日枝神社という大見村の氏神とされる神社があります。この神社は近江の出身であった宗遍が、近江の山王大社から分祀し、山王社を建立して山王権現として祀ったのが始まりとされています。その近くにある多聞寺宝城院は、日枝神社の神宮寺だった寺です。
 日枝神社  MAP
 多聞寺宝城院  MAP

●津島神社  MAP
 この神社は鼠島という小さい島に鎮座し、江戸時代、浮世絵師の二代目安藤広重にも描かれた風景地です。祭神は「素戔鳴命(すさのおのみこと)」で、例祭日は旧暦の6日24日、25日です。この神社の由緒は次のようなものです。
 元禄3年6月の頃より8月まで、久保谷部落の浦に女の謡う声が聞こえてきました。人々が怪しんで浜に出てみましたが、人影はありません。しかし、歌う声が毎日聞こえ、人々は恐れて戸外に出なくなりました。その後大見村の一巫女に、「我は津島の明神というて、年久しくここを守っている。この頃毎日謡っているのは我なり、我を信ずるなれば、この島に樹木を植えよ」と神託ありました。村人がこれに従い島に樹木を植えると、霊験著しく、牛馬の疫病が周辺の村々に流行しても、久保谷部落だけは1匹も斃(たお)れませんでした。この事から津島明神は牛馬の神として尊崇され、6月25日には四周の村人が牛を引いて参拝するようになりました。現在は子供の神として県内外から尊崇され、約10万の氏子がいるといわれています。

【三豊市三野町下高瀬】

●高永山本門寺(こうえいざんほんもんじ)  MAP
 日蓮正宗の本山格寺院。正中2年(1325)、日仙上人により建立されました。法華宗系各派では本門寺という寺院名が多数あり、それぞれ区別するために頭に所在地の讃岐をつけた、讃岐本門寺(さぬきほんもんじ)とも呼ばれています。また、地元の人には、高瀬大坊の名で知られています。
 広々とした境内には、天明元年(1781年)造営の本堂や明暦2年(1656年)に建てられた開山堂、元禄10年(1697年)造立の精霊殿などが建ち並び、堂々とした佇まいです。時代の相違による塔中数を外観すれば、南北朝期にはおよそ6箇坊、文安年中にはおよそ10箇坊、文明年中にはおよそ12箇坊、天正年中にはおよそ11箇坊が数えられるようです。
 また、この寺では、新暦の11月22日から25日まで、市が開かれます。日蓮上人の法会に合わせて開かれる市で、「大坊市」、「たかせ市」、「くいもん市」とも呼ばれ初冬の風物詩となっています。
 寺では毎年旧10月12・13両日御会式を行い一週間の市立が行われました。当時の民衆は秋の農作業の疲れを、この昼夜の市立に行きいやすのが唯一の楽しみでした。市立は寺から高瀬川堤防に至る3町余りの馬場の両側に、ぎっしりと小屋が立ち並び、農具、竹細工、雑貨、玩具類、陶器、おでん、うどん、果物、菓子饅頭、その他あらゆる飲食物の店が張られ、境内には掛け小屋芝居、サーカス、のぞき、最近では植木市等も出て、昔ながらの市を形成します。
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【三豊市三野町吉津】

●旧吉津小学校校庭西行上人歌碑  MAP
 西行は讃岐の三野津に立ち寄ったと伝えられています。三野津は現在の三豊市三野町吉津とされ、昭和31年(1956)旧吉津小学校校庭に、「志きわたす月乃氷をうたかひて ひびのてまはる味のむら鳥」と刻まれた歌碑が建立されました。その後、吉津小学校は移転され、歌碑のある場所は、現在町の老人福祉センターの前庭になっています。
  「山家集」に、「さぬきの国にまかりてみのつと申す津につきて、月の明かくて、ひびの手も通はぬほどに遠く見えわたりけるに、水鳥のひびの手につきて跳び渡りけるを敷き渡す月の氷を疑ひてひびの手まはる味鴨の群鳥」と載せられています。
 この中で「みのつ」とは三野津のことで、当時三野津は広い入江の良港でした。西行が崇徳上皇の白峰参拝と空海の善通寺詣でをかねて讃岐に渡ってきた時の上陸地はこの三野津であったともいわれています。
  「ひび」とは、魚をとるため、または海苔の養殖のため海中に立てる粗(えだ)のことです。川田順はこの歌を、「海上の月光を氷が敷いたのかと疑い恐れて、その方までは飛びゆかず、海(えだ)のあたりを翔け廻っている水禽らよ」と解釈しています。また、富士正晴は、「すうっと敷きつめている月の光を氷と錯覚してひびの手(ひびわれの手という意味も匂わせている)をよけて通る味鴨の群れよ」と解釈しています。
(関連記事)“崇徳上皇を偲び来讃した西行法師

●吉祥寺  MAP
 弘法大師が四国霊場開創のとき開基され、慶長8年に再建されました。文政年間には村内各家の神仏護符を集め、その灰と土をまぜて釈迦涅槃像52部類を作り、釈迦堂に安置されたといわれています。仏生山法然寺の涅槃像に勝るとも劣らない寝釈迦像であろうと言われています

●宗吉瓦窯  MAP
 宗吉(むねよし)瓦窯で焼いた瓦は、持統天皇が作った藤原宮に運ばれ、平城京にも転用されました。宗吉瓦窯は現在23基が確認されています。三つのグループ(A、B、C群)に大別され、確認順に1号―23号窯と呼ばれています。
 発掘調査の結果、C群の窯2基は藤原京への瓦供給以前に成立した最も古いもので、残るA、B群の21基の窯は後の時代の同時期に築かれたものです。C群の窯は三野郡の「妙音寺」(豊中町)用に、A、B群の窯は那珂郡の「法幢寺」(ほうどうじ、丸亀市)用に瓦を焼いたもので、その後、藤原京用の瓦も焼くようになったと考えられています。
(関連記事)“藤原京の瓦を焼いた日本最大級の瓦窯

仁尾の街

●賀茂神社  MAP
 仁尾港の東側に鎮座。仁尾浦は、平安時代の寛治4年(1090)に白河上皇が京都の鴨御祖社(かものみおや、下賀茂社)へ寄進した内海御厨(みくりや)荘といわれる荘園でした。仁尾の賀茂神社は、この縁で、京都の賀茂神社から白河天皇の勅許を得て津田島(今の蔦島)に分祀され、室町時代初期の正平5年(1350)細川顕氏が津田島から現在の地に移転したといわれています。中世には、仁尾浦の漁民たちは京都賀茂神社の神人・供祭人・供御人として保護を受けるとともに、供祭物を京都へ納めていました。仁尾浦では、室町時代初期には綿座が開かれ人々が集り商家も増加し、海路による上方との往来が頻繁になるにつれて港も発達していきました。更に、讃岐の守護細川氏の直轄地となり軍港としての役割もあったようです。
 10月12・13日両日にわたる祭礼では、長床神事(ながとこしんじ)という古いしきたり儀式が行われています。
 この神社の境内には「注連石」という地元漁民たちが海中から引き上げた石が奉納されています。この石は、元は詫間町鴨の越の入江にありましたが、漁船の通行の邪魔になることから、宮浜まで運び神前に建立したものです。また、境内には天女が下って羽衣をかけたようなところから「羽衣の松」と呼ばれ、樹齢およそ300年といわれる美しい姿の松があります。

●石積み井戸  MAP

●覚城院(仁保城跡)  MAP 
 讃岐観音霊場第19番不動護国寺覚城院。覚城院は仁保城跡に建てられたといわれています。
天正7年(1579)2月長曽我部元親の将兵は、今の観音寺市室本町の九十九山城を攻略し、細川伊予守氏政を追い、勢に乗じて仁尾に侵入しました。当時の仁尾城主細川土佐守頼弘は防戦に努めましたが討死し、旧暦の3月3日、結局落城しました。この戦は3月2日から3日にわたるもので、町の大半は兵火にかかり、死傷者は甚だしい数に上ったといいます。以降、仁尾の町では3月3日の上巳の節句はせず八朔の男子の武者人形と同時に飾られています。
 ただし、仁尾城は細川土佐守頼弘が城主であったと言う説と雨霧城城主香川信景の属城であったと言う説があります。
 境内には屋根にシャチのある鐘楼があり、桃山時代初期のものといわれています。元は賀茂神社のものでしたが、明治維新の神仏分離のときに移転されました。
なお、第57代住職森諦円(もりたいえん)は、昭和52年まで京都仁和寺の門跡を務めました。
(関連記事)“長宗我部元親が四国制覇の野望をいだいた山”  “三月三日に雛祭りをしない町
覚城院(仁尾城跡) 仁保城跡


●金光寺  MAP
 この寺には、細川頼弘公の墓があります。

●常徳寺  MAP
 室町時代初期の建造物で、四国では数少ない中世の禅宗様式の円通殿(えんつうでん)があります。また、裏庭にある雌雄異株のソテツは周囲3.5m、5枝に分かれ、高いものは5.3mあります。

●辻の札場  MAP
 晋門院(ふもんいん)の前にあり、丸亀蕃時代のお布令等を掲示した高札場です。江戸時代に建てられた木造本瓦葺き・切り妻造りで、棟の東西には京極家の家紋である四ツ目の瓦が置かれています。

●仁尾八朔人形まつり人形工房  MAP
(関連記事)“三月三日に雛祭りをしない町

●中津賀(なかつが)・境目(さかいめ)・中ノ丁(なかのちょう)の家並み
 江戸時代、仁尾は、醤油・酢・酒などの醸造業や綿花、茶、生糸等の生産と取引で大店が軒を並べ西讃の商工業の一中心地としての活況を呈し、「千石船見たけりゃ仁尾へ行け」とうたわれるほどでした。また、土佐藩主山内氏が参勤交代のため、仁尾の港を利用したといわれています。中津賀(なかつが)・境目(さかいめ)・中ノ丁(なかのちょう)には土蔵造や木造の古家が残っており、仁尾の街のかっての面影を見ることができます。

●吉祥院  MAP
 仁尾町仁尾丁にあるこの寺は、「四国讃州七福神」の一つで「吉祥天」だとされています。

●蔦島
・賀茂神社沖津宮  MAP
  京都の賀茂神社から最初に分祀されたところ。
・天狗神社MAP・姫岩神社 MAP  天狗神社には神楽石(男根)、姫岩神社には笑石(女陰)が祭られており、両方あわせて参拝すると家庭円満、夫婦円満にご利益があるといわれています。

●仁尾の平石  MAP
 蔦島の北側海中に浮かぶ東西約17メートル、南北約13メートル、面積200平方メートルの大岩です。俎岩(まないたいわ)ともいわれています。表面が平らなところから、丸亀藩主がこの岩の上で酒宴を開き、風流を楽しんだといわれています。

●小蔦島(こつたじま)貝塚
 小蔦島は仁尾町の西方約1キロの海中にある小島で、8000年以前は燧灘を背にした荘内連峰の山頂部でしたが、海水が浸入するとともに汽水域から内海へと姿を変えていきました。この島の東北部の半島状に突出した丘陵の上に貝塚があります。貝層の中には多種類にわたる貝殻のほかに蔦島式土器が石器とともに、その下層からは山形連続文土器や殻粒文土器が蔦島式土器や石器とともに出土し、原始的性格を示し、縄文式文化時代のしかも早期に営まれた遺跡で、県下に類例を見ない特異な貝塚です。また、貝塚から最深部に汽水域に生息する大和蜆の貝殻が採集され、縄文海進のプロセスが伺えます。
(関連記事)“瀬戸内の分水嶺だった瀬戸大橋架橋の島々

●履脱八幡神社  MAP
 「仁尾の竜祭り」は、青竹と稲わらで作られた長さ35m、重さ3tの雨乞い竜を約160人の人が担いで街を練り歩きます。この祭りの由来は、江戸時代、干魃の年に雨乞い行者として知られる和蔵(わぞう)が、雨を呼ぶと信じられていた竜を作って海に流せばよいという祈祷をしたので、藁で大きな竜を作り村内を練り歩き、沿道の人々が貴重な水をかけ海へ流したところ、念願の雨が降ったと伝えられています。
 寛政11年(1799)の夏、仁尾の村は稀にみる旱魃にみまわれました。困り果てた村人は笠岡村(現在の豊中町)に住む行者の和蔵に相談しました。和蔵は全国各地を巡り歩いて修行を積み、雨乞いにかけての霊験はつとに知られていました。和蔵の教えは、「藁で大きな竜を作り、それに伊予の黒蔵渕(くろぞうぶち)から汲んできた水を掛けて祈ればよい。」というものでした。黒蔵渕は、川之江の奥の院(仙竜寺)からさらに2里(8km)山奥に入った銅山川の支流にある雄淵(おんぶち)・雌淵(めんぶち)の2つからなる青緑色の水をたたえ周りをうっそうとした杉木立に囲まれた大きな淵で、古くから竜が棲むといわれていました。
 村人たちは早速、八幡様の境内にある雨の宮神社の前に集まってそれぞれが持ち寄った麦藁で大きな竜を作りました。そして、夜中に村の若者が仁尾を発ち、10里の道を必死に駆けて朝方に黒蔵渕に着くや、水汲みの神事を行い、一斗樽一杯に水を入れて帰路につきました。
 水の入った樽は、腰にしめ縄をつけ数人が一組になった若者たちによって交代で運ばれ、昼過ぎに仁尾にたどり着きました。途中で休むとそこで雨が降ったそうです。
 和蔵がその水を藁の竜に供えた後、若者たちがその竜を担ぎ、口々に「そーれ、竜に水あぶせ、竜に水あぶせ」と叫びながら村中を駆けめぐり、竜が家の前を通ると手桶に水を一杯入れて待ち構えた村人たちが水をあぶせました。そして、最後に竜は父母ヶ浜(ちちぶがはま)から海に流されました。
 その間、和蔵は、雨の宮神社の前でひたすら祈り続けました。すると、不思議なことにその夜妙見山に大きな黒い雲がもくもくと現れ、雷光とともに、やがて大粒の雨が降り出しました。
 それ以降、仁尾では大干魃の度に藁で作った竜による雨乞い神事が行われていましたが、昭和14年で絶えていました。その後、昭和63年、瀬戸大橋開通の年に復活しました。毎年8月の第一土曜日に「仁尾竜まつり」は開催されています。
 なお、仁尾から比地(豊中町比地)へ山越えする鞍掛峠は和蔵が開いたといわれ、峠の旧道沿いには和蔵が自ら建立したといわれる日本廻国供養塔が今も残されています。

●父母ヶ浜  MAP

伊吹島


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●三好館跡・高岸
 三好義兼・義茂兄弟の館があった所です。生駒藩時代、三好義兼の孫の義浄(よしきよ)は生駒氏から政所のお墨付きを授かり、その子孫は代々作右衛門と称し島を治めました。

●金田一春彦の歌碑
 国語学者の故金田一春彦氏は、伊吹島を2度訪問し、島の言葉を研究しました。そのとき、伊吹島で「緑濃き 豊かな島や かかる地を故郷にもたば 幸せならん」と、「あたたかき 人の情や ふるさとは かかるところか われは持たねど」の2首の歌を詠みました。このうち最初の歌の歌碑が島に建立されています。

●合田嶋之輔の墓
 城の内(じょうのうち)には、450年前から島に住む合田一族の先祖合田嶋之輔の古い五輪塔の墓があります。ここは合田館があった所です。嶋之輔の嫡男助十郎は、天文年間(1532~1554年)に豊浜大平国祐の娘家老として豊浜に渡りました。しかし、秀吉の九州成敗のときにおける戸次川の戦いで多くの讃岐の武将と共に戦死しました。その子孫は庄屋となり、豊浜で繁栄しました。

●伊吹八幡神社  MAP
 創建1124年という島の氏神で、春の百手祭り、夏の神楽、秋の大祭と江戸時代より連綿と伝統行事が受け継がれています。三好義兼が奉納したという鏡が保存されています。

●伊吹島歴史民俗資料館  MAP
 平成4年、元幼稚園の園舎を展示室にした手造りの資料館です。昔の漁具、民具、文書等貴重なものが転じされています。

●泉蔵院  MAP
 真言宗大覚寺派七宝山泉蔵院という。観音寺の7坊の一つ泉蔵坊が始りといわれる。この島は以前土葬で、土葬した墓から洗骨した骨を境内の墓に入れ、拝み墓としていました。

●出部屋跡
 この島には、出産は各家の納戸等で行い、その日の内もしくは翌日、出部屋(でべや)に入って30日間母子だけの別火の生活をするという風習が残っていました。赤不浄で家の中が穢れると言う古代からの日本の風習だといいます。男子禁制で女性だけが入室を許され、月経の女性も泊りに行っていました。この島には昭和45年頃まで使用された出部屋がありました。

(150)“讃岐で密かに亡くなった悲運の皇子”

重仁親王廟

 院政の始まりは、平安時代後期の応徳3年(1086)、第72代白河天皇が当時8歳の善仁(たるひと)親王(第73代堀河天皇)へ譲位し、太上天皇(上皇)となって幼帝を後見するため白川院と称して引き続き政務に当たったことによるといわれています。嘉承2年(1107)に堀河天皇が没すると、その皇子で白河上皇の孫にあたる宗仁(むねひと)親王が4歳で第74代鳥羽天皇として即位します。しかし、政治の実権は祖父の白河上皇が握り続けます。その後、朝廷には「治天の君(ちてんのきみ)」と呼ばれた「院」(出家後は「法皇」といいます。)と天皇の二つの権力が競合併存し、それにともなって権力争いが複雑かつ熾烈化していくことになります。
 保安4年(1123)、白河法皇はまだ20歳の鳥羽天皇をむりやり退位させ、その皇子で法皇の曾孫にあたる顕仁(あきひと)親王を第75代崇徳天皇とします。当時、顕仁親王はわずか5歳でした。白河法皇は曾孫の顕仁親王を非常にかわいがっていたといわれ、それは、顕仁親王は鳥羽天皇と中宮待賢円院璋子(たまこ、権大納言藤原公実の娘)の間に生まれた第一皇子とされていましたが、その本当の父は曾祖父の白河天皇であったためではないかといわれています。顕仁親王は白河法皇と中宮璋子の密通によりできた子であるという噂が囁かれていたのです。譲位した鳥羽天皇は上皇となりますが、政治の実権は祖父の白河法皇が握ったままでした。このようなこともあり、鳥羽上皇は、崇徳天皇のことを、本当は自分の叔父にあたる人(鳥羽の父である堀河の弟)だということから、「叔父である自分の子」という意味で「叔父子」と呼んで忌み嫌っていたといいます。

 大治4年(1129)、76歳という長寿を全うした白河法皇が崩御し、42年間に及ぶ白河院政がようやく終わります。これを機に鳥羽上皇が院政を執り、政治の実権を握ることとなって情勢は大きく変わっていきます。
 保延5年(1139)に鳥羽上皇と後に美福門院(びふくもんいん)と呼ばれる権中納言藤原長実の娘得子との間に躰仁(なりひと)親王が生まれると、鳥羽上皇は躰仁親王を次代の天皇とするためにむりやりそのとき世継ぎのいなかった崇徳天皇の養子とします。ところがその翌年、崇徳天皇は兵衛佐局(ひょうえのすけのつぼね)との間に重仁(しげひと)親王をもうけます。
 永治元年(1142)、鳥羽上皇は躰仁親王が3歳になると、そのとき23歳だった崇徳天皇を退位させて躰仁親王を第76代近衛天皇として即位させます。崇徳上皇は「新院」と呼ばれ、受戒して法皇となった鳥羽上皇は「一院」と呼ばれました。
 しかし、近衛天皇は生まれつき病弱で、久寿2年(1155)、眼病を患ったことにより17歳で崩御します。そのとき、次の帝位の候補者としては、崇徳上皇の皇子である重仁親王(当時16歳)と、鳥羽法皇の第4皇子である雅仁(まさひと)親王(当時29歳)がいました。雅仁親王は、崇徳上皇の同母弟であり、近衛天皇の異母兄に当たります。皇統の順からすれば次は重仁親王が皇位に就くはずでした。また、重仁親王は英明の誉れが高かったのに対して、雅仁親王は若い時から今様などの芸能ばかりに熱中し、「遊芸の皇子」、「文にも非ず武にも非ず」などと評され、天皇としての資質に欠ける人物と見なされていました。このようなことから、重仁親王が第一候補とみられ、崇徳もそのように考えていました。
 ところが、鳥羽法皇は、崇徳上皇の血統を徹底的に排除し、雅仁親王を第77代後白河天皇として即位させ、しかも、その皇子である守仁親王(のちの二条天皇)を皇太子とします。重仁親王は、天皇の第一皇子として生まれたにもかかわらず、完全にその存在を無視されたわけです。自分の皇子を帝位に就け、院政を布くこと絶たれた崇徳上皇の怒りは心頭に達しました。

 保元元年(1156)7月2日、鳥羽法皇が53歳で崩御します。これを機にそれまでの27年間に及ぶ鳥羽院政に対する不満が公家衆、藤原一族の中から噴出し、鳥羽法皇の後継者である後白河天皇に対抗する勢力は、崇徳上皇を旗頭とし、両者の政治的緊張が一挙に高まります。こうして、鳥羽法皇が崩御した後、崇徳上皇と後白河天皇の兄弟対立に端を発した保元の乱が勃発しました。
 この戦いは後白河天皇一派の勝利に終わり、崇徳上皇は讃岐へ配流となります。しかし、その皇子である重仁親王は、寛暁の弟子として出家することを条件に許されます。
 崇徳院の讃岐における配流所は、最初は国府に勤める当地の庁官であった綾高遠(あやたかとう)の邸宅が仮の御所とされ、、やがてその近くの長命寺(ちょうめいじ)とされ、保元3年(1158年)年に国府のすぐ近くの鼓岡(つづみがおか)に造られた行在所(木の丸殿)とされました。
 その配流生活は、食事を運ぶ者以外の人は出入りを差し止められた軟禁状態で、座敷牢に閉じこめられているようなものでした。崇徳院の発言も守護の兵士から国府庁の役人に逐一報告され、厳重な監視の下にありました。

 重仁親王は、乱の後、仁和寺の華蔵院に入り剃髪して出家し、「空性」と称します。そして寛暁大僧正のもとで仏道に励みますが、足の病により応保2年(1162)に享年23歳で死去したといわれています。ただし、親王がどこで亡くなったかについては定かでないようで、長野県川上村には親王が落ち延びてきて隠棲したという伝承が残り、親王を祀る御霊宮(ごりょうのみや)が残っているそうです。
 讃岐に残る伝承では、重仁親王は、父の崇徳院が配流されてから3年後の平治年間、密かに行脚僧の姿となって父君である崇徳院の讃岐の配所を尋ねてこられたといいます。なお、この伝承は、江戸時代の宝暦6年、竹本出雲らの作による浄瑠璃「崇徳院讃岐伝記」の中で、崇徳院の御子である「千里の宮」が女装に身をやつしてひそかに父の居る讃岐へ潜行したという物語となって、上演されています。
 しかし、父子が一緒に暮らすことは到底かなわぬることであり、重仁親王は、綾高遠により密かに崇徳院の配所から東の方向にある檀紙村(現在の高松市檀紙町)にある薬王寺へ送られます。そして親王はそこで寺僧とともに起居し、応保2年1月に亡くなられたといわれています。崇徳天皇の崩御の2年8ヶ月前のことです。重仁親王はひどい頭痛に悩まされていたことから、その地は、以後頭痛よけの守り神となったといわれています。
 檀紙村の薬王寺は、江戸時代初めの万治年間に高松初代藩主松平頼公によって高松城下(現在の高松市番丁5丁目)に移転され、今もその境内には五輪五塔の重仁親王墓が残されています。また薬王寺があったといわれる高松市檀紙町には、今も「重仁親王廟」が残され、地元の人々によって守られています。その廟は、崇徳上皇が葬られている白峯御陵に向かって建てられています。

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テーマ : 香川
ジャンル : 地域情報

詫間の街・荘内半島・粟島・志々島

 この地域は、三豊市詫間町の範囲です。中でも荘内半島は、浦島太郎伝説で知られる半島です。最高峰の紫雲出山からは瀬戸内海を360度展望できます。周囲には三豊市の粟島や蔦島などがあります。
(関連記事)“紫の雲が出る山があり浦島太郎伝説が残る半島

【三豊市詫間町詫間】

●善性院  MAP
 この寺は、「四国讃州七福神」の一つで「大黒天」だとされています。創建は平安初期にまで遡ると言われています。

●王屋敷跡  MAP
 三豊市詫間町の田井に宗良親王の居住地という王屋敷跡に、明和9年(1772年)に建立された石碑が立っています。昭和10年に建てられた宗良神社もあります。
太平記は、この配所について次のように記しています。
 「海辺近きところなれば、毒霧御身を侵し、嶂海の気すさまじく、漁歌牧笛の夕べの声、嶺雲海月の秋の色、すべて耳にふれ眼に遮ることあはれを催し、御涙をそふる媒ならずと云ふことなし。」
(関連記事)“讃岐にもある後醍醐天皇の息子の足跡と新田義貞一族の物語
●宝林寺  MAP
 弘仁年間、天台宗座主義真和尚の創建といわれており、この地区の領主であった詫間氏の菩提寺でしたが、兵火で大半を焼失しました。

【三豊市詫間町香田】

●詫間海軍航空隊跡  MAP
・「史跡・詫間海軍航空隊跡 神風特別攻撃隊出撃の地」の碑  現在の国立詫間電波高専前に自然石を立てた石碑があります。ここに詫間海軍航空隊が存在したことを示すものです。この石碑には「神風特別攻撃隊出撃の地」と刻まれています。
・二式会の碑
・海軍少年飛行兵香川県雄飛会の碑
・水上機スリップ(すべり)跡  香田地区には、大東亜戦争中、詫間海軍航空隊が使用していた水上機用の滑走路の一部が今も残っています。スリップ(すべり)と呼ばれるこの斜面を滑って、水上機や飛行艇が陸上の格納庫から、海面に下ろされ、飛び立っていました。戦時中は大小4本ありました。スリップ跡は、1基の改変がひどいものの、そのうち3本が当時の姿を残しています。また、このスリップは平成18年度の選奨土木遺産に選ばれています。
 この基地で実践訓練し、発進出撃していったのはすべて水上機で、下駄履きとも言われる飛行艇でした。中でも詫間航空隊の主力となったのは二式大艇と言われるものでした。終戦後、二式大艇に注目した米国は本国に運び、各種の調査を行ってその高性能に驚嘆したといわれています。解隊後残っていた二式大艇の一機が、現在東京品川の舟の科学館に保存・展示されています。
・防空壕跡
(関連記事)“香川からも出撃していた神風特攻隊
●三四郎岩  MAP
 天正11年(1583)から始まった豊臣秀吉の大阪城築城に際し、詫間でも大がかりな採石が行われ、香田浦、粟島の福部箱浦海岸などに、その形跡が残っています。そのとき、豊後から来た石工の三四郎という者が巨石運搬中誤ってその下敷きになり亡くなりました。村人はこの石を三四郎岩と呼び、かたわらに祠を建ててその霊を祀りました。

【三豊市詫間町大浜】

●船越八幡神社  MAP
 大浜小学校の前にあり、応神天皇・仲哀天皇・神功皇后を祀る。かつての郷社で旧荘内村の総産土社でした。拝殿・絵馬堂には多くの絵馬があり、とりわけ加藤清正の絵馬は全国的にも少ない逸品とされています。
 荘内半島の先の部分はかつて「浦島」という島だったところで、陸繋島が発達して現在のような半島となったものです。半島の中ほどにある船越と大浜を結ぶ辺りはかつて海だったところで、船越という地名は島であったときの運河状態の海に船が通っていた名残だといわれています。

●荘内浦島郵便局  MAP
 浦島太郎の絵のスタンプを押してもらえます。

●荒魂神社  MAP
 3月12日から17日の間の日曜日、「大浜ももて祭」が催されます。

●鴨ノ越  MAP
 丸山島・浦島神社  MAP
 太郎が亀を助けた所です。この海岸の向こう岸に丸山島があり、浦島神社が祀られています。干潮時になると丸山島は地続きになり、歩いて渡れます。鴨ノ越からの夕日は絶景です。

●紫雲出山  MAP
 荘内半島で最も高い山で、標高352.3メートルです。
・竜王社  山上に太郎の霊を祀る竜王社があります。旧3月15日に例祭があり、積の人たちによるお弁当の接待があるそうです。
・上天(昇天) 紫雲出山の中腹にあり、太郎が昇天したという地といわれています。
・紫雲出山遺跡  この山は今から約2,000年前、弥生中期の山上集落生活地だった所です。キビ、石包丁、ヤジリ、クルミ割のクボミ石、「堀リッチ」など多数の石器、無数の弥生式土器破片、など多数の出土品がみられます。

【三豊市詫間町積】

●積・金輪の鼻
 太郎か竜宮から帰り着いた地が積で、乙姫が腕の金輪を落とした所が金輪の鼻です。
●積の雌雄クロガネモチ

【三豊市詫間町箱】

●浦島太郎親子の墓・諸大龍王の墓碑
 箱はかって明神の里といわれた所で、太郎が玉手箱を開けたといわれる所です。太郎親子の墓といわれる五輪の塔3基があり、その近くには弘化4年に建てられた「諸大龍王」と刻まれた墓碑があります。
●竜王社
 箱浦小学校の上の大空(おおぞら)(八昭園)には亀の霊を祀る竜王社があります。竜王社では毎年、亀の命日とされる旧6月13日に、箱の各戸から薪木を持ち寄り、焚火を囲んで竜宮踊りをして亀の霊を慰めていたそうです。この踊りは箱の盆踊りとなり、8月14日の晩、その年に亡くなった人の盆灯籠を持ち寄ってその霊を慰める新霊踊り(あられ踊り)となって今に残っています。
●どん亀石
 浦崎のどん亀石は現在の箱浦にあります。満潮時になると、どん亀石はほとんど見えなくなります。
●糸之越(いとのこし)  MAP
 太郎が毎日釣糸を持って箱から不老の浜へ通った所です。ここには太郎が休んだという腰掛石があります。
●不老の浜(ふろま)  MAP
 かつて室浜(むろのはま)と呼ばれていたところで、太郎が竜宮から帰って若さを失わずに釣りをしていた所です。

【三豊市詫間町生里】

●三崎神社  MAP
 地元の人から「おみさきさん」と呼ばれています。祭神は大己貴命です。社伝によると、讃留王がこの地に至った時、上津水童命、中津水童命、底津水童命と名乗る三人の神が現れ、ここで海上を守る、と言って消えました。そこで王はここに祠を祀りました。これがこの神社の起こりだということです。以後菅原道真や藤原純之、小野好古などの歴史的人物からも崇敬されたといいます。菅原道真公が讃岐の国司の時、参拝した折の歌が残っているそうです。
 藤原純友の弟純之は、京からの帰途、船の航行安全を祈願して、この神社に鎧を奉納したと伝えられています。また、小野好古も、追捕使として兵船200隻を率いて伊予に向かう途中、この神社に太刀・冑を奉納して戦勝を祈願したといわれています。
 瀬戸内海を通る参勤交代の大名も三崎神社の沖に来ると、船の帆を下ろして通っていたといいます。
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●ドンドロ石
 三崎神社の参道にあります。昔、ドンドロさんが誤って天から落ちてきたときに、この岩の上をあわてて這い上がった跡があるといいます。ドンドロとは、讃岐方言で雷のことです。
●関の浦
 三崎神社入り口の所にある入り江です。昔は重要な入り江でした。明治から昭和初期にかけては、漁船の水の補給や潮待ちの待機所となり、盛漁期には酒や食料、日用品を販売する店も開かれていたといいます。
●三崎灯台
●御幸石(おこのいし)
 半島の先端から約200m沖合にある海面から突き出た岩です。
●よみの穴
 生里から仁老浜に行くところにクビッチョという小峠があります。この下の浜辺に「よみの穴」という洞穴があります。昔は人を葬っていたとか、「よめ」という盗賊が住んでいたとかいわれています。
●仁老浜(にろうはま)  MAP
 かつて小浜といい、太郎の母の出身地で、白髪の老翁となった太郎が余生を送った地です。仁義深い老人の浜という意味です。
●生里  MAP
 旧名を三崎といい、太郎の両親が住んだ新家のあった地で、太郎が誕生したといわれる地です。ここの三宝荒神では、旧2月1日の近い日曜日に「生里百々手(ももて)祭」が催されます。

【三豊市詫間町粟島】

 この島は3つの島が1つの陸繋島となったもので、スクリューのような形をしています。江戸時代、瀬戸内と日本海の港、さらに蝦夷地を結んだ北前船でにぎわい、島には多くの商人を兼ねた船主がいました。
●亀戎社(かめえびす)
 太郎を乗せた亀の死骸を葬ったところに建てた社といわれています。
●姫路  MAP
 太郎を送り届けた後、潮流の関係で乙姫が一時立ち寄った地といわれています。
●粟島神社  MAP
 ここでは、3月の第1日曜日に「粟島ももて祭」が催されます。
●粟島海洋記念公園  MAP
 粟島海員学校は、明治30年に日本初の地方商船学校として設立され、後に国立となり、以来90年間にわたり数多くの船員を育ててきました。旧粟島海員学校校舎は、昭和62年に廃校になってから海洋記念館として整備・保存されています。
●伊勢神宮の船絵馬
 粟島の伊勢神宮は廻船問屋として栄えた伊勢屋の氏神で、13面の船絵馬が奉納されています(うち2面は瀬戸内海歴史民俗資料舘保管)。これらの絵馬は、伊勢屋庄八奉納の外、奥州福山城下伊達千船船頭源歳、奥州箱館松浦嘉七手船船頭久右衛門など遠方の船頭からの奉納ですが、そのうちの3面に廻船の掲げる幟に「堺糸荷船」「御用」の字がみえます。これはオランダから長崎に輸入した絹織物等を江戸へ運ぶ幕府の仕事をしていることを示すもので、この廻船は糸荷船とよばれました。糸荷船の絵馬はこの外に長崎県に1面あるだけといわれる貴重なものです。昭和53年12月26日、県指定有形民俗文化財に指定されました。

【三豊市詫間町志々島】

 この島には、樹齢1200年以上、根元の周囲12.2m、高さ約40mの大楠があります。「男はつらいよ」、「機関車先生」の映画ロケが行われました。

大水上神社を中心とする地域

 この地域は、三豊市高瀬町のうち、南から北に、羽方・西股・上麻・下麻・上勝間・上高瀬の区域です。
 眉山(まゆやま・189.4m)、傾山(かたぶきやま・237.1m)、朝日山(238.1m)、鬼ヶ臼山(おにがうすやま・209m)などの里山と多くのため池があるところです。

【三豊市高瀬町羽方】

●大水上(おおみなかみ)神社  MAP
 大水上神社は、財田川の支流、宮川の渓谷沿いにある讃岐国延喜式内二十四社の一つです。土地の人々から「二宮さん」と呼ばれ、東の一宮(田村神社)に対して西の二宮です。社歴は古く、創建は不詳ですが、神代の昔からであるとさえいわれています。祭神は大山積命(おおやまづみのみこと)、保牟田別命(ほむだわけのみこと)、宗像大神(むなかたのおおかみ)の三神で、秋の祭礼は10月15日です。
 昔から皇室をはじめ武門武将の信仰が厚く、三代実録には、貞観7年5月乙己 讃岐国大水上神授 正五位下貞観17年5月戊申 授讃岐国正五位下大水上神 正五位上など、神位階が授けられており、また源平合戦に際しては、戦勝を祈願した源平それぞれの願書や御神納の矢の記録が残されています。さらに藤原良基の寄進といわれる「しぐれ灯籠」や平氏の祟りを鎮めるために営まれた、教盛、経盛、資盛、有盛を祭るという「四社宮」もあります。現在の建物は永禄年間の再建したのを、明治以降改築したものです。
 大水上神社は、古代より水利の神(水上(源))として崇められてきました。神殿横には竜王淵と呼ばれる深淵があり、三島竜神が祀られています。「鰻淵(うなぎふち)」(竜王淵)には黒・白の鰻がいるといわれ、雨乞いのとき黒い鰻が現れれば雨が降り、白い鰻のときは日照り、カニが現れると大風になると伝えられ、この水は昔から涸れることがないといわれてきました。
 うなぎ淵の横の石段上に「千五百王子(せんごひゃくおうじ)」を祀る社があります。願掛けのしるしに境内の高麗犬の足に藁を結んでここを参詣すると子種を得るといいます。
 境内にある「二宮瓦窯跡」は、平安後期の瓦を焼いた窯の跡であり、昭和7年(1932)、国史跡に指定されています。
 境内には、葉タバコ耕作の「神豊葉(とよほ)神社」もあります。また、戦国時代、長宗我部氏に因縁のある幹周4m高さ11mの「ネズミサシ」の古木があるといいます。
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【三豊市高瀬町西股】

●西股神社  MAP
 傾山の北麓にあります。西股(にしまた)神社は、明治7年に改称されるまでは「荒魂神社」といわれていました。本殿脇にある五輪は、戦国時代、傾山の合戦で長宗我部元親に敗れ討ち死にした麻城主・近藤出羽守国久(くにひさ)とその一族の山中にあった拝み石を合祀したものだといわれています。

【三豊市高瀬町上麻】

●麻城跡  MAP
 麻城は、戦国時代に近藤出羽守国久によって築かれた詰の城です。国久は、獅子の鼻城主・大平国祐の弟で麻を領して「麻殿」と呼ばれ、天霧城主香川氏に臣従していました。長宗我部元親による西讃岐侵攻により麻城は落城し、城主国久も討ち死にしました。その谷はおじが谷(横死ヶ谷)とよばれています。
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【三豊市高瀬町下麻】

●歓喜院法蓮寺(かんきいんほうれんじ)  MAP
 この寺は真言宗の古刹です。この寺に祭られている観音菩薩は、人の願いを空しくせず羂索で漏らさず救済するという不空羂索観音(ふくうけんさくかんおん)という像で、平安時代前期(10世紀)に作られたものと考えられています。その表情は一面八臂(いちめんはっぴ)といい、顔が一つで目が二つ、左右に四本ずつ計八本の手があります。

朝日山  MAP
 朝日山は傾山の北にあります。頂上には朝日山森林公園、伊勢朝日山本宮があります。
「朝日山森林公園」は町民が手作りで創った公園で、城を模した視界360度の展望所から瀬戸大橋を遠望することができます。「伊勢朝日山本宮」は天照大神神武三賢大神他の神々を祀ります。

【三豊市高瀬町上勝間】

●平照寺(首山観音)  MAP
 東部山(標高311.7m)の南山腹にあり、「首山の観音さん」と呼ばれています。本尊は十一面観音で脇侍に勢至菩薩が祀られています。寺号は平照寺といい、昔は平勝寺といわれていました。首山の地名は、近くにある「鬼ヶ臼」にいた鬼が捨てた人の首で谷が埋まり山になったことによるという伝説があります。進学、交通安全などに霊験があるといわれています。お開帳は旧暦8月1日です。

●地蔵寺(嫁楽観音)  MAP
 讃岐三十三観音霊場第23番。行基による開基。御本尊は准胝観世音菩薩・地蔵菩薩。この寺では、大賀博士が発見した古代ハスの分根があり、見事な大輪の花を咲かせます。昭和26年3月、千葉検見川東京大学グランド地下より発見された3粒の蓮の実は、大賀一郎博士に依り、約2000年前のものと鑑定され、その年の5月発芽し、翌年7月18日見事に開花しました。その後、ここから各地にも分根が送られました。
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【三豊市高瀬町上高瀬】

●新田神社  MAP
 祭神は、新田義貞とその息子の義興、義宗子です。脇屋義助の死後、その家臣である安藤村重とその弟村久は難を避けて讃岐に逃れ、弟村久は上高瀬村に居て新田家の再興を祈願して新田神社を建立したといわれています。
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鬼ヶ臼  MAP
 鬼ヶ臼山の山頂には、高さ5m、幅3m、奥行き2mほどの異様な形をした巨岩があり、女神が村人に悪さをする鬼を懲らしめた伝説が残っています。
 昔、男神(鬼)が里へ出て村人をさらって臼でついていた。やがて人の首で山ができ、臼からあふれ出た血が麓に池を造った。その山を首山といい、その池を血の池という。そこで、男神の乱暴を見かねた女神が、自分の赤ちゃんと男神の馬を山の頂上から跳ばせる競争を行い、赤ちゃんが勝てば男神が乱暴をやめるよう誘った。競争の結果、赤ちゃんが勝ったので、以後男神の悪行は収まった。山裾には鬼と女神の戦いの跡として「赤子と馬の足跡」が残されている。

●産巣日神社  MAP
 産巣日(むすび)神社は、上高瀬上ノ荘の集落の中に鎮座しています。古くは妙見宮と称され、應和4年2月毘沙門谷より今の地に遷座しました。
 平将門の長子と伝えられる太郎良門(よしかど)は、家臣の貞廣丑之助、神戸城太郎、下戸城五良、成房三良、成行十郎、成行千代春ら6人とともに、善通寺五岳山の西端の火上山(ひあげやま)の南麓にあたる今の三豊市高瀬町の音田(おとだ)の毘沙門谷(現在は、おにが谷)という所に落ちのびてきて、そこに住み着き、六名(ろくみょう)を名乗ったといいます。
 そして、天徳2年(1618)、産土神である下総国(現在の千葉県)の妙見神社を迎へて上高瀬村音田の地に奉祀したと云われています。この神社の境内には、平良門の六名の家臣を刻んだ碑があり、付近には良門の死後、祀られたとされる祠(若宮社)もあるそうです。
 なお、平良門は、父亡き後、臣下や一族の人望を集めて、いちはやく挙兵を模索し奥州や西国を巡ったといわれています。江戸中期に入ると、良門の存在は妖怪あるいは悪鬼として近松門左衛門の人形浄瑠璃や歌舞伎、舞台劇などに登場し、源頼光によって退治された姿として描かれます。
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テーマ : 香川
ジャンル : 地域情報

70番本山寺を中心とする地域

 この地域は、三豊市豊中町(本山甲・笠田笠岡・上高野・岡本・下高野・比地大)と同市高瀬町(比地中・下勝間)の区域です。

【三豊市豊中町本山甲】

●四国霊場第七十番札所本山寺  MAP
 七宝山(しっぽうざん)持宝院(じほういん)本山寺(もとやまじ)。財田川北岸にあります。寺伝によれば、平安時代初頭の大同2年(807)、平城天皇の勅願寺として、弘法大師空海が自ら刻んだ馬頭観世音菩薩像を本尊として開創したといわれています。本堂は、弘法大師が阿波の井内谷(いのうちだに)で木ごしらえをしてここまで運び、一夜で建立したという言い伝えがあり、大師は本堂の用材を運んでくる途中、乾(いぬい、北西)の隅の柱を本山寺から東一町ばかりのところで落としてしまったということです。その柱は「枯木の地蔵尊」として祀られています。
    (御詠歌 本山に誰が植えける花なれや 春こそ手折れ手向(たむけ)にぞなる
 戦国時代末期、土佐の長宗我部軍が侵攻してきた時、当時の住職が進入を拒んで兵に切られ、兵が建物に侵入すると脇士阿弥陀如来の右手から血が流れ落ちたという伝承が残っています。以後「太刀受けの弥陀」と呼ばれ、兵火からも免れています。江戸時代の寛延元年(1748)に起きた西讃大一揆のときには、三野・豊田郡の百姓たちが本山寺付近に集まったといわれています。
 昭和28年の解体修理の際、礎石の裏に「為二世悉値成就円観房 正安2年3月7日」などの墨書銘が発見され、正応4年(1291)から勧進をして準備をはじめ、12年後のこの年に基礎工事が行われたことが明らかとなりました。昭和30年に解体修理が完成した結果、多い鎌倉時代建築のうちすぐれたものとして昭和30年6月22日国宝に指定されました。
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【三豊市豊中町笠田笠岡】
●七義士神社(権兵衛神社) MAP
 寛延の百姓一揆で処刑された七義士を祀る神社です。境内の中央には、権兵衛が残した「この世をば沫と見て来し我が心、民に代わりて今日ぞ嬉しき」という辞世の句を記した句碑が立っています。この句碑は、元総理大臣の大平正芳の揮毫によるものです。
 ここでは、毎年8月第1日曜日に、農民の守り神としてひそかに祀られてきた七義士の志を伝える「ごんべい祭り」が催され、夜、7人の遺徳をしのぶ「権兵衛芝居」が地元有志で上演されています。
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●道音寺 MAP
 七義士神社の近くにあり、境内には権兵衛と妻子の小祠が祀られています。

●宇賀神社  MAP
 宇賀(うが)神社の随身門の天井裏は、寛延の百姓一揆の時、大西権兵衛等七義士の評議所として利用されたところです。
 この神社は、延喜年間(901~923年)から、神酒の醸造法が口伝授によって継承されてきたとされ、今でも全国的に珍しい醸造が許された神社です。古くは岡神社と呼ばれ、「笠岡の鎮守様」として知られています。岡大明神は酒造りの名人で、生駒家から神田2反5畝20歩の寄付や、嵯峨御所から菊花紋入りの幕などが寄進され、この幕は現在も神社に伝えられています。
 明治33年6月、当時の大蔵省より献供の「どぶろく」を醸造することを許可され、毎年3月には伊勢神宮へ献納しています。年2回春秋の祭りには、一般参拝者にもお神酒として振舞われており、使用されている古式醸造用具一式は県指定文化財に指定されています。
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【三豊市豊中町上高野】

●七宝山妙音寺宝積院  MAP
 第70番札所本山寺の奥の院です。讃岐三十三番観音霊場第18番。その創建は現存する古代寺院としては四国で一番古く、白鳳時代の650―660年頃といわれており、今でも寺院付近から古瓦がたくさん出土しています。
 宗吉瓦窯から約10km程離れたところにあり、宗吉瓦窯から出土した「単弁八葉蓮華文軒丸瓦」は、妙音寺から出土した瓦と文様、胎土が一致し、宗吉瓦窯で生産された瓦が藤原京だけでなく、地元の古代寺院にも運ばれていたことが判明しています。
 本尊の木造阿弥陀如来坐像は平安中期(12世紀)の作で国指定の重要文化財。月に1度公開されています。
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●延命院  MAP
 弘法大師開基とされる寺で、毘沙門天を祀っており、「四国讃州七福神」の一つ。菅原道真が書き奉納したという「一」の字が彫られた石碑があり、この字をなぞると願い事がかなうといわれています。境内の蝋梅の木はよく知られています。
 また、この付近一帯を治めた富豪の墓「延命古墳」が見られます。
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【三豊市豊中町岡本】

●不動ノ滝  MAP
 七宝山の西南部中腹にある落差約50mの滝です。桜、紅葉の名所で、讃岐百景の1つです。七宝山は弘法大師が七つの宝を埋めたという伝説があります。「不動の滝」の名は、弘法大師修行の際、この岩に不動明王の像を刻んだことに由来しているといわれています。

【三豊市豊中町下高野】

●延寿寺  MAP
 七宝山の南東麓にあり、昔から桜の名所として知られています。明治6年(1873)6月26日、「子ぅ取り婆あ」が現れたという流言のあった直後、下高野村の矢野文治がこの寺で早鐘を鳴らし続けて人々を集め暴動にかりたてたことが、西讃血税一揆(竹槍騒動)の発端になったといわれています。矢野文治は打首となっています。
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●興隆寺石塔群  MAP
 延寿寺から石仏を辿って谷沿いの道を登ると、鎌倉後期から室町末期の、約200年もの期間をかけて造立された石塔群があります。崖の上段には五輪塔や宝塔など70基、下段には磨崖仏を中心に五輪塔が30基残されています。

●竹槍騒動発生地  南の池 MAP    
 下高野村帰来原(きらいばら)南の池の北方数百メートルの地点が、「子ぅ取り婆あ」が現れたというところで、明治6年に起きた西讃血税一揆(竹槍騒動)の発生地だといわれています。
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【三豊市豊中町比地大】

●惣官寺  MAP
 この寺の創立時期は定かでありませんが、恵心僧都の作の位牌が残っており、室町時代に創立された寺であろうと考えられています。惣官寺(そうがんじ)という名は、江戸時代、この寺が通行手形を発行するなど現代の町役場のような仕事をしていたことによるといわれています。

●熊岡八幡  MAP
 宮山に鎮座。閑院宮邦家親王が13歳のとき大病をし、ここでの祈願のかいがあり、平癒したことから、旧閑院宮家の祈願所といわれています。ここの秋の例大祭では、神輿が御旅所まで行くとき、母親が抱かれた男児が、萱の穂を持ち行列に加わります。この男児はその年に生まれた満1歳に満たない子で、地面を踏まないことから「土つかず」といわれます。また、萱の穂は笠田の「州野志(すのし)」という場所でとれたものだといいます。

【三豊市高瀬町比地中】

●高瀬富士  MAP
 三豊市にある標高約210mの爺神山(とかみやま)です。爺神山という名は、神代にイザナギの命が降臨されたところで、「トトカミ山」を略して「爺神山」と呼んだそうです。この山は昭和30年代から始まった採石により半分削りとられてしまい、現在は異様な山容となっています。
 戦国時代、この山頂には、詫間弾正の築いた山城がありましたが、江甫草山城と同じように長宗我部元親によって滅ぼされました。長宗我部軍が攻めてきたとき、弾正は降伏せず西麓で激戦中馬の足が瓜のつるにとられて討ち死をし、その日は七夕の日だったので一族はその後この日にはつるに実った物を食べないといいます。
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【三豊市高瀬町下勝間】

●高津神社(加茂高津神社) MAP
 この神社は、「皇子屋鋪」とも呼ばれ、醍醐天皇の皇子である宗良親王を祀ります。京から詫間浦に流された親王は、海辺の気候が身体に合わず、この地に移り住んだといわれています。皇子が京へ戻った後、この仮殿を後世に残そうと土地の豪族田中某が自ら資材を投じて一庵を建立し、里人の崇敬を集め今日にいたっているといいます。
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●威徳院勝造寺  MAP  MAP
 讃岐観音霊場第22番。弘仁12年(821)弘法大師空海により創建されたと伝えられています。「勝間大坊」とも称され、境内は愛本池をはさんで本坊と奥の院に分かれています。本像は、地天に両足を支えられ二邪鬼をしたがえて直立する兜跋毘沙門天で、中国西域地方にその起源をもつ特殊な毘沙門天です。後世七福神としても信仰が厚く、この威徳院では毎年1月3日に大祭がおこなわれ、福をさずかろうとする人々でにぎわいます。

●勝造寺層塔  MAP
 地元では「石の塔」と呼ばれる高さ8メートル余の十三重の石塔で、角型の石を16段ばかりに築いたものです。この塔は、弘法大師が一夜で建立したとか、若狭の人である八百比丘尼(はっぴゃくびくに)が建立という伝承が残っています。塔の四面には梵字が刻まれていますが風化して判読が困難ですが、塔の東面に南北朝時代の「永和4年(1378)戍午3月6日建之」の銘があることなどから、この辺りで戦乱があった折りの死者の冥福を祈るために祀った供養塔だと考えられています。

67番大興寺を中心とする地域

 
この地域は、現在の三豊市の山本町と財田町の区域です。

【山元町辻】

●六十七番札所大興寺(だいこうじ)  MAP
 四国霊場67番札所。小松尾寺不動光院と称します。平安時代初期の弘仁13年(822)、嵯峨天皇の勅願により、空海が開創したといいます。戦国時代の末期には、土佐から侵攻してきた長宗我部元親の兵火により本堂を残してことごとく焼失しましたが、その後再建されました。
   (御詠歌) うえおきし小松尾寺を眺むれば のりのおしえの風ぞふきぬる
 山門前に、「中司茂兵衛義教(なかつかさもへえよしのり)」という人物の名が刻まれた道標があります。この人は、本名を中司亀吉といい、弘化4年(1847)に周防国大島郡椋野村(現周防大島町椋野)に生まれました。生家は大庄屋でしたが、若い頃に家を飛び出して放蕩三昧を尽くしたため勘当され、慶応元年(1866)2月19才の時、四国に渡り88ヶ所遍路巡拝の旅に入ったといいます。茂兵衛は、この時から大正11年(1922)3月76才で亡くなるまで一生遍路の旅を続け、霊場廻りの回数は実に280回にも及びました。また、巡拝者のために道しるべの建立を行い、四国各地に建てた石の道しるべも220余ヶ所に及びました。
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●菅生神社  MAP
 縁起によると、菅生(すがお)神社は、鎌倉時代の嘉禄2年(1226)、香西資村(すけむら)が、霊夢によって河内国(現大阪府)丹比郡菅生神社の神霊を迎えて創祀したとされています。この神社の社叢では、ツブラジイ、カンザブロウノキ、ミミズバイなどの照葉樹林を見ることができ、古い時代の香川の植生を見ることができます。ます。昭和53年天然記念物に指定されました。この神社の社前の老松は、天狗松と呼ばれ、天狗がここまで飛んできて羽休みをしたといわれています。
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●鋳物師辻の集落  MAP
 菅生神社の近くに鋳物師辻(いもんじつじ)という集落があり、ここには多くの鋳物師が住み、江戸時代前期から梵鐘などの鋳物産地でした。彼らは、昔、近江国(現在の滋賀県)の辻村というところから移住してきた人たちで、最初は豊田郡の花稲村(はないねむら、今の観音寺市大野原町稲村)で鋳物の仕事をしていました。ところが、そこは海沿いの土地であったことから、たたらの火が海に映って漁師は魚が採れなくなったため、現在の辻の地に移っていたといわれています。この集落の人たちは原姓を名乗り、鋳物の神として金神(かなかみ)さんを祀っています。

【山本町河内】

●薬王寺(やくおうじ)  MAP
 ボタン寺として知られています。明治維新までは菅生神社の別当寺でした。この寺の弘法大師像の両眼は弘法大師みずからの真筆と伝えられています。

●逆瀬池(さかせいけ)  MAP
 昭和31年に築造された池ですが、この池の底には昔から池があったといわれ、その古池にまつわる話が残されています。
 川上の正体(しょうたい)という所にある竜王渕に住む竜神が、毎年5月に降りて来て、この池で水遊びをしたといいます。竜神の水遊びが終わり、正体へ帰ってから(樋(ゆる)を抜くことになっていました。ある年、竜神が水遊びに疲れて、木陰で休んでいるのに、もはや正体へ帰ったと思い違いをした里人が樋を抜いて水を取ってしまいました。すると、腹を立てた竜神が、この池の残り水も谷川の水も全部上流へ逆流させ、正体の竜王渕へ吸い上げてしまいました。それで「逆瀬」と書くようになったということです。また、そのことがあってから、毎年正体の竜王渕で「水もらいのお祭り」をするようになり、前のように水がもらえるようになったといいます。
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【山本町財田西】

●宗運寺  MAP
 讃岐観音霊場第十五番駒石山宗運寺。平安時代初頭の延暦15年(796)、桓武天皇の勅願により、右大臣藤原内麿が創建したと伝えられています。山王山観音院総本寺中の坊と号していました。天正7年、長曽我部の武将だった山下市郎右衛門藤原盛久が裏山に居を構え当寺を菩提寺として復興したので、その隠居名宗運をとって寺号としました。

【財田町財田中】

●本篠城(もとしの)跡  MAP
 この山城のある地は阿波・讃岐の交通の要路にあたり、南北朝時代と戦国時代末期の2度にわたり戦が繰り広げられています。延元2年(1337)には南朝方の財田左兵衛頭(さひょうえのかみ)義宗が北朝方と戦い、天正6年(1678)には財田和泉守常久が長宗我部軍を相手に激戦を繰り広げています。讃岐へ侵攻した長宗我部軍はまず藤目城を開城させましたが、香川氏に属する諸将によって城を奪い返され、再び讃岐に侵攻してきた長宗我部軍は、今度は本篠城に攻めかかり、多数の死傷者を出す激戦の末に落城しました。その後、長宗我部の部将中内藤左衛門が守ったが天正13年秀吉の四国征伐により長宗我部の退転とともに廃城となりました。山頂には土塁、馬返し、空濠のあと、のろし台などがある。付近には「伯母淵」「財田左兵衛頭義宗の墓」「財田和泉守常久の墓」等があり、待の段、土釜といった地名も残っています。
 本篠城主だった財田左兵衛頭義宗の墓と伝えられる五輪塔の近くには、樹齢200年以上といわれる根元の幹回りが約4.9四・九メートルで、樹高は約二十メートルあり、通称「義宗桜」と呼ばれる樹齢200年以上の山桜があります。
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●密蔵寺  MAP
 この寺は、「四国讃州七福神」の一つで「南極福神」だとされています。

●伊舎那院(いしゃないん)  MAP
 讃岐観音霊場第14番北田山伊舎那院。聖徳太子により創建され、薬師如来、不動明王は太子の作と伝えられています。後に理源大師が再興し、本尊の如意輪観世音菩薩と毘沙門天を自ら刻んで安置したといわれています。一時は末寺が24ヶ寺を数え、寺領も120石を有するほどでしたが、天正6年(1678)に長曽我部の兵火にかかり、七堂伽藍がことごとく焼失し、慶長年間に再興されました。
 この寺には善女竜王の伝説が残っています。伊舎那院に心がけの良い一人の召使いがいました。ところが不思議なことにこの男は雨の日には姿を見せませんでした。ある大雨の日にその男が傘もささずに出ていくので、住職が水晶の数珠を取り出してその玉を通して後ろ姿を見るとなんと大蛇でした。住職はこれはただの大蛇ではなく、善女竜王(ぜんにょりゅうおう)だと思い、小豆飯を炊いて食べさせて暇をやりました。この善女竜王は天王淵(てんのうぶち)の主であったといいます。

●香川用水記念公園  MAP
 吉野川の水が阿讃トンネルを通り最初に水面を見せる香川用水東西分水工のところにある県立公園です。平成9年5月に開園されました。ここから東部および西部幹線水路に分配されます。この公園では、香川用水をはじめ満濃池や豊稔池など讃岐の人々が水を求めてきた歴史を知ることができます。
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●常覚院(じょうがくいん)  MAP
 入樋(いるひ)にあるこの寺は、修験道の道場で、かつてここには多くの山伏がいたといいます。山伏たちは大坂夏の陣のとき、三斗三升入りの大法螺貝(おおほらのかい)を持って徳川方に参陣し、その吹き鳴らす音に徳川家康は大いに喜び、常覚院の周りの山地8町4方を御免地として与えたといいます。

【財田町財田上】

●萬福寺  MAP
 讃岐観音霊場第13番殊勝山萬福寺。平安時代初頭の大同3年(808)、弘法大師による開基といわれています。

●鉾(ほこ)八幡宮  MAP
 七尾山に鎮座。財田郷の総氏神。財田三郷と呼ばれていた財田上、財田中、財田西にそれぞれ御神体として鉾が祀られていましたが、天正6年(1578)、橘城主大平伊賀守国秀が七尾山に社殿を建立し、財田郷鎮護の神としてこの三郷の鉾を合祀しました。ご神体が鉾であることから鉾八幡宮と呼ばれています。鎌倉時代末期の木彫りの狛犬が保存されています。
 この神社の境内の「たからだの碑」は、大正4年の大嘗祭に際し、当時の東宮侍従長御歌所長の子爵入江為守が、「たからだの やつかのたりほ かりつみて たみのこころも ゆたかなるらん」と歌を詠んだ記念碑です。

●戸川ダム・戸川ダム公園・たからだの里・鮎返りの滝  MAP
 渓道川の上流に昭和32年に竣工した「戸川ダム公園」があります。戸川ダム公園には、大久保湛之丞の大きな肖像があります。毎年桜の季節には瀬戸大橋、香川用水構想を提唱した大久保湛之丞を記念した「湛之丞祭り」が4月上旬に開催されています。
 また、近くには、温泉施設「たからだの里・環の湯」があり、物産館においては地域の食材が販売されています。付近には、町指定無形民族文化財の雨乞い踊り「さいさい踊り」発祥の地である「渓道神社」、若鮎がこの滝で上流に進めなかったという「鮎返りの滝(あゆがえりのたき)」などもあります。
国道32号と主要地方道・観音寺池田線の交差点に位置し、讃岐と阿波・土佐を結ぶ交通の要衝にあります。
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●大久保之丞顕彰碑  MAP
 大久保之丞の偉業をたたえ、40tにも及ぶ巨石の上に、高さ4m、幅2m35cm、厚さ55cmの記念碑が立てられています。翁は四国新道の実現、さぬき鉄道の完成、瀬戸大橋、香川用水の構想を提言、産業の振興、無医村解消、北海道移民、多度津港の改修など郷土発展に力を尽くしまた。また、近くに財田の地名発祥を物語る「一石一字宝塔」があります。
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●猪ノ鼻峠(いのはなとうげ)  MAP
 香川県三豊市から徳島県三好市にかけて存在する標高413mの峠です。かつては、うさぎ道とよばれるけもの道でしたが、明治27年に四国新道が開通してからは、人力車や荷馬車が通る商いの道となりました。その後、昭和42年に一般国道32号として整備され、現在に至っています。
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68番神恵院・69番観音寺を中心とする地域

 この地域は、現在の観音寺市のうち、八幡町・有明町・室本町・高屋町・観音寺町・村黒町・流岡町・池之尻町の区域です。概ね琴弾山の68番神恵院・69番観音寺を中心とした旧観音寺市の区域です。琴弾山は観音寺市の財田川河口近くにあり、その西側の有明浜一帯とともに県立琴弾公園に指定されています。園内には、神恵院・観音寺や琴弾八幡宮、砂絵「寛永通宝」などがあり、白砂青松の有明浜と松の美しい琴弾山々頂からの展望が見所となっています。
 現在の裁判所の前付近の財田川河口が、かつて堪保(港)があったところだといわれており、この辺りの旧市街には、海産物問屋、蒲鉾製造場、エビせんべい製造店などがあります。

【観音寺市八幡町】

●四国霊場第六十八番札所神恵院と第六十九番札所観音寺  MAP
 琴弾山の北東山麓にあります。地名の由来にもなった観音寺は、約1300年前に日証上人が琴弾宮の別当寺として創立し、その後大同2年(807)空海が第7代住職をしていたときに、本尊聖観世音菩薩をはじめ諸像を安置して観音寺と改名したものです。一方、神恵院(じんねいん)は、日証上人が琴弾八幡宮を奉祀したとき、琴弾八幡宮の本地仏として阿弥陀如来を祀ったものです。
 こうして、明治時代を迎えるまで、琴弾八幡宮が68番、観音寺が69番の札所でしたが、明治初期の神仏分離の際、琴弾八幡宮の本地仏である阿弥陀如来の画像が観音寺西金堂に移され神恵院とされました。こうして神恵院が観音寺に同居することになり、1寺に2つの札所が生まれました。四国八十八寺の中で、1寺2霊場となっているのはここだけです。
 観音寺境内には、廻遊式枯山水庭園である「巍々園(ぎぎえん)」や大楠も見ることができます。
  (御詠歌)68番 笛の昔も松吹く風も琴弾くも 技うも舞うも法のこえごえ
        69番 観音の大悲の力強ければ おもき罪をも引きあげてたべ
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●琴弾八幡宮  MAP
 琴弾山の南東に大鳥居があり、そこから381段の石段を登ったところの琴弾山頂に琴弾八幡宮本殿が鎮座しています。この創始については、次のような伝承があり、今も、秋の大祭で「お稚児さん」として古事にのっとった祭事が行われています。
 大宝3年(703)のある日、日証(にっしょう)上人が琴弾山で修行していたとき、有明浜一帯に黒雲が立ちこめ3日間暗闇が続き、やがて、薄暗い海上がにわかに光り輝きそこに漂うよう一隻の船から琴の音が流れてきた。日証上人が船に声をかけると、「われは宇佐八幡大明神なり、この地風光明媚なる故に去り難し」と答えたので、上人が船にその証を求めたところ、海水であったところが竹林に、砂浜が蒼松の林に変わり、再び琴の音が響き渡った。驚いた日証上人は、里人数百人とともに船を山上に引き上げ、社殿を造って琴を添えて祀った。日証上人が問答をしたころという「問答岩」が山の麓にあります。
 源家の信仰が厚く、源頼義は前九年の役に代参を立てて願文を納め、八幡太郎義家は父頼義の志を継いで社殿を造営し神馬を奉納したといわれています。また、源義経は屋島合戦の後、平家追討を祈って名馬望月と木之鳥居を奉納し、頼朝は一千貫文の土地を寄進しています。
 琴弾八幡宮は琴を弾く神様、つまりは技芸の神様を祭っているということから、昭和60年より全国奉納絵馬コンクールが始まり、全国から応募のあった絵馬がゴールデンウイーク中に展示されます。
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●興昌寺・一夜庵・根あがり松  MAP
 琴弾山の北東隣接に興昌寺(こうしょうじ)山があり、その南山麓に臨済宗東福寺派の禅宗である興昌寺と俳諧の祖・山崎宗鑑(そうかん)が建てた一夜庵(いちやあん)があります。宗鑑は、京都東福寺の住職梅谷(ばいこく)と親交があったので、梅谷が興昌寺に帰山とまもなくこの地に訪れてきてそのそばに庵を結んだといいます。
 興昌寺には、山崎宗鑑の遺筆として、紫金仏勧進帳(本堂再建の寄付集め趣意書)、徳寿軒宛の書簡、「貸し夜着の袖をや霜にはし姫御」の短冊等があり、遺品として銅雀台の瓦硯、岩床の花瓶・自作の木彫半像などが残されているそうです。また、この寺の本堂正面の右寄り塀ぎわに「仏足石」(短辺53センチ・長辺114センチ・幅60センチ・厚み33センチ)があります。なお、宗鑑の墓は七宝山頂にあるそうです。
 一夜庵は享禄元年(1528年)の創立と伝えられています。宗鑑没後、荒れるにまかせていたようですが、江戸時代になり俳人を中心として再興されました。数寄屋の形態で屋根の形は方形に近い寄棟です。庵内は6畳と4畳半という実用以上の面積を用いない点に特色があり、日本独特の静けさや寂しさ、佗しさが表現され宗鑑の俳味をおびたつつましい建物です。庵は、数度の修繕を経ていますが、旧形をよく保っているといわれています。近くは昭和59年に屋根葺替改修工事が行われ、その葺替の「ヨシ」は琵琶湖産で姉妹都市草津市から寄贈され、保存技術者の手で葺替られたといいます。
 多くの俳人が宗鑑の俳蹟を訪れており、古くは与謝蕪村、小林一茶、近代では高浜虚子、河東碧梧桐(かわひがしへきごとう)などが訪れており、その句碑も残されています。この地では毎年11月に宗鑑忌が営まれているそうです。
   宗鑑の墓に花なき涼しさよ         高浜虚子
   浜から戻りても松の影ふむ砂白きに   河東碧梧桐
 興昌寺山には、ミニ四国八十八か所である「昌寺山四国八十八カ所霊場」があります。本尊石仏の最古のものは明和2年6月8日(1765)、新しいものは明治3年(1870)で約100年間に造られたものと考えられています。また、興昌寺山には、山崎宗鑑とは関係ありませんが、その山麓に根の部分が地上に露出し、根の太さ1m高さ3mのものが数本もある珍しい黒松があります。根が幹のように上がっていることから「根上がり松」といい、天然記念物に指定されています。
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一夜庵

【観音寺市有明町】

●観音寺市郷土史博物館・観音寺市ちょうさ会館  MAP
 琴弾山の麓にあります。大正3年(1914年)に三豊郡農会農事試験場として建築された欧風建築(洋館建)で、大正ロマンが漂うたたずまいを残しています。後に産業勧業館として使用され、昭和2年に町立讃岐博物館となりました。戦時中は一時閉館されましたが、戦後町立図書館と併設で再開館し、昭和30年の市制発足で市立図書館、市立博物館となりました。昭和55年に建物の保存修理を行い、市立郷土資料館となり現在に至っています。旧石器から縄文・弥生・古墳時代の考古資料、古文書・武具などの歴史資料、農耕用具・生活用具などの民俗資料や、化石・貝・鳥の剥製などが展示されています。
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観音寺郷土資料館

観音寺郷土資料館だんじり


●世界のコイン館  MAP
 世界110カ国のコイン・日本の貨幣が集められ展示されています。

●琴弾公園 MAP・有明浜海岸・有明浜の海浜植物 MAP
 琴弾公園では、白砂青松の松原を見ることができます。白砂青松の有明浜に、銭形砂絵と呼ばれる砂で描かれた寛永通宝があります。有明浜は瀬戸内海国立公園に指定されており、風雪に耐えた約5万本の黒松があります。
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●寛永通宝銭形砂絵  MAP
 銭形は現在も毎年春と秋の2回、市民の奉仕で化粧なおしが行われています。「銭形を見た人は健康で長生きし、しかもお金に不自由しなくなる。」という言い伝えもあり、多くの人が訪れています。昼間だけでなく夜も年中、タリューム水銀灯によって緑色に浮かびあがっています。
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【観音寺市室本町】

●内浜霊神社  MAP
 明治6年に起きた西讃血税一揆(竹槍騒動)では、観音寺の有明浜、室本あたりで小島勝卦(封)と宮崎瀧松の2人の羅卒(らそつ、巡査のこと)が殉死しています。この神社は、この2人を祀ったものです。
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●高屋神社  MAP
 延喜式内社讃岐二十四社の一つ。本宮は稲積山の山上にあり、下に下宮(遙拝所)があります。この社は当初稲積山頂にあったのを1600年頃に、山の中腹に移し、さらに1760年頃に山嶺に移しましたが、里人はその祟りをおそれ、1831年に山頂の旧地に再び本殿を造営しました。山の名を取り稲積社とも呼ばれています。大祭は4月第2土・日曜日に行われています。

●有明富士(ありあけふじ)・九十九山城跡  MAP
 有明富士は、標高153.1mの江甫草山(江甫山・九十九山、つくもやま)です。南側の有明浜側の斜面が砕石のため削られていますが、北側から見るとまだ形が残っています。山頂は平で細川家の居城「九十九山城」がありましたが、天正7年(1579)長宗我部氏によって落城しました。現在は石垣らしき石や井戸の跡が少し残っています。
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【観音寺市観音寺町】

●観音寺旧市街と財田川河口付近
 財田川と柞田川に挟まれたところが観音寺の旧市街です。この辺りの旧市街には、蒲鉾屋、えびせん屋、海産物屋などのお店があり、ノスタルジアを感じさせる町並みが残っています。いま、この街のお店を訪ね歩き、試食もさせてもらう、食べ歩き観光が行われています。
裁判所付近の川岸にある「官許拝借地」の石標
 明治時代、財田川の南岸は港町として船の発着荷物の積卸に利用されていました。その頃、仮屋浦の問屋衆3名が浜方役所より川岸を荷物揚場として使用する許可を得ていました。この石標は使用の範囲を示すものです。3本が明治22年に建立され、2本がそのままの状態で現地に残っています。残りの1本は郷土資料館の敷地内にあります。
観音寺財田川沿いの官許拝借地

常夜灯と金毘羅大権現 財田川沿いの蔵
 港町として栄えた名残りでしょう。
「金毘羅大権現」と刻んでいます。
観音寺財田川沿い金毘羅大権現
観音寺財田川沿いの倉庫



財田川河口から上流を見た風景
観音寺財田川下から上を見る

海産物問屋
観音寺海産物問屋

えびせん屋
観音寺えびせん屋2

かつての商家
観音寺民家2

旧市街に残る常夜灯
観音寺常夜灯

中二階のある民家
観音寺民家

今も使われているレンガ造りの倉庫
観音寺レンガ倉庫

●専念寺  MAP
 観音寺市の財田川を隔てて琴弾八幡山の向かいにあります。小林一茶はこの寺の住職五梅和尚を頼って、寛政4年(1792)と寛政6年(1794)から翌年にかけての2回ここに来ています。
 「寛政紀行」の寛政7年歳旦詠として「今日立春向寺門 寺門花開清 入来親友酌樽酒豈思是異居古園」(七言絶句)があり、その後「元日やさらに旅宿とおもほへず」以下数句が載せられています。ここに滞在していた頃の句に次のものがあります。
    乞食も護摩酢酌むらん今日の春
    遠かたや凧の上ゆくほかけ舟
    白魚のしろきが中に青藻哉
    天に雲雀人間海にあそぶ日ぞ
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●高丸城(観音寺城)趾(一心寺)  MAP
 この城は、戦国時代、西讃に強大な勢力を誇った天霧城主香川信景の弟景全が、天文年間に築城した居館で、観音寺殿といわれていました。天正7年(1579)天霧城が長宗我部元親の侵攻により開城すると、景全も兄の信景と共に元親に従いました。その後、秀吉の四国統一により、兄と共に土佐に走りました。
 景全が敗走した後、上坂丹波守が城主として居城し、天正15年生駒氏が讃岐守に封ぜられた時、丹波守は生駒氏に服しました。秀吉はその内1万石を割いて大阪の御蔵入の料所にあて、丹波守をその代官とし、観音寺城が代官所にあてられました。その後、豊臣氏の滅亡により生駒氏に没収され、廃城となりました。上坂氏はその後家老として生駒家に仕えましたが、生駒家のお家騒動の折、不義派に組みして一家が断絶しました。
 城趾は約74アールのほぼ正方形の地形で、周囲に内堀をめぐらしていた跡が、明治時代まで端の池、城の池として一部残っていました。今も城趾の北と東側は一段低くなっており、「殿町」など城跡を物語る地名等も多く、現在「一心寺」にある樓門は城の太鼓門を移したものと伝えられています。一心寺近くの小公園に観音寺城の城址碑が建っています。また殿町には城神がまつられ、琴弾宮境内十王堂には上坂丹波守の小祠があります。

【観音寺市村黒町】

●高木神社  MAP
 高木神社の創始については、高木馬之介という強力の弓の名人が、本山寺から西に向かって弓を引き、この矢のとどまるところに葬って欲しいと言って放ち、その矢が落ちた地に祠を立てて祀ったのが始まりだという伝承があります。

【観音寺市流岡町】

●加麻良神社  MAP
 加麻良(かまら)神社は、丸山(橘亀山)に鎮座し、讃岐延喜式内社二十四社の一つといわれています。流岡(ながれおか)の地名は、昔、神田(こうだ)の千五百神(せんごひゃくかみ)という神様の中に顔が小さくて夜な夜な泣く御子神がおり、それを憎んだ親神が枡に入れて流し、その流れ着いた処なのでこう呼ばれるようになったといいます。また、その神様を祀ったのが加麻良神社だということです。

【観音寺市池之尻町】

●黒嶋神社  MAP
 讃岐国延喜式内二十四社の一つで、万延3年、京極高矩が江戸の邸に居たとき、将軍家より悍馬を賜ったある夜、我は黒島神なりと夢に出てきたので、祭田10石余りを寄付したという伝承があります。この神社の闇山津見神は毒蛇の災いを防ぐ神様という一面があり、御神体は黒蛇で本殿下に住んでいるといい、毒蛇を嫌い、神域、氏子区域から毒蛇を追い払ったと言われています。

【観音寺市柞田町】

●山田神社  MAP
 延喜式内社讃岐二十四社の一つ。山田村の名は山田皇女の御名代地だったことから起こったといわれています。山田大娘命は、安閑天皇の皇后である春日山田皇女だといわれています。

(149)“高松の地下にある謎の巨大クレーター”


 高松市南部の仏生山周辺は、高松松平藩主の菩提寺である法然寺のほか、田村神社、一宮寺、船山神社など由緒のある社寺があり、歴史を感じさせる趣が漂っています。また、ため池と里山が織りなす優れた景観の地でもあります。法然寺の裏山に登り、南の方を見ると、右手眼下に「平池」、その左方に円錐形の姿のよい小山が並んでみえます。北から南に日山(ひやま)、馬山(うまやま)、実相寺山(じっそうじやま)と一直線に連なり、そこから東へ日妻山(ひづまやま)、上佐山(うわさやま)と連なります。これらは「高松クレーター五座」と呼ばれています。

 平成元年、金沢大の河野芳輝教授らのチームは、観音寺市と高知市を結ぶ線から東側の四国において、ほぼ2キロ置きほどの間隔で重力異常の調査をしていました。そのとき、高松市と香川町の境あたりで重力異常地点を発見しました。その後、チームは6年をかけ、密度を濃くした重力異常調査のほか、磁場の強弱で地下構造を推定する地磁気異常調査、跳ね返る音の角度や時間で内部の様子を探る人工地震波反射法調査などを重ねていきました。
 その結果、仏生山公園を中心とする直径8キロの地域の下に直径4km、深さ千数百メートルのお椀型のくぼみが地下に眠っていることを突き止めました。そこから、このクレーターの内側にある5つの里山が、「高松クレーター五座」と呼ばれるようになりました。このクレーターは、容積が約196億立方メートルで、地下には約20億トン(早明浦ダム約7杯分)の水源があると推定されました。しかし、厚い堆積物が溜まって表面の大部分は周囲の平野と同じ高さの平らな土地になっているため、飛行機や山の上から眺めても盆地状の地形を判別することはできません。

 その後、研究者の間において、このクレーターの成因をめぐり、火山カルデラ説(コールドロン説)と隕石衝突説が唱えられ、論争が行われました。
 カルデラ説は、高松付近は瀬戸内火山帯に属しており、この火山帯には愛媛県石鎚山や愛知県設楽盆地などの火山性陥没構造である過去のカルデラがみられること、高松クレーター内部の掘削試料が厚い火砕流堆積物であること、隕石説の証拠となる高圧変成鉱物が未発見であることなどから、火山活動の活発化による噴火が大量の火砕流堆積物を噴出させてできた火山性の陥没構造のカルデラ跡(コールドロン)であると主張しました。そして噴火が起きたのは、1400万年から1200万年前の新生代・新第三紀・中新世中期サーラバリアン期だと推定しました。
 これに対して隕石衝突説は、激しい衝突で変化した痕跡のある岩石や、隕石由来の金属粒子、衝撃による熱で岩石が溶けガラス状になった組織が発見されたことなどから、同じく新生代・新第三紀・中新世中期で約1530万年前のランギアン期に隕石が衝突してできた衝突孔だと主張しました。そして、衝突の時期を、火山活動が活発化する数百万年前だと推定しました。
 なお、新生代・新第三紀は現生生物の多くが出現し、特に哺乳類が繁栄・大型化した時代で、その中で中新世中期は、日本がアジア大陸から離れて弧状列島になっていく頃です。

 こうして、平成15年(2003)11月24日、世界のクレーター・リストを作っている国際クレーター登録委員会(本部・カナダ)のメンバーが現地を訪れ、隕石によるクレーターかどうかを調査することになりました。しかし、隕石が衝突したという証拠がまだ不十分だという理由で、翌年5月9日、隕石クレーター国際リストへの登録は見送られました。どちらの説にせよ、高松クレーターが形成されたのは、人類がまだ存在してなかった1400~1300万年前の時代と考えられ、高松平野の真ん中に大きな地下クレーターがあるというのは興味深いことです。

 この高松クレーターほど雄大な話ではありませんが、讃岐では近年に、隕石が落下しています。
昭和61年(1986)7月29日午後7時すぎ、「ババーン」、「ドドドーン」などの大音響とともに国分寺町とその周辺に隕石が落下しました。この隕石は南東から飛来し、上空で多数の破片に分裂し、隕石シャワーとなって落下したものです。落下した隕石は13個で、重さは最大10kg、最小3g、合計11kgありました。日本では、明治42年(1909)の美濃隕石以来77年ぶりの隕石シャワーでした。
 落下の模様は目撃され写真にも記録されました。また、落下直後新鮮な状態で採集されたため非常に重要なデータを学会に提供し、ロンドンの大英博物舘に「国分寺隕石」として正式に登録されました。
 日本で一番県土面積の小さい香川県で、地球の地質時代や宇宙に関係する物語があるのはおもしろいことです。

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(148)“瀬戸内の島に伝わる歌舞伎と文楽”


 歌舞伎は、徳川家康が征夷大将軍の宣下を受けた慶長8年(1603)に、出雲のお国が、派手な着物を着、男髷に髪を結い、長い刀を差した「傾き者」(かぶきもの)といわれる男の姿で踊ったのが始まりといわれています。これを「女(遊女)歌舞伎」といいますが、風紀を乱すということで、寛永6年(1629)に幕府から禁止されます。
 次いで少年が女装した「若衆歌舞伎」が登場しますが、これも承応元年(1652)に「禁止され、4代将軍徳川家綱の時代の承応2年(1653)、前髪を剃り落とした成人の髪型(野郎頭)になること、物真似狂言尽(ものまねきょうげんづくし)に徹することを条件に再開が許可されます。これを「野郎歌舞伎」といい、この形態が今に至る歌舞伎の原形となっています。
 歌舞伎が興行として定着したのは、元禄時代(1688~1703)の頃だといわれていますが、それはまだ、江戸、京、大坂に限られており、地方でも興業されるようになるのはもっと後のことです。ちなみに、金毘羅大芝居が完成し、こけら落としが行われたのは、江戸後期の天保6年(1835)のことです。

 小豆島は、「オリーブの島」とか「醤油の島」などとして知られていますが、古くから農村歌舞伎が盛んなところで、「歌舞伎の島」ともいうべきところです。
 小豆島では、元禄時代前の貞享3年(1686)、すでに、現在の土庄町肥土山(ひとやま)において、灌漑用のため池・蛙子池(かえるごいけ)が完成したのを祝して、地元民により、離宮八幡神社の境内に仮小屋が建てられて芝居が上演されています。また、6代将軍・家宣の時代の正徳2年(1712)に、内海の葺田(ふきた)八幡神社境内で芝居が上演されたという記録が残っています。ちなみに、高松市香川町東谷にも、祇園座という農村歌舞伎が残されていますが、この地区で演じられるようになったのは、江戸後期の安政年間(1854~1860)の頃だといわれています。
 このように、小豆島では既に江戸時代前期に歌舞伎が演じられていたというのは、小豆島には上方の情報や物が短時間で伝わっていたということでしょう。これは、小豆島は、播磨灘を越え明石海峡を過ぎるとすぐに大坂に至るという地理的位置にあり、船で直接行き来することができるという海上交通の便に恵まれていたこと、また、江戸時代には、幕府直轄地として大坂奉行の管轄にあり、天領地では庶民が娯楽を楽しむことに寛大であったことなどによるものと考えられます。
 小豆島と大坂とは、古くから人的、物的な交流があり、深い結びつきがありました。例えば、島の若者は、年頃になると、女性は行儀見習い、男性は丁稚奉公・弟子奉公として大坂へ行く慣習があったといいます。また、醤油、素麺、石、塩といった島の産物の多くが大坂へ運ばれています。小豆島の農村歌舞伎も、上方と小豆島との結びつきから生まれたものでしょう。

 小豆島全島に歌舞伎が広がっていったのは、江戸時代後期、19世紀前期の文化・文政年間以降だと考えられています。それは、いわゆる祭典芝居といわれるもので、地元の氏神様の祭りのときに、氏子達が中心となって奉納芝居として演じられるものでした。芝居舞台も、そのほとんどが神社境内敷地の社殿と向きあった場所で建てられています。
 しかし、島の人たちは全く宗教的動機だけで芝居を演じたのではなく、当時、氏神様の祭りは庶民の大きな娯楽だったことからすると、娯楽的として芝居を演じ、鑑賞したものと思われます。小豆島の人は、お伊勢参りに行ったときには、大坂で芝居見物をしてから帰るなど、上方の文化に直接接し、馴染んでいたといわれており、芝居を楽しむという習慣が当時すでに定着しており、その文化的高さを伺い知ることができます。

 幕末の安政3年(1856)には、上方役者の坂東いろはが来島して肥土山に住み着き、また、後に、その弟といわれる初代嵐璃當(あらしりとう)も大坂の大火で衣装を失ったため安田に着て住み着いたといわれており、彼らの指導により小豆島農村歌舞伎は磨きがかかり洗練されたものになっていきました。また、その演目も、「伽羅先代萩」、「仮名手本忠臣蔵」、「義経千本桜」などといった名作定番だけでなく、「清水騒動雪降新形」、「星ヶ城古跡の石碑」、「島義罠伝平井兵左衛門」など「島出来」(しまでき)という小豆島の事件から取材した独自のものが作られるようになっていきました。
 こうして、小豆島における農村歌舞伎は、幕末から活況を呈し、明治・大正の隆盛期を経て昭和の初年まで、島全体で舞台が33棟、衣装が1000点以上、鬘(かつら)が200個以上、根本(ねほん)が1000冊以上あり、俳優が600~700人いたといわれています。
 芝居は舞台だけでなく、各村の神社境内地や浜辺などの空き地に掛け小屋を作り、祭礼や縁日を主として、後援者の厄年・還暦の祝い芝居なども行われ、毎日島のどこかで上演しているというほど盛況でした。中には一座を組んで岡山児島方面に買われていくこともあったようです。この頃の小豆島では、観客が割盒(わりご)弁当を開き、酒を酌み交わしながら見物するという風景がいたるところで見られました。
 このように小豆島の農村歌舞伎は、300年あまり前から根付いてきた島の文化であり、現在でも、土庄町肥土山と池田町中山の2つの舞台において、毎年恒例の上演が催されています。

 小豆島の近くの直島(なおしま)でも、江戸時代から、歌舞伎や能、人形浄瑠璃などが盛んに上演されていました。本村地区の城山(しろやま)には間口13間(約23.7メートル)、奥行き8間(約14.6メートル)の回り舞台、セリ、囃子座(はやしざ)、スッポンなどのついた豪華な歌舞伎の舞台があり、島の一座により歌舞伎が上演されると、中国・四国、遠くは関西方面からも観客が訪れ、港はその人達の船で何重にも埋められるほどであったといいます。
 このように直島で芸能が盛んであったのも、瀬戸内海を通じて外の世界とつながり、また天領地であったとこから自由な気風があったことによるものと思われます。
 特に文楽は「デク芝居」として人気があり、八十八夜の鯛網の頃には、島の網元が淡路島から人形浄瑠璃の一座を呼び寄せ、琴弾の浜で上演されていたといいます。さらに見物するだけでは飽き足らず、島の人自身が人形を所有し、演じていました。最盛期の天保年間(1830~44)には、島内に、下津(かけ)、乾(なかや)、高田(きったいどん)、山名(ぎざえもん)の4家が人形の頭を所有し、一座を組んでいました。
 しかし、明治6年、阿波へ文楽の人形を買いに行った帰途、小豆島沖で船が難破し、5人中2人が死亡するという不幸が起き、それが原因で文楽熱は廃れていったといいます。こうして、明治・大正・昭和の3代にわたって文楽は途絶えましたが、昭和23年から青木ツタ、下津カツノらの女性が人形芝居の稽古を始めたことにより復活し、女ばかりの「直島女文楽」一座が誕生しました。昭和34年、県無形文化財となり今日まで受け継がれています
 なお、直島以外でも、讃岐には高松市円座町に「香翠座(こうすいざ)人形」、三豊市三野町大見に「讃岐源之丞(げんのじょう)人形」が伝わっています。

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豊浜と大野原の街

 
 この地域の範囲は、現在の観音寺市のうち、豊浜町(姫浜・和田浜・和田・箕浦)と大野原町(大野原・中姫・花稲)の区域です。
 豊浜の街の中心部はかつて和田浜といわれていました。和田浜は昔、近郷とともに姫の江(ひめのえ)郷と呼ばれていました。神櫛王が讃岐の国司となった時、景行天皇の皇女和田之姫命(わだのひめのみこと)が天神三柱の神を「渡りの浜」に祀り、この浜の「り」が省かれて「渡浜(わたはま)」となり、やがて和田浜となったといわれています。和田浜の港が綿の積出港として賑わっていた頃は、「御番所の港」と呼ばれ、税関にあたる番所がありました。
 大野原は、江戸時代の初期に京都から移住してきた平田家によって開かれたところで、それまではその名前のとおり、大野原だったところです。

【観音寺市大野原町大野原】

●慈雲寺・大野原八幡神社 MAP
 慈雲寺(じうんじ)は、江戸初期の京都商人・平田与一左衛門が1645年に創建した日蓮宗の寺です。与一左衛門は井関池を築造した大野原開拓の祖です。清正公寺(せいしようこうじ)ともいいます。
大野原八幡神社は与一左衛門父子により再建されたものです。大野原小学校の北西隣にあります。

●碗貸塚・角塚・平塚  MAP
 6世紀末から7世紀中頃前後にかけて築かれたと推定されている巨石墳です。3基とも横穴式石室です。
 碗貸塚(わんがしづか)は大野原八幡神社本殿裏にあり、その石室は県下最大です。この塚には高さ80㎝・幅70㎝の穴があって、この古墳の名称になった次のような伝説が残っています。
 村人が婚礼や法事のおりに接客用の椀が足りないとき、この穴の入口へきて『あす、婚礼をいたしますからお椀を貸してくだされ』というと、翌朝頼んだ通りのお椀が置いてあった。ところが不心得者が椀を一つ無くしてしまってからは、貸してくれなくなった。
 碗貸塚から南西500mのところに角塚(かくずか)があります。一辺約43mの方墳です。
 角塚から南200mのところに平塚(ひらずか)があります。直径52mの県下最大の円墳です。

【観音寺市大野原町中姫】

●中姫八幡神社  MAP
 大野原中学校より東へ歩いて15分ほどの所にあります。この神社には次のような伝説があります。
 この神社のあるところはかつて森で、八幡様が馬に乗ってこられたとき、森の東のところで馬を降りて、茱萸(ぐみ)の木につないで森の中に入っていった。村人も八幡様の後からついていったが、森から出ると馬が石になっていた。そして、八幡様は森に入られて中姫(なかひめ)の八幡神社となった。この神社の祭りのときには、この「お馬はん」の背中から水が汗のようにしたたり落ちる。

【観音寺市大野原町花稲】

●一方宮  MAP
 西へ少し行けば海です。一方宮は三嶋神社の境内にあり、安産の神様「一方さん」として親しまれています。三韓征伐の折、応神天皇を胎まれた神功皇后は、凱旋のときまで出産を止めるよう神に祈り、神のみたまを腹にあてて安産したといわれています。この故事にならって、女性が身ごもると丸い小石をお宮から頂いて出産の無事を祈ります。出産後もう一つ別の石と二つにしてお返しし、子供の健やかな成長を祈願します。
 この神社には、次のような伝説が残されています。
 あるとき、小さな子供と『おいり』の入った櫃(ひつ)が大野原の海辺に漂着しました。『おいり』は婚礼のときにお嫁さんが配る餅米をふくらませたお菓子です。村人は神様に違いないと、子供を背負って家へ連れ帰ろうとすると、しだいに重くなってきました。あまりに重いので三島神社にきたところで下ろし、そこに社を建ててお祀りしました。この子供は、木花咲耶姫(このはのさくやひめ)が産んだ双子の一人だったので、お産の神様となりました。

【観音寺市豊浜町姫浜】

●一宮公園  MAP
 燧灘を臨む海浜公園です。砂浜が海水浴場としてさらに整備され、広々した芝生広場や時計塔などが整備されています。夕日の美しい海岸として知られています。

●ちょうさ会館・豊浜郷土資料館  MAP
 ここは、日本で唯一のちょうさに関する資料館です。本物の太鼓台のほか、ちょうさに関するさまざまな資料が展示され、映像も流されています。
 ちょうさ会館の隣に豊浜郷土資料館があります。ここには、綿をつむいだ道具や綿づくりの歴史、なつかしの民具などが集められています。また、資料館のかたわらには、実際の棉(わた)が栽培されていて、季節には白い花が咲きます。
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●満願寺  MAP
 讃岐三十三観音霊場第17番補陀落山満願寺。奈良時代、行基菩薩が開基したと伝えられています。初めは、大野原町五郷の田野々地区に建てられて、山寺としてありました。御本尊は聖観世音菩薩。

【観音寺市豊浜町和田浜】

●豊浜八幡神社  MAP
 ちょうさ祭りの初日は、氏参りが中心で、午後3時ごろ、豊浜八幡神社に次々と幕や掛け布団で着飾った二十数台のチョウサが集まり、本殿をぐるぐる回ります。夜は百個余りのちょうちんが取り付けられたチョウサが、町内の各地で風情あふれる音と光のパレードをします。
 豊浜のチョウサは、太鼓台の屋根の先に、「とんぼ」と呼ばれる赤色の結び目が付けられ、その下に「七重(しちじよう)」と呼ばれる7段重ねの赤色の布団が据え付けられています。また、金糸銀糸で竜や虎などを刺しゅうした一片が1・5メートルほどある掛け布団が前後に2枚かけられています。
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●宗林寺  MAP
 この寺は、「四国讃州七福神」の一つで「恵比寿」だとされています。

●元内閣総理大臣大平正芳の墓  MAP
 豊浜は故大平首相の生まれ育った町であり、墓地公園に墓があります。また街中を通る国道11号線は「大平記念通り」と名付けられています。

●合田兄弟の墓  MAP
 墓地公園には、合田求吾、大介兄弟の墓があります。求吾の墓石には「温恭合田先生」と刻まれています。これは、門人たちが求吾の温厚な人柄を慕って温恭先生と呼んでいたことによるそうです。
 合田氏の祖は伊吹島に逃れた平家の残党合田鳥之輔といわれ、その子孫の合田勘十郎が16世紀の天正年間、豊浜の和田に来たといいます。勘十郎の系統は合田総本家で増屋と称しました。合田求吾の家は大祖父の代に本家から分かれた浜合田家とで、代々医業をなりわいとしてきました。
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【観音寺市豊浜町和田】

●獅子の鼻城址  MAP
 戦国時代末期に活躍した大平伊賀守国祐(天文7年(1538)~慶長8年(1602))が、標高約80メートルの尾根先端部(城の端)に築いた山城です。和田城、大平城ともいいます。大平伊賀守国祐は、先祖が藤原氏の出で、土佐吾川郡の城主でしたが、文禄5年(1562)長宗我部元親に敗れ、雨霧城主香川信景を頼って一時多度郡中村に居住します。その後豊田郡に移り、姫之一郷を領有し獅子の鼻(ししのはな)に城郭を築きました。しかし、天正6年(1578)長宗我部の大軍に攻められて落城しました。その後、仙石秀久に仕えて島津征伐に参戦し、戸次川の戦で敗走して後、讃岐に戻りかつての家臣の元で生涯を送ったといわれています。北麓にある国祐寺が居館跡です。
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●国祐寺  MAP
 この寺は法華宗(本門流)の寺院で、山号を雲風山といいます。尼崎市大本山本興寺の末寺です。寺の縁起によると、弘仁13年(822)の建立で、最初は光明光毘盧遮那寺(ひるしゃなじ)と号する真言宗の寺でした。その後天正6年(1578)に獅子ケ鼻城の城主である大平伊賀守国祐(くにすけ)により法華宗に改宗され、寺号に自からの名を付した国祐寺(こくゆうじ)と改められたということです。

【観音寺市豊浜町箕浦】

●わた神社  MAP
 高須賀夕映え公園の南の浜にあります。豊浜での綿の歴史は古く、鎌倉時代に関谷兵衛国貞が、現在の関谷地区を開墾して棉(わた)の木を植えたことに始まるといわれています。「わた神社」は関谷兵衛国貞を祀っています。夫婦円満、健康の神様も祀られているそうです。
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●神田神社  MAP
 香川県最西端にある神社です。箕浦駅から歩いて20分、小高い丘の上に鎮座しています。神田神社の境内社には、天満神社と、祗園神社があります。香川県神社誌によると、「箕浦村、神田大明神あり、平将門祭る」「神田大明神、祭神平将門、祭祀9月9日、社硬宗林寺」「天慶の時、藤原純友等の乱を起こすや、豊田郡は伊豫に隣接せるを以て、夙にその配下に属せり」とあり、平将門と藤原純友に、縁のある神社だといわれています。かつて将門を祀っていましたが、今は大国主命が祭神です。
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●余木崎  MAP
 香川県と愛媛県との県境となっている山が海に突き出た所をいいます。伊予と讃岐の国境にあることから、昔は、「予岐(よぎ)」といわれ、そこにある岬ということから「余木崎(よぎざき)」と呼ばれるようになりました。西行の紀行文も、「予岐水岬(よぎのみさき)」とあります。
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六十六番雲辺寺を中心とする地域

 この地域の範囲は、現在の観音寺市のうち、大野原町(内野々・有木・田野々・萩原)と、同市粟井町の区域です。

【観音寺市大野原町内野々】

●六十六番札所雲辺寺   MAP
 標高911mの雲辺寺山の山頂近くにあり、四国八十八ヵ所中最も高いところにあることから別名四国高野と呼ばれています。弘法大師が雲辺寺山に建築資材を探しに入り、この山の霊気に感じ入り山頂に堂を建て、その18年後、嵯峨天皇の勅願により仏舎利と毘盧舎那法印を山中に納め札所と定めたといわれています。讃岐の関所寺と言われ、昔は「遍路ころがし」と呼ばれる難所の一つでした。
 高さ15mの展望館の上には、重さ15トン、高さ10mの毘沙門天像がそびえています。讃岐の札所なのに頂上が県境となっているため住所は徳島県となっています。
 (御詠歌)  はるばると雲のほとりの寺に来て つきひを今は麓にぞ見る
 雲辺寺ロープウェイは、全長約2,600m、山麓駅と山頂駅の高低差約660mという、日本最大級のロープウェイです。ゴンドラの窓越しに讃岐平野、瀬戸内海、中国地方、瀬戸大橋などを一望することができます。
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雲辺寺
 

【観音寺市大野原町萩原】

●萩原寺  MAP
 四国別格二十霊場第十六番。この寺は、ハギの名所として知られています。正式の名称は、巨鼇山(きょごうざん)地蔵院萩原寺という真言宗の古寺で、地元では地蔵院と呼ばれています。
 唐から帰朝した空海は、雲辺寺山に寺を建て千手観音像を刻んで安置し、周辺に49ヵ寺を開きましたが、このうちの中之坊がのちに山上から降り、地蔵菩薩を本尊として地蔵院と号したものです。室町時代、京兆家当主で讃岐守護だった細川勝元の祈願寺となり、勝元以後も細川氏の祈願所であったといわれています。寺務所正面東にある山門は、細川勝元寄進と伝えられています。室町時代には、四国中の真言寺がその末寺になったといわれるほどに寺勢が盛んだったといわれています。
 「四国讃州七福神」の一つで「弁財天」だとされています。
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【観音寺市大野原町田野々】

●豊稔池  MAP
 豊稔池は田野々の高尾山の麓にあります。有効貯水量は159万立方メートルで、県内5番目の大きな池です。
この地の人びとは、昔から「月夜にも焼ける」といわれるほど日照りに悩まされてきました。明治以降も幾度か大干魃を経験し、大正11年(1922)、地域一丸となって柞田川上流に新たなため池の築造が取り組まれました。
 築造にあたっては、柞田川上流の周りに土堰堤の材料となる良質な土がなかったため、コンクリート構造とされました。また、工事の途中で基礎地盤の弱点が発見されたため急遽工事を変更し、当時の最新理論を適用したマルチプル・アーチ型の設計とされました。
 工事は、県営事業として大正15年3月27日起工され、付近で採取した粗石や海岸から馬車や牛車で運んだ砂にモルタルを混合したコンクリートを用いて行われました。総工費559,800円と延べ15万人の労力を投入して昭和5年(1930)3月27日に完成し、農家の願いを込めて「豊稔池」と名付けられました。
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【観音寺市大野原町有木】

●有木の平家谷  MAP
 五郷ダムに架かる橋を渡って300mのところに「史跡有盛路の石柱」があり、ここが有木(ありき)の平家谷の入り口です。
 長門の壇の浦を逃れた平有盛(ありもり)は、五郷の有木に入り、ここで山野に入って薬草を採るのを仕事としている権八(ごんはち)という者に匿われたといわれています。
 平有盛が有木の地に三宝荒神を産土神として祀ったといわれるところには、「三部神社」が鎮座しています。境内には有盛が建てたものといわれる阿弥陀堂があります。また、この神社には太刀・小烏丸の太刀箱があります。平有盛が有木入山の折り、石の上に立って追っ手を見張ったというところには、「有盛の乗石」があります。
 有盛は有木からさらに阿波の祖谷に落ち延びたといわれていますが、有木の集落の上の方には「平有盛の墓」と伝えられる墓もあります。
 また、有木の部落は、源平屋島合戦に敗れた平家の左衛門尉(さえもんのじょう)という武士が、この地に逃れてきて木樵となって住み着いたのが始まりだともいわれています。
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【観音寺市粟井町】

●於(おの)神社  MAP
 讃岐国延喜式内二十四社の一つで、1755年頃、丸亀藩主京極高矩により再興されたといいます。

●粟井神社  MAP
 讃岐国延喜式内二十四社の一つです。藤目城跡のある藤目山(136m)の麓にあります。祭神は天太玉命です。古くは刈田大明神とも称されました。創建年代は明らかでありませんが、続日本紀に「承和九年(八四二)粟井神名神に預かる」と記され、平安期初頭既に名神に列するほどの名社でした。古代、讃岐は西讃を中心として忌部氏により開墾殖民が行われたといいます。このとき、忌部氏が同胞の一致団結をはかるため、自分たちの祖神である天太玉命を氏神として祀ったのがこの粟井神社だといわれています。粟井は、安房居の意味とする説もあるそうです。なお、善通寺市にある大麻神社の祭神も天太玉命です。
 戦国時代末期、土佐の長宗我部親元による藤目城襲撃の兵火で社殿宝物等を失いましたが、その後生駒正俊によって本殿が再建されました。
 近年はアジサイ500株を植えたアジサイの里としても知られています。
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●藤目城趾  MAP
 長宗我部元親が讃岐で最初に攻略した城といわれています。粟井神社後方にあります。
 この城は、室町時代のはじめの貞治2年、斉藤重親が豊田郡(旧名刈田郡)を賜わり、築城したものです。それから6代目の天正4年(1576年)、長宗我部元親に攻められ、城主国重は射場(粟井神社の北)において敵の矢に当たって討ち死にし、弟忠重もまた同所において討死しました。しかし、長男の重之がついに敵を撃退しました。
 その後、天正年(1578年)再度元親の来襲を受けました。敵は攻めあぐねて計を案じ、いつわりの和睦を申し入れます。重之はこの計にかかり、敵を城中に入れたところ火を放たれました。重之は自ら奮戦後城中において切腹して果てました。次男千代丸は、老臣教守と共に中姫の宗像神社で討死し、今その地に藤目神社として祭られています。妻は懐胎の身で福田原まで逃れたとき、ついに敵に追駆けられ、堀に身を投じて自害しました。今も藤目城姫塚としてここに祀られています。
 ただし、長宗我部元親が讃岐で最初に攻略した「藤目城」とは、粟井の城ではなく、仲南の城であるとする強い説があります。この説は、藤目城は現在のまんのう町大口の県道197号線(財田満濃線)三河神社から北に500mのところにあった城だとします。
 なお、長宗我部元親軍と攻防のあった城跡は、この他に、本篠城跡、九十九城、仁保城、雨霧城、聖通寺城跡、西長尾城跡、勝賀城、佐料城跡、藤尾城跡、十河城跡、虎丸城跡などがあります。
(関連記事)“長宗我部元親が四国制覇の野望をいだいた山

●竜王神社  MAP
 粟井ダムのすぐ下に鎮座する竜王神社には、「おなぎさん」と呼ばれる鰻(うなぎ)を祀った祠があります。ある日照りの年、粟井の奥谷別所に住む源左衛門と源三郎という兄弟が、雲辺寺の麓にある竜王様の社に籠もって雨乞いの祈願をしたところ、七日目の満願の夜、二人の夢の中に美女が現れて、社の近くを指して掘れと言いました。二人は、同じ夢を見たことを不思議に思いましたが、そこを掘ると黒い鰻(うなぎ)が這い出て来て、近くの渕へ飛び込み、その途端、強い雨が降り出しました。そこでこの淵に石の祠を立てて鰻を祀ったということです。

●極楽寺  MAP
 讃岐三十三観音霊場第16番寶樹山極楽寺。奈良時代の養老5年(721)行基菩薩が開基したと伝えられています。現在の東約2キロメートルの菩提山に、山寺としてありました。天長元年弘法大師が毘沙門天像を刻んで、守護仏として安置しました。御本尊は如意輪観世音菩薩。
(関連記事)“讃岐にも残る行基にまつわる伝承



地域編-目次

 「讃岐の風土記」では、それぞれの記事に関連する社寺仏閣、名勝、旧跡、記念物、公園、建物などを、「訪れてみたいところ」としてご紹介しています。今後、これらを地域別にまとめていきたいと考えています。
 地域をどのように区分するかについては、行政区域別、コース別などの方法が考えられますが、ここでは、四国八十八ヵ寺札所ないし地域の核となるものを中心に区分します。
 各地域について、順次、掲載していく予定です。

1.豊浜と大野原の街
  観音寺市豊浜町(姫浜・和田浜・和田・箕浦)、同市大野原町(大野原・中姫・花稲)
2.六十六番雲辺寺を中心とする地域
  観音寺市大野原町(内野々・有木・田野々・萩原)、同市粟井町
3.六十七番大興寺を中心とする地域
  三豊市山本町・財田町
4.六十八番神恵院・六十九番観音寺を中心とする地域
  観音寺市八幡町・有明町・室本町・高屋町・観音寺町・村黒町・流岡町・池之尻町
5.伊吹島
6.七十番本山寺を中心とする地域
  三豊市豊中町(本山甲・笠田笠岡・上高野・岡本・下高野・比地大)、同市高瀬町(比地中・下勝間)
7.仁尾の街
8.詫間の街・荘内半島・粟島・志々島
  三豊市詫間町
9.大水上神社を中心とする地域
  三豊市高瀬町のうち、南から北に、羽方・西股・上麻・下麻・上勝間・上高瀬
10.七十一番弥谷寺と本門寺を中心とする地域
  三豊市三野町
11.七十二番曼荼羅寺・七十三番出釋迦寺・七十四番甲山寺とその周辺
  善通寺市吉原町・碑殿町・弘田町の区域
12.七十五番善通寺とその周辺
13.金刀比羅宮と琴平の街
14.満濃池を中心とする地域
15.二宮飛行公園を中心とする地域
16.天川神社を中心とする地域
17.七十六番金倉寺とその周辺
18.七十七番道隆寺と多度津の街・高見島・佐柳島
19.海岸寺辺り
20.丸亀市を中心とする地域
21.本島と牛島
22.七十八番郷照寺と宇多津の街
23.讃岐富士とその周辺地域
24.坂出の街
25.瀬戸大橋とその周辺の島々
26.七十九番天皇寺と城山の周辺
27.八十番国分寺を中心とする地域
28.滝宮天満宮を中心とする地域
29.八十一番白峯寺と神谷神社を中心とした地域
30.八十二番根香寺と五色台
31・香西寺を中心とする地域
32・扇町界隈と石清尾神社を中心とした地域
33・高松城と商店街界隈
34.栗林公園と県庁を中心とする地域
35.女木島と男木島
36.仏生山を中心とする地域
37.八十三番一宮寺・田村神社を中心とする地域
38.冠櫻神社と塩江温泉と中心とする地域
39.十河城跡と公淵森林公園を中心とする地域
40.八十四番屋島寺を中心とした地域
41.八十五番八栗寺を中心とする地域
42.小豆島霊場一番洞雲山から二十七番桜ノ庵までの地域
43.小豆島霊場二十八番薬師堂から四十八番毘沙門堂までの地域
44.小豆島霊場四十九番東林庵から七十五番大聖寺までの地域
45.小豆島霊場七十六番金剛寺から八十八番楠霊庵までの地域
46.豊島
47.直島
48.八十六番志度寺を中心とする地域
49.白山を中心とする地域
50.八十七番長尾寺を中心とする地域
51.八十八番大窪寺を中心とする地域
52.琴林公園を中心とする地域
53.白鳥神社・与田寺を中心とする地域
54.引田の街


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(147)“漂泊の俳人が終焉を迎えた島で生まれた二十四の瞳”

 瀬戸内海に浮かぶ小豆島は、「アヅキジマ」の名で「古事記」の国生み伝説にも登場する古い歴史をもち、海上交通の要衝であったことから各時代に様々な文化が入り込み、その温暖な気候と風光明媚さともあいまって、歴史と自然が織り成す一つの小世界としての独特の風土をつくっています。
 その小豆島の風土に引き付けられるかのように、島外の人々は、憩いと安らぎを求めて訪れてきます。大正末期、安住の地を求めてやって来た漂白の俳人尾崎放哉もその一人でしょう。
 しかし、小豆島で生まれ育った若者が、何か新しいものを求めようとするときには、その風土の重さは桎梏と感じられ、彼らは島外へ羽ばたこうとするのでしょう。小豆島が生んだ壺井繁治(しげじ)、黒島傳治(でんじ)、壺井栄の3人の文学者もこのような若者だったのでしょう。繁治は厳しい国家弾圧の下で詩を書きつづけ、傳治はプロレタリア文学の旗手として名作を次々と発表しました。中でも、栄は、その代表作「二十四の瞳」で小豆島を全国に知らしめました。
 日本近代文学史に記されるこの4人にまつわる物語や遺品などが、小豆島には多く残されています。

 小豆島は、自由律俳句の鬼才といわれた尾崎放哉が終焉を迎えた地です。自由律俳句は、約束ごとや制約に縛られない自由な表現という思想から、五七五の定型句や季語などにとらわれず生活感情を詠い込んだ俳句です。明治時代後期に荻原井泉水(はぎわらせいせんすい)が俳誌「層雲」を主宰し確立されたといわれており、大正時代になると尾崎放哉、種田山頭火がその代表的な俳人として登場します。
 放哉は、大正14年(1925)年8月、40歳のとき、京都から小豆島にやって来て、土庄の西光寺奥の院の南郷庵(みなんごあん)の庵主として入り、翌年4月7日に病没するまでの8ヶ月間居住しました。その間に自由律俳句200余句を創作しています。
 しかし、この放哉の来島は、著名な作家が創作活動に打ち込むために新たな環境を求めたというようなものではなく、社会的地位や金も家族も捨て身体を病んだ世捨て人が死に場所を求めて辿りつたとどのつまりでした。その臨終は、庵の近くに住む漁師の妻、南堀シゲだけに看取られた孤独で寂しいものでした。

 侘しい人生の終焉を迎えた放哉ですが、その途中までは、多くの人が羨望する典型的な秀才エリートの道を歩んでいました。
 放哉は、本名を尾崎秀雄といい、明治18年(1885)年1月20日、鳥取県邑美郡(現鳥取市)吉方町に生まれます。父は裁判所書紀官をしていました。当時、優秀な若者にとっては、「末は博士か、大臣か」といわれたように、勉学に励み、官僚や学者になることが立身栄達の道でした。放哉もごたぶんにもれず、この道を進み、鳥取県立第一中学校を経て、第一高等学校(現在の東大教養学部の前身)そして東京帝国大学法学部へと進みます。秀才として親や親類からも将来の出世を大いに期待されていたと思われます。
 しかし、放哉は、もともと、法律の勉強や官僚の仕事にはあまり興味がなかったようです。大学時代には「ホトトギス」や「国民新聞」の俳句欄にしきりに作品を投稿していたといいます。大学も追試験で卒業し、東大同級生の多くの者が権力の座を目指して官僚の道を選ぶのに対して、通信社を経て生命保険会社に就職します。
 そこでは、管理職としてそれなりに仕事をこなしていたようですが、会社組織の中で上手く立ち回れないのか、酒に溺れ人間関係の不都合から35歳のとき退職します。その後、職を得て朝鮮へと渡りますが、そこでも酒による奇行により不都合を生じ約1年で退社し、旧満州に移り肋膜を病んで入院治療の身となります。

 退院後、大正12年(1923)年秋に帰国しますが、すでに身体は酒と病でボロボロになり、普通の社会生活は困難になっていたのでしょう。放哉は妻と財産のすべてを捨て、京都にある修養団体の一燈園に身を寄せ、読経と托鉢、労働奉仕の日々に入ります。38歳のときです。
 その後、京都知恩院の常称院、兵庫県西須磨の須磨寺、福井県小浜町の常高寺と、堂守や寺男をしながら寺院を転々とし、再び京都に舞い戻ってその頃京都に居た荻原井泉水を頼ります。井泉水は一高の一級先輩で、俳句の上での師匠でもありました。
 井泉水は、かつて小豆島に来島したことがあり、そのときの縁で地元の「層雲」同人井上一二(いちじ)に放哉の世話を頼みます。こうして、土庄の西光寺の住職をしていた杉本宥玄の好意で南郷庵の庵主として入ることになったわけです。放哉は、やっと安住の地を得ることができたそのときの心境を、「これでもう外に動かないでも死なれる」と詠っています。「春の山のうしろから煙が出だした」が辞世の句となりました。放哉を慕う山頭火は、昭和3年、14年の2度にわたり、放哉の墓参りに小豆島を訪れています。

 一方、放哉が小豆島にやって来る半年前の大正14年(1925)2月、岩井栄という一人の若い女性が島を去っています。後に、「二十四の瞳」などを発表して一世を風靡する女流作家となった壺井栄です。
 壺井栄は、明治32年(1899)8月5日、醤油の樽職人である岩井藤吉、妻アサの五女として小豆郡坂手村(今の小豆島町坂手)に生まれます。幼少の頃、蔵元が倒産したことで家計が傾き、他家の子守や内職をしながら小学校へ通うなど苦労を重ねますが、大正2年(1913)14歳で内海高等小学校を卒業し、その後、村の郵便局、村役場に勤めます。この頃、同郷の壺井繁治(しげじ)、黒島傳治(でんじ)との交流から文学への強い関心を抱いていたようです。

 壺井繁治は、栄より2つ年上で、小豆郡苗羽村(現在の小豆島町苗羽)の出身です。栄とは遠縁にあたります。生家は村でも有数の農家であり、また網元でした。小学校を卒業すると、地元の内海実業補習学校(現小豆島高校の前身)に入学しましたが3年で退学し、大正2年に大阪の私立上宮中学2年に編入します。大正7年、上京して早稲田大学に学びますが、中退し、アナキスト詩人として左翼系の文学雑誌の出版などに携わっていました。
 黒島傳治は、壺井繁治より1つ年下、壺井栄より1つ年上で、繁治と同じ苗羽村の生まれです。貧しい半農半漁の家庭に生まれて網引きや醤油工場で働いていましたが、大正7年19歳のとき、文学を志して上京し、同郷の壺井繁治に出会い、その世話で、翌年、中学を経ないで進学できる早稲田大学選科に入学します。しかし、選科には徴兵猶予がなく12月学業半ばにして召集され、シベリアへ出兵し、そこで肺を患って大正11年(1922)内地へ送還されて除役となり、いったん療養のため小豆島に戻っていました。

 大正14年2月、栄は、26歳のとき、村役場を辞め、壺井繁治をたよって上京します。そして、結婚して世田谷・三宿の小さな貸家で新生活を始め、4月には世田谷・太子堂の二軒長屋に移ります。この年の初夏には、黒島傳治も再度上京し、壺井夫婦宅に一時寄宿しています。当時、小豆島では、文学をやる人間は国賊のようにいわれていたようです。栄と傳治が島を出たのは、ここに居ては好きな文学をやることができないという思いがあったのでしょう。
 栄が世田谷・太子堂に住んでいた頃、二軒長屋の隣には林芙美子、近所には平林たい子の夫婦が住んでおり、共に夫がアナキスト詩人だという親近感からか、互いに生活を助け合い、文学的な影響を受け合ったようです。
 しかし、栄の東京での生活も厳しいものでした。大正14年12月には、小豆島の母が亡くなり、妹2人と兄の子1人を引き取っています。また、昭和2年から9年頃にかけては、軍国化の流れの中で、夫の繁治が、左翼系の思想犯として数回検挙されて入出獄を繰り返していたため、事務員の仕事や筆耕の仕事をして生活を支えていました。
 故郷の小豆島も壺井夫婦には冷たかったようです。昭和3年、帰島中の夫が高松警察に拘留されて小豆島の実家から親戚宅まで家宅捜査を受けたときは、親類らから国賊と罵られたといいます。

 一方、黒島傳治は、大正15年に「二銭銅貨」・「豚群(とんぐん)」を「文芸戦線」に発表します。昭和2年の日本プロレタリア芸術連盟の分裂に際しては、労農芸術家連盟の創立に加わり、後には日本プロレタリア作家同盟(ナルプ)に参加して、ナルプ内の農民文学研究会の主要メンバーとして活躍します。そして、シベリアでの軍隊生活の体験から、この年、「雪のシベリア」・「橇(そり)」・「渦巻(うずま)ける烏(からす)の群(むれ)」・「国境」などの、すぐれた反戦作品を生み出します。しかし、昭和8年、35歳のとき、病気療養のため再び小豆島へ帰ります。

 昭和10年頃から栄は、童話、短篇小説を書き始めます。そのきっかけは、繁治が左翼系機関誌「戦旗」の発行責任者となり、その編集・経営を手伝ううちに、昭和7年頃から窪川稲子(後の佐多稲子)や宮本百合子と知り合い、親しく交わるうちに書くことを勧められたようです。
 栄は、昭和13年(1938)39歳のとき、処女作「大根の葉」を文芸に発表し、作家としてデビューします。そして、昭和15年41歳のときには、「暦」・「赤いステッキ」を発表し、翌年第4回新潮文芸賞を受けます。
 なお、小豆島に帰っていた黒島傳治は、10年近く闘病生活を過ごし、戦争たけなわの昭和18年10月17日、小豆島芦ノ浦の自宅で亡くなっています。享年45歳でした。

 戦後、栄の作家活動はさらに磨きがかかり、昭和22年(1947)48歳のときには「浜辺の四季」・「妻の座」を発表します。そして、昭和27年(1952)53歳のときに「二十四の瞳」を発表します。この作品は、昭和29年に木下惠介監督・高峰秀子主演で映画化され、一躍脚光を浴びます。なお、昭和27年に「坂道」、「母のない子と子のない母」で芸術選奨文部大臣賞を、昭和30年に「風」で第7回女流文学賞を受けます。
 栄は、300篇にのぼる作品を発表していますが、これらは、東京の生活の中から生まれたものもありますが、小豆島を描いたものも多いといわれています。苦しい東京での生活の中でも、故郷への思いは離れることはなかったようです。好きだった言葉は、「桃栗三年 柿八年 柚子の大馬鹿 十八年」といわれています。柚子(ゆず)と自分自身の遅咲きを重ね合わせていたようです。
 栄は昭和42年6月23日67歳のとき、繁治は昭和50年9月4日77歳のときに亡くなり、二人は東京の小平霊園で眠むっています。

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(146)“承久の乱で明暗を分けた讃岐藤家”

 
 武士の起源は、古代律令制国家が崩壊していった10世紀から12世紀にかけて、在庁官人、郡司、荘官ら地方に土着した者たちによって形成されていった武装集団だといわれています。彼らを国人ともいいますが、讃岐の代表的な国人は、讃岐氏、讃岐橘氏、讃岐藤原氏の3つの一族です。
 讃岐氏は、神櫛王(かんぐしおう)の子孫だといわれ、三木・寒川両郡で勢力を張り、その一族は寒川、高松、三木、神内、植田、池田、十河、三谷、由良、村尾らの諸氏に分かれていきました。
 讃岐橘氏は、藤原純友を捕らえた警固使橘遠保(たちばなとおやす)の子孫で、荘内半島を中心に勢力を張り、長尾、海崎(みさき)、真部らの諸氏に分かれていきました。
 讃岐藤原氏は、阿野・香川2郡を中心に勢力を張り、羽床、香西、大野、福家、西隆寺、新居、豊田、柞田、柴野、植松、三野、阿野、詫間らに分かれていき、その一族は讃岐藤家(ふじけ)六十三家と呼ばれました。
 これら、3つの一族のうち、讃岐で最も有力な武士団となったのが讃岐藤原氏です。その初代は、藤太夫章隆(とうのたいふあきたか)といい、父は、平安時代末期の保安元年(1120)に讃岐守となって京から下向してきた正二位中納言・藤原家成(いえなり)です。家成は、藤原北家中御門流の公家で、平清盛の義母である池禅尼の従兄弟にあたり、鳥羽上皇に仕えたといわれています。母は綾大領貞宣(あやのかみさだのぶ)の娘で、綾氏は日本武尊の息子である武殻王(たけかいこおう)の末孫といわれ、代々阿野(あや)郡の大領(だいりょう、郡司のこと)を務めていた豪族です。
 章隆は成人して父方の藤原氏を名乗って藤太夫(とうのたいふ)と称し、綾の大領となります。その息子が讃岐藤原氏二代目の資高(すけたか)で、資高は治承年間(1177~81年)に羽床(はゆか)の庄司(しょうじ)となり、下羽床に居を構えて菅原、滝宮、小野、北村、羽床下、羽床上、牛川、西分、東分の9か村を治めます。そして、地名をとってはじめて羽床氏を称します。この羽床氏が讃岐藤家六十三家の嫡流です。
 資高には息子が生まれ、次男の有高は香東郡大野郷を本拠とする大野氏の租となります。三男の重高は羽床氏を継ぎ、のちにそこから、豊田氏、柞田(くにた)氏、柴野氏などが分流していきます。四男の資光(すけみつ)は阿野郡新居(にい)郷を本拠とし、新居氏を称します。
 資高の息子たちの中でも新居資光は、源平合戦の際、讃岐の藤原・綾両家の一族一千人を率いて源氏につき、寿永2年(1183)の備中水島の合戦で活躍し、さらに京に上って院の警護に当たり、寿永4年(1185)の屋島の戦いでは、義経の陣に加わって戦功を挙げ、頼朝から感状を受けて綾郡を安堵されたといわれています。そして、のちに新居氏から香西氏、福家氏、西隆寺氏が分かれていきます。

 建久3年(1192)鎌倉幕府が成立すると、京都を中心に西国を統治する朝廷と、鎌倉を中心に東国を統治する幕府が並立し、幕府が朝廷を抑える状況になりました。これに対して、後鳥羽上皇は、幕府に対して強い不満を抱きます。後鳥羽上皇は後白河法皇の皇孫に当たり、祖父譲りの智謀家で、譲位した後も土御門(つちみかど)天皇・順徳(じゅんとく)天皇・仲恭(ちゅうきょう)天皇の御世に院政を執っていました。また諸芸に通じる「万能の人」としても知られていました。
 承久元年(1219)、3代将軍・源実朝が暗殺されると、幕府執権・北条義時は、実朝のあとの将軍に、後鳥羽上皇の皇子を迎えようとします。しかし、源氏の嫡流が断絶したこのときを好機と考え討幕の決意を固めていた後鳥羽上皇は、これを拒絶し、結局、頼朝の遠縁にあたる九条道家の子・頼経が将軍として迎えられることになります。
 幕府と朝廷の争いは、後鳥羽上皇が、寵愛していた伊賀局(白拍子亀菊)の所領である摂津国長江・倉橋荘の地頭の免職を北条義時に命じ、北条義時がこれを拒否したことを発端として表面化します。後鳥羽上皇は、地頭の免職要求が棄却されたことを根拠に、承久3年(1221)5月15日、北条義時追討の院宣(いんぜん)を発し、ついに挙兵します。これが承久(じょうきゅう)の乱です。
 このとき、讃岐藤原氏の一族は、嫡流の羽床氏とその系統の柞田氏らが後鳥羽上皇の院宣に呼応して朝廷方につき、傍流の新居資村(すけむら)らが幕府側につきます。資村は新居資光の息子にあたります(ただし、弟、甥という説もあります)。

 この戦いに際し、幕府は、二代執権・北条義時を中心に結束を固め、義時は子の泰時を大将に、弟の時房を副将として軍勢を東海道から京都に向かわせ、東山道や北陸道からも攻めさせました。その軍勢は19万といわれています。そして、1ヶ月たらずのうちに京都を占領しました。
 乱後、幕府は朝廷方を厳しく処分しました。朝廷軍に加わった後藤基清・佐々木経高・三浦胤義・河野通信・大江親広らは厳罰に処せられ、また後鳥羽上皇は隠岐国、順徳上皇は佐渡国、土御門上皇は土佐国へとそれぞれ流され、仲恭天皇は廃位させられて後堀河天皇が践祚します。
 土御門上皇は、土佐に流される途中、讃岐白峯にある崇徳天皇御陵の近くを通り、その際に崇徳天皇の霊を慰めるために琵琶を弾いたところ、夢に崇徳天皇が現われて土御門上皇と都に残してきた家族を守ることを約束したという逸話が残されています。土御門上皇はのち阿波に移り、そこで崩御されました。

 幕府は、承久の乱の勝利で、上皇方の公卿や武士の所領を没収して新補地頭(しんぽじとう)を配し、さらに朝廷監視のために京に六波羅探題を置いて西国における幕府権力を強化します。
 讃岐では、鎌倉幕府のために戦った新居資村が、その功によって香川12郷・阿野4郷を支配することとなり、勝賀山東山麓の佐料に居館、その山上に詰めに城を築きます。そして、氏を香西氏に改めて左近将監に補任され、讃岐藤家六十三家の棟梁の座につきます。以後、香西氏は海陸ににらみをきかせながら勢力を伸長させていきます。一方、朝廷方についた羽床・柞田氏らは、それぞれの所領を没収され、以後羽床氏は香西氏の下に入ります。

 その後、鎌倉幕府滅亡後の南北朝動乱期にも、香西氏と羽床氏は、同族であるのもかかわらず、袂を分かっています。香西氏は、承久の乱のときと同様に武家方の北朝につきます。一方、羽床氏は、鎌倉時代末期、政成が楠木正成の千早城攻めに一番乗りの功を挙げますが、その後、政成の子の政長(まさなが)は、一族みな北朝に属した中で、ひとり羽床七人衆を率いて宮方の南朝につきます。勇名を馳せた羽床七人衆とは、秋山三郎、有岡牡丹、大林丹後、後藤是兵衛、造田佐渡、羽床源内、脇絲目です。
 北朝方についた香西氏は、南北朝時代以降、讃岐を支配した細川京兆家の重臣となり、細川四天王の一人として京へも進出するなど大いに栄えます。しかし、南朝方についた羽床氏は香西氏の陣代として勢力を保つこととなります。

 戦国時代末期の天正時代(1573~1593)、土佐の長宗我部元親の侵攻が始まると、香西氏、羽床氏ともその軍に下ります。その後、香西氏は秀吉の四国征伐により絶え、羽床氏も秀吉の家臣・仙石秀久に従って出陣した九州征伐における戸次川の合戦で絶えます。これにより、平安時代末期から鎌倉・室町時代を通じて讃岐の有力国人であった讃岐藤家(ふじけ)はその長い歴史に幕を閉じました。

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(145)“神様になった一揆のリーダー”

 世のため人のために一身を捨てて尽くした人のことを義民(ぎみん)といいますが、江戸時代、百姓のために命をかけて年貢の引下げなどを直訴した義民の物語が、今でも全国各地に残されています。
 中でも、芝居や歌舞伎の演目として今も親しまれている「佐倉義民伝」はよく知られているところです。主人公の佐倉惣五郎(さくらそうごろう)は、江戸時代前期、4代将軍徳川家綱のときに活躍した下総国印旛郡公津村(現在の千葉県成田市)の名主です。惣五郎は、天災・飢饉の続く中、佐倉藩の重税に耐えかねた農民を代表して藩の役人や江戸の役所に困窮と年貢の軽減を訴え、ついには将軍が上野寛永寺へ参詣する際直訴に及びます。その結果年貢は軽減されましたが、惣五郎夫妻は磔刑、子供たちも死罪に処されました。この物語は、幕末の嘉永年間(1850年代)に、「東山桜荘子」(ひがしやまさくらのそうし)として歌舞伎で演じられて大ヒットし、以後、講談・浪花節などでも積極的に取りあげられています。

 讃岐にも、江戸時代の義民伝が今でも各地に残されています。
 江戸時代前期、3代将軍徳川家光のとき、高松藩には小村田之助(おもれたのすけ)という義民がいたという話が残っています。
 田之助は寛永元年(1624)、山田郡小村(おもれ)(現在の高松市小村町)の庄屋の家に生まれ、寛永19年、19才のときに父親から庄屋職を継ぎます。この年は、松平頼重が高松藩初代藩主として入府した年ですが、藩内の農民はうち続く飢饉で困窮し、餓死者が出るありさまでした。これを見かねた田之助は、年貢の年2回分納を、もし完納できないときは私財をもって代納するという確約で藩に嘆願しました。そして、田之助の意見は採用され、分納が認められることになります。
 しかし、悪例を残すという藩内一部の強い意見から、山田郡夷(えびす)村(現在の高松市木太町夷)の刑場で、田之助は打首とされました。このとき、藩主松平頼重は罪一等を減じようと馬で急使を走らせ、間に合わないとみた急使が馬上から白旗を振って処刑の中止を知らせようとしましたが、刑場役人は「早くしろ」の合図と思い、処刑してしまったという話が伝えられています。寛永21年(1644)、田之助21歳のときです。その後、地元民たちは、白旗を振ったと伝えられる所に小社を建て田之助を祀りました。

 また、小豆島には、6代将軍徳川家宣のときに、平井兵左衛門(ひょうざえもん)という義民がいた話が残っています。延宝5年(1677)から同7年にかけて実施された検地により、小豆島では年貢が倍増となり、百姓は窮乏しました。そこで池田浜の庄屋をしていた平井兵左衛門は、正徳元年(1711)、江戸へ出て幕府勘定奉行に訴え、年貢を下げてくれるよう願い出ました。
 しかし、当時の小豆島は天領(幕府の領地)でしたが、高松藩預かりとなっていたことから、その行為は、高松藩を無視した越訴(おっそ)の罪にあたるとされ、兵左衛門は捕らえられて、江戸から高松、そして小豆島に連れ戻され、正徳2年3月11日、村内引き回しのうえ江尻浜で打首・獄門の刑に処せられました。兵左衛門36歳のときです。
 その後、地元民たちは、小豆島町池田の亀山八幡宮のお旅所の馬場に祠を建て、兵左衛門の霊を「平称霊神」として祀りました。また、兵左衛門の物語は芝居にされ、「金ヶ崎湊荒浪」(かねがさきみなとのあらなみ)という小豆島農村歌舞伎の演目の一つとして今も演じられています。

 西讃地方では、江戸時代中期、9代将軍徳川家重のとき、讃岐最大の百姓一揆が丸亀・多度津両藩で勃発しています。この一揆のリーダーだった7人の義民は神として神社に祀られ、その物語は今でも地元で語り伝えられています。
 寛延年間(1748~1750)の初め、数年来の風水害で、丸亀・多度津藩領の那珂(なか)・多度・三野・豊田四郡の百姓たちの生活は困窮を極めていました。それに加え、蔵役人や庄屋たちの横暴、不法、祖税の増加などにより、「如何に穏順なる四郡の民も忍ぶに忍びがたく」という状態になっていました。そこで、百姓たちは、徳政を求める親書を上申しますが、庄屋たちにより途中で握りつぶされ、城内まで届きませんでした。追いつめられた農民たちは、「一揆しかあるめえ」とついに決起へとはしります。
 一揆を計画指導したのは、丸亀藩5人と多度津藩2人の7人の百姓でした。彼らは、三野郡笠岡村(現三豊市豊中町)にある宇賀神社の山門楼上に集まり密議を行ったといわれています。丸亀藩の5人は、笠岡村の大西権兵衛・弥一郎(やいちろう)・嘉兵衛の3人と、三野郡大野村(現三豊市山本町)の兵治郎、それに那珂郡帆ノ山村(現まんのう町仲南)の小山金右衛門です。多度津藩の2人は、多度郡碑殿(ひどの)村(現善通寺市)の甚右衛門と、多度郡三井村(現多度津町)の金右衛門です。彼ら7人の中でも、大西権兵衛がリーダー格でした。
 寛延3年(1750)年1月14日、多度郡百姓の仲介で、三野郡百姓から豊田郡百姓あてに、20日に金倉川河原へ結集するよう呼びかけた廻状が送られます。これに応じて19日夜から、三野・豊田郡の百姓たちが本山寺付近に集まり始め、20日には財田川の本山河原に4万人が集まり、庄屋の居宅が打ち壊されます。
 民衆の力に驚いた丸亀藩は、21日、三野・豊田郡の百姓に対して、願いの筋を申し出よと伝えます。22日、筵旗(むしろばた)を掲げた三野・豊田勢は鳥坂峠を越えて、那珂・多度郡勢と善通寺で合流します。このときの一揆の総勢は6万人余に達したといわれています。
 23日、四郡一揆勢の代表と藩側との会合が善通寺客殿でもたれ、一揆勢から13か条の歎願が示されます。その要旨は、年貢の未納米1000石余りの年賦弁済、夫食米の給付、年貢米斗升掻(とますがき)不正の停止、相場並の銀納値数、出費の多い役人の出張回数軽減などでした。
 この要求に対して藩当局は、直ちに「内10か条の重要項目の要求を認め、3か条については追って沙汰すべし」と回答し、ほぼ百姓たちの嘆願を認めます。これにより、一揆勢は結集を解いて帰村していき、この騒動はこれで落着するように思われました。
 ところが、善通寺での会合があった23日の直前の20日に、全国各地で頻発する百姓一揆に危機感を強めていた幕府から、百姓の強訴・徒党の禁令が出されていました。23日の時点では、この幕府の禁令が丸亀・多度津両藩に届いていなかったのです。禁令を知った両藩は、態度を一変させ、23日付の聞き届けを反故にしてしまい、そのうえ、一揆関係者を探索して捕らえていきました。
 この年の7月28日、大西権兵衛ほか7名は、一揆の主謀者として、金倉川河畔において磔あるいは打首・獄門の刑に処せられました。処罰は権兵衛の3人の子にも及び、9歳の未子まで全員が打首にされたといいます。権兵衛は、処刑に際して、
        「この世をば沫(あわ)と見て来し我が心 民に代わりて今日ぞ嬉しき」
という辞世の句を残しています。
 その後、権兵衛はじめとする7人の義民は、七人童子、七人同士あるいは七義士(しちぎし)と呼ばれて、地元の人たちによって密かに弔われてきました。明治に入ると、その遺徳を公に顕彰しようという動きが活発になり、7人の義民が処刑されてから約150年後の明治36年(1903)、権兵衛ゆかりの笠田村に神社が建てられ、7人の義民は神として祀られました。

 江戸時代後期、11代将軍徳川家斉のときの文政11年(1828)12月、高松藩領香川郡の百姓が一揆を起こし、弦打村(現高松市鶴市町)の甚兵衛が罪を一身に背負って香東川原で磔の刑に処せられたといわれています。この物語は、菊池寛により「義民甚兵衛」として短編戯曲化されています。

 義民ではありませんが、幕末の多度津藩には、南林(なんりん)という義賊がいたという話が残っています。南林は現在の観音寺市大野原の生まれで、義侠心があり、資産家の財貨を掠奪して貧民に施したといいます。元治2年(1865)12月20日多度津藩の刑場、東白方崖下土壇で、
        「南林のとりたる金は幾万両 身につく金は今日の一太刀」
という辞世の歌を残して処刑されました。

 明治に入っても、西讃では、大規模な農民騒動が起きています。寛延の百姓一揆から123年後の明治6年(1873)6月26日の夕方、三野郡下高野村(現三豊市豊中町)において、髪の毛が伸び放題で挙動不審の女性が現れ、幼児を奪って逃げようとする事件が起きました。
 この事件は、「子ぅ取り婆あ」が現れたという流言となって、たちまち近隣の村々に広がりました。折りしも、この頃、民衆は、国が兵役を「血税」と称していることを誤解し、徴兵検査により国から血を採られると思い込み、不安感を抱いていました。
 民衆の不安感に、「子ぅ取り婆あ」の流言が火をつけ、数千人規模に膨らんだ群集が、竹槍を掲げ、税の軽減や徴兵の反対などを要求して、西讃地方の村々へ次々と進撃し、官と名のつくものを攻撃していきました。侵寇(しんこう)された村は約130ヵ村、打ち壊し・焼き討ちされた箇所は役場、役人宅、小学校など約600ヵ所に及びました。6月29日、小野峯峠(綾川町綾上)における群集と軍隊との決戦でこの騒動はようやく沈静化します。これを西讃血税一揆あるいは竹槍騒動といいます。
 この騒動の参加者は、総数約4万人を越え、うち3万人は三野・豊田郡の者だったといわれています。処罰された者は約1万6千人に及び、大半が三野・豊田郡の者でした。7人が金倉川原で打首されました。

 讃岐人は、温暖な気候風土にあることから、温厚で従順だとよくいわれています。しかし、西讃地方では、江戸中期と明治初期にかなり大規模で激しい一揆、暴動が起きており、これが三豊地方(三野郡と豊田郡を合わせた地域で、現在の三豊市と観音寺市)の人たちの気風に大きな影響を及ぼしているように思われます。                                                                                                   (完)

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(144)“大坂石山本願寺に兵糧を送った讃岐の寺”

 現在の大阪城は昭和6年に復元されたものですが、この城は周知のとおり、天正11年(1583)に豊臣秀吉によって築造が開始されたものです。その前、この地には、かつて石山本願寺という浄土真宗の寺とその寺内町がありました。浄土真宗は、鎌倉時代初期、法然の弟子の親鸞がその教え(浄土宗)を継承発展させて開いた宗派で、人はすべて阿弥陀仏の本願にすがれば極楽往生ができると説き、念仏を唱えるだけでよいという気安さから百姓たちを中心に普及していきました。
 室町時代の後期には、8世・蓮如(れんにょ)が現れ、人々が平等に教えを聴き団結できる「講」と呼ばれる組織を築き、親鸞の教えを平易に説いたことから、急速に発展・拡大して一向宗と呼ばれるようになります。さらに、この講のよる信者の団結力は、国人・土豪が加わることによって政治権力化し、一向一揆という武装蜂起につながっていきます。長享2年(1488)から約100年間続いた加賀の一向一揆はよく知られているところです。
 讃岐における最初の浄土真宗寺院は、暦応4年(1341)に創建された法蔵院で、浄土真宗の讃岐への伝搬は禅宗や法華宗に比べて遅かったといわれています。これは、讃岐は空海の生誕地ということもあり、早くから真言宗が盛んだったためのようです。戦国時代の永正年間(1504~1520)以降、讃岐では一向寺院が増えはじめ、特に天文年間(1531~55)に目立って増加します。宇多津の西光寺も、天文年間に、向専(こうせん)が本願寺10世の証如(しょうにょ)に帰依して浄土宗から浄土真宗に改めています。

 石山本願寺の起源は、明応5年(1496)、蓮如が山科本願寺の別院として大坂御坊を建立し、自らの隠居房としたことに始まります。「石山」というのは、寺のあった小高い丘の名称です。また、今は「大阪」と表記しますが、もともとは、台地にそった坂という意味から「小坂」、後に「大坂」と呼ばれました。
 天文元年(1532)、山科本願寺が戦国の争乱に巻き込まれて焼き討ちに遭ったため、10世・証如は、大坂御坊に逃れてそこを本願寺とします。この地は、淀川と旧大和川が合流するところで、その付近に渡辺津(わたなべのつ)が形成され、淀川水系や瀬戸内海の水運の拠点でした。また、住吉や堺、紀州に向かう陸上交通の起点でもありました。本願寺が置かれると次第に商工民などが集まり、寺内町を形成して自治を行い、また寺の周囲に堀・塀・土塁などを設けて武装を固め、戦国時代末期には城郭に匹敵する要塞と化していました。
 永禄11年(1568)9月、足利義昭を奉じて上洛した信長は、三好長慶亡き後京を支配していた三好三人衆らを駆逐すると、石山本願寺に対して、矢銭5000貫を請求し、さらに石山からの立ち退きを要求します。矢銭とは軍事後援金のことで、5000貫は米1万石に相当しました。これに対して、このとき本願寺11世の顕如(けんにょ)は矢銭の請求のみを受け入れ、他については拒否します。
 この頃の讃岐は、永禄元年(1558)に阿波の三好義賢(よしかた、のちに実休と号した。)が天霧城の香川之景を攻略して以来、阿波三好家の支配下にあり、讃岐の十河存保(まさやす)が東、阿波の篠原長房が西にそれぞれ勢力を張っていました。十河存保は三好義賢の実子で、永禄4年(1561)、叔父の十河一存(かずまさ)の死去により、十河氏を継いでいました。十河氏は、現在の高松市十川東町にあった十河城を拠点とする讃岐武士ですが、義賢の実弟の一存(かずまさ)が阿波三好家から養子に入り、阿波三好勢力の讃岐における橋頭堡となっていました。十河一存は鬼十河とその勇猛さを称えられた武将です。篠原長房は阿波三好家の重臣で、永禄5年(1562)の三好義賢の死去によりその後を継いだ長治(ながはる)の補佐をしていました。

 元亀元年(1570)6月、織田信長は、姉川の戦いで浅井・朝倉氏を破り、北近江を支配するとともに、岐阜から京都への通路を完全に確保します。しかし、7月、京から阿波へ追われていた三好三人衆が、信長に反撃するため摂津に上陸して陣を敷きます。このとき十河存保は三好勢として堺に布陣し、香川・安富・奈良・香西・寒川らの讃岐武士も阿波の篠原長房に率いられて出陣しています。こうした中、9月、顕如は三好勢を攻略するために摂津福島に陣を敷いていた織田軍を突如攻撃します。これが、天正8年(1580)までの11年間に及ぶ石山戦争の始まりでした。そして、顕如は「信長は本願寺を取り潰す仏敵である」として各地の本願寺門徒に檄を飛ばし、讃岐にも「讃岐坊主衆・門徒中」宛てに「門下の輩寸志励むにおいては仏法興隆たるべく候」と奮起を促しています。
 元亀3年(1572)3月、織田信長と石山本願寺との間で一応の和議が結ばれますが、翌年の天正元年(1573)4月、本願寺は再び蜂起します。これに呼応して讃岐の一向宗寺院も活発な動きをみせ、宇多津の西光寺は、石山本願寺へ、青銅700貫・米50石・大麦小麦10石2斗の軍資金と兵糧を送っています。この頃、西光寺は織田信長に対抗する一向宗門徒勢力の讃岐における中心で、住職・向専とその子の専念は石山本願寺に味方していました。西光寺は城郭造りで、土塀には今も“狭間”(さま)という弓、鉄砲を射掛ける三角形の銃口が見られます。
 天正元年(1573)11月には、三好長慶のあとの三好宗家を継いだ義継が織田軍に攻められて滅びます。また、その翌年には、上洛途上の武田信玄が没し、信長が15代将軍足利義昭を京から追放して室町幕府が事実上崩壊します。
 この年の7月、阿波で、篠原長房が讒言を受けて主家の三好長治に誅殺されると、香西・香川・寒川らの讃岐国人は阿波三好氏から離反し、独自の道を歩み始めます。これに対して、長治は、香西、香川、寒川氏を討とうとさかんに讃岐出兵を行います。しかし、天正3年(1575)に土佐の長宗我部元親の阿波侵攻が始まり、讃岐における三好の勢力も衰退していきます。ちなみに、この年の5月には、織田信長が長篠の戦いで武田勝頼を破っています。

 天正4年(1576)5月、四天王寺で戦いに敗れた石山本願寺は、織田軍による経済封鎖によって兵糧の調達が困難を極め、安芸の毛利輝元に援助を要請します。これを受けた輝元は兵糧搬入のため700~800艘からなる水軍を大坂へ送り込み、7月13日、毛利水軍・村上水軍を中心とする瀬戸内の水軍戦力と、これを阻止しようとする織田方の水軍戦力が大阪湾の木津川の河口で激突します。これを第一次木津川口の戦いといいます。この戦闘では毛利水軍・村上水軍の使用する焙烙玉(ほうろくだま)、雑賀集の使用する焙烙火矢(ほうろくひや)の前に織田方の水軍は壊滅的な打撃を受け、毛利方は石山本願寺に兵糧を運び入れることに成功します。
 讃岐でも、この年の8月、石山本願寺から、宇多津の西光寺や香川郡安原村安養寺などに対して救援の依頼が届きます。しかし、この頃、すでに讃岐の有力国人・香川之景と香西佳清は織田信長に臣従し、之景は名を信景と改め、三好存保も信長に降伏していました。また、翌年の天正5年(1577)3月、信長は、塩飽船に朱印状を出して堺の港を出入りする航行の自由を保証することにより、塩飽をその支配下に組み込み、東瀬戸内海の制海権を掌握しました。このため、讃岐国内寺院から石山本願寺への輸送路が絶たれました。
 なお、この年の7月には、安芸の毛利氏が讃岐の元吉城に入り、讃岐惣国衆の長尾・羽床衆らと合戦に及んでいます。これを元吉合戦といいますが、一説では、本願寺支援のための制海権奪回のための侵攻だったと考えられています。その場所についは、琴平町と善通寺市にまたがる櫛梨山であるとするものなど諸説があります。

 第一次木津川口の戦いに敗れた織田信長は、毛利水軍・村上水軍の使用する焙烙玉や雑賀集の使用する焙烙火矢に対抗するため、九鬼嘉隆(くきよしたか)に命じて大筒・大鉄砲を装備し焙烙が効かない鉄甲船6隻を造らせます。天正6年(1578)6月、九鬼嘉隆が指揮する織田水軍は、石山本願寺支援のため大阪湾に入った毛利水軍・村上水軍と木津川口で海戦となります。これが第二次木津川口の戦いです。この海戦では、織田軍の鉄甲船が毛利水軍・村上水軍を撃破して大阪湾の制海権を握り、本願寺を孤立させます。
 讃岐では、この年の夏、土佐の長宗我部元親の侵攻が始まり、藤目城・財田城が落ちています。翌年の天正7年(1579)には、天霧城の香川信景が長宗我部元親に下ります。
 第二次木津川口の戦いにより、石山本願寺に対する勝利を確信した織田信長は、朝廷に働きかけて石山本願寺との講和を策します。顕如も食料の欠乏に加え、反信長包囲網が事実上壊滅したこともあって、朝廷の斡旋により和議を受け入れます。こうして天正8年(1580)4月9日、ついに顕如は石山本願寺を退去して紀州の雑賀に落ちていき、石山合戦はここに終結します。
 しかし、顕如の長男である教如(きょうにょ)は石山本願寺から退去せず、父の顕如が説得しても効果がありませんでした。このため、顕如は教如を勘当して教如の弟の准如(じゅんにょ)を嫡子と定めます。これが後の東と西の両本願寺分立のきっかけとなります。

 石山合戦に勝利したものの、織田信長は、天正10年(1582)6月2日、本能寺の変により自害に追い込まれます。その後、羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)が天下を掌握する間に、長宗我部元親は四国制圧を進め、天正13年(1585)春に四国統一を果たします。しかし、その年の6月、秀吉は四国侵攻を開始し、元親は秀吉に下り土佐一国に押し込められます。

 天正19年(1591)、顕如は、秀吉から京都七条堀川に土地を与えられ、本願寺を再興します。しかし、慶長7年(1602)、顕如の長男である教如が、家康から本願寺のすぐ東の七条烏丸に土地を与えられ東本願寺を構えます。これは、石山退去時の見解の相違等をめぐる教団内部の対立に、徳川家康が乗じたものだといわれています。
 以後、本願寺は、顕如の三男准如を12世宗主とする西(現在の浄土真宗本願寺派、真宗興正派など)と、長男教如を12世宗主とする東(現在の真宗大谷派など)とに分裂し、現在に至っています。

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(143)“バブル経済真っ只中のときに開通した瀬戸大橋”

 昭和63年(1988)4月10日、瀬戸大橋が開通しました。同時に高松~岡山間にJR瀬戸大橋線も開通しました。昭和53年(1978)10月10日に起工され、着工から9年6ヶ月を経ていました。本州四国連絡橋3ルートの中で最も早い開通でした。
 瀬戸内海に大橋を架けようという構想が提起されたのは、明治22年(1889)に香川県会議員の大久保之丞(じんのじょう)が四国新道の起工式における祝辞の中で「塩飽(しあく)諸島ヲ橋台トシテ架橋連絡セシメバ・・・」と発言したことが最初だといわれており、瀬戸大橋が開通した年は、それからちょうど99年目のことでした。また、現在の香川県は明治21年(1888)12月3日付で全国において最後に設置された県であり、それからちょうど100年目のことでした。さらに、昭和天皇は1989年1月7日に崩御されており、昭和の終焉を迎える年でもありました。

 瀬戸大橋が開通するまでは、香川と本州間を自動車で行き来する場合、フェリーを利用する必要がありましたが、大橋の開通によって待ち時間なくいつでも本州間を行き来することができるようになりました。また、新幹線は昭和47年(1972)3月15日に新大阪駅~岡山駅間が開業していましたが、大橋開通前は、高松から新幹線に乗ろうとすると、高松港から宇野港までの宇高連絡船に約1時間乗り、そこで乗り換えて岡山までの在来線(宇野線)にまた約1時間乗る必要がありました。ところが、大橋が開通してからは、高松~岡山間を約50分間の直通列車で行くことができることとなりました。JRで高松から坂出へ行く場合、橋の開通前は“下り”でしたが、開通後は“上がり”になったということは、香川の人に大橋の開通による変化を印象づけました。
 瀬戸大橋の架橋工事と並行して四国内における高速道路の整備も進められ、大橋開通前年の昭和62年(1987)12月16日には、香川県にとって初めての高速道路である四国横断自動車道・善通寺IC~川之江JCT間が開通しています。そして、4年後の平成4年(1992)1月30日には川之江JCTで高知自動車道と接続し、さらにその年の4月19日には高松西IC~善通寺IC及び坂出支線坂出JCT~坂出IC開通により、坂出ICで瀬戸中央自動車道と接続します。一方、香川県では新空港の整備も進められ、瀬戸大橋開通翌年の平成元年(1989)12月16日には、新高松空港が開港します。従前の高松空港は滑走路が短いためジェット機が就航できませんでしたが、新空港は2,500mの滑走路を持ち、大型ジェット機の就航が可能となりました。これら一連の交通インフラの整備は、香川県にとってまさに交通革命ともいえる出来事でした。

 瀬戸大橋の開通によりすぐに影響が出たのは観光の分野でした。本州から香川へやって来る観光客は大きく増え、県外観光客は、開通前の昭和62年(1987)が約490万人であるのに対して、開通後の昭和63年には約1035万人と約2倍以上となりました。香川の代表的な観光地である琴平・栗林公園・屋島の付近は県外ナンバーの自動車で溢れ、飲食店や土産物店などは大繁盛します。しかし、一方では、県外観光客に素うどんを千円で売りつけるというような“ぼったくり”も生じました。
 きしくも、瀬戸大橋開通に始まる香川の交通革命は、日本経済がバブルに踊っていた頃の真っ只中に起きた出来事でした。
 1980年代後半から1990年代初頭にかけて、日本は、いわゆるバブル経済に陥り、特に地価と株価が異常に高騰しました。瀬戸大橋が開通した昭和63年(1988)には、日経株価が初の3万円台を突破し、いよいよバブルが大きく膨らみ始めるときでした。

 このバブル経済は、昭和60年(1985)9月のプラザ合意による急激な円高と、一方で内需拡大を図るために打ち出された金融緩和が原因だといわれています。低金利による過剰流動性すなわち「金あまり」の現象が生じ、それが投機的な株式や不動産の投資をもたらし、日本経済にバブルを生じさせたのです。そのバブルの象徴的な政策がいわゆるリゾート法でした。この法律は、内需拡大政策の一環として昭和62年(1987)に制定され、日本全国が競うようにリゾート開発に向けて突き進んでいきました。また、だぶついた資金をもとに「ジャパンマネー」と呼ばれる日本投機家による外国資産買いも始まっていきました。平成元年(1989)の三菱地所によるニューヨークのロックフェラー・センター購入は、当時の日本企業による国外不動産買い漁りの象徴でした。昭和62年(1987)11月に発足した竹下登内閣が、ふるさと創生事業として、全国の市町村に対し一律1億円を交付するという今では考えられないようなバラマキ施策が行ったのもこのときのことです。
 平成元年(1989)12月29日の大納会、日経平均株価は38,915円とついに史上最高の値に至ります。昭和61年(1986)1月1日に比べ3倍でした。また、土地の価格は、地価調査の全用途平均対前年平均変動率によると、昭和61年(1986)では全国2.7%(香川県1.6%)でしたが、最も高い変動率を示した平成2年(1990)では全国13.7%(香川県8.5%)と高騰します。
 しかし、平成2年(1990)4月から、大蔵省が不動産向け融資に上限を加える総量規制を実施すると、バブル経済は急激に崩壊へと向かっていきます。この年の10月1日、日経平均株価は2万円台を割り込み、わずか9ヶ月あまりの間に半値近い水準にまで暴落します。また、地価は、株価の暴落に遅れ、翌平成3年(1991)には下落しはじめて、バブル経済は崩壊へと向かっていきました。
 なお、香川県内では、平成3年(1991)4月20日に、全国的なテーマパークブームに乗り、レオマワールドが開園しています。ちなみに「レオマ」という呼称は、当時の社長の名前から「レジャーは、大西に、任せろ」に由来するといわれています。

 一方、世界に目を向けると、瀬戸大橋が開通した年は、9月17日にソウルオリンピックが開かれていますが、東欧革命、東西ドイツ統一、ソ連解体と続く戦後の冷戦構造が崩壊していく端緒になった年でした。
 昭和63年(1988)3月、ユーゴスラヴィアを訪問した当時のソビエト連邦共産党書記長・ゴルバチョフは、他の社会主義諸国に対するソ連の指導性を否定した「新ベオグラード宣言」を発表します。さらに5月にはアフガニスタンからの撤退を開始します。
 翌年の平成元年(1989)8月にハンガリーで行われた汎ヨーロッパ・ピクニックでは1000人程の東ドイツ市民が一斉に国境を越えてオーストリアへ亡命し、これを契機に11月9日夕刻、ベルリンの壁が崩壊します。その後、12月のルーマニアのチャウシェスク体制の崩壊に至るまで、東欧の共産国家は次々と民主化されていき、平成2年(1990)10月3日には東西ドイツが統一されます。そして、平成3年(1991)12月25日、ソビエト連邦が解体されて消滅し、ついに東西冷戦構造が完全に崩壊しました。

 バブル経済が崩壊したわが国では、不況に陥り、その後「失われた10年」と呼ばれる長期の停滞に苦しみます。香川県でも、平成12年(2000)8月31日にレオマワールドが閉園し、平成18年(2006)には県外観光客が約799万人まで減少しました。
 瀬戸大橋が開通した時期は、わが国だけでなく世界においても、大きな時代の変わり目のときだといえるでしょう。

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雑記① 組織と忠誠心

8月20日~9月7日連載

☆現状認識を欠いた旧日本軍の作戦計画
 旧日本軍の戦いについて、組織論の視点から分析した本を読んだことがあります。それによると、その戦いは、現状認識を欠いた「かくあるべき」という作戦計画に基づいて敢行されたということです。たとえば、武器の不足については「勇猛果敢な精神力で補う」とか、食料などの補給物資の不足については「現地で調達する」といった具合です。作戦計画書は、陸軍大学卒の超エリートが書いたものですから、美辞麗句がいたるところにちりばめられ、作文としては非常によくできていたそうです。
 しかし、実際の戦いの場面になると、その作戦計画書は全く役に立たなかったそうです。なぜなら、それは、現実を見ずに、ただ机の上で観念的に書かれたものだったからです。多くの日本軍の兵士が、戦闘行為よりも、飢えや病気で亡くなってしまったのは、このような現状認識を欠いた作戦計画書に基づいて行われたためだといいます。
 一方、米軍の作戦計画は、日本軍のそれとは対照的に、兵器・弾薬・食料などすべてにわたって、プラグマティズム発祥の国らしく、具体的で綿密な計画が立てられていたといいます。
 旧日本軍の超エリートたちが、勇猛果敢で名文ではあるけれども現状認識を欠いた机上の空論のような作戦計画を書いたのは、そういう作戦計画を書かないと軍の上層部に認められず、出世できなかったからです。この作戦を実行するには武器が不足しているとか、物資の補給経路に難点があるとか、現状認識に基づいた問題点提起型の作戦計画を書くと、細かい理屈ばかりを言うヤル気のない奴だとみなされ、左遷されてしまうからです。
 しかし、旧日本軍は、初めから事実を事実として客観的に認識する者を排除するような組織ではなかったようです。旧日本軍は、明治維新の薩摩・長州が中心勢力となって組織した官軍が母体となり、それが近代的な国軍として発展していったものです。したがって、旧日本軍第1世代のリーダーには、若い頃、幕末の動乱期を経験した人たちが多くいました。たとえば、日露戦争においてロシアバルチック艦隊を破った東郷平八郎は、薩摩藩士の出で、若い頃、薩英戦争や戊辰戦争に従軍して戦っています。同じく日露戦争で活躍した児玉源太郎は、長州藩の支藩の出で、西南の役に従軍しています。
 彼らは、若い頃、実戦を経験していたこともあり、その思考方法は、現状を的確に把握し、それをもとに合理的な判断を下そうというものだったといわれています。事実を直視せず精神論を優先させるような思考方法ではなかったということです。
 なぜ、その後、日本軍は事実を事実として客観的に認識する者を排除し、荒唐無稽な精神論に基づく作戦計画を採用するようになってしまったのでしょうか。

☆個人的忠誠心を優先した旧日本軍
 旧日本軍では、能力的に最も優秀な者はそこそこの地位までは上がるものの、トップにはなれず、能力的には2番手、3番手の者がトップの座に就いていったといわれています。
 この理由については、次のような仮説を立てることができるのではないでしょうか。
 人を評価する場合、評価者は、被評価者の「能力」と「忠誠度」の2要素で見ているものとします。
 「能力」とは、知識・企画力・人格・指導力・実行力などのその人のその人の総合力です。
 「忠誠度」とは、評価者である上司に対する個人的な忠誠心です。組織に対する忠誠心とは別ものです。組織に対する忠誠度は「能力」の一部に属します。
 この2要素で人を分類すると、次の4通りの組み合わせが考えられます。
  A・・能力も忠誠度も高い者
  B・・能力はまあまあだが忠誠度が高い者
  C・・能力は高いが忠誠度はさほどでない者
  D・・能力はまあまあで忠誠度もさほどない者
 これを、「能力」の要素を中心に人を評価すると、A>C>B>D という順番になります。しかし、「忠誠度」の要素を中心に人を評価すると、A>B>C>D という順番になります。
 能力も忠誠度も高い者というのは、ロボットのような人間であり、現実にはあまり存在しないと考えられます。したがって、実際には、C>B>D と B>C>D が考えられるのではないかと思われます。
 以上のことから、旧日本軍において、能力的に2番手、3番手の者がトップの座に就いていった原因は、「能力」よりも評価者である「上司に対する個人的な忠誠心」が重視されたためではないかと考えられます。

☆忠誠心の意味
 ここで、話が混線してはいけないので、「忠誠心」について少し詳しく述べます。筆者は、「忠誠心」には「組織に対する忠誠心」と「上司に対する個人的な忠誠心」があると考えています。個人商店のような零細企業などにおいては、この2つの忠誠心は未分化の場合が多いと思われます。オーナー経営者イコール組織そのものでしょう。しかし、この2つは本来別個のもので、通常は同一方向に向かいますが、矛盾対立するときがあります。
 両者が矛盾対立する最も典型的な場面は、上司が違法・不正な行為を部下に命令した場合です。「組織に対する忠誠心」を優先すれば、上司の命令に従うべきではありません。これに対し、「上司に対する個人的な忠誠心」を優先すれば、上司の命令が違法・不正なものであっても、それに従うということになります。
 上司の命令に従わない場合には報復を受けます。その報復を恐れず、上司の命令であっても違法・不正なものには従わないためには、強い倫理観、高い見識、それに勇気が必要です。したがって、これらは「能力」の大きな要素だといえます。
 上述で、筆者は、人を評価する場合、評価者は、被評価者の「能力」と「忠誠度」の2要素で見ているものと仮定し、組織に対する忠誠度は「能力」の一部に属するとしましたが、それは以上のような意味です。

☆個人的忠誠心を優先させた大分県教育委員会
 次に、「上司に対する個人的な忠誠心」を「組織に対する忠誠心」よりも優先させたと思われる最近の事例をとりあげてみましょう。
 大分県教育委員会の不正採用・昇任事件は、現在も進行形ですが、「上司に対する個人的な忠誠心」を「組織に対する忠誠心」よりも優先させた事例といえるでしょう。
 この事件では、県教育委員会のナンバー2である審議監が、部下である義務教育課参事に対してこれこれの人を試験の結果にかかわらず採用するようにせよと命令し、それに従った参事が採用試験の成績表を改ざんするなどの違法行為をしています。
 義務教育課の参事というポストは教員の採用・昇任の事務を行う役職で、その座についた者は法令等のルールを遵守して採用・昇任の事務手続きを進める義務があります。教育委員会という組織に対する忠誠を果たすということは、その義務を守るということです。しかし、その参事は義務を守らず審議監の命令に従い不正行為をしました。それは、組織に対する忠誠よりも上司である審議監に対する個人的な忠誠を優先したということです。
 それはとりも直さず、審議監が、自分のいいなりになる者、すなわち組織に対する忠誠よりも自分に対する忠誠を優先する者を、義務教育課参事のポストにつけていたということです。自分に対する個人的な忠誠心は高いが、倫理観、見識、勇気という面における「能力」の低い人物を、義務教育課参事に登用していたということです。
 ある人物の「能力」を評価する場合、知識や事務処理だけでなく、倫理観、見識、勇気なども大きな判断要素となります。知識が豊かで事務処理に長けている者でも、これらの要素が低い者は「能力」の低い者といわざるを得ません。

☆組織の上層中枢が個人的忠誠心を重視する
 ここで、注意しなければならないのは、旧日本軍や大分県教育委員会の組織全体が、「能力」よりも「上司に対する個人的な忠誠心」を重視する風潮になっていたかどうかです。
 旧日本軍の第二次大戦における国際的評価は、「兵は一流、士は二流、将は三流」だったといいます。米軍の将軍も、旧日本軍を評して、兵や下士官は勇敢で強いが、将軍は無能だと語っていたそうです。
 大分県でも、学校など教育現場の教員たちは、おそらく優秀な人たちで、日々、高い使命感を持って子供の教育に熱心に取組んでいたことと思います。
 おそらく、旧日本軍や大分県教育委員会の中でも、多くの普通の人たちの一般的な考えは、「上司に対する個人的な忠誠心」よりも「能力」を重視して人物評価を行うべきであるというものだったのではないでしょうか。
 「能力」よりも「上司に対する個人的な忠誠心」を重視したのは、組織の上層中枢のポストの座にいた人たちではないでしょうか。

☆個人的忠誠心を重視してしまう理由
 では、なぜ、旧日本軍や大分県教育委員会の上層中枢は、「能力」よりも「上司に対する個人的な忠誠心」を重視するようになったのでしょうか。
 人の集合体を一定の目的の方向に動かすためには、意思決定をするトップの人を置かなければなりません。そして、組織が大きくなればなるほど、トップを補佐する人も必要になってきます。それが管理業務に従事する人です。こうして、同一の組織が、管理部門とその指示を受けて実際に仕事をする実行部門に分化していき、管理部門による実行部門の支配関係が生じます。一方が他者に対して自己の意思を強制できる力を「権力」という言葉でいうと、管理部門は実行部門に対して「権力」を持つことになるわけです。
 そして、権力を持った管理部門は、他部門に対して閉鎖的な存在となります。自己の優越性を維持しようとすると、実行部門に対して一定の距離を置く必要があるからです。管理部門に属する職員は、排他的グループを形成し、同じ組織体の人間でも管理部門に属さない者を信用せず、組織の首脳の意向を伺うことだけに腐心する傾向に陥るようになります。
 さらに、組織の首脳陣と一般従業員との間に深い溝が生じ、首脳陣が一般従業員に対して強い不信感を抱いている場合には、管理部門に属する職員は首脳陣から高い忠誠心を求められます。
 こうして、組織の首脳は、管理部門の職員の登用に当たり、倫理観、見識、勇気などの「能力」より「上司である自己に対する個人的な忠誠心」を重視するようになり、管理部門に属する職員は組織の首脳に対する忠誠心競争に明け暮れるようになります。その一方で、管理部門に属する職員は、他の事業部門や現場部門の職員に対して優越意識を持ちます。

☆個人的忠誠心を重視することにより生じる組織の病理
 組織の首脳が、もともと閉鎖的な体質をもつ管理部門に対して高い忠誠心を要求するようになると、管理部門の職員は組織の首脳のご機嫌伺いに全神経を注ぎ、首脳が気に入る情報だけを報告し、また、首脳が気に入る計画案だけしか提案しないようになっていきます。
 組織の命運を左右するような重要な情報であっても、それを聞けば首脳が不機嫌になるようなものは途中でオミットされるか、矮小化された形でしか伝わらなくなります。また、事実認識を欠いた、さらには事実を隠蔽した美辞麗句で粉飾された計画案が首脳に提案され、それが実行に移されます。
旧日本軍が都合の良い情報しか出さず、また、現状認識を欠いた机上の空論にしかすぎない作戦計画を真顔で実行したのはこのようなことからではないかと考えられます。
 組織体におけるこのような現象は、神経回路の障害が組織を硬直化させることによって生じた組織的痴呆症といえるでしょう。
 この現象は、軍隊、役所、企業をはじめ組織体一般に生じる病理です。特に、戦局の悪化、経営難、財政難、激しい労使紛争など組織体に危機的状況が生じている場合において、首脳が明確な対応方針を示すことができず、問題の先送りをしているときに生じてきます。
 首脳が危機的状況に対して正面から向かわず、表面を糊塗するその場しのぎの対応に終始すると、従業員は、首脳に対して不信感を抱きます。すると、以心伝心で首脳も従業員に対して不信感を抱きます。こうして首脳と従業員は、相互不信という困難な状況に陥ります。こうなると、従業員は面従腹背の態度をとり、指示されたことだけをするようになります。また、トップは自分が個人的に信頼を寄せる一部の側近の言葉だけしか信じず、それを基に判断をするようになります。

☆山一証券の事例
 こうした状況に陥った組織体は、軍隊であれば敗戦、自治体であれば財政破綻、企業であれば倒産という形であらわれます。
 企業でいえば、1997年に破綻した山一證券の例が典型でしょう。山一證券の経営首脳陣は、バブル崩壊による株価下落で発生した巨額の損失を粉飾決算で隠蔽し続け、問題をただひたすら先送りしました。いよいよ問題が切羽詰まってくると、何も知らない人が良いだけがとりえのような人物を社長にまつりあげ、自分たちはさっさっと逃げたといいます。
 山一証券の社員は優秀な人物がそろっていたといわれており、あの人が社長になっていれば山一はつぶれなかっただろうともいわれています。しかし、そういう改革派の人物はそこそこまでは上がっても排斥されてしまい、表面を糊塗して当面だけをしのぎ、現状の体制を維持することだけしか考えていない無能で無責任な人物が経営首脳陣の座を占め続けました。
 山一証券も、旧日本軍と同様に、組織上層部を登用するにあたって、「能力」よりも「上司に対する個人的忠誠心」を重視したために、無能で無責任な経営首脳陣となってしまい、結局破綻したということです。

☆組織内に生じる特権グループ
 また、組織の上層中枢が個人的忠誠心を重視することにより、組織の中に、閉鎖的な特権グループが形成されるという病理現象が生じてきます。いわゆる「閥」です。このグループは、個人的な忠誠心でつながったインフォーマルな集団で、会則などの明確な形をしていない内々のお仲間の集合であるため、なかなかその存在が外の人にはわかりません。
 この特権グループには、OBも入っており、現職とOBを含めたピラミッドを形成しています。そして、有力なOBがそのピラミッドの頂点に立ち、組織の裏ボスとなって現職の人事にも口出しをします。隠語で「院政」といわれる現象です。
 特権グループへの加入については、別に手続きがあるというわけではなく、仲間を裏切らないという個人的な忠誠心があるかどうかが、仲間どうしの眼で慎重にチェックされます。そして、あの人間ならば大丈夫という有力者のお墨つきがあったところで、メンバーとして認められていきます。
 特権グループに入った者は、互いの連絡を密にし、表のルートではなかなか手に入らない裏情報をそのネットワークを通じて入手し、それを裏ボスに報告することによって忠誠を尽くします。そして、その裏情報が裏ボスのパワーの源泉となり、自分に批判的な人物を遠ざけたり、組織のトップを形骸化したり、組織の人事権を実質的に支配します。一方、特権グループのメンバーは裏ボスへの忠誠の見返りとして、組織の主要なポストの座に就き出世の階段を上っていきます。
 このように、インフォーマルな特権グループが組織内に形成されると、組織図で表示される建前上の指揮命令関係が機能しなくなり、トップもたんなるお飾りとなって自室に引きこもりがちとなります。また、この特権グループには、世間一般とはかけ離れたような慣習ができていきます。
 大分県の教育委員会もこのような特権グループが組織内に形成されていたのではないでしょうか。教員の人事については教員にしかわからないということで、ナンバー2の審議監が裏ボスとして実質的な人事権を独占し、教育長とか教育委員の権限は形式化し事後追認的なものになってしまっていたのでしょう。
 そして、校長・教頭に登用されるためには、その特権グループに加入することが求められ、いくら能力が高くても、特権グループに入っていない限り、登用されることは困難だったのでしょう。
 大分県教育委員会の事件の場合、校長・教頭に登用されたとき、謝礼として数十万の商品券が審議監に贈られていたといいます。この多額の商品券は、特権グループに入って忠誠を誓うという証(あかし)としての裏ボスに対する貢物(みつぎもの)だったのでしょう。
 それは、猿の社会に例えていえば、他の猿より優位に立とうとする猿が、ボス猿の庇護下に入るため、自分が採ってきた餌をボス猿に貢いだということでしょう。大分県の教育委員会には、倫理観で裏付けられた人間社会の慣習ではなく、力関係のみで動く猿社会の慣習がまかり通っていたのでしょう。

☆誤った忠誠心が組織のモラルハザードを招く
 「組織に対する忠誠心」とは、その組織が国であれば愛国心、会社であれば愛社精神、地域社会であれば郷土愛、学校であれば愛校心です。
 組織に対する忠誠心でも、盲目的なものは、かえって、組織を危険にさらしてしまうことがありますが、その構成員が忠誠心を失った組織は衰退の途をたどります。国民が愛国心を失った国、社員が愛社精神を失った会社、住民が郷土愛を失った地域社会などはいずれ間違いなく滅亡します。したがって、組織を存続させていくためには、その構成員に対して「組織に対する忠誠心」を涵養していくことが必要になってきます。
 愛国心の無い人に国民を辞めろとはいえませんが、愛社精神の無い社員は会社にとって早く辞めて欲しい存在であることはこうしたことからです。
 ところが、この「組織に対する忠誠心」は、「上司に対する忠誠心」と同一視されることが多いのではないかと思われます。しかし、「組織に対する忠誠心」と「上司に対する忠誠心」は本来別個のものであり、必ずしも一致するとは限りません。
 組織の上司が自己を犠牲にしてもその組織にために尽くす倫理・見識の高い人物であれば、「上司に対する忠誠心」イコール「組織に対する忠誠心」といえるでしょう。しかし、その上司が私利私欲にはしった倫理観を欠いた、見識の低い人物だとすれば、「上司に対する忠誠心」と「組織に対する忠誠心」とは一致しない場合が生じてきます。
 そのような人物が組織のトップの座に就くと、部下に対して自分に対する個人的忠誠心を要求し、その忠誠心の度合いによって部下を登用してしまいます。そしてその風潮はその組織の末端まで浸透します。こうなると、その組織全体がモラルハザード(倫理観の欠如)を引き起こしてしまいます。
 教員自身が自分の子どもの採用や自分の昇任について、同じ教育委員会の人事担当者に賄賂を贈っていたという大分県教育委員会の事例は、まさに、誤った忠誠心により組織全体がモラルハザード(倫理観の欠如)に陥ってしまったという典型例でしょう。

☆組織の首脳に求められる強い倫理観
 企業や役所などの組織体も生身の人間の集まりですから、人の評価には、個人的な好き嫌いという感情が入ってしまうのは否定できないことです。上司が部下を評価する場合、自分に個人的な忠誠を尽くしてくれる者を過大に評価してしまうということは人の情として避けられないことです。
 しかし、役所の場合には、公(おおやけ)の存在である以上、客観的な「能力」で評価すべきであり、首脳陣が自分の好き嫌いで部下を恣意的に評価するようなことは厳に戒めなければなりません。
 ただし、民間企業の場合には事情が異なります。首脳陣が自分の好き嫌いで部下を評価しても社会的に責められるべきことではないでしょう。しかし、そういう恣意的な人事をやっていると、組織のパワーは低下し、結局倒産の憂き目をみ、従業員や社会に大きな迷惑をかけることになります。
 したがって、組織のトップや管理職には、自己の個人的な好き嫌いの感情を抑制し、自己に対する個人的な忠誠を部下に対して求めないという高い倫理観と見識が求められます。防衛省事務次官や大分県教育委員会の汚職事件は、倫理観念の低い人物が組織のトップに就いたため起きた悲劇、いや喜劇でしょう。(完)






物語編-目次

  
【先史時代】

●約1530~約1200万年前―高松クレーターできる―“高松の地下にある謎の巨大クレーター
●約1400~1100万年前―“七つも富士のある讃岐平野”(県下)
●約1万年前~200万年前の旧石器時代―“瀬戸内の分水嶺だった瀬戸大橋架橋の島々”(塩飽)
●約1万年前~200万年前の旧石器時代―“太古の時代に石器として使われていた讃岐の名前がついた石”(坂出)

【神話時代・古墳時代(3世紀中葉~6世紀末葉)】

●神話時代―“山幸彦と豊玉姫のロマンスがのこる島”(豊島・男木島・女木島)
●第7代考霊天皇の代(2世紀末葉?)― “竹取物語に秘められた古代讃岐国成り立ちの謎”(高松)
●第7代考霊天皇の代(2世紀末葉?)―“讃岐に残る桃太郎と姉の物語”(高松)
●魏の使者倭国に来る(3世紀中葉?)―“瀬戸内の古代の風景が残る信仰の山”(琴平)
●第12代景行天皇の代(4世紀初葉?)―“讃岐に残る日本武尊の弟と息子の物語”(坂出・牟礼)
●第12代景行天皇の代(4世紀初葉?)―“走水の海で日本武尊の身代わりになった讃岐女”(善通寺)
●第12代景行天皇の代(4世紀初葉?)―“讃岐に残る日本武尊の白鳥伝説”(白鳥)
●第14代仲哀天皇の時代(4世紀後半頃?)―“讃岐に残る神功皇后伝説”(多度津・小豆島)
●第15代応神天皇の代(4世紀末葉?)―“小豆島を遊幸した応神天皇”(小豆島)

【飛鳥時代(6世紀末~710年)】

●667年(天智天皇6年)―屋島城築造―“朝鮮・中国からの侵攻に備えて築かれた城”(高松・坂出)
●681年(天武天皇9年)頃?―志度の玉取り海女の物語―“中臣鎌足の息子と孫の物語が残る志度”(志度)
●694年(持統8年)―藤原京造営― “藤原京の瓦を焼いた日本最大級の瓦窯”(三野)
●701年~704年(大宝年間)―満濃池築造―“今昔物語にも出ている日本最大のため池”(満濃)
●700年(文武天皇4年)~710年(和銅3年)頃?―柿本人麻呂来讃―“讃岐に来て歌を詠んだ万葉歌人柿本人麻呂”(坂出)

【奈良時代(710年~794年)】

●729年(天平元年)―行基、香西寺を建立―“讃岐にも残る行基にまつわる伝承”(県下)
●754年(天平勝宝6年)―鑑真、千間堂建立―“唐招提寺開祖の鑑真が開いた屋島寺”(高松)
●756年(天平勝宝8年)頃―讃岐国分寺完成――“全国で3箇所しか指定されていない特別史跡国分寺跡
●774年(宝亀5年)―空海生まれる―“少年空海が身を投げた山”(善通寺)

【平安時代(794年~1192年)】

●806年(大同元年)―空海帰朝―“シルクロードと繋がるという「さぬきうどん」”(善通寺)
●807年(延暦23年)―善通寺創建―“高野山、東寺と並ぶ弘法大師三大霊場の一つ善通寺”(善通寺)
●835年(承和2年)―空海没―“大師二十二人のうち五人までが讃岐岐出身”(善通寺)
●866年(貞観8年)―応天門の変――)“応天門の変に連座した讃岐の恩人””(坂出)
●886年(仁和2年)―菅原道真讃岐国守となる―“讃岐の国司を務めた菅原道真”(綾南・坂出)
●940年(天慶3年)―藤原純友、讃岐国府を焼く―“讃岐も戦場になった藤原純友の乱”(坂出)
●940年(天慶3年)―藤原純友、讃岐国府を焼く―“真田幸村の先祖は讃岐人”(坂出)
●1005年(覚弘2年)―安部晴明没―“陰陽師安部晴明は讃岐生まれ”(香南)
●1025年(万寿2年)頃―清少納言没―“讃岐に残る清少納言の哀れな物語”(琴平・白鳥)
●1162年(応保2年)―重仁親王没―“讃岐で密かに亡くなった悲運の皇子
●1163年(長覚元年)―崇徳上皇崩御―“保元の乱に敗れて怨霊となった崇徳上皇”(坂出)
●1167年(仁安2年)―西行来讃―“崇徳上皇を偲び来讃した西行法師”(坂出)
●1174年(承安4年)―大輪田泊修築竣工―“神戸と讃岐を結ぶ平清盛にまつわる伝承”(高松)
●1183年(寿永2年)―平氏屋島に拠る―“建礼門院と安徳天皇が滞在した牟礼・屋島”(高松)
●1185年(元暦2年)―源平屋島合戦―“二つある源平ダンノウラの戦い”(高松)
●1185年(元暦2年)―源平屋島合戦―“讃岐に残る平家落人伝説”(大野原・琴南・三木)
●1191年(建久2年)―頓証寺建立―“後白河法皇が建て、源頼朝が奉納したといわれる寺”(坂出)

【鎌倉時代(1192年~1333年)】

●1207年(承元元年)―法然来讃―“讃岐に逗留した法然上人”(塩飽・丸亀・満濃・仲南・高松)
●1211年(建暦元年)?―静御前没―“源義経を偲び讃岐で亡くなった静御前”(三木・長尾)
●1219年(承久元年)―神谷神社再建―“空海の叔父が創建したわが国最古の三間社流造り神社”(坂出)
●1221年(承久3年)―承久の乱―“承久の乱で明暗を分けた讃岐藤家
●1256年(康元元年) ―北条時頼出家―“讃岐にも残る北条時頼の廻国伝承”(小豆島)
●1289年(正応2年)―日華来讃―“元寇の頃、甲斐国から讃岐に来た武士が建てた寺”(高瀬)
●1332年(元弘2年)―宗良親王讃岐配流―“讃岐にもある後醍醐天皇の息子の足跡と新田義貞一族の物語”(詫間)

【建武の中興・室町時代(1333年~1573年)】

●1335年(建武2年)―細川定禅、讃岐で挙兵―“建武の動乱と秀吉の四国進攻で二度も落ちた城”(高松)
●1347年(貞和3年)―細川師氏、星ヶ城攻略―“小豆島に残る南北朝時代の恋物語”(小豆島)
●1362年(貞治元年)―白峯合戦―“乃木希典大将の先祖が討死した南北朝の合戦”(坂出)
●1367年(貞治6年)―細川頼之、足利義満の後見人となる―“室町将軍足利義満の宰相となった讃岐守護”(宇多津)
●1389年(康応元年)―足利義満厳島神社参詣―“紫の雲が出る山があり浦島太郎伝説が残る半島”(詫間)
●1391年(明徳2年/元中7年)―細川頼元幕府管領となる―“細川京兆家のお膝元だった讃岐”(宇多津)
●1467年(応仁元年)―応仁の乱勃発―“応仁の乱で活躍した讃岐武士”(県下)
●1507年(永正4年)―永正の錯乱―“室町幕府管領細川政元を暗殺した讃岐武士”(高松)
●1549年(天文18年)―江口の戦い―“江戸時代初めに流行したパンクヘアのルーツは鬼十河”(高松)
●1554年(天文23年)―山崎宗鑑没―“俳諧の祖・山崎宗鑑が隠棲した観音寺”(観音寺)
●1568年(永禄11年)―織田信長入洛により三好政権瓦解―“織田信長に滅ぼされた武将の子孫が住むイリコの島”(伊吹島)
●1570年(元亀元年)―石山合戦始まる―“大坂石山本願寺に兵糧を送った讃岐の寺

【安土桃山時代(1573年~1603年)】

●1573年(元亀4年)―象頭山松尾寺に金毘羅堂を建立し本尊安置―“こんぴらさんはガンジス川のワニ”(琴平)
●1577年(天正5年)―織田信長、堺への塩飽船の航行を保障―“信長・秀吉・家康の朱印状が残る島”(塩飽)
●1578年(天正6年)―長宗我部元親、讃岐への侵攻を開始―“長宗我部元親が四国制覇の野望をいだいた山”(大野原)
●1579年(天正7年)―仁尾城落城―“三月三日に雛祭りをしない町”(仁尾)
●1582年(天正10年)―天目山の戦い―“讃岐に残る甲斐武田氏にまつわる物語”(高松)
●1583年(天正11年)―引田の戦い―“賤ヶ岳の合戦があった同じ日に讃岐であった合戦”(引田)
●1585年(天正13年)―秀吉軍により高松城落城―“建武の動乱と秀吉の四国進攻で二度も落ちた城”(高松)
●1586年(天正14年)―戸次川の戦い―“九州で島津軍と戦った讃岐武士”(県下)
●1586年(天正14年)―小豆島にキリスト教が渡来―“隠れキリシタンがいた小豆島”(小豆島)
●1588年(天正16年)―生駒親正、高松城の築城に着手―“黒田官兵衛が設計したともいわれる水城”(高松)
●1601年(慶長6年)―関ヶ原の戦い―“関ヶ原で親子が別れて戦った生駒家”(高松)

【江戸時代(1603年~1868年)】

【初代家康・2代秀忠・3代家光の時代(1603年~1651年)】

●1622年(元和8年)―西嶋八兵衛来讃―“讃岐のために尽くした藤堂高虎の家臣”(高松)
●1631年(寛永8年)頃―香東川の治水工事―“桂離宮との類似性も指摘されている栗林公園創始の謎”(高松)
●1637年(寛永14年)―生駒騒動起こる―“海音寺潮五郎も書いた生駒騒動”(高松)
●1637年(寛永14年)―島原の乱勃発―“島原の乱と小豆島そうめん”(小豆島)
●1642年(寛永19年)―田宮坊太郎の仇討ち?―“歌舞伎や映画にもなった讃岐を舞台にした仇討ち物語”(丸亀)
●1642年(寛永19年)―松平頼重、高松入封―“讃岐高松二代目藩主は水戸黄門の息子”(高松)
●1644年(正保元年)―高松城下に上水道敷設―“江戸の玉川上水より早く整備された高松城下の上水道”(高松)
●1647年(正保4年)―紀太理兵衛、栗林荘の北に窯を築く―“京焼と讃岐との深い縁”(高松・丸亀)

【4代家綱・5代綱吉・6代家宣・7代家継の時代(1651年~1716年)】

●1658年(万治元年)―京極高和、丸亀入封―“丸亀の殿様は婆娑羅大名佐々木道譽の子孫”(丸亀)
●1658年(万治元年)―京極高和、丸亀入封―“姫路の中にあった讃岐”(丸亀)
●1660年(万治3年)―丸亀城天守閣完成―“扇の勾配をした日本一の高さの石垣のある丸亀城”(丸亀)
●1660年(万治3年)―京極伊知子没・井上通女生誕―“文人、剣士、勤王家もいた丸亀の女性“(丸亀)
●1666年(寛文6年)―千宗守、高松松平藩の茶堂頭となる―“茶道・千家と讃岐との深い縁”(高松)
●1672年(寛文12年)―河村瑞賢、西廻り航路を拓く―“大坂の鴻池も舌をまいた塩飽の豪商”(塩飽)
●1672年(寛文12年)―河村瑞賢、西廻り航路を拓く―“北海道から来た草”(高松・坂出)
●1688年(元禄元年)―京極高豊、中津別館を建てる―“瀬戸内の浜辺にある近江八景”(丸亀)
●1688年(元禄元年)―柳沢吉保、側用人となる―“柳沢吉保と讃岐高松藩との名刀をめぐる確執”(高松)
●1693年(元禄6年)―真念没―“最初は88ヶ所以上あった四国霊場”(県下)
●1694年(元禄7年)―丸亀藩、多度津支藩1万石を分封―“港町として栄えた城の無い街”(多度津)
●1705年(宝永2年)―尼崎里也仇討ち―“文人、剣士、勤王家もいた丸亀の女性“(丸亀)

【8代吉宗・9代家重・10代家治の時代(1716年~1786年)】

●1718年(享保3年)―第三代高松藩主松平頼豊の息子が水戸藩四代藩主を継ぐ―“小石川後楽園を大改造した高松藩主”(高松)
●1744年(延亨元年)―金手釣場の争いに幕府から裁可状が出る―“瀬戸内の漁場争いを裁いた大岡越前守らの名判決”(塩飽)
●1748年(寛延元年)―西讃大一揆勃発―“神様になった一揆のリーダー
●1761年(宝暦11年)―平賀源内高松藩に2度目の辞職願を提出―“高松藩を二度辞職した平賀源内”(志度・高松)
●1761年(宝暦11年)―平賀源内高松藩に2度目の辞職願を提出―“田沼時代と寛政の改革時代に活躍した二人の讃岐人”(志度・牟礼)
●1762年(宝暦12年)―合田求吾「紅毛医述」著す―“杉田玄白らの「解体新書」刊行より早く人体解剖図を著した讃岐人”(豊浜)
●1766年(明和3年)―与謝蕪村、来讃―“与謝蕪村、小林一茶も訪れた讃岐路”(琴平・丸亀)
●1776年(安永5年)―上田秋成、雨月物語を刊行―“妖怪と怨霊の話に満ちた瀬戸内海を望む五つの色をした山”(坂出・高松)
●1781年~1788年(天明年間)頃―中津藩からうちわ技術伝わる―“地場産業となった武士の内職”(丸亀)

【11代家斉・12代家慶の時代(1787年~1853年)】

●1788年(天明8年)―柴野栗山幕府の儒官として登用される―“松平定信のブレーンだった讃岐出身の儒学者”(牟礼)
●1788年(天明8年)―柴野栗山幕府の儒官として登用される―“田沼時代と寛政の改革時代に活躍した二人の讃岐人”(志度・牟礼)
●1789年(寛政元年)―向山周慶、砂糖製造に成功―“和三盆のふるさと讃岐”(引田)
●1792年(寛政4年)―小林一茶、来讃―“与謝蕪村、小林一茶も訪れた讃岐路”(琴平・観音寺)
●1809年(文化6年)―小豆島から大阪の問屋へ醤油を初めて販売―“瀬戸内海の中にある醤の郷”(小豆島)
●1807年(文化4年)―椿説弓張月刊行開始―“滝沢馬琴「椿説弓張月」の舞台となった八幡宮”(観音寺)
●1810年(文化7年)―金毘羅参詣膝栗毛出版―“やじさんも、きたさんも参詣した金毘羅”(琴平)
●1815年(文化12年)―讃岐東照宮造営―“東照宮も左甚五郎の墓もある高松”(高松)
●1826年(文政9年)―坂出塩田工事着手―“伊能忠敬より進んだ測量技術を持った江戸時代の先端科学技術者で塩田の父”(坂出・引田)
●1827年(文政10年)―研辰討たれる―“歌舞伎や映画にもなった讃岐を舞台にした仇討ち物語”(綾上)
●1829年(文政12年)―東大浜・西大浜塩田築造―“海を町に変えた塩づくり”(坂出)
●1829年(文政12年)―木村黙老、江戸屋敷詰になる―“滝沢馬琴の親友だった高松藩家老”(高松)
●1830~43年(天保年間)頃―丸亀城下で活発な綿取引―“綿の産地だったチョウサの町”(豊浜)
●1835年(天保6年)―金毘羅大芝居落成―“今も歌舞伎が公演されているわが国最古の芝居小屋”(琴平)
●1835年(天保6年)―大塩平八郎、多度津に来る―“讃岐を訪れていた大塩平八郎”(多度津)
●1838年(天保9年)―丸亀新堀堪甫に太助灯籠建立―“江戸町人塩原太助らが寄進した丸亀湊の灯籠”(丸亀)
●1839年(天保10年)―玉楮象谷、印籠を高松藩主に献上―“十七人のうち四人も人間国宝を輩出した讃岐漆器の技”(高松)
●1844年(弘化元年)―鳥居耀蔵失脚―“遠山の金さんと対立した妖怪が幽閉されていた丸亀”(丸亀)

【13代家定・14代家茂・15代慶喜の時代(1853年~1868年)】

●1853年(嘉永6年)―ペリー浦賀に来航――“井伊直弼と徳川斉昭との板挟みにあった高松藩主”(高松)
●1855年(安政2年)頃―寛永通宝砂絵掘られる?―“銭形平次でおななじみの寛永通宝の砂絵のある街”(観音寺)
●1856年(安政3年)―板東いろは小豆島肥土山に定住―“瀬戸内の島に伝わる歌舞伎と文楽
●1858年(安政5年)―安政の大獄はじまる―“吉田松陰と同じ獄につながれた讃岐の勤王親子”(高松)
●1858年(安政5年)―西郷隆盛月照と入水―“西郷隆盛と入水自殺した幕末の勤皇僧”(善通寺)
●1860年(万延元年)―咸臨丸浦賀出航―“幕末に勝海舟と咸臨丸で太平洋を渡った塩飽の水夫”(塩飽)
●1860年(万延元年)―森の石松金毘羅代参―“石松も犬も代参した金毘羅参詣”(琴平)
●1864年(元治元年)―池田屋騒動―“池田屋騒動で新撰組と白刃をまじえた讃岐の勤王志士”(丸亀)
●1864年(元治元年)―蛤御門の変―“蛤御門の変で戦死した若き讃岐の勤王志士”(高松・丸亀)
●1865年(慶応元年)―晋作が燕石を頼って来讃―“高杉晋作をかくまった侠客の勤皇志士”(琴平)
●1868年(慶応4年)―高松藩朝敵となる―“最後の高松藩主は最後の将軍徳川慶喜の従兄弟”(高松)
●1868年(慶応4年)―高松藩土佐官軍に恭順―“桂小五郎ら勤王志士と親交のあった高松藩主の兄”(高松)

【明治・大正時代(1868年~1926年)】

●1868年(慶応4年・明治元年)―神仏分離令―“金毘羅さんと白峯さんとの知られざる因縁”(坂出・琴平)
●1869年(明治2年)―函館戦争―“榎本武揚とともに函館五稜郭で戦った讃岐人”(塩飽)
●1870年(明治3年)―村岡箏子没―“文人、剣士、勤王家もいた丸亀の女性“(丸亀)
●1880年(明治13年)~1881年(明治14年)―高橋由一来讃―“日本最初の「洋画家」のコレクションがある金刀比羅宮”(琴平)
●1881年(明治14年)―若江薫子没―“文人、剣士、勤王家もいた丸亀の女性“(丸亀)
●1888年(明治21年)―愛媛県から讃岐を割き香川県を設置―“三度目の正直でやっとできた全国最後で最小の県”(県下)
●1889年(明治22年)―讃岐鉄道開通―“志賀直哉の「暗夜行路」に描かれた多度津の港と鉄道”(多度津)
●1889年(明治22年)―二宮忠八飛行原理を着想―“世界最初に固定翼型飛行原理を着想した地”(仲南)
●1894年(明治27年)―塩生産量全国第1位―“かつて「塩田王国」といわれた香川”(県下)
●1894年(明治27年)―四国新道開通―“草鞋を履いて阿讃の峠を越えた牛
●1898年(明治31年)―乃木中将第11師団長に就任―“善通寺の師団長を務めた乃木希典”(善通寺)
●1908年(明治41年)―小豆島でオリーブを試作―“日本の中にあるオリーブに囲まれたエーゲ海の風景”(小豆島)
●1913年(大正2年)―伏見桃山陵の造営に庵治石が使われる―“墓から現在アートにまで使われている花崗岩のダイヤモンド”(牟礼・庵治)
●1920年(大正9年)―高等小学読本に栗林公園は三公園に優れりと記載―“日本三大庭園より立派といわれる栗林公園”(高松)

【昭和以降(1926年~)】

●1928年(昭和3年)―野網和三郎、ハマチの餌付けに成功―“砂糖と醤油で栄え、我が国で初めてハマチ養殖に成功した町”(引田)
●1930年(昭和5年)―豊捻池完成―“ため池密度日本一の讃岐平野”(県下)
●1934年(昭和9年)―瀬戸内海国立公園指定―“欧米人が賛美したわが国初の国立公園”(県下)
●1935年(昭和10年)―菊池寛、芥川・直木賞創設―“その先祖が平賀源内を教えたという菊池寛”(高松)
●1943年(昭和18年)―詫間海軍航空隊開隊―“香川からも出撃していた神風特攻隊”(詫間)
●1945年(昭和20年)―高松空襲―“高松にとって忘れられない日”(高松)
●1952年(昭和27年)―壺井栄、「二十四の瞳」発表―“漂泊の俳人が終焉を迎え二十四の瞳が誕生した島
●1955年(昭和30年)―自由民主党結成―“自民党を創った高松生まれの政党政治家”(高松)
●1956年(昭和31年)―西鉄日本シリーズ制覇―“日本野球史上最大のライバル劇を演じた二人の讃岐男”(高松)
●1958年(昭和33年)―香川県庁舎完成―“日本モダニズム建築の到達点といわれる香川県庁舎”(高松)
●1974年(昭和49年)―香川用水の暫定通水式―“紀伊水道から瀬戸内海へ吉野川の水の流れを変えた用水”(県下)
●1988年(昭和63年)―瀬戸大橋開通―“バブル経済真っ只中のときに開通した瀬戸大橋
●1988年(昭和63年)―宇高連絡船廃止―“2億5千万人を運んだ宇高連絡船”(高松)
●2001年(平成13年)―新JR高松駅完成―“駅前広場の池に海水魚が泳ぐ頭端駅”(高松)
●2004年(平成16年)―地中美術館オープン―“アートとテクノロジーの島”(直島)

(142)“讃岐も戦場になった藤原純友の乱”

 “藤原純友の乱”は、平安時代中期に、西海で勃発した反乱事件です。これに呼応するかのように、ほぼ同時期に東国では、“平将門の乱”が起き、時の朝廷を震撼させました。この2つの反乱は、当時の年号をとって、“承平・天慶の乱”(じょうへい・てんぎょうのらん)と呼ばれ、武士の実力を世に示し、その時代の到来を告げる先駆けとなりました。

 藤原純友は、寛平5年(893)、伊予国で高橋友久の子として生まれたといわれています。高橋氏は伊予の名族・越智氏の一族で、越智郡高橋に代々居住していました。このような出自の純友が藤原氏を名乗るようになったのは、藤原良範(よしのり)の養子になったためです。

 藤原良範の曽祖父は嵯峨天皇の時代の藤原冬継(ふゆつぐ)で、祖父は長良(ながら)といいます。長良は早世しましたが、その弟の良房(よしふさ)は人臣最初の摂政にまで登りつめます。長良には遠経(とおつね)と基経(もとつね)という息子がおり、兄の遠経が良範の父にあたります。弟の基経は叔父・良房の養子となり、養父の位を継承して人臣最初の関白となります。基経は良範の叔父にあたります。
 このような良範の家系から、純友の父の高橋友久は、息子の立身栄達を願い、当時伊予国守をしていた藤原良範に頼み込み、純友をその養子に入れたのではないかと思われます。もちろん、息子を養子に入れるに当たっては、荘園の寄進等の財産的提供を良範に対して行ったことでしょう。
 良範の帰京にともない、純友も京へ上ります。中央官庁に職を得て官位をもらい、箔をつけてゆくゆくは地元に戻るという当時の土着豪族が一般的に進む出世コースをとったわけです。しかし、良範は辛うじて殿上が許される従五位下の大宰小弐(だざいのしょうに)止まりでした。大宰小弐は九州の大宰府に勤める役人です。

 藤原純友は、承平2年(932)、伊予掾(じょう)に任じられます。「掾」とは、守(かみ)・介(すけ)に次ぐ、国司の三等官で従七位下です。純友が伊予国の掾となったのは、純友の養父良範の従兄弟にあたる藤原元名が承平2年から5年にかけて伊予守であったことから、純友はこの元名の代行として現地に派遣されて京へ租税を運ぶ任にあたっていたといわれています。

 承平4(934)年の7月に伊予国喜多郡の不動倉(非常用の穀倉)に貯蔵された米3000余石が海賊から掠奪されるなど、この頃、瀬戸内海では海賊が出没し、税として都へ運ばれる官物が略奪されるという事件が頻発していました。朝廷は海賊を取り締まろうと何度も試みますが、上手くいかず、かえって海上交通が途絶えてしまうという事態に陥っていました。この海賊は、朝廷の機構改革で人員削減された瀬戸内海一帯の富豪層出身の舎人たちだったといわれており、税収の既得権を主張して京へ運ばれる租税の奪取を図っていたものでした。
 藤原純友は、租税を運ぶ任にあたるうちに海賊勢力と関係を結んでいき、伊予掾の4年の任期が過ぎても京へ帰ろうとはせず伊予に留まります。そして、承平6年(936)3月には、純友は、豊後水道に浮かぶ海上交通の要衝・日振島(ひぶりじま)を根拠に1000艘を組織する海賊の頭目となっていたといわれています。
 東国では、承平5年(935)2月に、野本付近の戦いで平将門が伯父の平国香らを破り、平将門の乱が始まっています。

 承平6年(936)6月、紀淑人(きのよしと)が伊予介に任じられ、追捕海賊使(ついぶかいぞくし)の役職も兼ねて伊予に下向します。このとき、紀淑人は、海賊集団約2,500人を、これまでの罪を問わないということを条件に、朝廷に帰順させます。これは、藤原純友が紀淑人に代わって海賊集団との交渉にあたり、一度は配下の海賊を捕らえたことにして、罪を認めた者には田畑を与えて解き放すという密約があったといわれています。
 しかし、朝廷が純友の功績を認めることはなく、純友は朝廷や淑人に対して怨み持ったといわれています。

 天慶2年(939)のはじめ、東国では、平将門が常陸国の国府を襲撃し、平将門の乱が本格的に始まります。その年の夏には西国で旱魃が発生するなど、日本国内に不穏な情勢が漂っていました。
 この年の秋、備前国では受領(ずりょう)の藤原子高(さねたか)が藤原文元(ふみもと)と対立し、同様に、播磨国では受領の島田惟幹(これもと)が三善文公と対立し、紛争化しました。受領とは、地方長官である守が任官されながら実際には任国に赴かず官職に伴う給付だけを受ける遙任(ようにん)国司である場合、それに代わって現地赴任して行政責任を負う国司の筆頭者をいいますが、事実上国衙行政の最高責任者となっていました。そして、その強大な権限を背景に、官人を私的従者のように使役し、莫大な私的蓄財を行うようになっていました。

 藤原文元と三善文公は、純友と同じように、京の貴族社会から脱落した中級官人で、さきの海賊平定の際、純友に与力してその郎等となり土着した者です。受領との紛争の原因は明らかではありませんが、赴任してきた受領に勲功を横取りされたり、搾取の対象となったりしたことで、その支配に不満を募らせていたものと思われます。

 藤原文元と三善文公から加勢を求められた藤原純友は、武装集団を率いて伊予から遠征に向かいます。それを知った藤原子高は妻子を連れて京へと逃亡を図ります。しかし、藤原文元の武装集団に追いつかれ、12月に摂津国菟原郡須岐駅(すきえき)で襲撃されます。子高は耳を切られ鼻を削がれるなどの暴行を受け、子息は殺害、妻は略奪されます。須岐駅は現在の兵庫県西宮市夙川(しゅくがわ)あたりです。この襲撃事件が、藤原純友の乱の始まりです。
 なお、この年の12月頃には、平将門が、自身の謚號を「新皇」と称しています。

 翌年の天慶3年(940)1月、朝廷は小野好古(よしふる)を山陽道追捕使、源経基(つねもと)を次官に任じます。しかし、襲撃事件を起こしたにもかかわらず、朝廷は純友を従五位下に叙し、藤原文元にも官職を与えます。これは、関東で起こっていた平将門の乱に対して兵力を集中させるため、とりあえずは純友の懐柔を図ったものだったのではないかといわれています。純友は官位を受けますが、引き続き淡路国の兵器庫を襲撃して兵器を奪うなどの海賊行為を続けます。

 翌月の2月、純友は、叙位への礼を名目に、武装集団を引き連れて上洛を試みます。これに対して朝廷は、純友の上洛を阻止するために、追捕山陽道使に加えて追捕南海道使を任命します。これは、朝廷が山陽道に加えて、南海道にも反乱鎮圧のための軍を派遣するという意思の表明でしたが、同時に純友に対する牽制の意味もありました。結局、純友は上洛を断念することになります。

 しかし、純友の郎党の藤原文元は、2月頃までに備前・備中を実効支配下に入れます。また、前山城掾の藤原三辰が讃岐国で純友に呼応し、讃岐介の藤原国風(くにかぜ)に対して叛乱を起こします。これによって国風は戦死者数百名を出す大敗を喫し、叛乱軍は国府に乱入して財物を奪い、国府庁を焼き討ちにしました。国風は警固使坂上敏基とともに阿波に退き、さらに淡路に逃れます。讃岐国司だった菅原道真が讃岐を去った寛平2年(890)から50年後のことです。

 ところが、2月14日、関東では平将門が平貞盛(さだもり)、藤原秀郷(ひでさと)らに討たれ、関東での叛乱が鎮圧に向かったため、朝廷はその軍事力を西国に向けることが可能となります。6月、朝廷は、将門討伐に向かった東征軍が帰京すると、藤原文元を藤原子高の襲撃犯と断定して追討令を出します。これは直接純友を罪人と名指しせず、純友配下の武装集団の分裂を誘おうとしたものでした。
 この作戦の効果があったのか、8月、山陽道を進撃する追捕山陽道使小野好古の軍は、備前・備中・備後の制圧に成功します。このため、この地域を支配していた藤原文元や三善文公は藤原三辰を頼って讃岐に逃れてきますが、朝廷軍の追求が急であったため窮地に陥り、純友に助けを求めます。
 この時点で純友は、遂に朝廷に対して公然と叛旗を翻すことを決断したと考えられています。8月中旬、純友は400余艘の兵船を率いて讃岐国に入り、藤原文元・藤原三辰らと合流して朝廷軍の船を焼き払い、海賊軍の先頭に立って合戦に及びます。こうして藤原純友らの叛乱は本格的な戦乱へと発展し、「賊首純友」の名前は確定してもはや後戻りは出来ないことになりました。純友の兵船は、10月には安芸・周防国方面を、11月上旬には周防国鋳銭司を、12月中旬には土佐国幡多郡を、つぎつぎと襲撃します。そのような神出鬼没な純友の攻勢を朝廷軍側は抑えることができず、年を越します。

 翌年の天慶4年(941)2月、情勢は急展開します。この年の初め、藤原恒利(つねとし)が、藤原純友率いる叛乱軍から寝返り、讃岐国で朝廷軍の先導を行います。これによって朝廷軍は、讃岐の叛乱軍の鎮圧に成功し、藤原三辰は捕縛され、処刑されたのち、京にて曝し首にされます。この戦い以降、情勢は朝廷側に有利に傾き、2月には純友の本拠地である伊予の叛乱鎮圧にも成功し、これにより純友は大打撃を受けます。

 本拠地の伊予を失った純友は、日振島にたてこもり、反撃の機会をうかがいます。そして、その年の5月、純友は意表をついて博多湾に上陸し、西国政治の拠点である大宰府を急襲します。純友軍には、受領層とは対立していた豊後・日向らの九州の有力豪族も参加していました。純友軍は、大宰府に蓄えられていた財物を強奪し、大宰府の政庁施設に火を放ち、政庁は炎上、焼失しました。

 しかし、藤原純友の大宰府襲撃に対する朝廷の反撃は素早く、この年の5月の下旬には海陸両面より追撃を開始し、純友が率いる武装集団の船を焼き払い、純友軍を壊滅に追い込みます。純友とその息子の重太丸は、本拠地である伊予国へと落ちのびますが、6月中旬に伊予警固使の橘遠保(たちばなとおやす)に捕縛され、斬首されました。その首は酒漬けにされて京へ送られたといいます。ここに天慶2年(939)から天慶4年(941)まで続いた藤原純友の乱は終結しました。

 天慶5年(942)3月、論功行賞が行われ、征西軍長官の小野好古は太宰大弐・参議・従三位に、次官の源経基は太宰少弐・右衛門権佐・正四位にそれぞれ叙されました。

 讃岐には、平将門の長子と伝えられている平良門(よしかど)らが落ちのびてきたという伝承が残っています。太郎良門は、家臣の貞廣丑之助、神戸城太郎、下戸城五良、成房三良、成行十郎、成行千代春ら6人とともに、善通寺五岳山の西端の火上山(ひあげやま)の南麓にあたる三豊市高瀬町の音田(おとだ)の毘沙門谷(現在は、おにが谷)という所に落ちのびてきて、そこに住み着き、六名(ろくみょう)を名乗ったといいます。

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祭礼・行事カレンダー

 「讃岐の風土記」に関連のある主な祭礼・行事のカレンダーです。順次充実していきます。なお、日時については変更等もありますので、地元の市町ないし観光協会に確認してください。

●金刀比羅宮元旦祭
 1月1日
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●長尾寺の「三味線餅つき」と大会陽(だいえよう)
 1月2日(火)に三味線餅つき、1月7日(月)に大会陽が、長尾寺境内でそれぞれ催されます。
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●東浜神社の十日えびす
 1月10日(土)に、高松市東浜町にある東浜神社で催されます。この神社は古くから恵比寿神社と呼ばれ、商売繁盛を願う商人の講が営まれてきました。誓文払いとして、商売上の駆け引きや嘘をついた罪の祓い、神罰からの赦免を願います。

●櫃石百々手(ももて)祭
 1月12日、瀬戸大橋下の坂出市櫃石(ひついし)島にある王子神社の境内で催されます。年の初めの豊作祈願と悪魔払いのために、袴姿の若者が小笠原流弓術によって弓を射ります。
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●香西寺の初大師護摩供養
 1月18日(日)、高松市香西町の香西寺で催されます。ホラ貝の低い音が鳴り響き、読経が続けられる中、僧侶らが本堂前の広場に設置した護摩壇に火を入れ、残り火の上をはだしで歩く火渡りが行われます。約250年前から続くと伝えられる行事で、毎年1月第3日曜日に催されています。なお、香西寺は中世の豪族香西氏の菩提寺です。
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       “応仁の乱で活躍した讃岐武士
       “室町幕府管領細川政元を暗殺した讃岐武士


●滝宮天満宮お初天神
 1月25日(日)、綾川町の滝宮天満宮で、立ち上げ新春一番の天神さんの日として催されます。正月に飾った注連縄や古くなったお札の御たき上げを行います。
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●むれ源平石あかりロード
 8月2日(土)~9月20日(土)、「ことでん八栗駅」から北に向かって旧庵治街道沿い約1kmの区間で、夕暮れ時から午後10時まで、毎日、石あかりが点灯されます。また、毎週土曜日の午後7時から、洲崎寺でライブが催されます。
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       “墓から現在アートにまで使われている花崗岩のダイヤモンド

●さぬき高松まつり
 8月12日(火)~8月14日(木)、高松市立中央公園・サンポート高松などで催されます。今年が第43回目です。12日(火)にイベント、13日(水)にイベントと花火大会、14日(木)に総踊りです。
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●安田踊り
 8月14日(木)の夜、小豆島町安田で、戦死者の追善と新仏の供養のために踊られる盆踊りです。元禄時代に京都で流行した踊りの原型を伝えているといわれており、県無形文化財に指定されています
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●終戦記念日
 8月15日(木)
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●大窪寺柴灯(さいとう)大護摩供養
 8月20日(水)、さぬき市長尾町にある四国霊場八十八ヶ寺結願寺・大窪寺で、四国内の霊峰や集験場で修行している山伏たちが集まって弘法大師の恩を報い、徳を慕って供養を営みます。春は、春分の日に開催されます。
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●天福寺の虫干会
 8月21日(木)、高松市香南町の天福寺で催されます。天福寺は四国三十六不動霊場のひとつで、行基菩薩が開き、弘法大師が密教の精舎としたといわれる寺です。年に一度の虫干会には、行基作の薬師如来立像などが公開されます。
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●まるがめ婆娑羅まつり
 8月23日(土)~8月24日(日)、丸亀市商店街一円で、婆娑羅の気風で新しいバサラダンスパフォーマンスが繰り広げられます。
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        “姫路の中にあった讃岐

●中津万象園「石投げ地蔵尊」大祭
 8月24日(日)、香川県丸亀市中津町の中津万象園では、健康や静穏な暮らしの願い事を記した白い石を投げて参拝する「石投げ地蔵尊」の大祭が催されます。石投げ地蔵尊の由来は、旧丸亀京極藩主の別邸だった同園内の海際にある地蔵尊に、当時入園できなかった漁師や農民らが願い事を書いた小石を園外から投げ入れて参拝したことによると伝えられています。今年で2回目。
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●滝宮の念仏踊り
 8月25日(月)、綾川町滝宮で、午前は滝宮神社、午後は滝宮天満宮で催されます。ほら貝の合図で踊りがはじまると、花笠をかぶり陣羽織を着た踊り手が、太鼓・笛・鉦・ほら貝のはやしにあわせて、表に太陽、裏に月を描いた大団扇(うちわ)をひらめかせ、「ナムアミドーヤ」と唱える音頭に合わせて踊ります。
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●オリーブ植栽100周年記念事業・ギリシャフェア
 9月1日(月)~9月30日(火)、小豆島の道の駅・小豆島オリーブ公園で、ギリシャ写真展、ギリシャの物産展やギリシャワイン試飲会などが催されます。
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●蜂穴神社例祭
 9月4日(木)午後1時、高松市の石清尾八幡宮の境外社である蜂穴(はいあな)神社で催されます。その由来は、細川頼之が戦勝を祈願して参拝したところ、祠の穴から数百匹もの蜂が飛び出し敵方の兵を襲い戦に勝つことができたという言伝えによります。
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●清少納言まつり
 9月6日(土)~9月7日(日)、東かがわ市松原の清少納言の祠がある新川小松原与治山神社で催されます。婦人病に御利益があると言われています。
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●円珍・乃木まつり
 9月6日(土)~9月7日(日)、善通寺市の金倉寺境内で、1,600個のロウソクと献灯ちょうちんの灯火による万燈まつりなどが催されます。
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●最明寺の萩まつり
 9月上旬、高松市塩江町の最明寺で萩まつりが催されます。最明寺は行基菩薩を開基とし、寺号は北条時頼公が讃岐下向の際、鎌倉の祈願所としたことに由来すると伝えられています。
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●仁尾八朔人形まつり
 9月13日(土)~9月15日(月)、三豊市仁尾町内で、木や岩を使った箱庭のような舞台に歴史上の武将や、おとぎ話の人形が実景そのままに飾りつけられた八朔人形が町内約数十か所に展示されます。
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●ひょうげ祭り
 9月14日(日)14:00~16:00、高松市香川町の浅野集落研修センターから新池に向かって、豊作物で作った神具や衣装を身につけ、奇抜な化粧をし、ひょうげながら約2kmをねり歩きます。
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●あずき神社の祭
 9月16日(火)、小豆島寒霞渓山頂の阿豆枳(あずき)神社には、大野手比売(ひめ)神をはじめ、小豆島の発展と島民の幸福をまもる神々が国魂神として祀られており、島中の神主が集まって祈ります。
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●崇徳天皇御正宸祭
 9月21日、崇徳天皇の命日であるこの日、五色台白峯山の四国88ケ所第81番札所霊場白峯寺で、崇徳天皇御正宸祭が催されます。ただし、この行事は非公開のようです。
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       “後白河法皇が建て、源頼朝が奉納したといわれる寺
       “妖怪と怨霊の話に満ちた瀬戸内海を望む五つの色をした山
        “金毘羅さんと白峯さんとの知られざる因縁

●萩原寺の萩まつり
 9月23日(火)、観音寺市大野原町の萩原寺と萩の丘公園で催されます。萩原寺では、2000株の萩が咲き乱れます。
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●長尾寺三味線餅つき
 9月23日(火)、さぬき市長尾町の長尾寺で、参拝者やお遍路さんたちに、お茶とつきあげられたお餅のお接待があります。
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        “源義経を偲び讃岐で亡くなった静御前

●菊池寛記念館第17回文学展
 9月27日(土)~11月9日(日)、高松市昭和町のサンクリスタル高松で、菊池寛記念館第17回文学展が催されます。今年は、菊池寛生誕120年・没後60年記念事業として特別展示が行われます。
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●讃留霊王神社秋大祭
 9月28日(日)(毎年9月の最後の日曜日)、丸亀市飯山町法軍寺の讃留霊王神社で秋祭りが催されます。祭りの前の夜はお神楽があり、祭りの当日にはお旅所で「浦安の舞」が奉納されます。
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●オリーブ収穫祭
 10月1日(水)~11月30日(日)、小豆島の道の駅・小豆島オリーブ公園で、オリーブ植栽100周年記念事業として、オリーブ収穫体験、マイオイル作り、石鹸作り教室、オリーブクラフト教室、オリーブ染め体験、料理試食会などが催されます。
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●大麻神社例祭
 10月4日(土)・5日(日)(毎年10月第1土、日曜日)、善通寺市の大麻神社で例祭が催されます。この神社は忌部氏が讃岐国に麻を伝え、天太玉命を祀り、大麻神と崇めたと伝えられています。
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●白峯宮例祭
 10月5日(日)(毎年10月第1日曜日)に、坂出市西庄の白峯宮で催されます。白峯宮は崇徳天皇を主祭神とし、明ノ宮(あかりのみや)ともいいます。
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●白鳥神社秋大祭
 10月6日(月)~10月8日(水)、東かがわ市白鳥神社で催されます。本殿前では、県の無形文化財・虎頭(とらがしら)の舞などが奉納され、神社からお旅所まで、奴を先頭に神輿渡御の行列が練り歩きます。
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●田村神社御蚊帳徹神事
 10月7日・8日、高松市一宮町の田村神社で催されます。田村神社は讃岐一宮として名高く、農耕の神を主神として、古くから人々の崇拝を受けてきました。御蚊帳徹神事(おかちょうあげのしんじ)は本殿の蚊帳を徹し、みこし、獅子舞、巫女舞などを奉納して収穫を祝う秋の大祭です。5月7日・8日に虫よけの「お蚊帳垂れ神事」が行われます。
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●金刀比羅宮例大祭(お十日)
 10月9日(木)~11日(土)、本宮を出発した神輿行列が御旅所を目指して長い石段を下っていき、さながら平安絵巻のようだといわれています。
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       “石松も犬も代参した金毘羅参詣

●香川の漆器伝統工芸士まつり
 10月9日(木)~10月13日(月)、栗林公園内商工奨励館で、香川漆器伝統工芸士の製作実演と香川漆器の展示即売が行われます。今年で第25回目です。
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●さぬき豊浜ちょうさ祭
 10月10日(金)~10月12日(日)、観音寺市豊浜町の豊浜八幡神社他で催されます。金糸に飾られた豪華な「ちょうさ」20数台が、勇壮なかきくらべを繰り広げます。
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●冠纓神社秋季大祭
 10月12(日)、県指定有形民俗文化財の大獅子が由佐・池内地区から神社に奉納されます。大獅子はめおと獅子で雄は頭(約200キロ)、高さは約1.65m、胴体は20mの60人がかりで担がれる大きなものです。
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●琴弾八幡宮秋季大祭
 10月17日(金)~10月19日(日)、観音寺市の琴弾八幡宮で催されます。9台の太鼓台が境内で勇壮なかきくらべを繰りひろげ、夜は豆電球で飾られた豪華な太鼓台が町内を練り歩きます。
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●栗林公園「新日暮亭」公開
 10月18日(土)、300年以上の前の茶室の様式を伝える新日暮亭が63年ぶりに公開されます。茶席披き、記念講演会、記念茶会が催されます。
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●石清尾八幡宮秋季大祭
 10月18日(土)・19日(日)(毎年10月第3土曜日、日曜日)に催される高松の氏神様の大祭です。
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●仏生山大名行列
 10月18日(土)~10月19日(日)、高松市仏生山公園・仏生山商店街で、第15回高松秋のまつりとして、初代高松藩松平頼重公が、菩提寺である法然寺へ墓参りをする豪華絢爛な大名行列を再現したイベントが催されます。
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       “井伊直弼と徳川斉昭との板挟みにあった高松藩主
       “最後の高松藩主は最後の将軍徳川慶喜の従兄弟
       “桂小五郎ら勤王志士と親交のあった高松藩主の兄

●田潮八幡神社例大祭
 10月18日(土)~19日(日)、丸亀市土器町で催されます。本宮から土器川のお旅所に向かって神輿をかついで練り歩いた後、神輿とともに川に飛び込み、水を浴びながら豪快に暴れまわります。
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●宇夫階神社秋の例大祭
 10月24日(金)~10月26日(日)、宇多津町の宇夫階神社~聖通寺山・田町のお旅所で催されます。神輿に続き太鼓台14台が町並みを勇壮に練り歩きます。
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●かぐや姫カーニバル
 10月25日(土)~10月26日(日)、さぬき市長尾町の亀鶴公園で催されます。今年は第23回目。王朝衣装のかぐや姫と趣向を凝らした山車のパレードが行われます。
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●瀬戸の鬼祭り
 10月27日、女木島で、鬼の児童絵画展、洞窟探検ハイキング、芋掘り大会、青空市など鬼をテーマにしたイベントが催されます。
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●讃岐国分寺史跡まつり
 11月2日(日)、高松市国分町の讃岐国分寺跡資料館及び史跡公園内で催されます。今年が第9回目。
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●寒霞渓もみじ茶会
 11月2日(日)寒霞渓山頂駅展望デッキで催されます。
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●善通寺空海まつり
 11月3日(月)、善通寺市の総本山善通寺伽藍ほかで、空海の父の命日に行われる奉賛行事と伝統芸能を合わせたまつりが催されます。
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●宗鑑忌
 11月3日(月)、観音寺市の興昌寺で、山崎宗鑑を偲んで午前中に供養、午後から句会が開かれます。
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●二宮飛行神社大祭並びに忠八祭り
 11月上旬(昨年は11月3日)、まんのう町仲南の二宮飛行神社及び道の駅「空の夢もみの木パーク」で、日本航空機界の祖ともいえる二宮忠八の偉業をたたえて催されます。二宮飛行公園内の神社で、大祭が催され、忠八太鼓をはじめ、町内各地区の獅子舞や忠八子供太鼓が奉納されます。
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●金刀比羅宮の紅葉祭
 11月10日(月)、琴平町の金刀比羅宮一円で、紅葉のお山を背景に、古式ゆかしい衣装をまとった舞人や巫女が練り歩きます。4月の桜花祭と対をなす起源の古い祭典です。
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●栗林公園秋のライトアップ
 11月21日(金)~11月30日(日)の間、21:00まで催されます。(入園は20:30まで)。
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●大坊市
 11月22日(木)~11月25日(日)、三豊市三野町の本門寺境内で催されます。別名「くいもん市」と呼ばれ、食べ物をはじめ農機具、植木の店なども並びます。
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●笠島まち並ふれあい祭り
 11月23日(勤労感謝の日)、丸亀市本島の笠島地区などで、笠島のまち並み・塩飽の歴史講演会、太鼓演奏、各種バザーなどのイベントが催されます。今年で第8回目です。
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●栗山祭
 12月1日、高松市牟礼町の栗山記念館で催されます。柴野栗山は寛政三博士の一人に数えられる江戸時代の儒学者です。明治39年に柴野栗山を祀って記念館を建て、没後百年祭を行って以来、毎年12月1日の命日に、儒式により催されています。
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●白鳥神社おみかん焼き
 12月8日(月)、東かがわ市の白鳥神社で催されます。神社の祭礼用具や氏子の神棚などのお祭り用具の使い古したものを燃やし、その火で串に刺したみかんを焼き、それを食すると、来年も無病息災で健康に暮らせるとされています。
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●蕪村忌俳句会
 12月25日(木)、丸亀市の妙法寺で開催されます。この俳句会は俳人画家与謝蕪村の遺徳を偲び、蕪村の命日である毎年12月25日に蕪村寺である妙法寺で開催されているものです。
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●香川県庁開庁日
 明治21年12月27日、香川県告示第1号により香川県庁が開庁しました。
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(141)“応天門の変に連座した讃岐の恩人”

 10世紀後半から11世紀頃の平安時代、藤原氏が代々摂政や関白となって、天皇の代理者・補佐者として朝廷の実権を独占し続けた政治形態を摂関政治(せっかんせいじ)といいます。この摂関政治のさきがけは、平安時代前期に藤原良房(よしふさ)と基経(もとつね)の親子が摂政・関白になったことによるといわれていますが、良房・基経の親子が朝廷内で実権を握るきっかけになった事件が貞観8年(866年)に起こった応天門の変です。歴史の教科書などには、応天門炎上とそれにおどろく群衆の動きをみごとに描写した伴大納言絵詞という絵巻がよく掲載されています。
 この政変では、紀夏井(きのなつい)という貴族が連座して土佐へ配流となっていますが、夏井は国司として讃岐に赴任して善政を行った讃岐の恩人ともいうべき人です。

 貞観8年(866)閏3月10日、平安宮大内裏の正殿入り口にあたる応天門が炎上し、京中大騒ぎとなります。ほどなく、大納言・伴善男(とものよしお)が、この火災は左大臣・源信(みなもとのまこと)が伴氏を呪って大伴氏が造営した応天門に放火したものだと、右大臣・藤原良相(よしみ/よしあう)に告発しました。なお伴氏は大伴氏の子孫で、大伴皇子のとき、その名を避けて伴氏と姓を改めたものです。その告発を受けた良相は藤原基経に命じて、源信を逮捕させようとします。良相は時の太政大臣・藤原良房の弟で、基経は良房の嫡子(養子)にあたります。
 藤原基経は事の重大さからこれを父・藤原良房に告げると、良房は清和天皇に奏上して源信を弁護します。これにより、源信は無実となり難を逃れます。
 しかし、事件はこれに止まらず、2ヶ月後の8月3日、大宅鷹取(おおやけのたかとり)という下層の官人が、伴善男とその子・伴中庸(ばんのなかつね)が放火犯人であると検非違使に訴え出ます。鷹取は応天門の前から善男と中庸が走り去り、その直後に門が炎上したと申し出たのです。
 9月22日、朝廷は伴善男らを応天門の放火の犯人であると断罪します。事件は、源信の失脚の機会を狙っていた善男が、応天門の炎上を源信の放火のせいにして、源信の左大臣解任を謀ったともいわれています。善男は当然大逆罪として斬刑となるところを、特に死一等を減ぜられて伊豆国に遠流となり、財産いっさいを没収されます。また、伴中庸は隠岐国遠流となります。このとき、伴氏に仕えていた紀豊城(きのとよき)も陰謀に加わったとされ安房国に流されますが、紀夏井は豊城の異母兄だったため、連座制の適用を受け官職を解かれて土佐国へ配流となります。

 紀夏井は、応天門の変が起こる前の天安2年(858)、讃岐守に任じられ赴任しています。空海がなくなった承和2年(835)から25年後のことです。夏井は讃岐では善政を施したので、民は家業に励むことができ、深く夏井の人徳になついていたといわれています。貞観4年(862)に4年の任期が満了して帰京することとなったときには、百姓たちが大挙して役所に出向いて留任を懇望したので、讃岐守を2年延伸されて留まっています。このため、讃岐の百姓の暮らしぶりはさらによくなって納屋には五穀が蓄えられ、凶作に備えるためのもみ米を蓄える大蔵が40棟ほど建てられたといいます。やがて、任期が終わり夏井が帰京するとき、百姓達は餞別を送ろうとしましたが、夏井は決して受け取らなかったといいます。京へ帰った後に讃岐から愛好物や食糧品が送られてきても、紙と筆だけを受け取り、他のものはすべて送り返したといわれています。
 紀夏井は、能書家しても名高く、特に楷書の分野においては聖とまで言われるほどの才能を発揮し、さらに囲碁の分野でも名人として名を馳せるなど、多様な才能を持つ人物として、京においてもその名を知られていたそうです。
 応天門の変に連座して土佐国へ配流される護送中、讃岐を過ぎるとき、讃岐の百姓たちは讃岐国内から土佐国の境まで付き随い、老若男女が別れを悲しんで、その泣く声は数十里も続いたといわれています。その後、配所で没したと言われています。
 紀夏井が讃岐守の任期を終えて20余年後に、菅原道真が国守として讃岐に赴任していますが、讃岐国の百姓は紀夏井の善政を忘れていなかったため、道真は夏井と比較され国政運営で難渋したともいわれています。夏井の人徳がよほど深く讃岐人の心に刻まれていたのでしょう。
 ちなみに、同じ紀氏で、「土佐日記」の著者として知られる紀貫之(きのつらゆき)が、土佐守に遷任されて赴くのは、応天門の変から64年後の延長8年(930)のことです。

 伴善男が応天門放火犯人として捕らえられて間もなく、藤原良房は皇族でない貴族として初めて正式に摂政に命じられます。また、良房の死後、養子の基経は、日本史上初の関白に就任します。これにより、古代からの名族である伴氏(大伴氏)や紀氏の政界における地位は没落します。
 基経の死後、第59代宇多天皇は摂政・関白を置かず、菅原道真(すがわらのみちざね)を登用して藤原氏を押さえようとします。第60代醍醐天皇のときには、基経の子・時平(ときひら)が左大臣に、道真が右大臣になりますが、時平は策謀を用いて昌泰4年(901)に道真を左遷へ陥れます。しかし時平は摂政・関白に就任する前に没します。
 第61代朱雀(すざく)天皇のとき、藤原時平の弟・忠平(ただひら)が摂政・関白の地位につき、藤原氏の地位がほぼ確立しますが、その死後、第62代村上天皇のときには親政が行われ、摂政・関白の座は空位となります。しかし、村上天皇の逝去により、忠平の子・藤原実頼(さねより)が関白に就任し、以後、明治維新までほとんど摂政・関白が置かれるようになり、その地位にはかならず基経の子孫がつくのが慣例となります。なお、醍醐・村上天皇のときの親政を延喜・天暦の治(えんぎ・てんりゃくのち)といいます。
 摂関家の勢力が最も盛んであったのは、11世紀の藤原道長(みちなが)とその子頼通(よりみち)の時代で、道長の子・頼通は関白を50年の長きに渡って務めています。しかし、摂関政治は、応徳3年(1086)に白河天皇が上皇となり、いわゆる院政を開始したことにより終焉します。

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(140)“全国で3箇所しか指定されていない特別史跡国分寺跡”

 讃岐国分寺は、四国霊場・四国八十番札所であり、県内はもとより県外からも多くのお遍路さんをはじめ善男善女のお参りが絶えません。この寺は奈良時代の天平年間に創建されたもので、境内には、金堂跡・塔跡の礎石が残り、今も天平(てんぴょう)の遥か昔を偲ぶことができます。7世紀終わり頃から8世紀の中頃までにかけて、奈良の都平城京を中心にして華開いた貴族・仏教文化を天平文化といいます。天平文化は、遣唐使などによってもたらされた中国風(漢風)・仏教風文化の影響を強く受けたもので、シルクロードをによって西アジアから唐へもたらされたものを見ることもできます。奈良の正倉院に天平文化の粋が残されています。
 讃岐国分寺跡は、昭和3年、現在の境内を含む東西330m・南北227mの範囲が、讃岐国分尼寺とともに国の史跡に指定され、昭和27年には保存状態のよさ等から特別史跡に指定されました。ちなみに国分寺跡で特別史跡に指定されているのは、讃岐以外では、静岡県磐田市の遠江国分寺跡と茨城県石岡市の常陸国分寺跡のみです。特別史跡とは、史跡のうち特に重要なものとみなされ、日本文化の象徴と評価されるものをいい、平成20年2月1日現在、全国で指定されているのは60か所です。

 天平13年(741)、聖武天皇は、疫病や天災・内乱などの社会不安を緩和するため、各国ごとに官営の僧寺と尼寺を建てることを命じます。正式名称を、僧寺は「金光明四天王護国之寺」(こんこうみょうしてんのうごこくのてら)、尼寺は「法華滅罪之寺」(ほっけめつざいのてら)と定めます。一般には国名を付けて、僧寺は国分寺、尼寺は国分尼寺と呼ばれます。また、当時の都である平城京には、各国に建てられた国分寺、国分尼寺の頂点として、それぞれ東大寺、法華寺を建立します。国分寺の造営工事は、各国の国司の責任で推進され、遅くとも天平宝字年間(760年前後)には、ほぼ全国的に完成したようです。
 讃岐国の国分寺と国分尼寺は、阿野郡河内郷(現在の坂出市府中町)の国府庁からほどよい距離にある阿野郡新居郷(現在の高松市国分寺寺)に置かれました。讃岐国分寺は、天平勝宝8年(756)には完成していたと続日本紀に記載されています。空海が生まれたのは、その18年後の宝亀5年(774)です。寺伝によれば、聖武天皇の命を受けた行基が讃岐に来て国分寺を建立したといわれています。

 創建当時の讃岐国分寺の境内の大きさは、東西220メートル・南北240メートルあり、寺域の周囲には築地塀と呼ばれる大きな土塀が巡っていました。その基壇の幅は4.4m、築地本体の幅は1.8m程度と考えられています。築地塀の外側には、幅3mの溝も掘られていて、寺の内と外を厳格に分けていました。現在、かつての境内には国分寺のほか、宝林寺と多数の民家が建てられています。
 寺院の建物の配置を伽藍といいますが、古代寺院では、金堂、塔、中門、廻廊、講堂、僧房、鐘楼、経蔵等の主な御堂の位置が定まっており、讃岐国分寺でもこれらの建物が存在していました。寺域の北側・南側の線上の西から4分1のところを結ぶ南北線が、創建当初の伽藍の軸となり、南から北に南大門、中門、金堂、講堂、僧房が一直線に並んでいました。
 南辺築地塀の中心点と西端の真ん中にある南大門が国分寺の入口です。南大門は現在の県道高松・丸亀線上にあったと考えられています。ここをくぐると、中門という門があり、さらにそれをくぐると、正面に金堂、右手に七重塔が建っていました。中門があった位置は、現在の仁王門の場所だと考えられています。
 中門と金堂は正方形に近い形によって廻廊で結ばれていました。廻廊は廊下状の建物で、その基壇の幅は6.5m、建物の幅は3.6m程度と考えられています。廻廊に囲まれた区域は讃岐国分寺の中枢域にあたり、この区域内の東には七重塔が建っていました。
 七重塔は、その基壇の規模17.8m四方、建物の規模10.1m四方、高さ63mと推定されています。現在、七重塔が建っていたところには、鎌倉時代に建立された七重石塔があり、その塔のところに幾つかの礎石がみられます。これが創建時の七重塔の礎石です。創建時17個あったものが、現在15個が残されています。現在の石塔が建つ礎石は、丁度中央に所在するひときわ大きな礎石で、心礎といわれる塔の中心となる心柱が立てられていました。石塔の基部には、心柱を受ける柱穴が彫り込まれているのを見ることができます。

 金堂は、讃岐国分寺の中心的な建物で、現在でいえば本堂にあたり、ここに本尊が祀られていました。その基壇の規模は東西34.9m・南北21.3m、建物の規模は桁間(けたま・東西間口)27.8m・梁行(はりゆき・南北奥行)14.2mで、奈良の唐招堤寺に似た規模・様式の本瓦葺き寄棟造り(よせむねづくり)と推定されています。鎌倉時代に建立された現在の本堂前に大きな石が並んでいますが、これが創建時の金堂の礎石です。創建時36個あったものが、現在32個が残されています。
  金堂の北裏には、仏教の講義を行った講堂が建っていました。金堂よりやや小さめで、その規模は、桁間22.8m・梁行12.7mと推定されています。現在の本堂は、この講堂の礎石を再利用して建てられています。
 さらに講堂の北裏には僧房が建っていました。その基壇の規模は東西87.9m・南北16.0m、建物の規模は桁間83.9m・梁行12.0mと全国の国分寺でも最大級の大きさでした。また、講堂の東西両側には僧房を補完する掘立柱建物が建てられ、その建物の規模は桁間20.6m・梁行11.8mと考えられています。
 講堂の東には、鐘を吊るすための鐘楼が建てられていました。その基壇の規模は東西7.1m・南北9.0m、建物の規模は桁間6.2m・梁行4.1mと考えられています。なお、讃岐国分寺跡では、御経を保管する経蔵は発見されていません。

 讃岐国分寺と同時に創建された讃岐尼寺は、国分寺の北東・約2kmのところに造られます。寺域は東西約180~210m・南北約180mで、桁間12.7m・梁行7.3mの建物だったと考えられています。尼寺跡地は、現在、法華寺と呼ばれる寺の境内になっており、金堂跡には礎石が19個残っています。

 当初、国分寺・尼寺は、国の管理・庇護を受けて運営されていましたが、その後荒れたので弘法大師・空海が訪れて再興したといわれています。讃岐国司の菅原道真は、国分寺尼寺を訪れ、漢詩「法華寺白牡丹(はくぼたん)」と題して漢詩を詠んでいます。菅原道真が国司として讃岐に在任していたのは、仁和2年~寛平2年(886~890年)のことですから、すでに国分寺創建から100年を過ぎていた頃の話です。
 その後、国分寺・尼寺は、律令制の解体とともに荒廃したと考えられています。国分寺の現在の本堂は、鎌倉中期に講堂の跡に建てられたものです。戦国時代の天正年間(1573~96年)には土佐の長宗我部元親軍による兵火に罹り、国分寺の堂宇の多くが失われたといいます。また国分尼寺も天正年間の兵火により衰退しました。
 江戸時代に入ると、寛文年間(1661~73年)に高松松平藩初代藩主・松平頼重によって国分寺の伽藍が造営され、文化13年(1816)に現在の本堂が松平8代藩主・頼儀によって修理されます。国分尼寺は元禄8年(1695)には、荒廃した小堂だけが残されていましたが、弘化3年(1846)に法華寺が再興されます。

 現在の国分寺にある銅鐘は、讃岐国分寺創建当時に近い奈良時代末期から平安時代初頭に鋳られたものと推定され、長曽我部氏の兵火にも残った四国最古の鐘ともいわれています。その大きさは、高さ115.4cm・口径89.7cm、重量が1200㎏です。昭和19年、国の重要文化財に指定されています。この鐘には、次のような伝承が残されています。
 昔、香川郡の安原郷(現在の高松市塩江町)にある百々渕には大蛇が棲み、村人を困らせていました。弓矢の名人・戸次八郎は、国分寺の千手観音に祈り、その矢を持って大蛇の退治に出発しました。八郎は、鐘をかぶって現れた大蛇に矢を射掛け、見事討ち取り、その鐘を国分寺に奉納したということです。
 慶長14年(1609)、当時の讃岐の藩主であった生駒一正が、国分寺の鐘がよく鳴るというので、朝夕の時を告げる鐘にしようと、鐘を高松の城内に持ち帰るように命じました。命令を受けた人たちは、鐘を運ぼうとしましたが、実際以上に重く運搬作業は難航しました。それでも多くの人々を動員して運び、御城下の時を告げる鐘にしました。ところが、持ち帰ったところ鐘は少しも鳴らず、城内外に怪異がおこり、また悪疫が流行し、一正公も病床に伏すようになり、毎夜鐘が夢枕に立ち、もとの国分へ「いぬいぬ」と聴こえたそうです。「いぬ」とは讃岐弁で帰るという意味です。これは鐘の祟りに相違ないと悟った一正は、鐘を国分寺に返すことを決めます。国分寺に戻るとき、鐘は大変軽く運搬作業はスムーズに行われたといいます。

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(139)“讃岐に残る神功皇后伝説”

 神功皇后(じんぐうこうごう)は、第14代仲哀(ちゅうあい)天皇の皇后で、第15代応神天皇の母親に当たり、三韓征討を行ったという伝説をもつ日本古代の女傑として知られています。明治14年発行の一円札・五円札には神功皇后の肖像が描かれ、また、戦前の国定教科書には兵を率いて海を渡ったという勇ましい伝説が必ず記されていました。その伝説は北部九州から瀬戸内海沿いにかけて広く分布しており、讃岐にも残されています。
五円札 神功皇后
五円札 神功皇后
 仲哀天皇は、父が日本武尊で、祖父が第12代景行天皇です。叔父の第13代成務天皇に後継ぎが無かったため第14代天皇に即位しました。それは3世紀頃だと考えられています。父の日本武尊の魂が白鳥となって天に昇ったことから、仲哀天皇は父の陵の周囲に白鳥を放して慰めようと、各地から白鳥を集めたといわれています。その後、息長帯比売命(おきながたらしひめのみこと)を正妃に立て、彼女が「神功皇后」と呼ばれました。

 仲哀天皇は、神功皇后を正妃とすると、共に、角鹿(つぬが、現在の福井県敦賀)に行幸し、角鹿笥飯宮(つぬげのけひのみや)を建てます。皇后はここに留まりますが、天皇はさらに紀伊国に赴き、九州南部で熊曾(くまそ)の反乱が勃発したこと知ります。
 そこで、天皇はその足で穴門(あなと、後の長門)の豊浦(とよら、現在の山口県豊浦郡)に向かい、一方、皇后は日本海を伝わって天皇と合流します。ここで天皇は穴門豊浦宮(あなとのとゆらのみや)を建て、皇后と共に6年間過ごします。
 反乱を鎮圧するため豊浦宮を出発した天皇は、筑紫国に橿日宮(かしいのみや、現在の福岡市香椎にある香椎宮)を建て、南九州攻略の拠点とします。
 天皇は、橿日宮において、皇后、宰相の武内宿禰(たけのうちのすくね)と軍議を開きます。すると、皇后に「新羅を征伐せよ」との神託が下ります。新羅は、現在の朝鮮半島南東部に辺りです。その神託の内容は、熊曾の土地はやせて討つに値しないが、新羅は金銀財宝の豊かな国であり抵抗することなく服属するというものでした。しかし、天皇は、高い所に登って海のかなたを眺めてもそんな国は見えないと、その神託を信じず、熊曾征伐に向かいます。
 すると、神の怒りに触れたのか、天皇は熊曾に敗北を喫し、さらに突然発病して崩御しました。現在、福岡市東区にある香椎宮(かしいぐう)の鎮座している地が、仲哀天皇の崩御された地だと云われています。
武内宿禰
武内宿禰
 そこで、皇后が、神託を下した神の名を聞くと、天照大神と事代主神(ことしろぬしのかみ)、そして表筒男(うわつつのお)・中筒男(なかつつのお)・底筒男(そこつつのお)という神であることがわかりました。住吉三神から伝えられます。ちなみに、表筒男・中筒男・底筒男は、大阪市住吉区にある住吉大社の祭神とされている住吉三神です。
 このとき皇后は天皇の御子を身籠もっていましたが、神託に従って、熊曾を討伐して九州を平定した後、軍船を整えて自ら兵を率い、住吉三神を守り神として新羅の国に出兵します。すると、新羅は抵抗もせず降伏して朝貢を誓い、高句麗や百済の国も朝貢を約したといいます。これが三韓征討です。
 この物語が史実かどうかについては確証がありません。しかし、高句麗の国王・広開土王(好太王)の功績を叙述した石碑「広開土王碑」には、倭(当時の日本)が海を渡って新羅や百済などを臣民としたと読み取れる字句や、幾度か倭軍と高句麗軍とが交戦した記載があることから、歴史事実と考える説もあるようです。
 三韓を平定し筑紫国に戻った皇后は、その地で無事に出産し、この御子が誉田別命(ほんだわけのみこと)、後の応神天皇です。そしてその地を「宇美」(うみ)と呼ぶようになったということです。

 しかし、このとき、大和に居た香坂王(かごさかのみこ)と忍熊王(おしくまのみこ)の兄弟は、皇后が御子を出産したことを知り、反旗を翻し皇位を狙って御子の命を奪おうと企てていました。香坂王と忍熊王は、皇后が妃になる前に、仲哀天皇と大中津比売(おおなかつひめ)との間に生まれた皇子で、御子の異母兄に当たります。
 皇后は、九州から穴門豊浦宮に移り、仲哀天皇の遺体を仮埋葬します。そして、大和を奪還して御子を天皇の座につけるため、軍船に兵を乗せ、船団を組んで瀬戸内海沿いに海路大和を目指します。このときの皇后一行の船団進軍の様子が瀬戸内海沿岸各地に伝承として残されています。なお、天皇の遺体は後に藤井寺の方へ正式に埋葬されます。

 讃岐にも、神功皇后の船団が、大和に向かう途上に立ち寄ったという伝説が残っています。石船に乗ってこられた皇后軍は、風波の難を避けるために、当時は海だった現在の多度津町の青木(おうぎ)北山に上陸し、宿泊したといわれています。青木北山には沢寺大明神という小さな神社がありますが、この神社は、その際の石船を祀ったところであり、この近くには「宿地(しゅくじ)」という地名が残り、「いかり石」という石船の碇(いかり)を沈めたところがあるといいます。そして、皇后は出発に際し、幟(のぼり)、熊手を港の近くに留め置いたうえ、その船団は榜(かい)を立てて、出船したといいます。幟は旗で、熊手は武器として用いられた鎌のことです。皇后の船団が榜を立てて出発したところが桜川の畔にある榜立(かいたて)八幡神社で、幟と熊手を村人が祀ったのが現在の西白方に鎮座する熊手八幡宮だといわれています。その祭神は神功皇后と応神天皇です。真偽のほどは分かりませんが、多度津が古くから瀬戸内海航路の寄港地になっていたことをよく物語っている伝承といえるでしょう。
 なお、熊手八幡宮に関係して、和歌山県伊都郡かつらぎ町の三谷というところにある「丹生酒殿神社」には興味深い伝承が残っています。この神社の境内社である「鎌八宮」は、かつて熊手八幡宮とも称され、その御神体は神功皇后が三韓出兵のとき用いたという幟と熊手で、それは讃岐国屏風浦の熊手八幡宮に祀られていたものだといいます。空海が高野山を開いた時、そのご神体が空海の後をついてきたので、櫟(イチイ)の木をその証の代わりとして祀ったということです。和歌山の奥に多度津の白方にある神社の話しが残っているのは不思議なことです。
 讃岐の島にも神功皇后の伝説が残っており、直島は神功皇后が吉備の豪族とこの地で待ち合わせたことから古代は真知島(まちのしま)と呼ばれていたといいます。また、皇后の船団は小豆島に立ち寄って一息入れて休まれたと云われており、そのところにあった松を「息休みの松」といい、その場所を「伊喜末(いきすえ)」ということです。そこから小豆島の北海岸沖を進みますが、島の東北の突端にある岬の沖合で暴風雨により難破しそうになりました。そこでこの辺りに上陸して神楽を奏すると波もおさまったと云われています。それからここを神楽坂といい、それが蕪崎(かぶらざき)になったということです。
 神功皇后の船団が大和に向かっていることを知った香坂王と忍熊王は、戦うことを決意し、陣を張り皇后軍を待ち受けます。ところが、戦いを前に兄の香坂王は変死し、弟の忍熊王は上陸してきた皇后軍との戦い敗れます。こうして大和を奪還した皇后は、我が子を天皇の座につけ、武内宿禰の補佐を受けながら摂政として政務を執ったということです。

 神功皇后の「神功」という諡号(しごう)は、神勅に基づいて自ら軍を指揮して軍功をあげたことから、神(かみ)の功(いさお)とつけられたものです。また、身重の状態でありながら自ら軍を率いて海を渡って朝鮮半島を平定し、また、子を守って国内の乱を平定したということから、安産の神であると同時に、武の神としての神威も備え、勝運、厄除け、病魔退散などの御神徳もあるといわれ、全国各地の神社で祀られています。
 その息子の誉田別命すなわち応神天皇は、八幡神として信仰の対象とされ、宇佐八幡宮(大分県)を発祥として全国各地に広まり、今でも「八幡さま」として親しまれています。

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